2011.05.03

ヨルダン・エジプト旅行記の入口を作る

ペトラのエル・ハズネ ここは2010年9月に旅した、ヨルダン・エジプト旅行記への入口である。
 
 ペトラ遺跡には以前から行きたくて、シリアとヨルダンを一緒に行くと何だか全てがごっちゃになりそうで、ヨルダン一国だけのツアーはなかなか見つからなくて、そんなこんなでヨルダンとエジプトを、出エジプト記をちょうど逆に辿るようなこのツアーに参加した。

 以下の日程表の日付部分をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。

1日目 2010年9月18日 成田 -> アブダビ ->

2日目 2010年9月19日その1 アブダビ -> (ジュラシュ遺跡) ->

2日目 2010年9月19日その2  -> (アンマン市内) -> 死海(泊)

3日目 2010年9月20日その1 死海 -> (ネボ山) -> (マタバ) ->

3日目 2010年9月20日その2 -> ペトラ(泊)

4日目 2010年9月21日その1 ペトラ

4日目 2010年9月21日その2 ペトラ

4日目 2010年9月21日その3 ペトラ(泊)

5日目 2010年9月22日その1 ペトラ -> (ワディ・ラム) ->

5日目 2010年9月22日その2 (ワディ・ラム) -> アカバ(泊)

6日目 2010年9月23日 アカバ -> (ヨルダンからエジプトへ船で国境越え) -> セント・カタリーナ(泊) 

7日目 2010年9月24日その1 (シナイ山登山)

7日目 2010年9月24日その2 セント・カタリーナ -> (モーセの泉) -> (スエズ運河) -> カイロ(泊)

8日目 2010年9月25日その1 (ギザ)

8日目 2010年9月25日その2 カイロ(泊)

9・10日目 2010年9月25日・26日 カイロ -> 成田


その国の旅を終えて 100の質問 (ヨルダン編)

その国の旅を終えて 100の質問 (エジプト編)


持ち物リスト (ヨルダン・エジプト編)


2010年9月 「ヨルダンとエジプト 出エジプト記を遡る旅」の写真

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ヨルダン・エジプト旅行記9・10日目

2010年9月26日(日曜日)

カイロの朝焼け 旅行9日目は本当に帰るだけだ。10時出発なので朝寝坊もできたけれど、旅行中の習慣で6時過ぎには目が覚めた。
 テラスに出ると、ナイル川の向こう側の空がオレンジ色に変わりつつあった。きれいな朝焼けである。
 そして、しばらくぼーっと眺めていると、ついに日の出を迎えた。
 本当に申し訳ないくらいに無駄にナイルビューのお部屋である。
 おかげでいい夜景を眺め、いい朝を迎えることができた。

 シェラトンホテルの朝食ラウンジはこの日も混雑していて、一人でテーブルを使っていたためか、おかわりを取りに席を立って戻ると、すっかり片付けられてしまっていた。ちょっと悲しい。
 仕方がないので、そのまま取ってきたデニッシュをお皿ごと部屋に持ち帰り、部屋で朝食の続きをいただいた。
 ツアーの方には、朝の時間を利用してスーパーマーケットにお買い物に行った方もいらしたようだ。私は交差点の交通量の多さと信号がないという事実に恐れをなして、お部屋で出発までのんびり過ごした。

 荷造りをしているときにどうしようか迷ったのは靴である。
 これまで散々酷使してきたウォーキングシューズは、とうとう穴が開いてしまっていた。かなり逡巡したけれど、ここまで履きつぶせば悔いはないと捨てて行くことにした。
 正直に言うと、荷物のあまりの多さに「もう捨てちゃって軽くしよう」と思ったということもある。
 靴を捨ててしまうと、私が持っている履き物はバレエシューズかビーチサンダルだけだ。飛行機に乗って帰るのにどちらが相応しいか、こちらも散々迷った挙げ句、ビーチサンダルに軍配が上がった。

 11時過ぎに空港に到着した。
 あとは帰るだけというのが淋しい。
 ツアー客の特権でチェックインと出国審査が同時に行われ、いわゆる出国審査のブースは素通りである。
 出国審査を抜けてしまうとあとはボーディングタイムまでフリーで、お土産物屋などを冷やかす。前回来たときにの「空港でお土産を買うのは無謀」というイメージから、今回は「空港でお土産を買うことも可能」というイメージに修正された。

 ただし、空港のお値段で、私がハン・ハリーリ市場で1枚50ポンドで購入したクッションカバーと同じものが、空港では18ドルで売られていた。
 エジプトポンドが10ポンド余っていたので、使い切ろうとミントグリーンティーのティーバッグを購入した。
 時間を持て余し、14時過ぎに出発する便ではお腹が空くだろうと持って来たデニッシュをお昼ごはん代わりに食べたり、日記をつけたり、椅子に座ってぼーっとしたりしていた。

 空港のどこかのテレビで世界の天気予報が流れていて、東京の天気予報は雨、最高気温は19度と出ていた。
 いきなり凄い温度差だ、そして雨が降っているということは湿度も相当に高いんだろうな、などと思ってツアーの方にお伝えしたところ、「部下からメールが入りました。私の地元はさらに寒いそうです。」とおっしゃる方がいらした。旅行中もメールで仕事の指示を出したり、ずっと連絡を取り合っていらしたらしい。
 やっぱり私は携帯電話は持たないことにしよう、と改めて決心する。

エティハド航空 13時20分に搭乗が開始され、エティハド航空0654便は、私が寝ているうちに定刻の14時5分に離陸した。
 15時30分くらいに機内食が出された。お腹が空いていたせいもあって、なかなか美味しい。
 そうして、私たちの乗った飛行機は、ほぼ定刻のアブダビ時間18時40分に到着した。

 間違いなく飛行機は定刻に着陸したけれど、その後が大変だった。
 着陸後、飛行機はその場に停止してしまい、遙か向こうに見えるターミナルビルに向かおうとしない。
 英語のアナウンスをかなり強引に聞き取ったところでは、着陸の衝撃でどこかの調子がおかしくなってしまったためメカニックを呼んでいる、メカニックが来るまでに15分かかるらしい。
 もちろん、15分が経過しても、メカニックが到着したり、作業が行われたり、飛行機が動き出したりする気配はかけらもなかった。

 19時30分も回った頃に、空港の「はたらくくるま」に引っ張られてターミナルビルに向かって移動が開始された。
 外を眺めていると、移動速度は自転車並みのゆっくりさだったような気がする。
 離陸する飛行機を通すために時々停止し、そのたびに、機長から「このJourneyはまだまだ続くので、シートベルトを締めて座席に座っていてください。」とアナウンスが入る。Journeyかとウンザリする。

 飛行機がターミナルビルに辿り着き、ドアが開けられたのは20時20分だった。成田行きのEY0878便の離陸まで2時間強しかない。
 行きに乗り継いだターミナルビルにはお店がほとんどなかったけれど、帰りに乗り継いだターミナルビルは免税店もお菓子などを売っているお店もたくさんあって、再び「お買い物60分一本勝負」に突入した。
 「ここでラクダのミルク入りチョコレートを買えるなら、ハン・ハリーリ市場で必死になって買うことはなかったな」などと思いつつ、あちこちを冷やかしていたら、あっという間に搭乗時刻となった。

 アブダビ空港を、予定の22時45分より少し遅れて離陸したエティハド航空は、その後は順調な飛行を続け、翌9月27日の13時25分に無事に成田空港に到着した。
 
 行きにキャリーケースをごろごろ転がしながら空港にやってくるのが意外に大変だったので、明日職場に持って行くお土産などを手荷物に移し、重いものは全てキャリーケースに詰め込んで空港宅配を依頼し、身軽になって自宅に向かった。

<この日の服装>
 半袖Tシャツ、タオル地パーカ、ジーンズのスカート

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2011.05.02

ヨルダン・エジプト旅行記8日目その2

2010年9月25日(土曜日)

 14時過ぎにハン・ハリーリ市場に到着した。
 この日、バスのマイク設備の調子が悪く、車中での説明もずっとイヤホンガイドで行われていた。けれど、電波の状況なのか、調子が悪いなりにバスのマイク設備と干渉し合うのか、後方の席にいた私のイヤホンガイドからは雑音しか聞こえず、説明は聞こえなくてもいいかとイヤホンガイドを切ってしまっていた。
 ガイドさんにずっと同行してもらえるのはそれなりにお金のかかるツアーの特権で、その説明を聞くことを放棄するなんて勿体ないことをしたものである。

 最後にハン・ハリーリ市場での自由行動に当たっての注意事項を言ったらしかったので、添乗員さんとガイドさんに「注意事項のところだけ、もう1回教えて。」と声をかけた。
 簡単に言うと、横道に入るな、道に迷ったらガイドさんの携帯電話に電話するように、電話はその辺りのお店どこでも貸してもらえる、リュックなどは背中に背負わずに自分の目で見えるように持て、カードは使うな、といったことだった。
 また、この後で考古学博物館に行く予定なので、ミイラ室に入りたい人は100エジプトポンドを残しておくように、という話もあった。

ハン・ハリーリ市場 60分1本勝負の買い物ゲームが始まった。
 まずは、希望者だけ、ガイドさんに連れられてチョコレートやネフェルタリの石鹸などが買えるお店に向かった。そこは、ハン・ハリーリの中というよりは、その横にバラックといった感じのお店を作ってある。日本語も通じるし、日本語ガイドさんに連れられたツアー客を狙います、という感じのお店だ。
 職場土産だけは確保してハン・ハリーリ市場での自由行動を楽しもうと、デーツ入りのチョコレートを買い、5つ買うと1つオマケをくれるということだったので、数に合うようにハイビスカスティーも買った。
 結果的には、ティーバッグならハン・ハリーリ市場の他のお店で買った方が安く値切ることができるし、お土産用のチョコレートも空港で購入することができたので、ここで無理に買う必要もなかったようだ。

 職場土産を手に入れて安心した私は、とっとと散策に向かった。
 どのガイドブックだったか忘れてしまったけれど、蓮やパピルスを図案化したパッチワークのクッションカバーを紹介していて、それはちょっと欲しいと思っていた。
 適当にふらふら歩いていると、あっちでもこっちでも売られている。クッションカバーを見ていると、売場のお兄さんが色々と声をかけてくる。何枚買うからいくらにして、などと交渉しているうちに、クッションカバーだけではなくランチョンマットもあるのを発見した。
 「やっぱり、こっちが欲しい。」と言うと、クッションカバーよりもランチョンマットの方が高い。どうしてよ! と噛みつくと、ランチョンマットの方が裏側の処理が丁寧だし手間がかかるのだと説明される。

ランチョンマット 「柄はこれで全部?」と聞くと、「こっちに来い。」と言って、そのおじさんはスイスイと脇道に入って行った。添乗員さんにダメって言われたんだよなと思いつつ、帰り道を間違えなければいいのよね、と曲がり角等々を必死で記憶しつつ後を追う。
 確かに小道の奥の方にパッチワーク商品だけを置いたお店があって、今度はそこにいた別のお兄さんと値段交渉をやり直す羽目に陥ったけど、結構いい感じの4枚が買えたので満足だ。

 少し迷いつつ元のメインストリートに戻ることができたと思ったら、どうも元来た道ではなく、別のメインストリートに出てしまったようで、いくら「こっちから来た」と思う方向に歩いても見覚えのある景色が出てこない。
 かなり焦って汗だくになって道を探し、見覚えのある金製品のお店を見たときには本当にほっとした。
 ここで時間を使ってしまったので、あとは、黒胡椒(100g7エジプトポンドは高いのか安いのか)や、パッチワークのクッションカバー(急いでいたので、半値に下がらないなら要らないと集合場所に向かおうとしたら、半値でいいと言われた)を購入し、1時間のお買い物タイムを満喫した。

 本日最後の観光場所は、エジプト考古学博物館だ。
 15時40分に館内に入り、まずは大混雑の中、ガイドさんに連れ歩いてもらう。
 最初に説明されたのがロゼッタ・ストーンで、「これがこの博物館にある唯一の偽物です。」という説明が何だか可笑しい。そしてまた、フランス人が発見して大英博物館に所蔵されているのも何だか不思議な話である。
 ロゼッタ・ストーンに何が書いてあるのかといえば「お礼」だそうだ。ヒエログリフが解読できるかも知れないと思わせたという意味で重要な「石」である。

 ジュセル王の座像は、紀元前4900年頃のもので、階段ピラミッドの中(というか裏)にあったそうだ。石灰岩製で、その握っている手は「力」を、開いている手は「平和」を象徴しているという。

 カフラー王の像は閃緑岩という非常に硬い石で作られており、また、王の頭をホルス神が守っているのは、珍しい意匠だそうだ。ロータスとパピルスが椅子の側面に彫られており、どっちがどっちだったか忘れたけれどそれぞれ上下エジプトを象徴しているそうで、カフラー王の権力とその治世の発展振りを物語る像だと言っていい。
 カフラーというのは、「ラー神の日の出」という意味だそうだ。

 こうした「像」は、王のものは理想の姿で彫られ、王以外の像は写実的に彫られているという。カペルというカフラー王の神官の像は、確かに特に「格好いい」ようには造られていないように見える。
 4600年前に造られた木造が今も朽ち落ちずに残っているのは、エジプトが乾燥した土地だからだろうか。

 メンカウラー王の像もあるし、唯一と言われるクフ王の像もこの博物館に所蔵されている。
 クフ王の像は、あんなに大きなピラミッドを造った王なのに象牙製とはいえ僅か7cmという小ささだ。奥ゆかしい人柄なのか、目立とう精神旺盛な人なのか、判断に迷うところである。
 しかも、この像は最初に発見されたときには首がなく、首部分を見つけるのにそれから3年もかかったという。

 考古学博物館の所蔵品は数知れない。しかも、その一つ一つにあり過ぎるほどの価値があり、意味がある。
 一般に男の人の像は赤く、女の人の像は白く塗られるとか、棺の内側には呪文を唱えると現実化するもの(死後の国で必要な食べ物などの絵)が描かれているとか、中王国時代は戦争ばかり行っていたために技術力が低下して棺も美しくなくなってきたとか、ハトシェプスト女王の頭像が茶色く塗られているのは男の振りをしていたからだとか、ハトシェプト女王は女性には禁じられていたスフィンクスをいくつも造っていてそのうちのいくつかが考古学博物館にも所蔵されているとか、本当にエピソードには事欠かない。

 考古学博物館最大のトピックといえば、ツタンカーメンだ。
 マラリアで亡くなった、あるいは足の障害が元で亡くなったなど諸説あり、19才の若さで亡くなったこの王の墓だけが、唯一、盗掘に合わずに副葬品が全て現代に伝わっている。
 その「宝物」を納めた三重になった厨子の展示方法も洒落ていて、厨子を納めたガラスケースに、中に入るべき一回り小さな厨子の外観が写っている、という趣向である。
 この厨子は木製金箔で、それだけでも豪華だ。
 この中でさらに、三重の棺に守られてツタンカーメンのミイラが眠っていたのだ。

 一番外側の棺はルクソールの王家の谷、ツタンカーメンの墓の中にある。そして、ツタンカーメンのミイラも、現在は同じく自身のお墓の中にいる筈だ。
 考古学博物館に所蔵されている内側の棺だけでも相当に豪華で、真ん中のものは木製金箔だけれど、一番内側の棺など純金製で110kgもあるそうだ。
 有名な黄金のマスクは11kgだという。
 また、ツタンカーメンの棺の中からは、花束も発見されている。

 ツタンカーメンのお墓にあった宝物の数々は、本人が使っていたベッド、パピルスで座面が貼られた折りたたみ椅子、香水瓶、王は屋内用と屋外用の二つの玉座を必ず持っていたそうで,その両方が展示されている。足が悪かったことから杖も残っている。ツタンカーメンとアンケセナーメンの「仲むつまじい」姿が浮き彫りにされた椅子などもある。
 とにかく、豪華で豪奢だ。いくら見ていても見飽きるということはない。
 その後の自由時間(17時から18時までの1時間)も、私はミイラ室には行かず、ツタンカーメンのお宝のある一角をひたすらうっとりと歩き回った。
 希望者はガイドさんが博物館の近くにあるバザールにご案内します、という話もあったけれど、行った人はいたのだろうか。

シャンポリオン像 この考古学博物館の庭には、初代館長であり、ロゼッタ・ストーン等からヒエログリフを解読したシャンポリオンの像が建っている。
 1年か2年か、とにかく今現在ギザに建設中の新しい博物館に移転する前にもう一度ここに来ようと思った目的の一つが、この像を見ることだった。
 ガイドさんに「とにかく急いで!」とせっつかれつつ走って撮りに行った。
 前回のエジプト旅行で残してしまった宿題を片付けた気分だ。

 カイロ考古学博物館からシェラトンホテルまでは近い。
 ホテルに戻ったら、ギザのフィリップスの勧め上手のおじさんとすれ違った。彼が我々が購入した金製品をホテルに届けてくれたらしい。
 ロビーで購入したものを渡してもらい、ガイドさんはここまでというお話だったので別れを惜しみ、一旦部屋に戻る。19時には夕食に出発なので、荷物を置いてくるだけだ。
 ロビーに行くとガイドさんたちはまだ残ってくれており、ここで集合までの時間に記念撮影やメアドの交換などが行われた。

 その日の夕食は、le chaletというレストランだった。
 ステラのラガービール(31ポンド)を頼む。エジプト料理というよりは、ヨルダンで食べて来た料理に近い感じのメニューで、スパイスの利いたトマトスープも、ケバブも、アイスケーキも、全部が美味しかった。
 そういえば、この日のランチもそうだったし、エジプト料理はお米を付け合わせにすることが多いように思う。

メインディッシュアイスケーキ

 ツアー最後の夜ということもあって、おしゃべりが弾んだ。
 これまで行ったところの話、これから行きたいところの話、ハン・ハリーリでのお買い物の話、世界遺産検定の話など、やはり旅の話は尽きない。

 ホテルに着いたのはまだ21時前で、そのままツアーのお一人とカイロタワーの方に行ってみることにした。もっとも、夜は一層交通量が激しく、ちょっと道路を渡る気はしない。ふらふらと道路を渡らなくて済む範囲で歩いていると、交差点でおじさんに捕まった。
 この近くでお土産物屋さんをやっているというおじさんは、オペラ座は日本の援助で建てられたという話をしたり、どこに行くのだと聞いて来たり、なかなか友好的である。
 友好的だけれど、一緒に歩いていたお嬢さんが目当てだということが段々判り始める。
 「僕と結婚してくれたら、店2軒とラクダ30頭をあげる。」に始まり、でも彼女とこのおじさんだと年齢倍くらい離れていそうなんですけど、とか、私たちはイスラム教徒じゃないんですけど、とか英語では言えないので、何となく話をはぐらかしていると、みるみるうちに話は店3軒とラクダ40頭にまでつり上がった。
 それ以上、つり上がらなかったのは、もしかして結構本気で口説いていたからなのかも知れない。

オペラ座とカイロタワー 彼女にカイロに残ってお土産物屋さんを仕切るつもりはなく、おじさんを振り切り、二人で散歩を続ける。
 しかし、ナイル川を渡ると、道はどんどん寂しくなる一方で、オペラ座の向こうでイルミネーションがきらきらしているカイロタワーをしばらく眺めてから、ホテルに戻った。

 ホテルに戻ると、いつもと違う入口から入ったせいか、初めて見る本屋さんを見かけた。
 入ってみると、絵本や新聞などもあって結構楽しい。
 ツタンカーメンをテーマにした漫画ちっくな絵のミニカレンダーと、スフィンクスをテーマにしたやっぱり漫画チックな絵のミニカレンダーを見つけて購入する。
 レジのおじさんに「負けて。」と言ったら、「ここは政府公認のお店で、きちんとした定価をつけているから、値引きすることはできない。」という返事だった。そんなこともあるんだなぁと思う。

 本屋さんの向かい側にあったカフェスタンドでマンゴジュース(23ポンド)を買い、お店のおじさんに「チップ込みの金額を払え。」と注意され、部屋に引き上げた。
 まだそれほど眠くなかったので、お風呂に熱めのお湯を入れつつ、マンゴジュースを持ってテラスに出る。
 カイロタワーは1時間に1回15分ほどのイルミネーション・ショーをやる。その様子を、テラスからバッチリ見ることができた。色が変わったり模様が出たりするだけでなく、ピラミッドのような絵が描かれたり、なかなか高度で楽しい。
 何だかハマってしまい、22時の回を見て、お風呂に入り、もう一度23時の回を最初から最後まで見た。
 あのイルミネーションを最初から最後までばっちり見た人なんて、そうはいないに違いない。

<この日の服装>
 半袖Tシャツ、長袖シャツ、カーゴパンツ

<歩数計>
 ヨルダン・エジプト時間9月24日18時から25日18時まで 14486歩

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2011.05.01

ヨルダン・エジプト旅行記8日目その1

2010年9月25日(土曜日)

シェラトンの朝食 6時に起きたら鼻声になっていた。空調が効いていたからかも知れない。
 しかも、シナイ山登山の影響が出てきたのか、全身が筋肉痛である。
 6時30分くらいに朝食を食べに行ったら、やはり朝早くから観光に出かける人が多いせいか、そもそもロビーに設けられた朝食スペースが狭いのか、大混雑で、空いたテーブルを探すにも手間取った。その代わり、奥の方のスペースにこっそりとおかゆとお味噌汁があるのを発見する。
 でも、やっぱり洋食が美味しそうだったので、グラノーラやフルーツ、ターメイヤコロッケなどを食べた。ストロベリージュースが美味しい。

 時間に余裕があったのでホテル内にある銀行に行き、100ポンド札が崩れるかどうか聞いてみた。
 それはOKだったけれど、「1ポンド札はない」と言う。トイレチップのために1ポンド札が欲しかったので、仕方がない。50ピアストル硬貨ならあると言われたけれど、そんなにジャラジャラさせるのも嫌だし、重いし、明日には出国だからどうにかなるだろうと両替は諦めた。

 8時にホテルを出発し、45分くらいでギザのピラミッドに到着した。
 喉が痛いせいか、筋肉痛のせいか、今日の観光予定場所が全て一度行ったことのある場所のせいか、どうもテンションが上がらない。よっぽど調子が悪そうに見えたらしく、添乗員さんに「大丈夫ですか?」と聞かれた。心配をかけてしまって申し訳ない。

クフ王のピラミッド クフ王のピラミッドに入る前に、ガイドさんの説明を聞く。
 彼はピラミッドはお墓であるという説を支持しているようだ。
 エジプトの天地創造の神話においては、ラー(という神様)は山の上にあって、陸地も人も造ったのであり、山はラーの象徴だそうだ。従って、山の形のお墓はラーによって守られると考えられており、ピラミッドが山の形をしているのはそのためだという。

 ピラミッドは、きちんと作れるようになるまで何度も建造に失敗している。ジュセル王がサッカラに階段ピラミッドを造ったのが世界で最初のピラミッドといわれていて、約4900年前のものだそうだ、
 クフ王の父であるセネフル王は、1回目のピラミッド建造に失敗し、2回目でいわゆる「屈折ピラミッド」を建造することができ、3回目の建造でやっと完璧な形のピラミッドとしては世界最古の「赤いピラミッド」が完成したそうだ。
 この赤いピラミッドは、ダハシュールにある。

 ピラミッドはエジプト国内に現在82基あり、紀元前4900年から4200年に建造されている。それ以降は、盗掘を避けるために、王は王家の谷にこっそりひっそり埋葬されるようになったという。
 クフ王のピラミッドは、元々は高さが146mあったけれど、てっぺんの部分が壊れて現在は高さ137mだという。第2ピラミッドといわれるカフラー王のピラミッドの方が、現存する部分の高さが143mでクフ王のピラミッドより高い。
 ピラミッドのほとんどは石灰岩で造られ、内部は赤花崗岩が使われている。この赤花崗岩はアスワンに石切場があり、アスワンからナイル川を船で運んできたと考えられているそうだ。

 クフ王のピラミッドは、正確に東西南北を向いている。また、地上部分に空洞があるピラミッドはクフ王のピラミッドだけだという。
 私たちが観光でクフ王のピラミッド内部に入るときに使用するのは、盗掘に使われた入口である。9世紀にマムール(と言っていたと思うけど自信はない)という人が強引に作った入口で、でも、この人が盗みに入ったときにはクフ王のピラミッド内部は空っぽだったという。すでに盗掘されていたのか、そもそも最初から何も入っていなかったのか、どちらだろう。
 
 クフ王のピラミッドに入ると、しばらくは下に向かって進む。クフ王のピラミッドには何故か埋葬室が地上に一つ地下に二つ、計三つある。しかし、完成している埋葬室は一つだけだそうだ。
 大回廊は長さが47m(これは太陽の船と同じ長さ)、高さが8mあって、幅は2mから1mへと段々狭くなって行く。
 手すり部分にある穴の役割は未だに不明だそうだ。

 その後、水平通路があって、王の間に続いている。
 王の間には壊れている棺があり、他には何もない。
 王の間の壁に空いている穴は、従来は換気口だと考えられていたけれど、2003年の調査で外部に通じていないことが判明し、しかしまだその役割は判っていないらしい。
 王の間の上にはいわゆる「重力低減の間」があり、その一番上の部屋にクフ王の名が刻まれているそうだ。

 こういった説明を聞いてから、カメラを添乗員さんに預け、クフ王のピラミッドに突入した。
 前回来たのは1月で、「夏には暑くて暑くて、途中で引き返してしまう人も多いです。」と言われた記憶があったし、ツアーの他の方で「ピラミッドは匂いがきつくて出てきてしまった。」とおっしゃる方もいらして、かなり戦々恐々として入ったけれど、思ったよりも大丈夫だった。
 確かに汗はダラダラ流れるし、筋肉痛の全身にかがんで進まなければならない内部はかなりキツイけれど、さほど苦しい思いをせずに埋葬室に到着した。

 前回ピラミッドに来たとき、私は通った通路以外の通路の存在に全く気がついていなかった。
 ガイドブックなどにクフ王のピラミッドの断面図がよく載っていて、下降通路とか、女王の間に通じる通路とか、行けないし見られないのにどうして書いてあるんだ紛らわしい、と思っていたくらいである。
 それが、今回、下降通路と、女王の間に通じる通路と、両方の存在に気がついて、しげしげと眺めてくることができた。
 女王の間に通じる通路は鉄格子で遮断されていたけれど、明かりがついていて、じっくり見ることができる。
 どうして前回は気がつかなかったのか、不思議なくらいである。

三大ピラミッド 3大ピラミッドが見渡せるビューポイントに行ったのは10時近くなってからだ。
 しかし、見えない。肉眼では、この写真よりも見にくかった。周りが明るすぎて,液晶では余計にピラミッドを確認できず、適当にシャッターを押す。
 前回来たときにも砂が舞ってくっきりと見ることはできず、「きっと冬に行ったからに違いない、夏に行けば澄み渡った空の下のくっきりした三大ピラミッドが見られるに違いない」と思っていたのでショックだった。
 ガイドさんに聞いてみると「季節によって違うというのではなく、日によります。運です。」ということだ。

カフラー王のピラミッド ビューポイントから再びピラミッドの近くに戻り、フォトストップになった。
 観光バスが何十台と駐車していて、どの位置に駐められたどのバスなのか、必死に覚えてから出かける。
 クフ王のピラミッドに向かうツアーの方々から離れて、カフラー王のピラミッド方向に向かう。カフラー王のピラミッドは、クフ王のピラミッドよりも地形的に少し高いところに建造されているし、一番上の部分も崩れず、逆に化粧岩が残っていて往時の姿を思い出させ、格好いいと思う。

ピラミッドとスフィンクス その格好いいカフラー王のピラミッドを従えているのか、カフラー王のピラミッドを守っているのか、どちらか今ひとつ判りにくいのがスフィンクスである。
 スフィンクスは、カフラー王のピラミッドから50m前、28m高いところに建造されている。
 神殿の穴からはスフィンクスそっくりのカフラー王の座像が発見されたそうだ。カフラー王は相当にハンサムだったのだろう。
 ガイドさんは、スフィンクスの鼻と額にあったコブラは、ナポレオンがエジプトを侮辱するために落としたのだと説明していた。

 また、スフィンクスの前足の間にはドリーム・ステラと呼ばれる碑がある。
 この碑文には、トトメス4世が砂に埋もれたスフィンクスを掘り出して救い、スフィンクスの助力によってファラオとなったと刻まれているそうだ。これは作り話だろうし、トトメス4世は、こうした神懸かり的な話を必要とするほど、尋常ではない即位の仕方をしたんだろうなと思う。

スフィンクスの後ろ姿 こうした説明を受けて、スフィンクス周辺で自由行動となった。
 結構な混雑だ。
 スフィンクスはケンタッキーフライドチキンを見つめているというのは有名な話だけれど、スフィンクスのお尻の方まで行ってしまうと、私の視力ではケンタッキーフライドチキンは確認できなかった。

 河岸神殿を通り抜け、特設ステージが造られている辺りを抜けた木陰が集合場所だ。
 特設ステージの手間で振り返ると、三大ピラミッドとスフィンクスを一望することができた。

 この後、ツアーとしてはパピルスのお店に行くことになっていたけれど、私も含め、金製品のお店に寄って欲しいとリクエストした人が結構いたらしく、希望者のみ金製品のお店に行くことになった。
 フィリップスというそのお店は、どのガイドブックにも載っている有名店である。
 ここで購入したものは、夕方にホテルに届けてくれるという。
 私は、この旅行中に母が誕生日を迎えるということもあって、「ヒエログリフで名前を入れがカルトゥーシュのペンダントトップをお土産兼誕生日プレゼントに買って帰ろう」と決めていた。
 だから、お買い物は早い。大きさと文字のデザイン(ときどき、二つのヒエログリフを持つアルファベットがある)を決めるだけで終了だ。

スカラベのペンダントトップ 若い女性が多いツアーだけあって、買い物はかなり盛り上がっている。手持ちぶさたでショーケースを覗いていたら、お店の、割と偉そうなおじさんが色々と私に勧め始めた。
 アンクを示されて「それはもう持ってる。」と答えると、「だったらスカラベのペンダントトップを買いなさい。そうしたらお守りが全部揃う。」、「(最初に買ったカルトゥーシュのペンダントと)二つ買うなら、**%値引きする。これは、他の人には内緒だ。」、「このペンダントトップを見ろ。他のものとは色が違う。これがベストだ。」などなどと上手い。
 スカラベってふんころがしじゃんと思いつつ購入した私も相当に脇が甘い。
 値引率を**にしてあるのは、お店のおじさんに「内緒だよ。」と言われたからではなく、単純に覚えていないからだ。

 金製品のお店にいたのは40分くらいだったろうか。
 次にパピルスのお店に行くと、金製品のお店に行かなかった方がすでに到着して、大きなお買い物をされていた。
 欲しくないわけではないけれど飾る場所がない。前回来たときにパピルスのしおりをお土産にしているので、同じものを買って帰るのも芸のない話である。
 パピルスの作り方の説明を楽しんで、20分ほどでお店を出た。

ピラミッドビュー お買い物も終え、12時30分くらいからピラミッドビューのレストランで昼食になった。
 お店の名前をチェックしそびれたのは惜しかった。結構美味しかったし、お料理の写真を撮ろうとしたら「まだあるからちょっと待て。」と教えてくれた。お皿が先に来て、お料理を持ったウエイターさんたちが次々によそいに来てくれる、というサーブの仕方だったのだ。
 お店のお手洗いを借りたときに小銭がなかったので「お釣り頂戴。」と言ったらちゃんとお釣りをくれたし、カメラを忘れかけたら追ってきて教えてくれたし、雰囲気の良い、いいお店だった。

前菜メインディッシュ

 ずっと飲みたかったマンゴージュース(20ポンド)も、絞ったというか崩しただけという感じの濃厚さで美味しかったし、スズキのフライも美味しかったし、お腹いっぱい食べて満足した。

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2011.04.17

ヨルダン・エジプト旅行記7日目その2

2010年9月24日(金曜日)

朝食 ホテルに戻ったのが9時少し前で、10時30分に出発するという話だった。セント・カトリーヌ寺院の見学時間が限られているためらしい。
 少し迷って、そのままの格好で部屋にも寄らず、レストランに直行した。
 お腹は空いている筈なのに、全然喉を通る気がしない。水気のあるものが食べたいのでトマトとキュウリ、パンは食べる気がしなかったので、パウンドケーキを食べる。
 酸っぱいカルカデのジュースが美味しい。ごくごく飲む。

 部屋に戻り、シャワーを浴び、髪を乾かす時間はないので水の要らないシャンプーを使ってサッパリさせる。
 着替え、荷造りをし、10時30分ギリギリに集合場所に行った。
 バスは先ほどの登山口に逆戻りである。セント・カトリーヌ寺院までは少し離れているし、暑いし、乗り合いタクシーは1人1ドルと言われる。かなり惹かれたけれど、何となく「どうしてここでタクシー?」という気分もあって歩く。暑い。せっかく着替えたのにまた汗だくになってしまった。
 今日、この後はほとんど観光はあるまいと踏んだ私の見込みはどうも間違っていたようだ。

セント・カトリーヌ寺院の壁 まだ開門時刻になっておらず、しばし、ガイドさんの説明を聞きつつ外で待機する。
 この日は金曜だったため、見学時間がいつもよりも短いそうだ。金曜日はイスラム教の安息日である。
 セント・カトリーヌ寺院は、紀元3世紀にヘレナ女王がキリスト教に入信してその原型となる修道院を建てたのが始まりだそうだ。560年ころに外壁を追加し、外敵から身を守るためにエレベーターで出入りしていたという。このエレベータは内側で動物が引っ張る仕組みだったらしい。
 聖カトリーヌの父王はキリスト教を迫害した人物で、彼女の遺体を天使が山の上に運んだという伝説が残っているそうだ。

燃える柴 シナイ山とセント・カトリーヌ寺院が「聖地」と言われるのは、聖カトリーヌの存在故ではなく、モーセがシナイ山の麓で燃え尽きない柴を見、シナイ山に登って十戒を授かったためである。
 ここは、キリスト教の聖地であるだけではなく、イスラム教の聖地でもある。モーセが妻と出会った井戸もあり、燃える柴もある。
 この柴の木は、2010年8月までは側まで行くことができたけれど、余りにも近づいて願いごとを書いた紙を結ぶ人が多かったため、今月からロープが張られて近づくことができなくなってしまったそうだ。僅かの差で残念なことである。

 セント・カトリーヌ寺院の中には19世紀にモスクが建てられたものの、メッカの方向を示す印が間違っていたためにその後使われなくなってしまったそうだ。印くらい付け直せばいいのではと思ったけれど、きっとそういうものではないのだろう。
 この寺院の中には、聖カトリーヌの遺骨などが納められたイギリス正教会の教会もあって、内部は金が多用されたもの凄く豪奢なものだった。

 11時50分に出発し、一路、バスはカイロを目指した。高速道路ではシートベルトを付けてくださいと言われる。日本みたいだ。
 今日は金曜日だからいつもよりは道路が空いているだろうという話だ。
 イスラム教徒のお祈りはどこでやってもいいけれど、金曜日の13時のお祈りだけは男性は全員集まらないといけないらしい。そこでは説教師が現代の問題(例えば結婚適齢期が上がっている問題など)について演説(説教)をすると聞いて、何だかヘンなの、と思う。

 セント・カトリーヌ村を出るときにパスポートチェックを受けた。何故ここでパスポートチェックがあったのかは不明である。
 13時過ぎに一度トイレ休憩を取り、14時30分過ぎにバスは「ファラオの温泉」に到着した。
 朝食が遅かったとはいえ、かなり控えめな量しか食べなかったので、何となくお腹が空いている。でも、見学が先である。
 バスの車内で簡単につまめるような、少しお腹に溜まるような副食を持って行くか現地で買うかした方が良かったようだ。

ファラオの温泉 ファラオの温泉は、紅海の海岸沿いにある崖の窪みの奥に温泉が湧き、サウナのようになっているらしい。
 誰とは特定できないけれど、歴代のファラオが利用していた場所だとガイドさんが言う。
 少し前まではすぐ近くまでバスで行けたけれど、途中の道路が崩れてしまったので手前でバスを降りて歩いて行くしかない。
 今も現役で使われていて、この少年が覗いているその奥に何人かがサウナを楽しんでいた。そこを代わる代わる覗き込むのだから、我々もかなり迷惑な観光客である。

昼食昼食

 かなりお腹がぺこぺこになった頃、15時くらいにバスは紅海沿いのリゾートホテル"Moon Beach”に到着した。このホテルのレストランで昼食である。
 冷たいものをごくごく飲みたくてレモンジュースを頼む。しかし、このレモンジュース(20エジプシャンポンド)の記憶が見事にない。写真も撮っていない。よっぽど喉が渇いていたらしい。
 ランチは、野菜サラダもパンもタヒーナも白身魚のフライも美味しかった。前に来たときも含めて、エジプトでごはんが美味しいと思ったのは初めてかも知れない。
 ガイドさんに魚の種類を聞いたところ、「紅海で獲れた魚であることは確かですが、名前は私も知りません。すみません。」ということだった。残念である。
 最後に出されたデザートのスイカも瑞々しくて美味しかった。

 昼食後、このレストランでお土産のTシャツの説明があった。
 見本が用意され、ヒエログリフで名前を入れることができます、Tシャツとポロシャツがあります、注文は今日中にもらって明日お届けします、という話だった。
 前回来たときに買っていた私は適当に聞いてしまったけれど、買おうという人はかなり多かったように思う。

モーセの泉 昼食後、バスは紅海沿いにひたすらスエズ運河を目指した。
 そのスエズ運河が見えてきたところで、モーセの泉に立ち寄った。
 モーセの泉といわれる場所はエジプト全体で12個あり、ここにそのうちの三つが集まっているという。
 嘘だよねと思いつつ、井戸を覗き込む。確かに水はまだあるけれど、かなり濁っていて、ここの水を飲みたいとは思わない。間違いなくお腹を壊すだろう。
 井戸としてはもう使われておらず、観光資源とするにはサービス精神が今ひとつというところで、観光地一歩手前という感じの場所だった。

スエズ運河

 しかし、ここからはスエズ運河が見える。スエズ運河は10年かけて紅海と地中海を結んだそうだ。2002年に日本の鹿島建設が水漏れの補修工事を行いましたと、どことなく誇らしげに説明するガイドさんが可笑しい。何かと思ったら、彼はアルジェリアで鹿島建設の通訳の仕事をしていたことがあって、随分と親しみを持っているようだ。
 スエズ運河には最近になって日本のODAにより橋もかかったそうだけれど、今回はトンネルを抜けて行く。
 ガイドさんが言うには、アラビア語と日本語との通訳はエジプトにしかいないそうだ。エジプトとアルジェリアとの関係が悪化し、アルジェリアからエジプト人通訳がみな帰国してしまったので、工事は困っている筈だというのが彼の説明だった。

 これまで走ってきたシナイ半島は、古代エジプト人にとっても非常に重要な場所だったらしい。
 一つは宝石をたくさん算出したこと、もう一つは交易路として発達していたからだそうだ。キリスト教やイスラム教の聖地としての意味だけではなく、現実的な価値があったというのが何となく楽しい。

スエズトンネル入口 ガイドさんが、カイロ到着時刻として予告していた17時30分の少し前、バスはとうとうスエズトンネルに突入した。
 かなり長いとは思ったけれど、要するにトンネルである。通っている間はどうということもない。
 それよりも驚いたのは、高速道路を走っている間はドライバーの交代要員がバスに乗っている必要があるらしく、高速道路を降りてすぐの本当に何もないような交差点で彼が降りて行ったことである。
 こんなところで降ろされちゃってどうするの? と聞いたら、バスを待ちます、という返事だった。停留所らしいものはなかったけれど、大丈夫なんだろうか。

 カイロとは、古代エジプト語で「勝利の街」という意味だそうだ。
 そして、カイロについて、イスラム教の街なので治安は非常にいいので出かけるのは簡単だけれど、交通事情が非常に悪いので、これはお願いだけれど道を横断しないで欲しいとガイドさんが言う。それは「出かけるな」と言っているのと同じではないかと思う。
 スエズトンネルからさらに2時間ほど走ってカイロに到着し、ホテルにチェックインする前に夕食になった。

ビール
 ガイドさんは「中華料理です。」と言ったけれど、韓国料理と中華料理の合体という感じのレストランだった。名前も「KIM'S Restaurant」だから、どちらかというと韓国料理っぽい。別のツアーのグループが食事をしていて、そちらではビビンバを食べていらした。
 何だか久しぶりにアルコールのメニューを見た気がして、サッカラビール(35エジプトポンド)を頼んだ。
 同じテーブルの方が白ワインを注文したら、ガイドさんが首を振って「お勧めしません。」とキッパリと言う。頼んだ方は迷っていたけれど、初志貫徹で白ワインのオーダーのままで通すことにしたらしい。
 「どうですか?」と聞いたら、「うーん。」と苦笑いされていた。エジプトワインは赤ワインの方がいいようだ。

 このツアーにはナイル川クルーズや、ベリーダンスのショーなどは付いていない。
 添乗員さんは、ショーだけでも見に行ければと言っていたけれど、ガイドさんが「食事付きではないお店に行くことはできますが、お勧めできません。」と言うので、残念ながら次の機会にということになった。

シェラトン この日、ホテルの部屋に入れたのは21時30分過ぎだった。
 カイロ・シェラトンホテルである。
 ナイル・ビュー確約で、バルコニーに出たら、そこには無駄に美しいカイロの夜景が広がっていた。ダブルベッドルームでこの眺望、一人で泊まるのは申し訳ない限りである。
 シェラトンホテルはナイル川西岸にあるので、そこは「カイロ」ではなく「ギザ」なのだ、ということだった。

<この日の服装>
 半袖Tシャツ、タオル地パーカ、ジーンズのスカート
 (登山で足が疲れ果てていたので、ほとんどずっとビーチサンダルで過ごした・・・。)

<歩数計>
 ヨルダン・エジプト時間9月23日18時から24日18時まで 25401歩

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2011.04.03

ヨルダン・エジプト旅行記7日目その1

2010年9月24日(金曜日)

 これを朝と言っていいか迷うところだけれど、この日の起床は1時10分だった。
 1時30分にモーニングコールと言われたけれど、30分で身支度をして出発するのはちょっと厳しい。
 下は10度くらい、上は2〜3度の予報を聞いていたので、フリースと雨具の上下をリュックに詰め込む。ガイドさんに、山道にお手洗いはない(あっても使うのにかなり勇気が必要な)ので、出発前にあまり食べない方がいいと言われたけれど、エネルギー補給に昨日のランチバッグの中にあったバナナを食べる。
 添乗員さんには逆に、「お腹が空いたとおっしゃるお客様が多い。」と言っていたので、飴とゼリー飲料もリュックに入れる。

 ここで、最後まで迷ったのがストックである。熊野古道に行ったときに「ストックがあるとないのとでは疲労度が全く違う。特にダブルストックにすればとても楽だ。」と聞いていたし、どうしても歩いて登りたいと思っていたし、それならばストックの力を借りようとわざわざこのために購入して持参したけれど、果たして持って行くべきか否か。
 そんなものを持っていたらちょっと恥ずかしいんじゃないかなどとも思ったけれど、体力のない私には必要な助っ人である。葛藤の末、結局、1本だけ持って行くことにした。

 2時にレストラン前に集合し、バスに乗ってセント・カタリーナ修道院まで運んでもらい、まずはラクダ乗り場(?)まで歩く。
 このときのガイドさんの足取りがとにかく速かった。体力のない私からすると「ほとんど小走り」という感じで息が切れる。ラクダ乗り場に着いたときに、ラクダに乗ると言った人が半分弱ほどもいたのは、このガイドさんの足取りに恐れをなしたからという理由もあったからに違いない。
 ガイドさんは、兵役のときに暑い夏の日中にシナイ山に登る訓練があったとも言っていたし、まだ20代の若者(男性)なのだ。

 添乗員さんを含め、ラクダ組は次々とラクダに乗せられて出発して行く。乗らないつもりで確認しなかったけれど、いくらだったのだろう?
 何しろ月明かりしかないのでメモを書くどころではなく、少しでも荷物を軽くしたかったのでICレコーダーも持っておらず、ガイドさんに「カメラはしまってください。」と言われて大人しくポケットにしまったので、シナイ山登山中については全く記録を残していない。
 ガイドさんに、登山中は写真を撮るな、遅れずについて来い、遅れずについて来られないなら登るのを諦めろ、と言われたことを覚えている。

 しかし、はっきり言って、私が遅れずに登れるわけがないのだ。体力のなさには自信がある。
 歩き組は、ガイドさんと現地の高校生らしい男の子のアルバイト君との二人に連れられ、2時30分過ぎに出発した。そして、私は、あっという間に遅れた。
 ーブで少し広くなったところに集まって水を飲んだりした最初の休憩のときに、上着を脱ぎつつ「もっとゆっくり行こうよ〜。」とガイドさんに訴えたら、「これでも相当にゆっくりですよ。」とあっさり言われてしまった。かなり遅れることになるだろうと覚悟する。
 若い女の子達は、足もとがクロックスの子までいたけれど、普通にガイドさんと同じペースで登っている。私が「遅すぎる」のだ。

 満月に近い月が出ていて、道筋は明るい。月ってこんなに明るかったのだなと思う。持参したヘッドランプもすぐにリュックにしまった。途中で1カ所だけ、月が山の向こうに回ってしまって道が暗いところがあったので、ちょっと困った。
 タオルを手に持って汗を拭き、ストックに思いっきり全体重をかけ、息を切らせつつ登る。
 テレビで「歌を歌いながら登ると疲れない」とやっていたけれど、声を出す余裕はない。喉が絞められている感じがする。
 それでも、30分弱かかって3時5分過ぎに、第1の休憩所に到着した。休憩時ならいいだろうと、タイムスタンプ代わりにシャッターを切る。ブレブレだけれど仕方がない。
 毛布が敷かれた石に座らせてもらい、なるべくゆっくりと水を飲んで休憩する。

 ここまで歩いて登ってきたお嬢さんの一人が「私はここで待っています。」と言い出した。相当に疲労してしまったらしい。富士山に登ったばかりだとも言っていたから、体力不足というよりも、旅行の疲れや睡眠不足が原因だろう。
 ガイドさんは「ここで待つとなると、待ち時間が相当に長くなるし、人通りも少なくなる。」としばらく考え込んだ。最終的に、ここからもラクダに乗せてもらえるのでとにかく上の休憩所まで行きましょう、そこまでで元気を取り戻せたら山頂を目指したらいいし、もし難しいなら上の休憩所で休めば人もいるし待ち時間も短い、という話になった。

 「あまり長く休むと却って疲れる」というガイドさんの方針で、5分もしないうちに出発となった。ここからラクダに乗ることになったお嬢さんは、アルバイト君と一緒にラクダ乗り場を目指して下って行った。
 この辺りからはもう、とにかく苦しかったということと、ストックが曲がるんじゃないかと思うくらいに体重をかけていたことくらいしか覚えていない。
 写真のタイムスタンプを見ると、第2の休憩所に到着したのは3時25分くらいで、この間15分くらいしか歩いていない。「そんな筈はない」としか思えない。

第3休憩所 第3の休憩所であり、ラクダの終点地点でもあるお茶屋さんに到着したのは、3時40分くらいだった。
 休憩時間を考えると10分強しか歩いていないけれど、もう、おかしい、そんな筈はないとしか言えない。
 登っている間、ラクダが来れば道を譲ったけれど、それほど多く道を譲ったという記憶がない。ツアーの方が乗っているラクダを見かけた記憶もない。
 その通り、合流地点の休憩所に着いてみれば、ラクダ組はほとんど到着していなかった。結構、がんばって歩いたらしい。

 ラクダ組を待って、しばし休憩である。
 ここで相当長時間の休憩を取ったという記憶だけれど、実際は20分程度のものだったらしい。段々寒くなってきたので、建物の中に入って座らせてもらう。眠いな−、このまま寝ちゃうと死んじゃうか? と思っていたら、ツアーの方が飴をくださった。「何だかもの凄く疲れて眠そうですよ。」とおっしゃる。バレバレだったようだ。
 荷物を軽くする意味もあり、元気回復のために、ゼリー飲料を一つ飲みきった。
 この休憩所にはペットボトルの飲み物や、カップラーメンなども売られていた。コーラを買った方が、一言「温い。」と言って笑っていた。

 ラクダ組の最後のお一人がなかなか現れない。添乗員さんがここで待つことになり、また、ここまでラクダで登ってきたお一方が「ここで待つことにします。」とおっしゃり、逆に途中の休憩所からラクダに乗ったお嬢さんは「行けそう。」ということになって、山頂を目指すグループは4時くらいに休憩所を出発した。
 ここからは全員が歩きである。

 これまでは、一段一段が長めの階段や道を歩いて来た。ここから先は普通の階段を登って行く。
 これがまた、キツイ。とにかく、後ろから来た人には次々と「お先にどうぞ。」と道を譲る。
 ロシア正教を信仰しているおばあさんが一歩一歩荒い息をついて登っており、こちらもがんばらねばと思う。
 途中で、「来ない来ない。」と探していたツアーの方がいらっしゃった。落ち合う場所を勘違いされて、少し上がったところで待っていたそうだ。「僕が添乗員さんに知らせて来ますよ。」と登って来た道を走って引き返して行かれたツアー参加者の方を、私は心の底から尊敬した。

最後の休憩所 休み休み1時間ほども登ったところで、最後の休憩所に到着した。ここは結構広くなっていて、山頂まであともう少しという地点である。上に行ってしまうと吹きさらしで寒いし、場所も狭いということで、ここで時間調整を兼ねて休憩している人も多い。
 ツアーの方が2〜3人いらしたので何となく一緒に15分くらいもおしゃべりしていたら、ツアーのしんがりである添乗員さんたちが到着した。聞いたところによると、添乗員さんはほぼ完徹で山登りをしてきたらしい。前半はラクダに乗ったとはいえ、そのラクダも決して楽ではないらしいので、本当にお疲れのようだった。

 ここからは、ひたすら階段を真っ直ぐ上るイメージだ。周りがくらいので、実際はどういうところを登っているのか、全く判らないまま登る。
 20分ほど休憩を取ったのが良かったのか、この後は比較的楽に山頂までたどり着けたような気がする。15分ほど登り、5時35分に山頂に到着した。

 山頂からは月がきれいに見えた。
 この写真はかなり明るく修正しているので、実際はもっと暗かったと思う。
 風が強くて寒い。東の空が見える位置を探して座り込み、持ってきた服を全部着込む。
 人がどんどん増えてくる。けれど、こう言っては何だけど、特別に宗教的な何かとか敬虔な気持ちにはならなかった。
 とにかく寒くて、人が多くて、早く太陽が昇って欲しい。
 それだけである。

夜明け 6時過ぎ、空はピンクに明るくなった。
 山の端辺りにかなり厚い雲があるようで、日の出の瞬間は拝めそうにない。もはや、すでに日は昇っているのではなかろうか。
 それでもしばらくは、ぱーっと明るい日の光が山々を照らして赤く輝くように見えるのではないかと待っていたけれど、仕方がない。6時30分くらいにとうとう諦め、ツアーメンバーは三々五々、山を降り始めた。

シナイ山頂の教会 シナイ山頂にはチャペルがある。実はこのチャペルの陰で風に当たらないように守ってもらえるような位置に自分がいたことは、日が昇って周りが明るくなってから気がついた。
 このチャペルは「聖三位のチャペル」という名前で、元々は6世紀に建てられ、21世紀に入って建て直されたそうだ。そう言われると、折角なら古いままのものを見たかったなと思う。もっとも、シナイ山頂では「自分の足で登った」ことと「日の出が見られなかった」ことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。

 それどころではないと言えば、シナイ山は、モーゼが十戒を授かった地と言われている。
 正確には、モーゼが十戒を授かったシナイ山は多分この山だろうと言われている。
 出発前に「出エジプト記」を読み「十戒」の映画を見て、心の準備を万端に整えたつもりだったのに、シナイ山を登っているときも下っているときも、そんなことはつゆほども思い出さなかった。

朝の月 シナイ山頂からの眺めはこんな感じである。
 空がピンクに染まった日が昇るだろう方向とはちょうど逆向きの、月が沈みかけている空だ。
 お天気が良ければ、この山々は朝日に照らされてオレンジや赤に輝くだろう。その景色は拝めなかったけれど、それでも、この景色はなかなかいいものだと思う。
 未練がましく後ろを振り返り振り返りしながら、ツアーのしんがりになって下山を始めたところ、添乗員さんが大きく声を上げるのが聞こえた。
 何かと思ってそちらを見てみると、随分高く昇った太陽が、オレンジに染まった雲の向こうから白い姿を透かして見せてくれていた。

 これが、私の、シナイ山から見た日の出である。
 この太陽を見たとき、「朝日のような夕日をつれて」という言葉が浮かんだ。
 よく考えると逆の光景なのだけれど、でも、何故だか浮かんだ。

山道 思う存分太陽の写真を撮り、6時45分頃、再び下山を始めた。
 その山道を振り返ると、こんな感じである。
 しみじみと、登るときは暗くて良かった、下るときは明るくて良かった、と思う。
 登っているときにこんなに急で危なっかしい道だと判っていたら、挫折する可能性が200%くらいアップしていたと思う。何しろ、私は根性なしなのだ。
 山の端にあった厚い雲を通り過ぎて姿を見せた太陽に照らされた山々は、やっぱり見応えがあった。

 ガイドさんはとっくの昔に下山を開始していたらしく、下山途中に姿を見ることはなかった。ストックの長さを伸ばしてその力を借り、でも片手にカメラをぶら下げて下山する。
 ガイドさんがいないのをいいことに、写真も撮りまくる。
 それでも、ラクダ組との合流地点だった第3の休憩所まで、日の出の写真を撮りまくった地点から30分強で戻ってくることができた。
 登りと違って下りは早い。

 そして、第3の休憩所から10分くらい下った場所で、シナイ山全景を振り仰ぐことができた。多分、これが私が初めて自分の目で見たシナイ山の姿である。
 左端の建物がある辺りが山頂だ。
 思えば随分と遠く高いところまで登り、そして下りてきたものだ。

シナイ山頂 8時くらいにやっと出発地点となったセント・カタリーナ寺院を目にすることができた。ほっとする。
 そして、登るときには全く気がついていなかったけれど、この辺りからもシナイ山頂を目にすることができた。
 この左側に写っているのが登山道で、ずっと上の方に見える山がシナイ山である。

 セント・カタリーナ寺院にはこの後で観光のために戻ってくるので、今は素通りだ。
 ガイドさんがやきもきして待つバスに辿り着いたのは、8時30分を過ぎた頃だったと思う。添乗員さんと私ともうお一方の女性3人がしんがりだった。
 そこからバスに乗って、9時前に、セント・カタリーナ・ツーリスト・ヴィレッジに帰り着いた。
 ホテル発着の時刻を基準にすると往復7時間、セント・カタリーナ寺院発着の時刻を基準にすると往復6時間の登山は、無事、完了した。
 
<シナイ山登山の服装>
 タンクトップ、長袖スポーツシャツ、タオル地パーカ、スパッツ、カーキパンツ
 (山頂では、上はフリースシャツとパーカを重ね、下はレインパンツを重ねた)

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2011.02.20

ヨルダン・エジプト旅行記6日目

2010年9月23日(木曜日)

ホテルの窓から 6時に目覚まし時計の音で起きた。旅行に出ると早寝早起きになる私にしては、目覚ましが鳴るまで爆睡というのはかなり珍しい。
 10時にバゲージダウンと言われたけれど、グラスボート(7JD)のオプションに申し込んだので、その出発の9時前には荷造りが出来ている必要がある。エジプトの出国する船の乗り降りは自分でキャリーケースを運ぶ必要があるそうで、大量に買ったバスソルトが恨めしい。
 7時前に朝食を食べに行った。
 どうしても部屋の冷房が切れずに寒いので、バルコニーに出て暖まる。朝のこの時間なら、結構、快適である。

グラスボート グラスボートに申し込んだのは10人くらいだった。昨日、夕食後に添乗員さん、ガイドさん、母娘3人組の方とで飲みに繰り出したというけれど、5人とも眠そうにも見えない。流石、元気である。
 バスでアカバ要塞と考古学博物館の近くにある乗り場に向かった。
 ガイドさんは乗り場まで付いてきてくれたけれど、乗り込もうとしない。添乗員さん曰く「船が怖くて乗れないんですって。」ということだ。確かに揺れそうだし、あまり頑丈そうではない船である。

グラスボートの底 船の底はこんな風にガラス張りになっていて、結構よく見える。
 10人でこのガラスの回りを囲み、覗き込む。
 でも、季節が良くなかったのか、時間が良くなかったのか、はたまたグラスボートの性能なのか、それほど遠くまで見通せるわけではないし、「おぉ!」というような色鮮やかな大きなお魚がいたり、「紅海」の名前の元となったという赤い珊瑚が見えるということもない。
 一番「おぉ!」と思ったのは、沈んだ戦車の上を通ったときだった。

 参加された中に船が少し苦手だという方がいらして、この小さい船の中でずっと下を向いているのは辛いだろうと思う。途中から完全に遊覧船に乗った感じで回りの景色を楽しんでいらっしゃった。
 船長のサービスだったのか、グラスボートはかなり沖の方まで出てくれて、流石にそこまで水深が深くなると青い波の動きが見えるだけだ。全員で、近くなった対岸のイスラエルやエジプトの街の様子を眺める。
 やっぱり、どう見てもヨルダン側よりイスラエル側の方が栄えている感じがする。

イスラエルの街幽霊船

 紅海にはこうしたタンカーがいくつも停泊していた。
 グラスボートの船長さんはそのうちの一隻に近づき、このタンカーはガス欠で置き去りにされてしまい、ずっとここに停泊しているのだと言う。
 そうなんだー、とみんなしてタンカーを見上げていると、ふいっとドアが開いて、痩せた男の人が顔を出した。「うわっ。」「きゃっ。」とグラスボートは悲鳴の嵐である。
 無人船だと聞いていたのにドアが開いて人が顔を覗かせたら、それは驚くというものだ。
 この一幕が船長さんの茶目っ気だったのかどうかは、未だに謎である。

 そんなこんなで、結構楽しく1時間15分くらいのグラスボートの遊覧を満喫した。 

ヨルダン国旗 ガイドさんに「博物館に寄る?」と言われてちょっと心が動いたけれど、あまり時間もなかったので次の機会にと考えることにして、そのまま再びバスでホテルに戻った。
 ホテルに残った方々は、お部屋でゆっくりしたり、再びスークに出かけてお買い物をしたりされたそうだ。そんなお話を伺っているときに、お部屋の冷房を切るには主電源になっているカードキーを外せばいいと聞き、気がつかなかった自分の阿呆さ加減に頭を抱えた。
 今日の昼食は船内で頂くので、ホテルのロビーでランチボックスを受け取り、11時に港に向けて出発した。

港 バスは20分くらい走って港に到着した。
 本当はもしかして撮影禁止かしらと思いつつ、港に入る前に構内に入る許可を得るためにしばらくバスが駐まっていたので、港の写真を撮った。
 あまり人の姿もなく、「国際港」「ここから出国」というイメージではない。

 荷物は船の側まで運んでもらえるという話でバスに置いたまま、出国審査のためにターミナルビルに入った。出国審査は空港での審査とほとんど変わらず窓口にパスポートを出してスタンプをもらうだけである。
 たまたま両替所が開いていたので、みんなでエジプトポンドに両替をする。ヨルダンディナールからの両替も出来るという。私はあと10JDくらいあったけれど、絶対にまたヨルダンに来ると決めているのでヨルダンディナールは残し、ドルから両替してもらった。
 100ドルが500エジプシャンポンドになった。小銭をちょうだいと頼んだら「ない。」とキッパリした答えが返った。前回エジプトに来たときに余ったエジプシャンポンドを持ってくれば良かったと思う。

 少し自由行動にしましょうと言われたけれど、見るべきところがあるわけではない。
 スタンドカフェがあり、お店も1軒あったけれど、電化製品やおもちゃなどが売られていて観光客向けのものは売られていない。
 お手洗いに行こうとした方は、「真っ暗で電気のスイッチが見つからない」と戻っていらっしゃった。

船倉 ここにいても仕方がないと思ったのか、それとも乗船開始のアナウンスがあったのか、12時前にバスに戻って船に向かった。
 バスからキャリーケースを降ろしてもらい、それぞれ引きずってカーフェリーの車を駐めるのだろうところにまとめて荷物を置いた。「きっとびっくりされますよ。」と昨日、添乗員さんに言われたけれど、確かにびっくりである。
 別に荷物置き場があるわけではなく、その辺の道に放置するようなものである。鍵をしっかりかけてくださいと注意される訳だと納得した。

 狭い階段の上がり口でガイドさんとはお別れである。
 みんなで口々にお礼を言ったり握手してもらったりして別れを惜しみ、バスを降りるときにガイドさんにもらったミシン目入りの紙を渡して半分にちぎってもらう。添乗員さんに「これだけは失くさないでください。」と強く注意される。
 客席の入口でエジプトの入国カードをもらい、ラウンジのようになっている席に陣取って早速記入する。
 添乗員さんによると、いつもはエジプト人で大混雑しているけれど、今日はかなり空いている上、観光客を船尾、エジプト人を船の前方に集めているようだという。

 いつもはここから出入国の手続きのため船内の窓口に並ぶけれど、今回はまとめて続きしてもらえるという。ヨルダンの出国カードとパスポートが集められ、添乗員さんの手によってどこかに運ばれて行った。
 個人旅行だったらめちゃくちゃ不安だろうなと思う。
 このツアーを選んだ理由の一つが「船での国境越え」なのだ。楽しみである。

ランチボックス それにしても、船内は寒い。
 ちょうど私が座った席の後ろにエアコンがあり、かなり強力な冷風が吹き付けてくる。「寒いかも知れません。」と言われていたので持ち込んでいたフリースを着込む。寒いかもしれませんどころではない寒さだ。
 お腹が空いているせいかも知れないと、ホテルでもらったランチボックスを開ける。サンドイッチが二つ、お水とオレンジジュース、トマトとキュウリが丸のまま入っているのには驚いたけれど、パウンドケーキとバナナがついてかなり立派なランチボックスだ。
 そして、このサンドイッチが意外なくらい美味しかった。

 ランチボックスの中味もおおかた食べ終わった頃、13時10分に船は出航した。
 汽笛が鳴るわけでもなく、大きく揺れるわけでもなく、ラウンジからは外が見えず、とても静かな出発だったので気がつかず、外を眺めていた方が「動き出したわよ」とおっしゃって、出航を知った。

船内の様子 外が眺められるわけでもないのでヒマだし、エアコンの風は寒いしで、船内の探検に向かった。
 とは言っても、探検できるほどの広さはない。そもそも、甲板に出られるようなドアは見当たらないし、窓はあってもかなり曇っているので外は眺められない。
 お手洗いに行った方から「なかなか凄い。」という話を聞いてパスすることにし、エジプト人が多く乗っている客席を眺め、ヨルダンの港にあったのと同じようなお店(要するに出稼ぎに出ている人がお土産に買いそうなもののお店)を眺めて、10分くらいで探検は終了である。
 船内の売店で2Lのお水とクッキー(合わせて2JD)、温かいコーヒー(1JD)を買って席に戻った。

 15時くらいにはエジプトのヌエバに到着していたと思う。しかし、何故かそこからの動きが全くない。船は停泊しているのに人が動き出す気配がない。
 「どうしたんだろうね。」「いつ下りられるんだろうね。」「ガイドブックに相当に乗下船の手際が悪いって書いてあったよ。」などとしゃべっているうちに、バタバタと人の動きがあって、添乗員さんに「下りますよ!」と声をかけられた。
 多分、45分くらいは待機したと思う。

 ついに、エジプトに上陸である。
 キャリーケースを転がして船の外に出て、そこに来ていたバスに乗り込んだ。
 バスが少し走って停まったところは、トタンの屋根だけで壁がない。ここで荷物をX線に通しますと言われ、再びがんばって自力でキャリーケースを転がして列に並ぶ。
 もの凄い大荷物を大きな荷車に乗せた一家がいて、前に入られそうになったのをガイドさんが助けてくれる。弱気になっていると、いつまで立ってもX線検査を通り抜けられない。
 ヨルダン出国のときにはX線検査なんてなかったなと思う。

半券 X線検査を抜けたところに再びバスが待っていてくれた。
 バスの中に軍人とおぼしき人が乗り込んできて、パスポートチェックをして行く。別に悪いことはしていないけれど、何だか緊張してしまう。
 絶対に失くすなと言われていた半券の出番はついにないまま、私たちは無事にエジプトに入国した。
 エジプト入国税(15USD)をどこかで払った筈だけれど、どこで払ったのか覚えていない。確か直接自分で支払ったのではなく、ガイドさんがまとめて支払ってくれて、後で集金されたように思う。
 本当にツアーでよかった。間違いなく、自力ではこの出入国はできなかったと思う。
 エジプトでのガイドさんはマナさんという若い男性だった。日本語は日本大使館の図書室で独学で身に付けましたと言うけれど、とんでもなく上手い。日本語検定の1級を受けるつもりです、と言っていた。この港からエジプト出国までのお付き合いである。

 明日のシナイ山登山の説明がまず最初にあった。
 出発は明日2時頃、気温は10度くらいになるらしい。山頂は2度くらいだと聞いてくらくらしたけれど、「雪がないので滑らずに安全です」とガイドさんは言う。暑くもなく寒くもなくベストシーズンだと言う。
 今の気温は25度くらいと言われたけれど、もっと暑く感じる。
 3700段の急な階段もあるけれど使う人は滅多におらず、ラクダで途中まで上れる道を使います、こちらの道を使っても700段くらいの階段を最後に上ります、と言う。
 何だか戦々恐々としてしまう。シナイ山登山は、私にとって、今回のツアーの最大の難所なのだ。

 シナイ半島の名前は、エジプトの月の神である「シナ」に由来するそうだ。
 また、昔からアジアとの交易の先端地でもあったという。そもそも、シナイ半島はアジア大陸に属すると言われて目から鱗だった。キリスト教やユダヤ教にとっても出エジプト記の関係から「聖地」「巡礼地」であるという。
 さらに、現在はダイビング・スポットとして人気があり、観光業の中心にもなりつつあるそうだ。リゾートがいくつも出来ていて、「聖地」としてよりもダイビングの街として人気だという。

電線 驚いたといえば、この電線がアスワンから延々と電気を送ってきていると聞いたときにも驚いた。
 エジプトの発電はアスワン・ハイ・ダムがそのほとんど(あるいは、すべて)を担っていて、この電線が切られたらエジプト全土が停電するとガイドさんは言う。まさに生命線である。
 これだけ空は晴れているけれど、この後、パラパラと雨が降ったのが意外だった。エジプトの降雨量は年間300mmくらいだというから,相当に珍しかった筈である。

 ガイドさんの話は、エジプトを「支配した」大統領4人でそのうちもっともエジプト人に愛されているのはナセル大統領であるとか、第三次中東戦争でシナイ半島をイスラエルに奪われたとか、エジプトの軍隊は中東地域で2番目に強いとか(1番目はイスラエルだと言っていた)、徴兵制の話もあったし、ベドウィンの人たちの生活の糧は麻薬であるとか、何だか複雑な気持ちになる話が多い。

 セント・カタリーナ村の入口にはゲートがあり、ガイドさんは「チケットを買う。」と言って降りて行った。村に入るのにチケットが必要というのが今ひとつピンと来なかったけれど、何らかの保護区になっているということだろう。
 そのゲートから10分ほど走り、セント・カタリーナ・ツーリスト・ヴィレッジというホテルに18時30分くらいに到着した。
 コテージ式のなかなか雰囲気のよいところである。
 しかし、明日は1時30分にモーニングコールが入り、滞在時間がごく短いのが残念だ。

リビングルームベッドルーム

 セントカタリーナ・ツーリスト・ヴィレッジのお部屋は全室スィートルームのようだ。
 リビングとベッドルームがある。バスルームにはバスタブがあったけれど、お湯がタンク式なので貯めるには多分足りないだろうという案内があった。
 可愛い。
 私はこういう雰囲気が好きだし、今回のツアーの中で一番このホテルが好きだ。一方、ツアーの方々にはあまり評判が良くなかったようだ。もっとも、鍵がどうしても閉まらずにスタッフを呼んできたら、ドアノブを回さずにドアを引っ張って「鍵はちゃんとかかるじゃないか。」と言われたと女の子二人が嘆いていたときには、思わず笑いつつも気の毒に思った。

夕食 明日は早いので、今日は少しでもとにかく休んでくださいと言われ、夕食は早めの19時からだった。
 ここでもビュッフェ式だ。正直に言うと、ごはんはヨルダンの方が美味しかったと思う。
 アルコールは一切出てこない。他に甘い飲み物しかなかったので、ノンアルコールビール(3USD)を頼んだ。昨日、アカバで飲んだノンアルコールビールは泡がなかったけれど、今日のノンアルコールビールは泡がちゃんとある。優秀だ。
 エジプシャンポンドで支払ってお釣りに細かいお金をもらおうと思っていたら、とても困った顔のウエイターのおじさんに「お釣りがないよ。」と言われ、諦めてUSDで支払った。

テラスから 夕食の途中で、満月があまりにも綺麗に上って来ていたので、テラスに出て写真を撮った。
 食事を終えた方から、みなさん明日のことを考えて次々とお部屋に戻って行く。
 お一人参加の方と「私たちは、お風呂の時間が半分でいいから大丈夫」などと適当なことを言いながら、コテージに帰る道すがら、コテージと満月の写真を撮った。

 それでも20時30分ころには部屋に戻り、お水になっちゃうよりはと持参していた水のいらないシャンプーで髪をさっぱりさせ、シャワーを浴びて明日の用意をし、21時には就寝した。

<この日の服装>
 タンクトップ、長袖シャツ、カプリパンツ、スパッツ
 (船内では、上にフリースシャツ)

<歩数計>
 ヨルダン・エジプト時間9月22日18時から23日18時まで 10852歩
 (ただし、このうち7018歩は、前日のスーク散策時の歩数である)

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2011.02.13

ヨルダン・エジプト旅行記5日目その2

2010年9月22日(水曜日)

ワディ・ラムの帰り道 13時10分くらいにデューンを出発した。これにてワディ・ラムのツアーは終了である。
 後で地図を見たら、ハザリ峡谷からそう遠くないところに「ワダック石橋」があった。自然にできたアーチ型の岩はぜひ上ってみたかったので、残念だ。やはり、ワディ・ラムにももう一度来なければと思う。
 ビジターセンターに戻り、そこで売っていたナバテア人の描いた絵をデザインしたペンダントトップを買おうかどうか迷う間もなく、昼食に出発となった。今思えば、迷わずに買ってしまえば良かった。

テント内部 バスで少し走り、デザートキャンプ兼レストランでランチになった。14時を回り、お腹はぺこぺこである。
 ランチは、広場を囲んで天幕を張ってあるような感じのところで頂く。
 その広場を囲んで昼食を摂っている人の中には日本人らしい若い二人連れもいて、「きっとあの人達はここのキャンプに泊まっているんですね。」というのが添乗員さんの見立てだった。羨ましいことだ。

 目の前の長テーブルに前菜の大きなお皿がいくつも並べられ、バーベキューのお肉が運ばれるという、ヨルダン定番のお昼ごはんである。
 美味しい。
 特にラムは、臭みもなく柔らかくとても美味しい。ガイドさんによると「きっと裏の広場で今朝絞めたんだ。」ということだった。考えてみたら相当に生々しい話だけれど、美味しさの前にはそういう想像は全く働かない。

ランチデザート

 このデザートは多分「ハリーサ」だと思う。
 ココナツがたくさん入って表面はカリっと焼いてあり、全体にシロップがしみ込ませてある。この大きさから想像がつくだろうけれど、相当に甘い。舌がしびれそうなくらいだった。
 ここのキャンプではウエイターさんが全員ベドウィンの正装のような制服を着ていて格好良かった。けれど、働いている人のほとんどはエジプト人だそうだ。エジプトよりヨルダンの方がお給料がいいのだろうか。
 
 ワディ・ラムからさらに1時間ちょっと走り、16時30分くらいにアカバのホテルDays Inn Hotel & Suites Aqabaに到着した。見えてから到着までぐるぐるとバスが走ったのは、どうも、一方通行の道があるせいだ。
 ロビーでウエルカムドリンク(オレンジジュース)のサービスがあり、喉が渇いていたので2杯もらって立て続けに飲んだ。
 希望者は18時30分ロビー集合でガイドさんがスークを案内してくれます、と言う。ランチが遅かったため、当初は20時からと案内されていた夕食が21時からに変更である。

デイズインホテルの部屋 お部屋に入って、一息つく。私の部屋はちょうど入口の上に当たっているようだ。カーテンを開けると、道路の反対側の建物から見えるかどうか微妙なところだろう。
 死海とペトラのホテルのお部屋に湯沸かしポットが付いていたので、てっきりそれが標準なのかと油断していたらそうではないらしい。アカバのこのホテルの部屋には湯沸かしはなかった。
 また、死海とペトラのホテルのレストランではアルコールが飲めたけれど、このホテルではアルコールはなしだ。どちらかというと、こちらがイスラムの国では標準だろう。

 一休みしてから散歩に出た。
 ホテルで地図をもらってホテルの場所に印をつけてもらったし、アカバはリゾート地でもあるので特に危険は感じない。
 海を目指して歩いていると、ちょうどビジターセンターの前を通りかかった。パンフレットでもあればいいなと近づいたらドアが閉まっている。諦めて再び海を目指そうと歩き出したら、「何かご用ですか?」と尋ねられた。今思えば、帰宅しようという職員だったんだろう。「海に行きたいの。」と答えたら「うん、そこを真っすく行けばいいんです。」と言われた。親切な人である。

海水浴 海岸沿いは公園になっている。昼間は暑すぎて海水浴に向かないのだろう。今くらい(18時くらい)になってから海に繰り出すようだ。かなりの人出である。
 死海の辺りを走っていたときに、アンマンの人たちは夕方になって涼しくなるのを待って死海沿岸にピクニックに来ると説明を受けたことを思い出した。
 死海も暑かったけれど、アカバもじわっと湿度のある暑さである。今日の最高気温は39度だったらしい。日本みたいだ。
 そんな暑いところだからアラブの女性も海に来る。でも、海に来てもみな上から下まできっちり覆い、海に入るときも服を着たままである。帰りはどうするんだろうと心配になる。
 
アイスクリーム 余りの蒸し暑さに早々に音を上げてホテル近くまで戻り、アイスクリームを食べた。「Jelato Uno」というお店である。お客が一人もいないのが不安だけれど、まあ大丈夫だろう。
 かなりの種類のアイスクリームがあって、「お勧めはどれ?」と聞いたら「これ全部か?」と聞き返される。その返しはおかしいだろうと思いつつ頷いたら、お店のお兄さんはウンザリした顔をしつつ、全部のアイスクリームの名前を唱えてくれた。
 書いてあるから判るよと思うけれど、訂正する英語が出てこない。ごめんね、と思いつつ最後まで聞き、「ARABESQUE」というそれっぽい名前のついたアイスクリームを選んだ。聞いてみたら、ミルクアイスにピスタチオが入っているという。0.75JDである。
 
夕焼け 18時30分にロビーに集合したのはツアーメンバーの2/3くらいの人数だった。
 暑さのあまり、私の足もとはビーチサンダルに変更である。
 夕食が21時からなので、ガイドさんはロングコースに計画を練り直したらしい。海の方に向かって歩き出した。途中で立ち止まってはこんな写真を撮っていたらあっという間に置いて行かれそうになった。イヤホンガイドも外してしまっているので、見失わないようにしなければと思う。

イーラ遺跡 最初に向かったのはイーラ遺跡だった。
 ここは柵はあるものの入場無料の遺跡である。イーラというのは、7〜8世紀のイスラム朝の名前らしい。その都市跡が地下に埋まっている。
 説明板も立っていたけれど、読んでいるヒマもなくぐるっと一周である。イヤホンガイドをつけていたら説明が聞けたかも知れない。
 イヤホンガイドは、もう少し外れにくく、サングラスをしていても邪魔にならないようにならないものだろうか。

 イーラ遺跡を出ると、ガイドさんはそのまま海岸沿いを南に向かった。
 さっき来た海岸も大分日が暮れて、ライトアップがされている。
 相変わらず人出が多いし、女性もいる。椰子の葉っぱを葺いたようなビーチパラソルが立っていて、そこにカップルがいたりする。女性がリゾートファッションならともかく、件のスカーフのようなものを被っている「敬虔な」といった感じの女性だったのでちょっと驚いた。

アカバ要塞 アンマンにもあったけれど、アカバにも非常に高いポールが立っていて、てっぺんで大きなヨルダン国旗がはためいていた。夜になったら降ろすという習慣はないようで、真っ暗な中で風に泳いでいる。
 そのポールの辺りで海岸を離れ、考古学博物館、アカバ要塞の脇を抜けて、スークに入った。
 19時を過ぎても、スークは灯りを煌々とつけてかき入れ時の様相を呈している。
 あの敬虔なお洋服の下に着ているとはとても思えないスケスケのドレスがずらっとショーウィンドウに並んでいたり、スナック菓子の屋台が出ていたりする。

ジューススタンド あと1時間半くらいで夕食なんだけどと思いつつ、ジューススタンドで休憩した。歩道に大きなテーブルが出されていて座って飲むことができる。
 前にエジプトに行ったときに飲みそびれたコクテール(2JD)がメニューにあるのを見て、迷わずそれを選んだ。ビールジョッキに入って出てきたコクテールには、ミルク、バナナ、オレンジ、メロン、りんご、桃が入っており、飾りにグラスの縁からグレナデンシロップが垂らされている。
 美味しい。大阪のミックスジュースの味だ。これに砂糖が入っていると聞いたときにはショックだった。
 ガイドさんによると、フレッシュジュースを飲むときは自分は必ずオレンジジュースを選ぶ、オレンジジュースには絶対に砂糖は入っていないから、ということだ。先に教えてくれればいいのにと思う。
 
ナッツ屋 ジューススタンドの隣にあったコーヒー豆屋さんのコーヒーに未練を残しつつ、ジュースで元気回復して出発である。
 次に行ったのは、「地球の歩き方」にも載っているナッツ屋である。「地球の歩き方」には、「1kg7.5JDのものが香ばしくて美味しい」と書いてあった。試食させてもらったら、確かに美味しい。
 カレーっぽい香辛料がまぶされていて、カリっとしている。
 ツアーのみなさんが100gとか200gとか買う中、ヨルダンディナールの小銭が増えても困ると思った私は、添乗員さんに「新しい買い方だ。」と笑われつつ、「1JD分ちょうだい。」と言ってみた。1JD分よりもちょっとだけ多く入れてくれて、でもお会計は1JDだった。いいお店である。
 真空パックまでは行かないけれど密封してくれて、帰国後に食べたところ、しっかりとカリッとしたままで美味しかった。

アラック その後もヘンナのお店、香辛料のお店、お肉屋さん、八百屋さん、香水屋さん、お土産物屋さん、CDショップ、リカーショップなどを巡って、20時50分にホテルに帰った。
 アカバは自由港だから税金がかからず、またホテルではアルコールは供されないので、ここでお酒を買い求めた人は多かった。私も、話のタネにとアラックと呼ばれる強いお酒の小瓶(50ml)を買い求めた。

 21時から夕食をいただいた。甘いソフトドリンクしかなかったのでノンアルコールビールを初めて飲んだけれど、決して美味しいものではない、泡はすぐ消えてしまうものだ、ということを学習した。
 お風呂に入ったら、排水溝から水が逆流したのには驚いたけど、ビーチサンダルを履けばその水に触らずに済む程度だ。
 洗濯して、お部屋の冷房がどうしても切れなかったので窓を少しだけ開け、0時くらいに就寝した。

<この日の服装>
 Tシャツ、長袖シャツ、ジーンズのスカート

<歩数計>
 ヨルダン時間9月21日18時から22日18時まで 11296歩

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2011.02.12

ヨルダン・エジプト旅行記5日目その1

2010年9月22日(水曜日)

 朝5時過ぎ、風の音とアザーンの声で目が覚めた。
 カーテンを少しだけ開けて窓の外を見ると、横殴りの雨が降っていた。ウソでしょ? と思う。
 ペトラ2日券を買おうかどうしようか迷い結局買わなかったものの、もし今から出かけたら、TBSの「THE 世界遺産」でやっていた情景を見られるチャンスかもとも思ったけれど、もちろん速攻で断念した。それくらい強くて横殴りの雨だったのだ。
 しかし余りにもお腹が空いていたのでそのまま起き出し、お湯を沸かしてカフェオレを作り、クッキーをつまみ食いした。

朝食 7時過ぎにレストランに朝食を食べに行った。
 クラウン・プラザ・ホテルのレストランは一度プールサイドに出なければ入ることができない。
 この時点でもまだポツポツとではあるけれど雨が降っていた。
 添乗員さんによると、夜中には雷が鳴ってさらに大雨が降っていたらしい。そうしたら、シークを流れる水の様子が眺められたかも知れない。何しろ、ペトラ辺りの年間降雨量はわずか数十ミリだというのだから、無理してでも行くべきだったかもと思う。今思えば惜しいことをした。

ポスト ホテルの玄関先なかなか可愛いポストがあった。
 各国までの郵便料金が書いてある。「地球の歩き方」にハガキは0.5JDと書いてあり、昨日の郵便局のおじさんは1枚0.8JDの切手を売ってくれ、このポストには料金は1JDと書いてある。一瞬、投函を躊躇したけれど、私の手にその躊躇が伝わるのが遅く、ん?と思ったときには私の書いた絵はがき達はすでにポストの底に落ちていた。
 このとき投函した絵はがきは、このとおり2010年10月7日に届いた。結局、正しい日本までのの郵便料金はいくらだったのだろう。

 9時過ぎに出発したとき、空はまだどんより曇っていた。
 添乗員さんは、ペトラの辺りはまだ涼しいけれど、これから向かうワディ・ムサやアカバは最高気温39度の予報が出ていて相当に暑いと言う。
 それにしても、砂漠で雨に降られる己の雨女ぶりにしみじみと感心する。

モーセの泉ペトラの山

モーセの泉 上右の写真のとおり、一昨日、ペトラの山に落ちる夕日を見たポイントからの景色も、今はこんな黒い雲に覆われている。
 そして、この絶景ポイントの近くにある三つドームが並んだ建物の中に、「モーセが杖で岩を突くと泉が湧いた」と出エジプト記に書かれている泉(の候補地)がある。
 中に入ると、確かに綺麗な水が湧いている。こんなに近くまで来て、モーセはペトラに寄らなかったんだろうかと思ったけれど、そもそもモーセの時代の方が1000年以上前だ。
 触ってみたら結構冷たかった。ちょっと飲んでみたかったけれど、ここで生水を飲んでお腹を壊したらアホ過ぎる。

ベドウィン 窓の外は相変わらずの曇り空だ。
 ペトラの辺りはベドウィンの人たちが多く住んでいる地域で、羊を追って道路を悠々と横断しているベドウィンの姿なども見かけた。
 ベドウィンの人たちは、眼の周りにコヘラという天然のものから取れる目を保護する成分が入っている薬を塗っているそうだ。
 これは本当に目のためのもので、男女関係なく、ファッションとも護符とも関係なく、塗るそうだ。

 ペトラからアカバまでの間はほとんどが砂漠である。
 ヨルダンは、北海道の1.2倍の面積でその90%が砂漠だというから、いくら昔から隊商の道として栄えて来たキングス・ハイウエイを走っているとはいえ、見える景色がほとんど砂漠なのは当たり前である。
 昔はペトラの辺りも海で、だからこそ、今リン鉱石を産出することができる訳だけれど、現在のヨルダンは、アカバの街一点だけが海に接している。
 そして、そのアカバの港から出て行く主なものは、リン、セメント、死海グッズ、旅行者だそうだ。行き先は、エジプトかイスラエルかサウジアラビアということになる。

鉄道七つの知恵の柱

 モーセの泉を出発して1時間半くらいたち、ワディ・ラムが近づいてきた。
 この鉄道は、リン鉱石を運ぶためのものである。「アラビアのロレンス」たちが、リン鉱石を運ぶ鉄道を爆破していたことを思い出す。
 そこからさらに20〜30分くらい走って、ワディ・ラムのビジターセンターに到着した。
 ここで4WDの車に分乗し、いよいよ渓谷に入って行く。

 ビジターセンターに到着する直前、左前方に「七つの知恵の柱」と呼ばれる大きな岩山が見えるポイントがあった。
 見逃したと思っていたけれど、写真を見直したら、ビジターセンターの裏手にたくさんの4WDトラックが待っているスペースがあり、その様子を撮った写真の右端に七つの知恵の柱が写っていた。この写真の構図からして、全く意識していないことが判る。知らないとは恐ろしいことだ。
 どうしてこの「七つの知恵の柱」が有名なのかといえば、「アラビアのロレンス」の最初の著作のタイトルになったからだそうで、私はその著作の内容すら知らないのだから仕方がない。

ワディ・ラムの村 サングラスに、ホコリよけのマスクも装着し、11時過ぎ、ツアーメンバーが4台のトラックに分乗してワディ・ラム砂漠ツアーに出発した。
 ふと気がつくと、4台のうち私たちが乗ったトラックにだけ幌がない。紫外線を浴びまくりである。
 すぐにワディ・ラムの村に到着した。そして、何故かしばらくここでストップだ。後で聞いたところでは、分乗したトラックのうちの1台が壊れたとか動かなくなったとかパンクしたとか、トラブルがあったようだ。ガイドさんと添乗員さんが別の車に乗ったので、今ひとつ情報が伝わって来ず、そのときにはどうしてずっと出発しないのか不思議だった。
 屋根のないトラックに乗った私たちにはこの微妙に曇った空が有り難い。これでかんかん照りだったらきっと酷く日焼けしたことだろう。陽も出ていないから、それほど暑くも感じなかったような気がする。

砂の道 こんな道を、こんなトラックで進む。同じトラックになった方が温度計をお持ちだったのでお聞きしたら、正午前後のこの時間帯で33度ということだった。やはり曇りがちな空のおかげでかなり涼しかったようだ。
 ところで、全く自慢ではないが、ワディ・ラムのこのドライブで自分がどこに行ったのか、未だに私には判っていない。おまけに、「到着した場所で何が見どころだったのか」ということも判っていない。
 我ながらどうしてそういうことになったのか、謎である。

ロレンスの泉 余り自信はないけれど、恐らくここが「ロレンスの泉」である。
 「地球の歩き方」によると、崖の中腹に水が湧き出しているという。木が生えている辺りが湧水地点なのだろうか。
 ガイドさんからこの辺りで食べられる草と食べてはいけない草の説明を受けたり、この近くに張られたテント(といっても、運動会で張ってあるような屋根だけのもの)の中のお土産物屋兼休憩所で乳香が売られていることに気付いて買うかどうか迷ったりしていた。

ロレンスの泉の文字ロレンスの泉の文字

 ロレンスの泉らしい場所の下に大きな岩があり、そこに写真のような文字が彫られていた。
 ネットでひたすら検索したところによると、この左側の写真の文字は、ペトラが繁栄した頃のナバテア人が書いたものらしい。一方で、「南アラビア文字」に近いと言う方もいらした。
 この右側の写真の文字は、8世紀頃のサムード人が書いたものらしい。しかし、そもサムード人という人々がどんな人々なのかさっぱり判らない。
 そんな昔の文字が刻まれた岩を、何の標識もなくガードもなく転がしておくその大らかさに脱帽である。それとも、こうした文字はあちらこちらにあるものなんだろうか。

ハザリ峡谷 ロレンスの泉を出発したときには、すでに12時を過ぎていた。次に向かったのは、恐らくハザリ峡谷である。
 このハザリ峡谷は、写真の左下に写っている木と比べるとむやみに大きい岩山であることが判る。縦に模様ができているのは、水による浸食が原因だという。浸食されるほどの水があったとも思えないのに、不思議な話だ。
 そして、この岩山に、ペトラのシークのような亀裂が走っている。その壁には ナバテア人による絵が彫られていること、シークの奥に水を引いた跡が残っていることの説明を受けて、私たちは行列の最後に並んだ。

ナバテア人による絵ナバテア人による絵

 この行列がとても謎で、皆してこの裂け目の一番奥を脇目もふらずに目指して行く。もっとも、とても細いし足場も悪いので行く人と帰る人がすれ違えるポイントが限られており、遅々として進まない。
 その途中の岩肌のあちこちにこんな絵が彫られていたけれど、皆して素通りして行く。
 何故だ? この岩肌に彫られた絵はもしかして観光客のイタズラなのか? と思いつつ、たまに写真を撮りつつ進む。「地球の歩き方」にも「ナバタイ人の碑文が描かれている」と紹介されていたので、やはりこの「絵」がこの場所のポイントではないだろうか。
 私も皆のマネして一番奥の水たまりのような岩肌の縞模様の綺麗な場所で記念写真を撮ってもらった。

 すっかり足もとの砂も赤くなったハザリ渓谷を後にし、次に向かったのは砂山である。砂山というよりは砂丘と言うべきかも知れない。。
 この砂丘(デューン)は、ワディ・ラムにある砂丘の「小さい方」らしい。遠くからも赤い砂が三角に高くなっている様子が見えていたけれど、近づくとさらに美しい。サラサラの赤い砂である。

砂丘から 制限時間10分と言われ、一歩上ると半歩下がるような砂を無理矢理に踏みしめて、砂丘の2/3くらいの高さのあたりまで上って座り込んだ。
 一番上まで行かないところが我ながら半端だ。
 しかし、この景色を独り占めした気分はなかなか爽快だった。
 段ボールでも持っていれば橇のようにして滑って下りるところだけれど、残念ながらそんな小道具は用意していない。それでも、この砂丘を駆け下りるのは楽しかった。靴の中が赤い砂だらけになったのはご愛敬である。

 13時過ぎ、砂丘を出発した。

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2011.02.06

ヨルダン・エジプト旅行記4日目その3

2010年9月21日(火曜日)

エドディルからの帰り道 16時前に帰途についた。
 帰り道はロバに乗りたいとおっしゃる方もいらしたけれど、エド・ディル周辺に客引きをしているロバはいないようだった。こんな風に岩壁に繋がれて、岩に向いて哲学的な顔をしているロバを何頭か見ただけだ。
 私も、帰りにアーンの墓まで寄り道しようと思っていたし、添乗員さんに「少し急げば間に合うと思いますよ。」と言ってもらったけれど、気力体力ともに枯渇状態で、「体力の限界を感じるので、ゆっくり戻ります。」と答えた。

エドディルからの帰り道 ゆっくり戻るのだから、その分、周りの景色を楽しまなくてはと思う。
 そういえば、最初の頃は折りたたみ傘を「黒だし多少は効果があるかも」と思って日傘代わりに差していたけれど、この頃にはすっかり忘れ果ててリュックにしまい込んでいた。日傘をしまった代わりに帽子は被ろうと思ったけれど、こちらも頭が蒸れるような気がして、この頃にはリュックにぶら下げて歩いていたような気がする。
 日の光はすでに夕方の色の濃い斜めの光になっていて、行きに見たよりも岩肌の色をくっきりと赤く見せている。

赤い壁 40分余りで博物館の辺りまで下りてくることができた。写真を撮っては止まっていた割りになかなかいいペースだったと思う。
 岩をくりぬいて鉄の扉をつけたようなところがあり、「これって何だろう?」「誰か住んでるのかな?」などととぼけた会話をしていたら、添乗員さんに「これは博物館ですよ。」と呆れられてしまった。どうやら行きの道中で説明してもらったようだけれど、私は完全に本体から遅れていたし、大汗をかいてイヤホンガイドが邪魔になって外してしまったので、説明を聞きそびれてしまったのだ。申し訳ない。

 このペトラ考古学博物館の辺りの壁は一際赤く縞模様になっていて美しい。
 閉まっているように見えたので入ってみようとは思いもしなかったけれど、地球の歩き方によると冬以外は17時まで開館しているらしい。惜しいことをした。
 美しいといえば、この辺りから道を左に逸れてしばらく行くと、トゥルクマニヤの墓がある。そこも岩肌が一際赤く、美しいナバテア文字が見られるという。
 もちろん、そこへ行こうというアイデアすら浮かばなかった私である。 

凱旋門 行きにはくぐらなかったこともあって全く意識していなかった凱旋門を帰りにはしっかり通って帰った。
 しかし、何故か凱旋門全体の写真を撮っていない。よほど疲れていたんだろうと思う。
 これは凱旋門に三つある開口部の一つである。中央の開口部はローマ風の装飾が施されているが、両脇の開口部はナバテア様式だったらしい。この写真がそのうちのどの開口部なのか、判らない自分が情けない。
 多分、遠くの岩肌に見えるアーンの墓等々に気を取られていたのだと思う。昼間に見たときよりも、はるかに赤く濃くなっていて美しい。

南神殿入り口 そこに辿り着く前に、こうして南神殿に至る階段の下に立って写真まで撮っている。
 ここまで来てどうして自分が階段を上がってみようとすらしていなかったのか、謎である。ナバテア人が1世紀に建造したという新しい(ペトラの中ではそうなる)神殿はどこまで発掘がされていたのだろう。

 この神殿の奥辺りに「ファラオの柱」があり、そのファラオの柱からさらに東に向かって曲がりくねった道を行くと、「南の壁」にぶつかり、南の壁に沿って行くと、犠牲祭壇まで続く枯れ谷の入口にたどり着けるようだ。
 何故こんなにあやふやな書き方かと言うと、「ペトラ」の本に書いてあった情報で、私は行っていないからだ。
 標識は、ローマ劇場近くの階段から歩き出すように立てられているけれど、逆コースを辿った方が楽らしい。もっとも、楽だと言っても3時間かかると書いてあったから、とても行ってみることはできなかっただろう。

 そして、下が砂地で歩きにくい柱廊通りを今度は端から端まで歩き、岩窟墳墓群のところまで戻って来た。
 やっと半分は戻って来た、というのが実感である。

岩窟墳墓群 向かって右から、壺の墓、シルクの墓、コリントの墓、宮殿の墓だ。
 壺の墓は、紀元前1世紀半ばに建設され、マリコス1世の墓ではないかと言われている。また、5世紀には改造工事が行われ、現在のような「岩窟教会」としての体裁が整えられたという。街の中心にあり、広場があったことがその理由だそうだ。
 壺の墓の右側にある階段を上がると、エル・ハズネを上から眺めることのできるポイントに行けるらしい。これも、ペトラ遺跡でやりたかったのにできなかったことの一つである。

 シルクの墓が有名なのは、ファサードに非常に細かい縞模様があるためだ。
 もっとも、遠くから眺めただけの私には、そのような美しい縞模様など見た記憶はない。自分で撮った写真を拡大しても、鮮明さが失われているような気がする。
 その隣のコリントの墓はかなり傷みが激しい。
 一番左のお墓は、ペトラでもっとも壮大であるため「宮殿の墓」と呼ばれている。
 このお墓の3階に当たる部分は、岩を掘ったのではなく建設されているそうだ。だから「階のある墓」とも呼ばれているという。

住居跡 岩窟墳墓群を下から見上げ、ローマ劇場まで戻る間に撮ったこの写真が何なのか、全く思い出せない。
 岩の縞模様がくっきりと綺麗なのが嬉しくて撮ったのは間違いないものの、さて、これは何なのだろう。恐らく、洞窟住居群の一部なのではないかと思う。
 行きには気がつかなかったのか、太陽の光の加減なのか、本当に綺麗だった。

 ファサードの道まで戻って来てしまえば、あと少しである。
 後で聞いたところによると、帰り道にサンド・ボトルのお店に寄った方がいらして、夕方に買うと名前を入れてもらうことはできないけれど、生鮮食品でもないのに大幅にディスカウントしてくれたらしい。

 17時くらいにとうとうエル・ハズネに戻ってくることができた。

平らなエルハズネエルハズネ内部 この辺りまで、ツアーメンバーの方々と一緒に戻って来た。後で聞いたところによると、みなさんは、写真を撮りに走り出した私を見て「**さん(私のこと)は砂に埋もれてしまった」と先にお戻りになったそうだ。
 そんなこととは露知らず、陽は当たっていないけれどピンク色に沈んだエル・ハズネを見た瞬間、あまりのフォトジェニックさに我を忘れてしまった。
 エル・ハズネの内部も午前中よりもよく見えたように思う。
 しばらく駆け回ってついに体力の限界に達し、そういえばこれからシークの入口までさらに歩かなくてはいけなかったんだわと、一人ふらふらと帰途についた。

シーク シークを歩いていると、向こうからやってくる馬車と結構頻繁にすれ違った。
 馬車には欧米人と思われるお客さんが多かったように思う。
 ペトラ遺跡は18時までの筈だけれど、今から入ってどうするのだろう、エル・ハズネだけ見て帰って来てしまうんだろうか、何て勿体ない! と余計なことを心配しながら歩いた。
 シークの岩の肌模様は、帰りよりも行きの方が綺麗に見えていたような気がする。

シーク入口 歩くこと20分弱、頭の上が開けてきたなぁと思ったら、そこがシークの入口だった。
 ツアーで配られたペトラ入場券には遺跡入口からシーク入口まで往復の馬券が付いている。馬を探していると、ツアーの方が「チップを高いこと言うの。」とおっしゃる。ちょっと迷ったけれど、何とかなるだろうとそのまま馬乗り場に行った。

 馬車の場合は行きに乗ったのと同じ馬車に乗ることになっているようで、馬車番号を覚えておく必要があるらしい。馬の場合は、特にそういう決まりはないようだ。
 馬を引くお兄さんは「楽しいか?」「この馬で良かっただろう(確かに格好いい馬だった)。」とか話しかけて来ていたし、馬から下りるときに2JDをチップとして渡したら、「チップを倍くれ。」「これは自分用のチップで、馬用のチップをもらっていない。」などなどと言われたけれど、これが決まりでしょ、の一言であっさり諦めてくれた。
 後で聞いた話では、18時近くになるとシーク入口にいた馬は一斉に引き上げてしまうらしい。私より、15〜20分後に戻っていらした方が「もう仕事を終えて繋がれた馬しかいなくて、帰り道は歩いた。」とおっしゃっていた。
 散々歩いて疲れた体に、帰りの砂地の緩やかな上り坂道は結構きつかったのではなかろうか。

マンゴーアイス 持っていたお水を全部飲み干して少し元気回復してから、ホテルに戻る前にモーベンピック・リゾート・ペトラに向かった。
 「地球の歩き方」でここのアイスクリームがべた褒めされており、食べてみようと思っていたのだ。
 ホテルの外に向かって窓口が開いているという情報もガイドブックにあったので、ペトラ遺跡入口から右の方に回ったところ、壁に「swiss premium icecream」と書かれ、テーブルと椅子がいくつか置かれていたのですぐに判った。
 スイスと言われるとやっぱりチョコレート味かしらとかなり迷ったけれど、さっぱり系が食べたかったのでマンゴーアイス(2JD)を選んだ。
 美味しい。
 テラスの椅子に座ってぼんやり食べていたら、同じツアーに母娘3人で参加されている方がいらした。お目当ては同じくアイスクリームのようだ。特にお嬢さん二人が本当にアクティブで、岩窟墳墓群にも行って来たとおっしゃっていた。この後、街を散歩して、ケーヴ・バーにも行かれたらしい。

 のんびりアイスクリームを味わってから、ビジターセンターに行って絵はがきを買った。10枚で2JD。ホテル内の売店で7枚1JDで売っていたから、適正価格というわけではないような気がする。
 同じ建物にあったPOST OFFICEに寄って切手を買う。はがきを見せて「これを日本まで送りたい。」と言ったら、10通分の切手を8JDで売ってくれた。

夕食 ホテルに戻ったら18時30分だった。まずはシャワーを浴びてさっぱりする。
 夕食前、ロビーでは、昨日お願いしたガイドブック(私の買ったペトラ版は12JD)を渡され、馬に乗った写真を見せてもらって「買いたい人はどうぞ〜。」というのをやっていた。
 夕食は19時半から、昨日と同じホテルのレストランだ。添乗員さんが雰囲気を変えて外のテラス席を用意してくれていた。ろうそくの光で、なかなかいい雰囲気である。
 今日はあと寝るだけなので赤ワインを頼む。この旅行で初めてのアルコールだ。20USDを支払ったら3.25JDのおつりが来たから、1200円くらいだろうか。ヨルダン・ワインだったかどうか覚えていないけれど、疲れた体に久々のアルコールはかなり効いた。
 ハンマムから帰って来た方が20時過ぎくらいに合流し、何だかんだおしゃべりしつつ2時間くらいのんびりした。
 
 お部屋に戻って、湯沸かし器があったのでコーヒーを淹れて飲みつつ絵はがきを書く。
 じんじんと熱を持っているような感じがする上に、ぷっくりと膨れて水の溜まりきった足の小指におののく。これは破いて水を出してしまった方がいいんじゃないかと思うけれど、間違って膿んでしまったらなどと思うと今ひとつ踏ん切りが付かない。
 今日のペトラの気温は36度くらいだったそうで、日射しは強かったけれど日陰に入れば涼しかったように思う。念のため、持ってきたシートパックを使ったところ、ヒリヒリするようなことはなかったのでほっとした。前半は一応真面目に差していた傘のおかげだろうか。
 23時30分くらいに就寝した。

<この日の服装>
 タンクトップ、長袖シャツ、カーゴパンツ

<歩数計>
 ヨルダン時間9月20日18時から21日18時まで 30213歩
 (この歩数には、ペトラ・バイ・ナイトで歩いた分が含まれている)

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