2010.05.03

永平寺・京都旅行記の入口を作る

金閣寺 ここは永平寺・京都旅行記への入口である。
 以下の日程の日付部分をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。

 1日目 2010年2月11日(木曜日)

 2日目 2010年2月12日(金曜日)その1

 2日目 2010年2月12日(金曜日)その2

 3日目 2010年2月13日(土曜日)その1

 3日目 2010年2月13日(土曜日)その2

 持ち物リスト(永平寺・京都編)

 ちなみに、この2泊3日の永平寺・京都旅行にかかった費用は、概算7万2千円だった。(高い!)
 (この中には、交通費、宿泊費、食費、拝観料(御朱印含む)などは含まれているが、お土産代は含まれていない。)

 出発前に旅行計画を立てるときに利用した主なサイトには、旅行記本文中にリンクを張ってある。

 また、利用したガイドブックは、以下のとおりなのだけれど、京都編の旅計画に一番影響を与えた本といえば、やはりこちらの北村薫著「冬のオペラ」だった。

 永平寺編
 「道元禅師の寺を歩く」

 京都編
 「タビリエ 京都」
 「京都のお庭」

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永平寺・京都旅行記3日目その2

2010年2月13日(土曜日)

経蔵 蟠桃院を出て、妙心寺の経蔵に向かった。
 経蔵は、「びるぞう」ともいうそうで、「びるしゃなというのは全てのものという意味で、そこから来た名勝です。」とさらに説明してもらったけれど、疎い私には字面すら浮かばない。
 帰って来てからネットで調べたら、どうやら、「びるしゃな」は「毘盧遮那」という字が当たるらしい。

 妙心寺の経蔵の中には、「輪蔵」という蔵があって、その中に1000本以上の経本が収められているそうだ。この経本は、建仁寺の経本を写経したという。
 輪蔵は、文字が読めない人もお経を読んで得られる功徳を得るにはどうすればいいかと考えた傅大士という人が考案したもので、この輪蔵を1周回すと、納められた全てのお経を読んだことになるという。
 輪蔵の正面には大抵この傅大士がお祀りされているそうだ。和尚さんが傅大士ではなく「ふだいさん」と知り合いかのように呼ぶのが何となく楽しい。

輪蔵 輪蔵はかなり傷みが来ているので回すことはせず、左回りに1周して代えることになった。
 正面から順番に、広目天、梵天、多聞天、持国天、帝釈天、増長天、金剛力士によって支えられている。
 「これはどこから回るんですか?」と案内の和尚さんに尋ねたら、一番下から全部動くという。一番下のところの板が1枚外れていて、実際に回すときにはそこから人が入り、芯になる柱の根本が一番摩擦が大きくなるので、そこに油を差しながら回すというお話だった。

 書院での和尚さんのお話という本日最後のプランに向かった。
 案内してくれていた和尚さんがお話のお話を聞くのではなく、別の和尚さんが現れ、岡山のお寺の副住職だと自己紹介があった。
 「堅苦しくないお話をしてくださいと言われています。」と言い、「昨年の秋に試験に受かって、人前で演奏をしても良いというお許しをいただいたので。」と尺八を演奏してくださった。

 大正12年に作曲された「木枯らし」という曲で、関東大震災後の東京の様子を見て作曲されたという。
 「寂寥」がテーマの曲のようで、「そのときの寂寞とした気持ちが伝わりましたでしょうか。」とおっしゃる。
 尺八の音を尺八だけで聞いたのは多分初めてで、随分と哀しい調子が似合う音なのだなと思った。
 後で聞いたら、尺八はお父さんがずっとやっていらして、それで自分もやるようになったというお話だった。随分とつやの出てきた尺八だったので「古いものなのですか?」と聞いたら、「父親から譲ってもらいました、作者の方は存命なのでそう古いものではありません。」というお答えだった。

 尺八の演奏に加えて、松尾芭蕉の言葉だという「不易流行」についてもお話があったけれど、お茶をお菓子をいただくのに夢中になっていたらしく、何故かメモにこの言葉しか書いていない。
 流行を追うばかりで基本を知らないというのではいけない、しかし、変化をただ恐れて遠ざけるのもまた間違いである、という趣旨のお話だったと思うけれど、あまり自信がない。

 アンケートが配られ、名古屋で開催された妙心寺展のDVDをお土産にいただいて、「閑寂の禅」プランは終了となった。
 2010年で終わるという理由をお聞きしたら、毎年違う、普段は公開されていない塔頭を案内するというコンセプトのプランで、公開に応じてくれる塔頭寺院が段々なくなってきたことと、企画として黒字になっていないことが大きいらしい。
 そういえば、ずっと付いてくれていた若者に「いつもこれくらいの人数なんですか?」と聞いたら、「今日は多い方です。」という回答だった。
 別の形の企画を考えていく予定です、というお話で、私はこの半日をかなり楽しく興味深く過ごさせてもらったし、ぜひ新企画を待ちたいと思う。

 そんなお話を聞いていたら私が最後になってしまい、案内の和尚さんに正座でお見送りしていただいて恐縮してしまった。
 緊張するから見ていないでくださいと言ったのだけれど、そういう訳には行かないらしい。

臨祥院 12時近かったので、お昼ごはんを食べようと北総門に向かった。
 途中、臨祥院という塔頭寺院があり、公開はされていないようだったけれど、春日局の墓所という案内の札が立っていた。家光が春日局の追福を願って香華所として建立し、明治時代になって現在の場所に移築されたという。枯山水庭園があり、その奥には小堀遠州の手によって二条城から移築された釣殿が御霊屋(貴人の霊をまつる殿堂)として整えられていたり、狩野探幽筆の春日局の肖像が伝えられたりしているらしい。
 「閑寂の禅」に参加した方の中に、ここの話をしていた方がいらっしゃったのを思い出した。

日替わりランチ 北総門を出て左手に少し歩いたところで、おからはうすという、一見して喫茶店っぽいお店を見つけ、一人でも入りやすそうな雰囲気だったので、ここでお昼ごはんを食べることにした。
 ランチメニューは日替わりランチ(1000円)1種類だったと思う。
 特に美味しいかと聞かれると微妙に返答に困るけれど、座敷に二人連れが2組と、カウンターにひとり旅らしい女性が3人くらいと、結構お客が入っていた。

 市バスのカードも買ってあるし、13時近くになってしまったし、仁和寺の前から金閣寺道までバスに乗った。
 これは、バスに乗って正解だったと思う。仁和寺から金閣寺に向かう道は緩い上り坂だ。

 金閣寺は、この時期、方丈の特別公開がされていたけれど、この日に限って法要のために拝観停止になっていた。残念である。
 拝観料500円を支払うと、拝観券の代わりにお札をいただけた。ちょっと嬉しい。
 順路に従って進むと、まず、「金閣寺」と聞いて誰もがイメージするだろう、池の向こうにある金箔の貼られた舎利殿を拝むことのできる場所に誘導された。

金閣寺

 実は、人生初の生金閣寺である。
 北村薫の「冬のオペラ」でも主人公のあゆみが訪ねていたし、まだ見たことがないし、雪の金閣も期待して来た。
 残念ながら雪はなかったけれど、光の角度の関係で午後に来た方がいいという話に納得できた。青空が見えるのも嬉しい。
 内心あまりにもベタでちょっと莫迦にしていたけれど、やはりフォトジェニックな建物である。
 冬の京都だというのに、結構な人出だ。

美人の角度 年配の男性3人に年配のガイドさんがついているグループにつかず離れずで歩いていたら、池の横の道を少し歩いた辺りで、「舎利殿はこの角度が一番美人だと言われています。」という説明が聞こえてきた。
 なるほどと思い、「一番美人に見える舎利殿」の写真をパシャパシャと撮る。
 この建物は、一層は寝殿造、二層は武家造、三層は中国風の禅宗仏殿造になっている。下の二層は長方形、三層だけは正方形になっているため、見る角度によって姿形を変わるそうだ。

私的美人の角度 私が一番美人だと思った舎利殿は、この角度だ。
 この金閣を擁する鹿苑寺というお寺が臨済宗のお寺だというのは合点がゆかない。
 1987年に漆の塗り替えや金箔の張り替えをしたというニュースは何となく遠い記憶に残っていて、その当時、「さらに金色に光り輝くようになった金閣」と話題になり、そのときも、それってお寺としてどうなんだろうと漠然と思ったものだ。
 今回初めて見たこの舎利殿は、思ったよりも「金ぴか」という感じではなく、却って渋さを感じさせるようなところもあったのが我ながら意外だった。

陸舟の松 金閣寺は拝観のコースがあるので、それに従って進む。
 陸舟の松と呼ばれる松のところで、ガイドさんがイタリア人観光客に「さて、この松の木は何を象ったものと言われているでしょう、クイズです。」「ヒントは、この方向は西だということです。」などと言っているのが聞こえてきて楽しかった。
 しかし、「西向きの松」というヒントから、西方浄土へ向かう舟という正しい答えを導き出すのは相当に難度が高いと思う。

 舎利殿の後ろ姿を少し高いところから眺めた後、突然現れる不動堂にお参りし、鹿苑寺と不動堂と両方の御朱印をいただいて(各300円)、概ねコースタイムどおりの40分で見学を終えて金閣寺を後にした。
 これは私にしては異例のスピードで、この後で正伝寺に行く予定がなかったら、もっと時間を使って、もっとたくさんの写真を撮っていたと思う。
 お寺にお参りしたという感じは全くしないけれど、流石に京都有数の観光スポットだと納得した。

正伝寺入口 京都での最後の目的地は、北村薫の「冬のオペラ」で主人公のあゆみが椿さんという京都在住の女性に連れられて行った「正伝寺」である。
 北大路堀川というバス停でバスの乗り換えが必要で、最寄りのバス停「神光院前」から徒歩15分かかる。しかも普通の住宅街を抜けたその奥にあるのでほとんど道案内などはない。
 方向音痴の私は案の定道に迷い、前から歩いて来た人に教えてもらい、それでも間違えて、後ろから追いかけて来てもらって間違いを正してもらってやっと辿り着いた。

正伝寺参道 参道をゆっくり上って行くこと3分弱、前方に建物らしきものが見えてきた。
 すれ違う人がいるとほっとしてしまう。
 正伝寺は、臨済宗南禅寺派のお寺で、正式には「吉祥山正伝護国禅寺」というそうだ。
 鎌倉時代に東厳慧安禅師が創建したお寺である。
 方丈に到着したときには辺りに誰もおらず、でも2階から工事をしている音がしていて、声をかけると年配の作務衣姿の方(和尚さんだと思われる)が出てきてくださった。拝観料は300円である。

 中に入ると畳のお部屋が二間(三間だったかも知れない)があり、その前の縁側に緋毛氈が敷かれ、座布団がいくつか置かれていた。
 先客が3人ほどいらっしゃった。
 まずはその座布団に座って、ぼーっとお庭を眺める。

正伝寺枯山水のお庭

 このお庭は、江戸初期に小堀遠州によって作られたお庭だそうだ。
 「獅子の児渡しの庭」とも呼ばれていて、岩はひとつも使われておらず、サツキの刈り込みによって七五三調を表現し、そして何よりの特徴ははるか遠くの比叡山を借景としていることだと思う。
 1週間ほど前に雪が降ったそうで、雪の積もったこのお庭も見てみたかったなと思う。
 何とも、ぼーっとできるいい場所である。
 そのうち、先客の方々はお帰りになり、私の貸し切り状態となった。嬉しい。こんな贅沢なこともそうはあるまい。

 広縁には、正伝寺が特集された旅行雑誌などが置かれていた。中秋の名月のときだけ、夜間の拝観ができるようで、「比叡山と満月とお庭」の写真が大きく載せられていた。
 いいなぁ、自分の目で見てみたいなぁ、と思う。
 雪も見てみたいし、サツキの花がピンクに咲きそろった頃にも見てみたい。

広縁から お庭が目的で来たのでお庭ばかり眺めてしまったけれど、今自分が広縁に座っているこの方丈も重要文化財である。元は伏見桃山城にあった遺構で、この場所に移されて本堂になったという。
 それにしても、お寺には「元は**の**でした」という建物が多いなと思う。その昔に権力者と強いつながりがあったからだろうか。
 また、この広縁の天井は、いわゆる「血天井」だ。伏見城に立てこもった徳川方の鳥居元忠以下1200名が落城の際に切腹して果てた廊下の板を天井にしたそうだ。
 恐ろしい。そんなものが頭上にあるなんて、しかもここはお寺なのに、何とも背筋が寒くなる話である。

 15時30分前に帰ろうかと立ち上がったところに、次の拝観者がやってきた。
 女性二人連れで、私とは違ってお庭ではなく狩野山楽筆というふすま絵(重要文化財に指定されている)が目当てでいらっしゃったらしい。
 先ほどの方とは別の和尚さんが出ていらして、広縁とを隔てる板戸を開け放ってくれたので、私も一緒になって拝見させてもらった。
 もっとも、私には「中国っぽい風景だなー」といくらいの感想しか浮かばない
 襖絵よりも、先代の和尚さん作だという、線の代わりにお経で(つまり小さな文字で)描かれた涅槃図の方にしげしげと見入った。ある意味、執念の賜である。

 1時間半以上も滞在し、正伝寺を後にした。
 16時前に神光院前のバス停からバスに乗り、京都駅に向かう。少し道が混んでいたこともあって1時間弱かかった。
 再び伊勢丹の地下に行き、新幹線で食べようと夕食代わりのおにぎりと、中村藤吉本店の抹茶ゼリィを買い込んだ。
 また、「日本で一番小さい漬け物屋」とお兄さんが呼ばわっていた声につられ、お土産に楽味京都で半割だいこん(ごま)と千枚漬けを買う。

 お買い物を終え、17時42分発ののぞみの自由席に空きを見つけて座り、永平寺・京都旅行を終えた。

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2010.05.02

永平寺・京都旅行記3日目その1

2010年2月13日(土曜日)

朝食 朝7時に目が覚めた。何故かお腹が空いている。
 待ちかねたようにして、7時30分に朝食を食べに行った。昨夜の観察の結果、スリッパの方も浴衣の方もいらっしゃったので、スリッパでペタペタと行く。
 パッと見は少なめと思ったけれど、食べ終わったときにはお腹が一杯になっていた。
 荷造りをしてチェックアウトし、キャリーケースを宅配便で送ってもらうように頼んだ。

 今回の旅行にはポメラを持参していたけれど、荷造りをするまで1回も電源を入れることはなく、今日1日ショルダーバッグに入れて持ち歩くのは嫌だったので、キャリーケースに入れて送ってしまった。
 メモを書くのはよくてポメラは開かなかった理由は、ポメラで打ってしまうとそこで「確定」という感じがしてしまい、書かなかったことの印象が薄れてしまうように思えたからだ。
 メモ帳に書いている分には、ガイドさんの説明をメモした部分も、夜に宿で色々と思い出しつつ書いた部分も、等しく「メモ」で「間に合わせのもの」という感じがする。
 これは慣れの問題だろうか。

 今回私が利用した、花園会館が主催する「閑寂の禅」という宿泊プランでは、宿泊した翌日の午前中、妙心寺内の普段は公開されていない場所を和尚さんの案内で訪ねることができることが売りになっている。
 これまで何年かに渡って毎年2月に開催されており、2010年の内容は、蟠桃院と経蔵の見学と、和尚さんのお話だった。
 「閑寂の禅」の集合は9時50分で、その前に「コースどおりの妙心寺」を巡るべく、一足先に妙心寺をお散歩した。

妙心寺 南総門を入るとまっすぐに参道が伸びていて、突き当たりに大方丈がある。
 参道の左側に、三門、仏殿、法堂と並んでいる。この三門の手前には池があり、さらにその手前に外へ通じる勅使門があるけれど、きっと勅使門は滅多なことでは開かれないのだろう。

 ふらふらと歩いて行くと法堂の奥に受付らしいところがあったけれど、開くのは9時だという。
 9時に受付が開いたら御朱印をお願いしようと待ち構えていたら、作務衣姿の女性が通りかかって、これから朝のお勤めがあるので、よかったらどうぞと言ってくれた。
 有り難くそのまま上がらせてもらい、他に二人くらいの方と一緒に、広い畳のお部屋にそっと座らせていただいた。

 作務衣姿の女性の他、「お坊さん」という格好をした方が何人か並び、お経があげられる。
 今日の予定を読み上げる方がいて、多分「決まりごと」の日々の心得のようなお話があり、壁に掛けられていた短冊に書かれた「一日一回、静かに座り、呼吸と心と体を調えましょう」という文句を唱和して終了となった。
 その間、5分くらいだったろうか。
 「朝礼」という感じである。

 そのまま窓口で御朱印(300円)をお願いし、9時10分からの拝観(法堂・天井の雲龍図、国宝の梵鐘、浴室(明智風呂)を案内していただける。500円)が所要30分くらいだというので参加した。
 作務衣姿のお姉さんに案内してもらう。

 妙心寺は3400の末寺を持つ、臨済宗妙心寺派の大本山である。
 元々は花園天皇の離宮だったところをお寺とした開祖が無相大師だ。
 妙心寺全体で甲子園七〜八つ分の広さを持つというから驚く。もっとも、妙心寺の中にはたくさんのお寺(塔頭)があって、それら全てを合わせれば、ということである。

 最初に案内された法堂(「はっとう」と読みます、と念を押された)は、350年前に建てられており、床は半瓦式だそうだ。ここも雲水さんの修業のための場なのだろう。
 法堂は住持(いわゆる住職のことらしい)がお話をされたり座禅をしたりする場所で、須弥壇は住職の説法用に置かれているので、普段は空っぽだそうだ。
 法堂は全部で44本の欅の柱で支えられており、こちらもまた富士山から運んできた大きな欅の木の中心を除き、1本の木から4本の柱を切り出しているという。
 お寺というのは権力とお金があったのだなと思う。

 天井には狩野探幽が描いた龍の絵があり、重要文化財に指定されているそうだ。
 ここは写真撮影禁止である。
 雲龍図は八方睨みの龍とも言われ、様々な動物がモデルになり、描き込まれているそうだ。
 口は鰐から、角は鹿から、爪は鷲から、髭は鯰から、身体は蛇から、鱗は鯉から、そして一番肝心な目は「牛」から取られているという。

 また、この雲龍図の彩色に使われているのは、白は貝殻(恐らく胡粉のことだろう)、黒は墨、青は岩から、赤と緑は植物から取られた絵の具だそうだ。
 直径が12mもあり、構想に3年、実際に描くのに5年かかったというから、大作だ。
 天井に向かって描いたのではなく、描き終わってから天井に吊ったのだという。一体、どうやって吊ったのだろう。
 須弥壇に向かって左から見ると下り龍に、向かって右から見ると昇り龍に、須弥壇を正面にして見上げると非常に優しい表情に見えると言われて、そのとおり見上げてみる。優しい表情と言われたって龍は龍だよと思う。

 普段は法堂には梵鐘も保管されているけれど、現在は九州に出張中で、その場所には実物大の写真パネルが置かれていた。
 ひびが入ってしまったため二代目に主役の座を譲ったけれど、年号の入った鐘としては日本最古のもので、長い間、NHKが大晦日に放送している「ゆく年くる年」の最初の鐘の音として活躍していたそうだ。
 黄鐘調(おうじきちょう)の鐘とも呼ばれているのは、正しく黄鐘調(「ラ」)の音がするからだという。
 「テープでお聞かせしましょう。」とその先代の鐘の音を聞かせてもらった。今ひとつ、その素晴らしさが私には判らなかったけれど、きっとテープで聞いたからに違いない。
 2代目かつ現役の鐘も、同じ高さの音で鳴るように作られているというお話だった。

明智風呂 法堂での見学を一通り終えて、明智風呂に移動した。
 「明智風呂」と呼ばれているのでいかにも明智光秀が使った浴室のようだ。しかし、説明によると、明智光秀は信長を本能寺で討った後、自害しようと妙心寺に来たことから、明智光秀の菩提を弔うために亡くなった5年後に建てられたという。明智光秀がこの浴室を使った訳ではないことになる。
 それにしても、どうして菩提を弔うためにお風呂を造るのか、よく判らない。

 浴室といっても広く、脱衣所として使っていたという畳の部屋だって9畳(半端な数なのは、畳が3×3という風に並べられていたからである)もあった。
 「お風呂に敷く布」から「風呂敷」という言葉が生まれたという説明もあった。

風呂釜 「浴室」「風呂」というけれど、実際はサウナに近い仕組みのようだ。
 すのこの下に窯があって、そこから蒸気が送られるようになっている。
 浴室自体は三段構造になっていて、一番上の窓は明かり取り、真ん中の窓は温度調節に使い、一番下の窓(というか隙間)から出入りをしていたようだ。
 中に入って、すのこの上でお線香1本分(約20分)座禅をしたという。

 ここまで説明を聞いたら9時45分近くになってしまい、慌てて花園会館ロビーまで戻った。
 集合時間には間に合ったようだ。参加者は15人弱といったところだろうか。
 10時になって、和尚さんに引率され、花園会館の職員らしい若い男の子が最後尾について、まずは駐車場横にあった妙心寺の全景図を見ながら説明を受けた。

 妙心寺は大本山正法山妙心寺(「正法山」というのは山号だそうだ)が正式な名前で、3400の寺院の本山である。
 南総門から北総門まで600m、西端の大法院から東端の東林院までが550mで、京都で2番目に広い場所だという。ちなみに、1番広いのは京都御所だそうだ。
 私は今回の旅行で1番目と2番目を図らずも制したことになる。

 妙心寺の境内に37、外部に10の塔頭寺院があり、龍安寺もこの「外部の塔頭寺院」に当たると聞いて驚いた。どちらかというと、龍安寺の方が有名なような気がする。
 妙心寺の中に「妙心寺」という塔頭寺院があるのではなく、あえて言えば、「妙心寺」は勅使門から七堂伽藍までということになるそうだ。
 この勅使門は管長猊下が4年に1回交代するとき、その出入りの際にしか開かないという。
 一般的にお寺の「本堂」と言われる部分に当たるのが、禅宗寺院の場合は仏殿(ご本尊がお祀りされているところ)と法堂(説法を説く場所)と大方丈(和尚さんが普段いるところ)の3ヶ所になる。

蟠桃院へ梅 一通りの説明をしてもらって、和尚さんはやっぱり声のいい人が多いななどと不謹慎なことを考えつつ、塔頭寺院の間をくねくねと迷路のようになっている道を進み、蟠桃院に向かった。
 妙心寺内の道路は生活道路として使われており、当然のことながら、24時間いつでも通行することが可能で、この道も普通に車が通ったりしていた。

開山堂 歩いている途中、玉鳳院と開山堂とが並んでいるところを通りかかったとき、案内の和尚さんが足を止めて一礼し合掌していた。
 説明によると、玉鳳院はこのお寺を建立した花園法皇がお祀りされており、また開山堂にはこのお寺に最初に入った和尚さんである無相大師がお祀りされている、とのことだった。
 確かに、築地塀にも五本線が入っていて、格式の高い場所であることが判る。

 蟠桃院に到着した。
 「蟠桃」とは、孫悟空が食べて不老不死を手に入れた実の名前だそうだ。
 前田玄衣によって建てられた塔頭寺院で、でも当然のことながら前田玄衣が和尚として寺に入ったわけではない。
 大抵のお寺は、建立した人と最初に寺に入った和尚とは別人だそうだ。

石段 蟠桃院入口の石段は、豊国廟(豊臣秀吉のお墓)から持ってきたもので、石に○や×が付いているのは(この写真では、石に×印がついている)、納めた人が付けた「自分の印」だそうだ。

 蟠桃院の和尚さんはお留守だったようで(御朱印をいただけなくて残念だった。しかし、留守中にぞろぞろと私たち観光客を入れてくれるのだから太っ腹である)、中に入り、まずは全員で渡された紙を見ながら、案内の和尚さんの先導で般若心経をあげた。
 私はもの凄く不信心だし、我が家はお葬式や法事のときしか意識しないとはいえ真言宗なので、般若心経を真面目に読んだのは初めてである。
 「色即是空」という言葉くらいは聞いたことがあるけれど、「色即是空」しか知らないと言った方が実態に近い。
 それでも、和尚さんの声に合わせようとしていると、何だかスっとした気持ちになった。

蟠桃院玄関 蟠桃院は、玄衣の没後、開祖である一宙和尚の後を継いだ雲居希膺(私の耳には「うんごきよう」と聞こえた)和尚が、伊達政宗を子供の頃に教えていた和尚さんからの紹介で瑞巌寺九十九世になった縁で、伊達家の庇護を受けるようになったそうだ。
 この雲居希膺和尚という人は、谷底に投げた払子が手元に戻って来たら悟りを開いたことにしようと決めてえいやっと投げたら、その辺りに住んでいる子供が持ってきてくれたというエピソードや、襲ってきた山賊に一度は「お金なんか持っていない。」と答えたものの、改心して(?)ふんどしに縫い付けていた一両を差し出したら山賊に「こんな正直な奴なんて!」と次の村まで護衛してもらったというエピソードの持ち主だそうだ。
 こういうエピソードが伝えられているのだから、それは有名な人だったのだろう。

 蟠桃院では、伊達家との縁から、建物に伊達家の家紋が入っていたり、伊達政宗の肖像画が飾られたりしていた。
 伊達政宗は「独眼竜」で有名だけれど、残っている肖像画は両目を見開いて描かれていることが多いそうだ。

 案内してくれた和尚さんは、「和尚」の資格を取得するために(という話を聞くまで、「和尚」が資格であるとは知らなかった)試験を受ける際、この蟠桃院に泊まったそうで、そのときのお部屋なども見せていただいた。
 その部屋のふすま絵を示して「これは誰かが勝手に描いたふすま絵です。」などとジョークなのか判らない説明をしてくれるのが可笑しい。

 お茶室も見学した。元々、妙心寺はお茶と禅は相応しくないという考えを持っていたそうだ。当初、お茶室は造らなかったらしい。
 それにも関わらず、蟠桃院にかくれ茶室が造られているのは、豊臣家再興のための隠れ家として建立されたためではないかと言われているそうだ。しかし、蟠桃院の建立は関ヶ原の戦いの翌年で、まだ豊臣家は潰れていないし、よく判らない。

左甚五郎 この蟠桃院の玄関は聚楽第から移築されたと言われている。ただし、何度も改築を重ねているし、聚楽第にあったという証拠はない。
 また、玄関上の彫り物は左甚五郎が彫ったと言われているという。
 和尚さんの話によると、お寺はどこも貧しかったので、果敢な和尚さんは、次々と躊躇なく美術品やふすま絵などを売り払ってお寺維持のための経費に充てることも多かったそうだ。けれど、この蟠桃院のように(ということだと思う)、優柔不断な和尚さんは美術品などを売り払う決心がつかないまま来てしまったお寺も多い。
 今になってみると、優柔不断な和尚さんがいたからこそ、そのお寺が重要文化財に指定されていることになり、長い目で見れば、早い決断が必ずしもいい結果を生むという訳ではない、というお話だった。
 実はこの「閑寂の禅」の中で一番印象に残ったのがこの話である。

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2010.04.29

永平寺・京都旅行記2日目その2

2010年2月12日(金曜日)

昼食 13時も過ぎた頃、大徳寺大仙院で昼食となった。
 観光バス2台分の人が詰め込まれ、かなり大混雑である。寿司詰めと言っても過言ではない。
 御朱印をお願いしてから昼食場所に向かったため一番最後にお部屋に入ることになって、空いている席を目で探すことになった。

 和尚さん(というのは、どうも禅寺では「位」であり、尊称のような気がする)のお話を伺いながら昼食をいただいた。
 やはり禅寺といえばゴマ豆腐である。
 普通に美味しい。
 和尚さんは、ゴマペーストと吉野葛を買って来ればゴマ豆腐を作るのは簡単だと紹介してくれたけれど、まさかこのゴマ豆腐もそうやって作ったんじゃないだろうな、などと考えた。我ながら失礼な話である。

 この和尚さんがしゃべり上手の商売上手で、一服お茶をいただく「券」を購入すれば瓢箪の絵のついた紙を渡します、その紙に名前を書いて箱に入れておけば明朝のお勤めのときに読み上げます、お茶の料金が300円というのはお安いです、一緒に出すお菓子も素朴だけれど美味しいと評判です、と立て板に水のごとくお話しされる。
 「100人からの客にどうやって一斉にお茶を出すんだろう」という疑問が浮かぶ前に、つい乗せられた。
 
 食事後、大仙院の中を一通り案内してもらった。
 有名な沢庵和尚は7代目の住職だったそうで、その沢庵和尚が居室としていたお部屋が今も残されている。
 建物自体も室町時代のもので重文に指定されており、釘を使わずに建てられていて、どこかから移築されたものだそうだ。
 唐門も聚楽第から移築されたという。

気は長く 「これだけは覚えて帰って!」と言われた掛け軸に書かれた言葉があった。
 達磨大師の言葉だそうだ。
 私の下手な字で何だけれど、これは、この書き方もポイントである。
 もちろん和尚さんが書いた短冊等々も売られていたけれど、あまりにもたくさんの人が買おうと押し合いへし合いしていてとてもそこに参戦できなかった。
 曰く。
 「気は長く 心は丸く 腹は立てず 人は大きく 己は小さく」
 単純な言葉で大切なことが語られている。
 私は全く信心を持たない人間だけれど、でも、エラそうに、仏教も捨てたもんじゃない、などと思った。

 お話ししてくれた和尚さんは、この言葉をアレンジしていると言う。
 曰く。
 「気は長く 心は丸く 腹は立てず 口つつしめば 命長し」
 なるほどと思う。

 「これだけは」と言いつつ和尚さんはいくつかの言葉を紹介してくれ、私はあともう一つだけメモすることができた。
 そのもう一つは一休禅師の言葉だそうだ。
 曰く。
 「心は行動となり
   行動は習性を生む
   習性は品性を作り
   品性は運命を決する」
 こちらは、「いい言葉」というよりも、「ちょっと怖い言葉」という感じがする。

 建物を取り巻くようにして流れている枯山水のお庭の案内に移った。
 大仙院は決して大きなお寺ではないし、枯山水のお庭も決して広くはない。どちらかというと箱庭のようなお庭である。
 そこを推定100人がぞろぞろと見学すれば渋滞が起きるに決まっている。和尚さんの声が聞こえない人もいたのではなかろうか。

 枯山水のお庭は建物を巡っていて、それは人の一生を水の流れになぞらえて表現しているらしい。
 中海と言われる場所くらいまでは、人にも迷いがあるので、木や岩などがところどころにある。水の源である蓬莱山(を表している場所)には岩が沢山ある。
 それが、水の流れに従って巡っていくと、最後には海に流れ着き、その頃には迷いがなくなっているので岩や木も置かれず、白砂だけのお庭が広がっている。

 お庭は、応仁の乱後の1509年に大聖国師がお寺をつくった時に作庭したものだそうだ。
 和尚さんご本人が自分で大工仕事をしてつくったお寺だから小さいし古いのだという。太い柱が手に入らなかったため、重い瓦屋根にすることもできなかったそうだ。

 その方丈には、重文に指定された狩野元信の花鳥図と、弟である之信の四季耕作の図が描かれた襖がある。
 四季耕作の図の方は、ミロのヴィーナスが日本に来たときに交換でルーブルに貸し出されたそうで、「どれだけの価値があるか判るやろ。」ということだった。
 確かに、判りやすい。

大仙院入口 お庭を一周したところで自由解散になった。
 まずはお茶をいただく。これが、3人くらいのお寺の方がポットのお湯を使って次々とお茶をたて、6畳くらいのお部屋に寿司詰めになってお茶をいただき、一口でお菓子を食べ一息でお茶を飲み干して次の人に場所を譲る、というもの凄い状態の「お茶」だった。
 私は早々にお茶をいただいて、もう1回ゆっくりとお庭を1周させてもらい、ご朱印をいただいて(300円)大仙院を後にした。
 大仙院も写真撮影禁止だったので、最後に入口の写真だけこっそり撮った。

 大徳寺では龍源院のお庭をぜひ拝見したいと思っていたけれど、14時20分の集合時間に間に合いそうになかったので断念した。
 大徳寺納豆のお店に寄れなかったのも心残りである。

泉涌寺参道 バスは一気に京都市内を南下し、15時に泉涌寺に到着した。
 泉涌寺は、何といっても、門をくぐった後、広くて長い坂道を下って行ったのが印象に残っている。
 仏殿へのアプローチで坂を「上る」のではなく「下る」というのは珍しいように思うけれど、どうだろう。
 御朱印をお願いし、それから観光バスの面々は二手に分かれ、私たちは先に御座所を見学した。

 侍従の間、勅使の間と続く。やはり半分とはいえ50人からの人間が一度にぞろぞろと歩いているので、ちょっとゆっくりふすま絵などを拝見しているとあっと言う間に置いて行かれ、説明を聞きそびれてしまう。
 そんな中で聞きかじったところでは、勅使の間には、門松の元となった行事が描かれたふすま絵がある。
 また、玉座の間も含めて、椅子とテーブルに合うようにお部屋が造られているので天井が高いそうだ。椅子式のお部屋としては相当に古く、かつ格式の高い作りになっているという。
 玉座は、見学したときには、何というのかおひな様が座るような感じに整えられていて、余計にお部屋の天井が高く感じられた。実際に皇族方が来られるときは椅子とテーブルにセットし直すという。

御座所庭園 御座所も写真撮影禁止だけれど、お庭だけは大丈夫ということだった。
 もう少ししてお花が咲くか、秋の紅葉の時期には綺麗なんだろうなと思わせるお庭である。
 皇族の間と呼ばれるお部屋もあって、美智子皇后はこちらで控えますなどと説明されると、やはり格式というものが生きている世界があるのだな、としみじみと思う。
 そしてその「格」とふすま絵は結構関連があるらしい。残念ながら私には全く読み取ることができない。
 ふすま絵は「ここではこのように振る舞う」ということを表すある意味教科書の役割も担っていた、などと聞くと、少し安心したりもする。

 泉涌寺は、天皇家の菩提寺としてずっと「御寺」と呼ばれてきたそうだ。
 門跡もずっと皇族の方が務められてきたし、歴代天皇の葬儀が行われ、菩提所もこのお寺にその多くがあるという。
 一般の人が参拝できるようになったのは、戦後になってからだそうだ。

 泉涌寺は1200年前に弘法大師が庵を結んだことに由来し、月輪大師によって鎌倉時代に創建されたそうだ。当時は、宗派は問わない道場という性格を持っていたらしい。
 その後、応仁の乱で全焼してしまい、次に見学した仏殿も、当時のままなのは石畳だけだ。
 江戸時代に徳川家綱により再建され、一重入母屋造り総瓦葺きの禅宗様式の建物で、様式としては大徳寺仏殿と同じだという。
 この仏殿は総けやき作りで、36本の柱が使われている。この柱4本を直径160cm以上の1本のケヤキの木から取ったというから驚きである。しかも、寸法の狂いが生じることから、1本の木の中央部分は使わないという。
 どれだけ「いい欅」を使っているのだろう。

 仏殿には三尊仏がお祀りされている。
 左側の阿弥陀如来は過去、中央の釈迦如来は現在、右側の弥勒菩薩は未来をお守りしている。こういうお祀りの仕方は珍しく、また三体ともご本尊であることも珍しいそうだ。
 いずれも木造に金箔が貼られており、運慶作と言われている。
 今は修復中ということで手前に移動されており、近くで拝めたのは幸運だった。

 仏殿の天井には狩野探幽晩年の作になる龍の絵が飾られている。下から見上げていると実感が湧かないけれど、畳8畳分の大きさがあるという。
 また、この仏殿には縦16m横8mという大涅槃図がしまわれていて、年1回3月半ばに公開されているそうだ。厚さ1cmの和紙に描かれているという。それは160kgという重さにもなろうというものだ。
 本来は東大寺に行くはずだった大涅槃図は、天井高12mの泉涌寺仏殿では普通に飾ることはできず、逆コの字型に飾るというお話だった。
 大涅槃図は、沙羅双樹の下でお釈迦様が顔を西向きに北枕で寝そべり、弟子たちがその周りを囲んでいるという絵だそうだ。下方には象やバクなどの動物たちも描かれているという。

 仏殿の裏側には白衣観音図という貼り絵(絵を描いた後で紙を貼り合わす手法)で描かれた観音様があり、200枚もの紙を貼り合わせたというから驚きである。こちらも狩野探幽作だ。
 この観音様はどこから見ても真正面から見られているように感じられる。
 
 この後、入口近くにある楊貴妃観音像をお参りした。確かに母性豊かな美人の観音様だ。
 ここまでで観光バスのコースは終了である。途中、希望者は五条駅近辺でバスを降りて行っ。私はもう宿に向かうことにして京都駅まで戻った。16時20分着である。
 京都市バスセンターに行って、明日使う1日カード(500円)を購入し、明日の朝には荷物を自宅に送ってしまおうと思っているので、お土産を物色しに伊勢丹の地下に行った。
 売場はバレンタイン前ということもあって大混雑している。
 伊勢丹カードを持って来れば良かったと思いつつ、やよいのちりめんじゃこなどをお土産に買い、今日の夜食にしようと京洋菓子司ジュヴァンセルのさがの路というケーキを購入した。

 JRの花園駅からキャリーケースをころころと引っ張りつつ坂を上ること10分弱で本日の宿である花園会館に到着した。花園会館は妙心寺が経営する宿坊だけれど、お勤めなどもない。あえて言えば「軟派な」宿坊だと言えると思う。
 宿坊というよりも、旅館というイメージの方が強い。
 チェックインし、ちょっと早いと思いつつ、夕食は1時間後の18時30分でお願いした。夕食はロビーにある「花園」というレストランだ。
 明日の朝食は7時30分と案内があった。

花園会館の部屋 「閑寂の禅」という花園会館主宰のプランによる宿泊で、一人だけれどツインルームに案内された。
 永平寺と京都に旅して、何故か2泊とも洋室なのが変な感じである。
 お部屋に行く前に売店に寄り(「閑寂の禅」参加者は売店でのお買い物が10%引きになった)、絵はがきとお線香を購入する。

 夕食は京懐石で、永平寺と京都に旅行して精進料理をいただく機会が作れなかったのが残念である。
 精進料理は食べていないけれど(今日のお昼ごはんは精進料理だったのかも知れない)、ゴマ豆腐は毎食のように食べているな、とも思う。
 お料理はおいしくて、ビールを飲もうか迷いつつ結局アルコールはパスすることにして、ゆっくり1時間以上かけて完食した。

ゴマ豆腐とお造り天ぷら

 花園会館には、温泉ではないけれど大浴場がある。
 友人に絵はがきを書きつつ食休みをし、20時30過ぎに大浴場に行ったら意外なくらい人が多くて驚いた。10人くらいはいたと思う。

 夕食を完食しても、お風呂に1時間近くも浸かっていたらお腹も空く。
 こんな時間に食べたら太るぞと思いつつ、22時過ぎ、持参したドリップコーヒーをいれてケーキタイムにした。
 抹茶の求肥がレアチーズケーキを包んでいて、上品な甘さで美味しい。
 この際、カロリーには目をつぶることにする。

 3時30分ころ就寝した。

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2010.04.26

永平寺・京都旅行記2日目その1

2010年2月12日(金曜日)

朝食 お部屋が暑くて2時、6時に目が覚め、7時15分に起き出してすぐ、朝食のレストランに向かった。
 福井の宿をユアーズホテルフクイにした最大の理由は、この「地産地消」をテーマにしているという朝食だ。私にしては珍しくバイキングで和洋用意されている中、和食の朝食にする。
 美味しい。
 朝食を終えてレストランを出たところで、お部屋に持ち帰ってどうぞとコーヒーを渡されたのも嬉しかった。

 外は曇りである。雨が落ちていないだけ有り難い。
 駅まで徒歩2分の立地は本当に便利である。
 8時に朝食を食べ終え、チェックアウトし、駅のホームで職場土産の永平寺大根(630円を4袋)を購入して8時49分発のサンダーバード10号に乗ることができた。
 
車窓からの琵琶湖 行きの米原から福井までは停車駅も多かったし時間もかかったけれど、このサンダーバードは、福井から京都までノンストップである。
 しかも行程の後ろ半分はずっと琵琶湖畔を走る。お天気が悪くて荒涼とした眺めではあるものの、たっぷりと琵琶湖を堪能することができた。座席は琵琶湖側になる進行方向左側(A席)がお勧めである。

 10時11分に京都に到着し、駅のコインロッカーにキャリーケースを預けた後、京都市観光バスの窓口に行って料金を支払い、予約してあった「特別参観 御所と大徳寺・泉涌寺」コースのチケット(7300円)を購入した。
 10時50分発の観光バスの時間まで余裕があったので、近くに見えた郵便局に行って、友人に絵はがきを出すべく切手を購入した。京都限定の切手が特に見あたらなかったのが残念である。

 10時50分発の観光バスは祝日と週末との谷間とはいえ平日にもかかわらず満席だった。
 まずは京都御所に向かう。
 京都御所は、480年間、天皇の住居だったところである。御所自体は何回も焼失していて、現在残っているのは里内裏だったところらしい。現在残っている建物はほとんど幕末に建てられたもので、この「建物」に実際に住んだのは明治天皇と大正天皇の二代のみという話だ。
 また、20万坪の広さの御苑の中に御所と200余の公家や宮家の住まいもあったらしい。
 京都御所での見学時間は40分ほどで、「ずっと外を歩きます。」「皇宮警察の人が付いてきますので、列を乱さないように歩きましょう。」などの注意があった。

宣秋門 京都御所に着く頃には日も射し、でも雨もぱらつく不思議な天気になっていた。
 11時30分くらいから、バスガイドさんの案内に従って見学開始である。
 この閉められている門が宣秋門だ。
 天皇以外の皇族や外国からの賓客が使う門だというから、かなり格式が高い門といえるだろう。
 春と秋の特別公開の時にはこの門も開かれて、一般人の私たちも通ることが許されるそうだ。こういう隅々まで「身分」を意識している場所はそうないような気がする。

虎の間 次に向かったのが「諸大夫の間」である。ここは正式に参内した人のお供の人が主人を待つ部屋だそうだ。
 それぞれ、襖に描かれた画題に応じて「桜の間」「鶴の間」「虎の間」と呼ばれている。
 そして、「桜の間」は身分が低い人(のお供の人)、「鶴の間」は中間で、「虎の間」は身分が高い人(のお供の人)と決まっていたそうだ。

 いつのことだったか聞き忘れたけれど、例えば、天台宗のトップである阿闍梨はこの虎の間で控えたという。
 また、桜の間では、滅多に御所に来ないような人が待つところからお作法を教えてもらう場でもあったという。ここでお作法を教えてもらったお礼を袖の下から渡したところから、「袖の下」という言葉が生まれたそうだ。
 京都御所が賄賂(?)発祥の地だったとは驚きである。

 「諸大夫の間」も含め、京都御所では基本的に写真撮影は自由だった。
 自分がフラッシュを使わないので注意を払わなかったけれど、フラッシュ撮影禁止とも書かれていなかったと思う。
 この「諸大夫の間」も、私たちは外からの見学で中には入れないけれど、板戸が開け放たれていて自由にふすま絵を見学することができた。太っ腹である。

 大正時代に造られたという新御車寄せは、先に見た御車寄せとは違って建物の窓にガラスが入っているし、内部は見られなかったけれど絨毯敷きになっているそうだ。
 また、車を屋根の下に駐められるように屋根も大きく造られたという。

建礼門 この建礼門は天皇しかくぐれない格式高い門で、4本の柱で支える四脚門である。
 美智子皇后も、天皇と同道しているときは建礼門を使えるけれど、一人で御所に来たときには建礼門は使えないというから厳格だ。
 また、建礼門の両脇に続く築地塀に5本の白線が入っていて、これまた格式の高さを表しているそうだ。5本線が一番格式が高いことになっており、「上下筋」とも言うらしい。

 こういう「知らなかったよ!」というお話が次々出てくるのでメモを取るのに忙しいし、写真も撮りたい。この辺りから最後尾を歩くことが多くなったような気がする。
 最後尾を歩いていると、後ろからぴたっと皇宮警察のお兄さんが付いてきているのが何とも特別な場所感を醸し出す。
 建礼門の内側が宮内庁、ひいては皇宮警察の管轄になるそうだ。

承明門と紫宸殿 建礼門の向かい側に承明門があり、その内側が紫宸殿である。
 間口は20m、奥行き25mだそうだ。どれだけ大きい建物なんだと思う。
 また、格式高い建物の常として屋根は檜皮葺となっているという。檜皮葺は傷みやすく、20〜30年に一度は替えなくてはいけないというから大変である。

 格式高く造られているものの、建物内部に天井はなく床は板敷きというから、決して快適な住まいではなさそうだ。
 紫宸殿は南向きに建てられており、従って京都のお社はみな南向きに建てられているという。
 向かって左側が右近の橘、向かって右側が左近の桜である。左右が逆なのは、「天皇から見て」の左右となっているからだそうだ。もっともである。

 手前の階段は18段で、これは安倍晴明が最高の数は9であるとしたからだという。
 正面奥は高御座(たかみくら)で、天皇が座る椅子が置いてあるのみだそうだ。即位の礼のときなどは高御座も全開にするけれど、通常は3間しか開けないという。
 ここで即位の礼を行ったのは明治天皇、大正天皇、昭和天皇のお三方のみだから、全開されたことも3回しかない。現在の天皇の即位の礼を東京で行うときには、京都から東京へヘリで運んだそうだ。
 格式というものを私が理解できる日は来ないかも知れないとしみじみと思う。

 御所では正面に天皇、向かって右に皇后が座する。だから関西のおひな様も同じように飾るそうだ。
 それがどうして関東では逆になるかというと、関東では明治天皇皇后のお写真が左右逆に座っているのに合わせるからだそうだ。

小御所 小御所と御学問所との間には「蹴鞠の庭」という何とも優雅な名前の、でも実際のところ小さな玉砂利が敷いてあるだけの場所がある。
 この小御所では、金具を蝉の形にして泥棒よけにしたり、「御所張り」と呼ばれる障子は少しずつ障子紙を貼り替えられるように桟が細かくなっていたりすると聞いて、お金持ちの考えと節約の考えが両方混ざっていて面白いと思った。

 小御所・蹴鞠の庭・学問所の向かいには、「御池庭」というお庭が広がっている。
 正直に言って、「名園」という感想は浮かばない。

御池庭

 元々が台所だったことからお公度(竈の意味)と呼ばれるお庭を歩いているとき、皇宮警察の方のお話を聞いた。
 どれくらい前のことか聞き忘れてしまったけれど、こうして観光客に開放するようになってから一人だけ、はぐれて夜中まで御所に閉じ込められてしまった人がいたらしい。
 夜になると、全ての建物は内側から鍵をかけてしまうから、建物の中にいることもできない。
 しかも、灯りがないから真っ暗だ。
 京都御所では、消防法の関係で全ての建物に火災報知器の設置が必要だから「電気」は通しているけれど、電球を全く設置しておらず、灯りは存在しないという。
 徹底している。

 灯りがないくらいだし、御所は、「住まい」ではなく「博物館」だという。
 皇族の方が来るときも、目的は「研究」であり、「研究」のために来るわけだから灯りもなければ採光も悪い建物の中では埒があかず、予め研究の対象となるものは全て外に出して用意しておくという。
 御所で時間を過ごすこともほとんどないとなれば、確かに「博物館」だ。

 御所の建物にしろ美術品にしろ値段のつくようなものではないそうだ。
 **門の柱を取り替えるために300〜500万円かかったというし、築地塀ももう同じ物を作れる人がほとんどいないため、白い細い線で囲まれた部分を作るのに10万円というお値段になるそうだ。

 12時25分くらいまで見学したけれど、それでも全体の1/3くらいしか見ていないらしい。
 皇宮警察の方は、お役目上、全てを見たことがあると言いつつそれほど嬉しそうでもなかったのが何となく可笑しかった。

大徳寺勅使門 御所から10分くらいで大徳寺に到着した。
 大徳寺は1325年に創立されたものの、応仁の乱で焼失し、一休禅師が再興したお寺だそうだ。
 大徳寺の勅使門は、御所から移築されたもので、重要文化財に指定されているという。
 そう言われれば立派な門のような気がするし、他と比べても大差ないんじゃないかという気もする。

大徳寺山門 時代も下って、大徳寺の再興に千利休も協力しており、禅寺と茶道のつながりは大徳寺が積極的に築いたものらしい。
 千利休は三門(=金毛閣)を造ったけれど、そのことを記念して自身の像を寺内に建てたことから秀吉との関係がおかしくなったとも言われているそうだ。
 現在、どこかにうっちゃられていた利休の像は寺に戻ってきているけれど、門外不出としているという。
 そう聞くと、ぜひ見てみたいという気持ちになる。

 そうした因縁を説明してもらいつつ、方丈に向かう。
 方丈というのはお寺の中心となるお堂で、ご本尊がいらっしゃる。大徳寺の方丈はそれ自体国宝だそうで、残念ながら建物の中に入ることはできなかったけれど、「国宝」の縁側に座ってお庭を眺めることはできた。
 お庭も含め、写真撮影禁止だったのが残念である。

 この方丈のお庭は江戸時代初めのサンユウ和尚(字を確認し忘れた)が造ったお庭で、大徳寺内で一番単純なお庭だという。そして、特別名勝・史跡に指定されているそうだ。
 お庭に敷かれている砂は、比叡山の麓で採れる雲母を含んだ「白河砂」と呼ばれる砂で、夜になると光るという。そして、砂紋(しゃもんと読むらしい)は、水の流れ、ひいては人生を表すものだという。

 ガイドさんに「このお庭の中心はどこだと思いますか?」と聞かれ、それは中央でしょうと短絡的に思ったけれどそれは大間違いで、左奥にある大きな縦長の岩(滝を表している)が中心だそうだ。
 砂紋が水の流れを表しているのだから、その水の源である滝が場の中心であるという説明に納得である。
 この滝を表す岩は紀州の青石を運んできており、見えている部分だけでもかなり大きいけれど、実は半分以上地中に埋まっているそうだ。
 滝を表す石の周りに置かれている低い白い石は「水分け岩」と言われ、水の流れが変わるところを表しているという。

 庭のほぼ中央手前に盛り砂が二つ造られている。
 通常、この盛り砂があるところには門があるそうだ。多分この言い方は逆で、門があるところには盛り砂を造るのだろう。
 この日暮らし門は格式の高い人しか通ることのできない門で、その昔は、格式の高い人が来るときにこの盛り砂(浄めの砂)を崩してじゅうたんの様に敷いていたそうだ。
 今は「盛り砂を造る」という習慣だけが残っているという。
 この盛り砂が「盛り塩」の起源だそうだ。

 私たちが座った縁側の下には瓦が敷かれている。瓦は冬寒く夏暑くなる素材で、雲水さんはここを1年中裸足で歩くそうだ。
 枯山水のお庭も、まっすぐ線を引くだけでかなりの仕事だそうで、禅寺のお庭は雲水さんの修業のために造られたと思って間違いないらしい。

 このお庭の刈り込みは「大徳寺垣」と呼ばれているそうだ。
 上下2段に分かれ、下はまっすぐに切りそろえられ、上は伸び放題な感じで適当にされている。
 昔は下のまっすぐな刈り込みだけで、その向こうに借景として比叡山が見えていたらしい。しかし、周りに家が建ったりしてお庭から比叡山を望めなくなってしまい、目隠し代わりに伸び放題の刈り込みを造ったという。
 このお庭で1ヶ所だけ、庭に入る門のところから振り返ると、比叡山がくっきりとそこにあった。

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2010.03.14

永平寺・京都旅行記1日目

2010年2月11日(木曜日)

 今週に入ったくらいから天気予報を見ては、どうも2泊3日全部が雨という可能性もありそうだと凹んでいた。
 8時30分くらいに最寄り駅を出発したとき、雨は降っていなかった。小さいキャリーケースを転がしていたから、出発時点で雨が落ちていないのは有り難い。
 雨は降っていなくても寒さはかなりのもので、「これから山中の永平寺に行くのだし」と、上半身は山用のアンダーシャツにハイネックのシャツ、さらに丸首のセーターを重ね、ウールの厚手のシャツにアウトドア用のダウンコートという完全フル装備である。
 もちろん、下半身もタイツにハイソックスを履き、Gパン、オーロラを見に行く際に買った寒冷地仕様の靴と準備万端だ。

 9時33分発のひかりは、昨日、窓際指定をしたら「満席」と言われたものの、自由席車両は1両に5人も乗っていないくらいガラガラだった。
 わざわざ指定席にする必要はなかったかもと思いつつ、3席並んだ通路側の指定席に座る。
 小田原辺りでほぼ満席になったけれど、私の隣の席は米原までずっと空いていて、ラッキーだった。

 11時49分に米原に到着し、59分発のしらさぎに乗り換える。
 この10分間で「湖北のおはなし(1100円)」という駅弁を購入する予定でちょっと焦ったけれど、乗り換えの通路で、テーブルを出したおばさんが駅弁を売っており「湖北のおはなしもありますよ〜。」と呼ばわっていたので、無事に購入することができた。

 昨日、JR東日本のえきねっとで見たら10時59分発のしらさぎの指定席が満席だったので当初予定から1本遅らせたところ、私の乗った「しらさぎ」は指定席も自由席もガラガラだった。
 10時59分発のしらさぎには団体客が乗っていたのだろうか。

湖北のおはなし 新幹線に乗っているときからお腹が空いていたし、このお弁当を楽しみにしていたし、座席に落ち着いてすぐにお弁当を開いた。
 「湖北のおはなし」は丁寧に作られたお弁当で、季節によって変わるというごはんは、豆ごはんだった。何だかいい香りがすると思ったら、ごはんの底に桜の葉が敷いてあって、その芸の細かさに感動する。
 何より、美味しい。
 完食した。

 米原を出て10分も走ると、窓の外は雪景色になった。
 この「しらさぎ」は何だか揺れ方が激しい。
 天気が気になって、目を凝らして雨が降っているか雪が降っているかと見ていたせいか、まず電車では酔わない私が「ちょっとくらくらするかも。」と思ったくらいの揺れだった。

 13時2分に福井駅に到着した。外は、結構な雨降りである。
 時間があれば宿泊する駅前のホテルに荷物を預けてしまおうと思ったけれど、ホテルがある西口に出ても看板等が目に入らなかったので諦めた。
 屋根付きの通路で結ばれているえちぜん鉄道の福井駅まで歩き、待合室にあったコインロッカー(400円)にキャリーケースを預けた。一番小さいコインロッカーに入らないのが何だか悔しい。

えちぜん鉄道 えちぜん鉄道の窓口で1日フリー切符(800円)を購入する。
 えちぜん鉄道はなかなか可愛い電車で、この時間は1両編成らしい。
 永平寺に行くための観光電車というよりは、地元の高校生の足になっているという感じだ。
 若い女性の車掌さん(とスチュワーデスを足して3で割ったような感じの役割の人)が乗り込んでいて、長閑な感じが嬉しい。

 永平寺口駅は割と近く、13時50分に到着した。
 永平寺行きのバスは、20分くらい待たなければならない。バスの待合室もあって椅子が並んでいたけれど、椅子が並んでいるだけで火の気もないし寒い。寒さで頭が痛くなってくるくらいだ。
 駅員さんに声をかけ、ちゃっかり駅の待合室で待たせてもらった。こちらにはストーブもあるし、バス停も見える。バスの待合室でバスを待っている人も5〜6人いるから、ダッシュすれば間に合うだろう。

 永平寺口駅から永平寺方面に行くバスは、大抵は「永平寺」という永平寺から徒歩7〜8分のところにあるバス停までしか行かないけれど、あわら温泉から来る私が乗ったバスは、「永平寺門前」という、本当に門前のバス停まで連れて行ってくれた(410円)。
 雨が降っているときには有り難い。
 周辺のお土産物屋さんでは、「荷物預かります。」「傘お貸しします。」という声が溢れている。

唐門 雨はかなりの降りになっていて、唐門に続く階段に設置された柵の手前まで行って写真を撮り、参拝者入口に戻る頃にはびしょびしょになってしまった。
 参拝料500円を支払い、傘立てに傘を預け、靴は持参してくださいと書かれていて、もらったビニル袋に入れて持つ。
 お守りなどが売られており、昔父が寄付したという瓦の修繕のための寄付を募っているのも見える。
 お手洗いをお借りし、ご朱印帳を預けてお願いしてから、大きな畳のお部屋で雲水さんから永平寺の説明を受けた。

・永平寺は760年前に道元禅師が開山した禅宗のお寺で、座禅の修業をするためのお寺であること
・現在は約200名の僧が修業をしていること
・観光ではなく参拝の心で巡ってもらいたいこと
・禅寺の「七堂伽藍」は座禅をしている人の形を象っていると言われていること
・山門をくぐることができるのは住職だけであり、その他の僧は入山と下山のときのみ通れること
・仏殿は心臓部に当たり、現在の釈迦仏、過去の阿弥陀仏、未来の弥勒仏の三体がお祀りされていること
・法堂は420畳と永平寺で一番広い部屋であり、かつ一番高いところにあること
・庫院というのは台所のことであること
・浴室と東司(お手洗い)では私語厳禁であること
・七堂伽藍の他に、承陽殿(道元ちゃっかりがお祀りされているところ)には是非行ってもらいたいこと
・祠堂殿(一般の人の法要を行う場所)には、全長18mの大数珠があること

 説明の最初と最後は合掌し、所要10分くらいの説明だった。

傘松閣 まず、傘松閣に向かう。
 ここは、大学の頃に永平寺に来たとき、天井に飾られた230枚の花鳥画の中から5枚だけあるお花でも鳥でもない絵を探し出せたら幸せになれると言われ、結構必死に探したにも関わらず4枚しか見つけられなかったという因縁の(?)場所である。
 今度こそ、「詰めの甘い女」を卒業したい!
 一緒に説明を聞いていた方々がどんどんいなくなっても、とにかく探す。
 156畳敷きの和室の端から端まで上を向いたまま目を凝らして探すのは、なかなか大変な作業である。

 端から端まで一通り見ただけでは、4枚しか見つけられなかった。どうも私は「詰めの甘い女」のままであるようだ。
 しかし、今回は一人旅だし、時間もたっぷりとある。
 もう一度、端から端までじっくりと探し、とうとう5枚の「花鳥画ではない絵」を探し出すことができた。
 周りに誰もいなくなったのをいいことに、ほとんど寝そべるようにして、写真も撮る。
 永平寺では、雲水さんにカメラを向けなければ写真撮影は基本的にOKで、この傘松閣はフラッシュ禁止である。
 感度を1600まで上げて撮ったので粒子は粗いし、相当に手ぶれしたけれど、証拠代わりにその5枚を載せておく。

鯉獅子

獅子鯉

栗鼠

 なかなか見つけられなかった最後の1枚がこれである。
 この5枚を探し出すまでにかかった時間は11分だった。
 私が探したり写真を撮ったりしている間にも、何人も雲水さんが忙しげに廊下を通り過ぎていた。

 順路はあってないようなものなので、とにかく歩き回る。
 七堂伽藍は人体にたとえられる。永平寺の場合、頭に当たる法堂は本当に高いところにあり、仏殿は中程に、山門は一番低いところにある。
 すべて建物でつながっていて、屋根があって、雨に濡れずに拝観できるのは有り難い。
 しかし、開口部はプラスチックの半透明の板でふさいであるものの基本的には「外と一緒」なので、寒い。
 我々はスリッパを借りたけれど、そこを裸足で歩き回る雲水さんたちは相当に冷たいと思う。法衣だって決して暖かそうには見えない。

法堂から

法堂内部 一番上にある法堂は、最初に行ったときに「これからお掃除をします。」と戸を閉めているところで、その後、「そろそろお掃除が終わったかしら」と何度か通った。
 つまり、何度も階段を上り下りすることになった。
 法堂からの眺めはなかなかいい。永平寺の七堂伽藍の全体を見渡すことができる。
 今は雪に埋もれているけれど、雪がなかったら、さらにはっきり全体像が見渡せると思う。

 何度か通ううちにお掃除も終わったようで、中に入ることができた。
 中央には聖観世音菩薩がお祀りされており、朝のお勤めや法要などを行う場所になっているという。
 ちょうど雲水さんが、住職の座を素早くかつしきたりどおりに作る練習を何度も何度も繰り返していた。
 そういう練習をしているときは、雲水さんも笑顔を見せるし、普通の若者に見える。

大すりこぎ棒 大庫院の横には、「大すりこぎ棒」の張り紙つきで、大きなすりこぎが吊されていた。
 長さ4mのこの木は、明治時代に仏殿を建立する際に地つき棒として使われたもので、捨てるには惜しいとすりこぎの形に仕立てられたそうだ。
 永平寺といえばゴマ豆腐、ゴマ豆腐といえばすりごま、すりごまといえばすりこぎ、という判りやすい連想の産物なのかも知れない。
 「このすりこぎを3回撫でると料理の腕が上達する」と言われているそうで、もちろん丁寧に3回撫でた。

承陽殿 雲水さんに勧められたし、何度行っても閉まっていた法堂から近かったので、承陽殿にも何度か足を運んだ。
 こちらも、最初に行ったときはお掃除中だったと思う。
 何度目かに行ったとき、お掃除の人も減り、奥の方から読経の声が響いてきて、何とも改まった気持ちになった。
 奥に写っている「承陽」という額は明治天皇のお手蹟によるものだという。

僧堂 何度行っても閉まっていたのは、僧堂も同じである。
 そこは、修行僧が座禅し、食事し、睡眠も取る、最も大切な道場だそうだ。
 夕方の拝観終了時刻も迫った頃、あちこちから鐘なのか鳴り物が叩かれる音がして、雲水さんが集まってきた頃になって、やっと引き戸が開いた。
 ちょっと覗き込んで、龍頭魚身の形をしたほう(という名前らしい。木偏に邦を書くようだ)を見られたのはちょっと嬉しかった。

仏殿 もうすでに記憶も定かではないけれど、仏殿は、多分、その扉が開いているところを一度も見られなかったような気がする。
 そもそも、仏殿の入口を見たという記憶がない。
 ただ、大庫院前の開いていた引き戸から、こういう感じで仏殿の外観を見たという記憶があるだけだ。
 それも、写真によって後から作られた記憶かも知れない。
 
 山門に1本だけ礎石のない柱があるというので一生懸命に探したけれど、そもそも礎石なのか木なのか全部の柱について見分けがつかなかった。
 山門から外を覗くと、夜のライトアップの準備で燈籠を並べている方がいる。
 確か16時30分が拝観終了時刻で、しかし拝観終了の放送があるわけでもない。下から上がってくる方もいた。

大数珠 ミーハーな私としては、全長18mの大数珠があると聞けばそれは見ないわけには行かない。
 最後に祠堂殿に向かった。
 この大数珠に目を奪われてしまうけれど、本来は全国各地の信徒の方のお位牌を納め、納骨している場所である。
 きらびやかに飾られていると同時に、何故だかシンとしている場所のように感じられた。 

 入口に戻ったら16時40分になっていた。
 お守りなどを売っていたお店も全て閉まっている。来たときに見ておくべきだったとかなり後悔した。
 御朱印の窓口には雲水さんがいらっしゃって、待ち構えていてくださった。
 ご朱印帳を返していただき(300円)、外に出ようとしたら宝物殿がまだ開いている。

 せっかくだからと中に入ると、道元禅師の肖像画や直筆の文、宋に行ったときに担いでいた行李などが展示されていた。
 中でも一番びっくりしたのは、本当に大きい1枚の和紙に描かれた永平寺の全体図だった。その巨大な和紙をどうやって漉いたのか、本当に不思議である。

 16時55分に「そろそろ閉館です。」と案内があり、永平寺を後にした。
 外はとうとうみぞれになっている。ずっと持ち歩いていたユニクロのナイロンパンツをGパンの上から履いて雨よけ兼防寒対策を施し、靴の中に入れて使うカイロも装着する。
 和紙の絵を見たし、越前和紙のお店に行こうとしたけれど、途中で道が判らなくなって引き返した。
 帰りのためにバス停の位置だけチェックし、寒いしお腹も空いたし、早めの夕食を食べることにした。

おろしそば 永平寺まで戻り、手打ちそばの文字につられて、門前すぐのところにある「てらぐち」というお店に入った。
 まだ新しい感じの店内で、「冬の燈籠まつり」のためか、結構混んでいる。
 先に食券を買うスタイルで、おろしそばとゴマ豆腐を頼んだ。
 手がかじかんでいて温かいお茶が嬉しい。おそばも温かいものにしようか迷ったけれど、「名物」というおろしそばをいただいた。

 夕食を食べている間に18時も回った。永平寺のライトアップ「冬の燈籠まつり」に向かう。
 みぞれが雨に変わったようで、その分、暖かい。その雨も小降りになって、ショルダーバッグごとポンチョを着たら折りたたみ傘は必要ないくらいだ。
 写真のことを考えると、ただでさえ光量の少ないところで撮影しているし、傘を持っているとどうしても手ぶれしやすくなるので、傘はささない方が良かったかも知れない。

冬の燈籠まつり 入口で赤、黄色、青と派手に色をつけられたねはん団子をいただき、参拝口に入ると、強いお香の香りが漂ってきた。
 漂ってきたというよりも襲ってきた、というくらいの勢いである。
 そして、鐘楼の鐘の音が聞こえてくる。
 「ライトアップ」という文字面に反する、荘厳な雰囲気に放り込まれた感じだ。

 2010年の冬の燈籠まつりは2月11日から13日まで行われる。
 この間、永平寺は特別に開放され、外観を自由に見ることができる。拝観料は必要ない。
 雨だというのに意外なくらい人が多い。
 そういえば、来るときのえちぜん鉄道でも隣にいかにもメディアの人らしい若い女性が乗っていたし、新聞社の腕章をした人も見かけたように思う。

希望の灯 山門の前では、ろうそくが1個100円で販売されていた。係の人が火を灯してくれたろうそくを、おそるおそる手で火を庇うようにして運んで置かせてもらう。
 そこには「希望の灯」という看板が出ていた。
 ろうそくの火が暖かい色で、何だかほっとする。

 ライトアップされていた建物は、境内最古の建物である山門、瑠璃聖宝閣、唐門、報恩塔、鐘楼である。
 やはり、山門の壮大さが印象に残った。

鐘楼唐門 この唐門の写真は、昼間に撮った写真とは反対側から撮っていることになる。
 この門のどちら側が外側で、どちら側が内側なんだろう、などと阿呆なことを考える。
 この唐門を通りすぎて少し歩いたところで生姜湯のサービスをしていて、ドラム缶に火が焚かれていた。有り難くいただき、火にも当たらせてもらう。

雨 雨は強くなったり弱くなったりしている。
 参堂に置かれた燈籠は、雨に濡れた道に映って倍の明るさになり、これは却っていいものを見られたと満足した反面、後になって写真を見て、こんな大雨の中を1時間半近くも歩き回ったのかと我ながら感心した。

 19時35分発の臨時バスの乗客は私だけだった。車で来た人が多かったのだろう。
 バスチケットを買いに入ったお店で、団助の胡麻っとごまどうふ(650円)を購入する。
 この「胡麻っとごまどうふ」は新製品で、これまでのものよりも多くゴマが練り込まれているそうだ。
 
 バスが永平寺口駅に到着したのは電車の時間ギリギリで、慌てて飛び乗った。
 20時過ぎに福井駅に到着し、コインロッカーから荷物を取り出す。
 福井駅のみどりの窓口が開いていたので、明日の京都まで、明後日の京都から東京までの切符を購入する。窓口の方の「乗り継ぎ切符にした方が安くなるよ。」というお勧めに従い、だぶってしまう山城ー京都間の切符も別に発券してもらう。

スィートポテト 駅のコンビニで、おやつ兼夜食用に「地産地消」とポップに書かれていたスイートポテト(300円)を購入し、ホテルに向かった。

 今夜の宿は、福井駅前のユアーズホテル・フクイである。
 ロビーが豪華な雰囲気で、防寒対策バッチリで山に行くみたいな格好の私は少し気後れしたくらいだ。
 チェックイン時に「女性のお客様限定」でコスメやバスソルトなどカゴの中から一つ選ばせてくれた。朝刊も選べ、地元紙の福井新聞をお願いする。

ホテルのお部屋 ロビーの公衆電話で家に連絡を入れ、21時前に部屋に落ち着いた。この頃になって寒さのためか頭痛がしてきたのでお風呂でゆっくり温まる。
 いくつか持参したティーバッグの中からダージリンティを淹れてスィートポテトと一緒にいただき、テレビの天気予報が「京都では雪が舞うでしょう。」と言っているのに文句を言いつつ、早めに就寝した。

 -> 永平寺・京都旅行記2日目その1

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2010.02.22

プロフィール写真を変える(金閣寺)

 2010年2月11日から2泊3日で永平寺と京都に一人旅してきた。

 永平寺のライトアップや京都御所、正伝寺の枯山水のお庭なども好きだったのだけれど、さて、プロフィール写真はどれにしようと考えたら、つい、金閣寺を選んでしまった。

 ベタだけれど、やっぱりフォトジェニックである。

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2010.02.20

持ち物リスト(永平寺・京都編)を作る

 2010年2月11日から2泊3日で永平寺と京都に行って来た。
 何しろ、前日に行き(だけ)の切符を手配したくらいで、持ち物リストも出発前には完成しなかった。直前まで出し入れしていたせいもある。

 1週間たって、やっと、持ち物リストを整理した。
 この中には着て行ったものも含まれている。
 なお、*の印は帰って来た後のコメントである。

続きを読む "持ち物リスト(永平寺・京都編)を作る"

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2010.02.15

職場でお土産を配る(永平寺・京都)

 今日、職場で永平寺と京都に行ったお土産に、この「永平寺大根」を配った。

 年配の男性が多い職場なので、基本的にお土産はしょっぱいものを探す癖がついており、永平寺門前のお土産物屋さんでは見つけられなかったのだけれど、福井駅で特急に乗る直前、ホームの売店でこの商品を見つけてひらめいた。

 これだ!
 我ながら、行き先も渋ければ、選んだお土産も渋い。
 配りながら、何人かの人に「修業してきたの?」と聞かれたけれど、そんなわけないではないか。

 「何だか今日、定期的にたくわんの匂いがしてるね」と言われたのが可笑しい。

 ちなみに、たまり漬けと梅酢味と1個ずつ配ったのだけれど、梅酢味の方が数が少なかった。
 ちゃんと数えなかったけれど、梅酢味の方で20個強という辺りではなかろうか。
 できればこの手の商品は、個包装のモノがいくつ入っているのか外側に明記しておいてもらえると有り難い。

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2010.02.13

無事、帰宅する(永平寺・京都)

 2010年2月11日(木曜日)から、2泊3日で永平寺と京都に一人旅をしてきた。

 冬の永平寺と京都。
 静かといえばいいのか、オトナの雰囲気でといえばいいのか、そういうイメージがあるけれど、私が旅をするのだから、そうそう優雅に行くわけもない。

 もの凄く寒いと思って、ほとんどオーロラを見に行ったときと変わらない服装をしていったら意外と暖かく、今日、自宅の最寄り駅から自宅までに雪に降られたときが一番寒かったとか、穏やかな気候の京都に私の格好はヘビーデューティ過ぎたとか、色々と問題(?)が生じた。

 それでも、3日間とも10000歩ちょっとしか歩いていないのだから、私にしてはゆっくりめの旅だったかも知れない。

 とりあえず、人生3度目の京都に行って、己の京都初心者度を心から実感したのだった。

 ちなみに、2泊3日、1人で交通費、宿代、食事、拝観料等の費用を足して、約63000円だった。
 この中には、お土産代は含まれていない。

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