2013.04.08

ウズベキスタン旅行記の入口を作る

マルギランの絹織物 ここは2011年9月に旅した、ウズベキスタン旅行記への入口である。
 
 ウズベキスタンのツアーは、ツアーメンバーに恵まれ、色々ドタバタありつつもとても楽しい8日間になった。

 以下の日程表の日付部分をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。

0・1日目 2011年9月16・17日 成田 -> タシケント

2日目その1 2011年9月18日 タシケント -> ウルグット

2日目その2 2011年9月18日 ウルグット -> サマルカンド

2日目その3 2011年9月18日 サマルカンド(泊)

3日目その1 2011年9月19日 サマルカンド

3日目その2 2011年9月19日 サマルカンド

3日目その3 2011年9月19日 サマルカンド(泊)

4日目その1 2011年9月20日 サマルカンド

4日目その2 2011年9月20日 サマルカンド

4日目その3 2011年9月20日 サマルカンド -> ギジュドバン -> ブハラ(泊)

5日目その1 2011年9月21日 ブハラ

5日目その2 2011年9月21日 ブハラ

5日目その3 2011年9月21日 ブハラ -> タシケント(泊)

6日目 2011年9月22日 タシケント -> コーカンド -> リシュタン -> フェルガナ(泊)

7・8日目その1 2011年9月23・24日 フェルガナ -> マルギラン -> ダンガラ

7・8日目その2 2011年9月23・24日 ダンガラ -> タシケント -> 成田


その国の旅を終えて 100の質問 (ウズベキスタン編)


持ち物リスト (ウズベキスタン編)


2011年9月 「ウズベキスタンの笑顔と青空」の写真

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2013.04.07

ウズベキスタン旅行記7・8日目その2

2011年9月23日(金曜日)

 14時過ぎに木彫り工房を出発した。
 もう後はタシケントに戻って、夕食を食べて、出国するだけというのが非常に寂しい。そして、疲れも溜まっている。どうやらうとうとしていた時間が長かったらしい。
 だから、2時間くらい走ったところで、道ばたに湧き水があって露店が並んでいるところで車が駐まったときには、どうして駐まったのかよく判らなかった。
 そういえば、少し前にドライバーさんが携帯電話でやりとりしていたような気がする。

 駐まったので車を降り、露店をひやかす。流石に湧き水を飲んでみるのは冒険過ぎるだろう。
 しかし、ガイドさんが乗った車が来ない。そういえば、このすぐ前に通り抜けたトンネルのところでガイドさんが乗った車が駐まっているのを見たように思うけれど、どうだったろう。
 日本語を話せるのはガイドさんだけだし、私たちは誰もウズベク語もロシア語もしゃべれないので、ドライバーさん達と意思疎通することができない。とにかく、ここでは写真を撮ってはいけないということだけは判った。

 そのうちドライバーさんに「車に乗って」と身振り手振りで促され、今度は10分くらい走ったところで降ろされた。
 景色はいい。
 全く自信はないけれど、この辺りは恐らく、3ヶ国の国境が集まっている筈だ。
 「どうしてここに移動したんでしょうね?」とツアーの方にお聞きしてみたら、「さっきの場所だと写真を撮れないからみたいだよ。」というお返事だった。

 しかし、状況が判らないまま放っておかれると、帰国日ということもあるし、心配なものである。
 ツアーの方々がみなさん落ち着いていらしたのが有り難い。
 何となく集まって、ガイドさんが乗った車には、ツアー中、体調を崩された方が乗っていらしたので、具合が悪くなっちゃったのかな等と話していた。
 いざとなったらドライバーさんの誰かにガイドさんに電話かけてもらって状況確認しようなどと思っていた私はとことん落ち着きがない。

 30分くらいでガイドさんが乗った車が追いついて来て、そのまま出発した。
 そこから1時間ほど走った次のお手洗い休憩のときに判明したところによると、ツアーメンバーの方がトンネルを抜けているときに何の気なしに写真を撮ってしまい、それを見とがめられたという。普通のトンネルに見えたけれど、その場所は検問だったそうだ。
 事務所のようなところに行き、ガイドさんから全く悪意はなかったのだということを釈明し、簡単な書類を作成しただけで事なきを得たということだった。
 本当にガイドさんが同乗していてよかった。不幸中の幸いである。

 何でも、トンネルの入口に、自動で写真撮影が行われたかどうかチェックできる機械が設置されているそうだ。
 私など、今日は疲れていたから写真を撮ろうという気力もなかったけれど、昨日逆方向に進んでいたときはトンネル内で動画まで撮っていたくらいで、誰にも起こり得ることなのに、1号車に乗っていたご夫婦は謝罪までしてくださって、何てきちんとしているんだろう、自分に同じことができるだろうかと反省した。逆に申し訳ないくらいだった。

 ここは(と言ってもどこだかは判らない訳だけれど)、お手洗いの数が少なく、また二つあるうち片方は扉がなくて片方は水が流れないという状況で、ドライバーさん達に「タシケント! タシケント!」と促されるくらいの時間がかかってしまった。
 飛行機の時間があるから、彼らも多少焦っていたのだろう。

 ところで、このツアーではお手洗いの話題には事欠かなかった。
 この期に及んでも、止瀉薬の話や、出発前に整腸剤を飲んだら湿疹が出た話、とにかくお手洗い休憩の間隔が最重要情報である話など、車内の話題はそちらに集中した。
 しかし、そう考えると、エジプトに行ったときもモンゴルに行ったときも、整腸剤も飲まず止瀉薬も持たずに出かけた私が、今回に限って両方飲んで持っていたのは、我ながら勘のいいことだった。

夕景 段々と陽も落ちて来る。
 17時40分くらいに、昨日も通ったこの工場の側にさしかかった。何というか、無骨な建物だけれど、もう帰国だというセンチメンタルな気分と、オレンジ色になりつつある太陽と、その二つの条件が揃うと何故かもの悲しくみえるのが不思議である。
 そして、この工場が何の工場だったのか、未だに判っていない。
 でも、いい夕陽だった。

 21時タシケント発の大韓航空に乗るので、これは夕食は空港でということになるかなと思っていたら、ドライバーさん達のテクニックとガイドさんの執念で、18時30分過ぎにタシケントのBEKというレストランに入れた。
 何だかどこかで聞いたような名前のレストランである。

夕食 屋外のテーブルに陣取る。流石にメインディッシュは作るのに時間がかかるので難しいという話で、前菜のサラダとナン、チキンのスープをいただいた。このスープはさっぱりして香草の香りがして美味しかった。
 夕食の席で、ガイドさんからウズベキスタンっぽいおじさんのマグネットをいただいたのに、その後、どう探しても私のバッグから出てこなかった。どうやら呆けていてレストランに忘れてきてしまったらしい。後になってかなり悔やんだ。

 夕食の席でガイドさんに再両替をお願いした。
 ウズベキスタン到着時に「再両替可能なので多めにスムに両替しておいても大丈夫。」とガイドさんが言ったので安心していたら、何だかややこしいことになった。9000スムが5ドルという計算で、足りない分を1ドル札で足そうとすると「1ドル札はほとんど流通していません。」と受け取ってくれない。
 再両替できずに損をするだけなら気にするほどの金額ではないけれど、スムの海外持出は禁止という情報を事前に旅行社からもらっていたので、こちらも必死だ。

 でも、ガイドさんに「余ったスムは空港でお菓子などを買ってください。」とも言われたし、実際のところは、私みたいに鬼の形相で必死になる必要はなかったようだ。
 そんなこんな、レストランの支払いも再両替も済ませたガイドさんが、お財布代わりにしていた鞄を引っ繰り返して空っぽになったことを示し、「この鞄も、お財布から鞄に戻りました。」と言ったのが可笑しかった。

 19時半前にレストランを出て、空港までは車で15分だった。近い。
 しかし、車を降りたところで、あっさりガイドさんに「私はこの先には行けません。」と言われ、ツアーメンバーは全員が戦いた。まさかここでそんなうっちゃりが来ようとは誰も予測していなかったのだ。
 何でも、空港ビル内にガイドさんが入ることは禁じられているらしい。航空券を渡され、「個別にチェックインしてください。」と言われる。
 何とも慌ただしくガイドさんと別れ、キャリーケースを持って空港ビル手前に立ちはだかる階段を上がった。

 空港ビルに入ったところで、できるだけこっそりとバザールでもらった果物をキャリーケースにしまい、チェックインに向かう。
 重量チェックのときは戦々恐々だったけれど、昨夜ホテルで必要なくなったものを捨てたこともあって、17.6kgだった。スザニを3枚買って出発時よりプラス800gは上出来だ。

 出国審査やセキュリティチェックはそれなりに列ができている。離陸の1時間前に空港に着いたのだからそもそも余裕は全くない。
 セキュリティチェック後、全力疾走とは言わないけれど走る羽目になった。
 機内に入って席に着いたのは離陸予定である21時のほんの少し前である。その後も人が乗ってきて、離陸したのは21時20分くらいだったけれど、飛行機が遅れなければ間に合っていないタイミングなのではなかろうか。
 ちなみに、外貨持ち出しの検査は全く一切行われず、あれだけ焦った私って一体・・・、と思った。

 22時30分くらいに機内食が出たけれど、食欲がなかったのでパスし、ひたすら爆睡する。
 その後、サンドイッチなどの軽食を配ったり、韓国の入国カードを配ったりしていたらしいけれど、全く気がつかず、着陸45分前まで寝てしまった。

2013年9月24日(土曜日)

 KE954便が何時に仁川空港に到着したのかは覚えていない。
 あとは成田空港行きのゲートに行くだけ、という状況になったのは現地時間の8時だった。
 成田に向かうKE701便は9時10分発予定である。
 職場で配るお土産をウズベキスタンで買いそびれてしまったので、仁川空港でチョコレートを購入した。ツアーの方が「女の子にお土産。」とシートパックを大量購入しているのを見て、私も真似して購入する。
 仁川空港をうろうろしている間に外貨寄付を受け付ける箱を発見し、みんなで次々とスムを寄付した。

 セントレアからいらした方もいたので、全員が揃うのは仁川空港が最後である。
 住所とメアドを交換し、もの凄く名残惜しくお別れする。
 KE701便は定刻に出発し、お腹以外は無事に成田空港に到着した。

 ウズベキスタン旅行記7・8日目その1 <-

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ウズベキスタン旅行記7・8日目その1

2011年9月23日(金曜日)

 この日もやはり3時頃に目が覚めてトイレに通ってしまった。
 多分、朝方になって冷え込むのと、夕食後に飲むビオフェルミンの効果が薄れ始める時間とが重なっているのではないかと思う。
 フェルガナ地方はこの時期でもかなり涼しい。涼しいというよりは寒い。
 この日も、お部屋のクローゼットから毛布を取り出して2枚重ねてかけた。
 朝食に向かうときも、ノースリーブのワンピースにTシャツ、パーカを重ねてもちょっと寒いと思ったくらいだ。

朝食 7時半過ぎから朝食だ。
 このホテルの朝食が一番洋食っぽかったかも知れない。逆にいうとウズベキスタンらしいものは余りなかったのが残念だ。
 このジャムは、ちょっと変わった感じで、りんごと梨を足したような味の果物を小さなさいの目に切ってジャムにしてある。なかなか美味しかった。

 再び乗用車4台に分乗し、9時にホテルを出発してまずバザールに向かった。といっても、ガイドさんは相変わらず出発時にどこにまず行ってどれくらいの時間がかかるのか教えてくれない。
 サマルカンドのバザールは観光客目当てっぽい商品も多かったけれど、ここ(フェルガナかマルギランかどちらかだと思う)のバザールは食べ物専門である。

市場市場

 ここには写っていないけれど、他にもナンを積んだ一輪車のような車もたくさんあったし、お米やナッツ類も売られていた。
 しかし、メインはやっぱり青果だ。
 ガイドさんが「こいつらにスキを見せたらいつまでも出発できないに違いない」という決意溢れる調子で歩くのでお買い物は諦め、タマネギを売っているおじさんの写真を撮ったりするのが精一杯。
 結局、このバザールの見学時間は10分くらいだった。

 もうあとちょっとでバザールの出口というところに、名前を忘れてしまった果物を売っているおじさんがいた。
 とても愛想のいいおじさんで、カメラを向けるとポーズを取ってくれる。そして、この果物を1個くれた。
 この果物はマルメロという名前で、朝食のときに出たジャムはマルメロのジャムだと教えてもらったので、(本当はいけないのかも知れないけれど)キャリーケースに入れて持ち帰り、ジャムを作った。シャリシャリした食感が残って美味しかった。

繭を煮る 10時前にマルギランのシルク工房に到着した。
 まずは、絹織物を作る過程を見せてもらう。
 蚕もここで飼っており、そこで作られた繭を使っている。だから、外には桑畑もあった。
 割と大胆にざばっと繭をすくってぐつぐつ沸いている大きな鍋に入れる。辺りには蚕の匂いが漂っている。小学生の頃、理科の授業の一環で蚕を飼っていたことを思い出す。
 まずは10分ほど繭を煮る。

糸を紡ぐ用意 繭の中にいる虫は、茹でる前に蒸気にかけて退治してしまうと聞いてちょっとほっとする。
 その後で繭を煮て、煮上がった繭の塊から素手で糸の端を取り出し、紡ぎ車にセットして糸を紡ぐ。
 1つの繭からは1kmほどの絹糸が取れるそうだ。
 紡ぎ車も回させて貰った。これが結構重い。
 重いから、一度調子に乗れば勢いで回せてしまうのではないかと思い、調子よく回せたつもりで満足してこちらのおばあさんに席を返したところ、私の5倍くらいのスピードで回していた。
 こうして紡がれた絹糸はまだ硬い。この後、1時間も糸を茹でて柔らかくする。

染色の準備 次に見学したのは、糸を染める準備をする工程だ。
 縦糸にする糸を並べ、染料を入れたくない部分に印をつけて、糸でくくっている。絞り染めと同じ理屈だろう。長さは40mで、模様は2mごとに繰り返される。
 こうして模様に合わせて糸でくくっては染めて干し、またくくって染めて干し、という作業を繰り返す。平均して7回くらいは繰り返すという。
 ツアーメンバーにアパレル関係のお仕事をされている方がいらして、ここの過程で一番熱心に質問していた。

染色の過程 次に向かったのは、布を染めるための釜が並んだ場所だ。
 一色一釜で、交替したり混ぜたりすることはないらしい。使う染料は普通は8色、特別なものは11色を使うこともあるという。
 染料には、触媒として塩と石鹸と、その他いくつかの材料を混ぜる。「その他」が何かは企業秘密らしく、教えてもらえなかった。
 染め上がった糸を干す場所もすぐ側にある。

染料 この工房では染料には自然のものを用いている。
 アカシアの花は黄色だろう。
 タマネギの皮も黄色っぽい茶色っぽい色に染まる。
 ざくろで赤く染めることができるというのが意外だ。
 緑から黒に染めることができる葉の名前が聞き取れなかったのが残念。フスワとかウツワとか聞こえたけれどよく判らなかった。女性は髪を染めるにも使うらしい。
 染料としてサクラもあったのには驚いた。

織機の調整 その次に向かったのは、シルク工房の花形(?)とでも言うべき織りの工程である。
 体育館のようなイメージの建物に何台も何台も織機が並び、調整したり、縦糸を張ったり、実際に織ったりしている。働いているのは若い女性が多い。歌謡曲っぽい音楽が流れているのもそれらしい感じである。
 その音楽に負けないくらいの勢いで、機織りの音が響いている。
 随分たくさんの織機が並んでいたけれど、そのうち動いていたのは4〜5台だろうか。

機織り しばらく、このお姉さんに張り付いてじーっと観察した。
 足もとに7〜8本のペダルがあって、踏むペダルを変えることで、どの縦糸が上下するかが変わって、元々縦糸に施されている染めと相まって模様を生み出して行くことができる仕組みのようだ。
 大体、1時間で5m織れると言っていたから、1日8時間で先ほど教わった「40m」の布が織り上がる計算だ。
 本当に側に張り付いていたら、お姉さんが私の方をちょいちょいと突く。その指し示す方向を見たら、ガイドさん始めツアー一行が建物から出て行くところだった。危うく置き去りにされてしまうところだ。

 絨毯を織っている工房も見学した。機織りよりもさらに細かい手作業だ。
 働いているのはやっぱり若い女の子が多く、みな、絵を見ながら(というか絵を見るだけで)絨毯を織っているらしい。あまりの細かさにクラクラした。
 そして、ここにも歌謡曲っぽい音楽がかかっていることに気がついて、何だか微笑ましい気分になった。

 最後に併設されたショップに辿り着いた。
 様々な色合いと柄のシルクがあって、本当に迷う。シルクとコットンとで織ったアトラス織りも売られている。女の人が多いツアーだから、見立てっこも始まる。
 自分用とも母用とも決めないまま、少し落ち着いたピンクのストール(25ドル)を購入した。
 出発したのは11時半近かったと思う。

シャシリク マルギランのシルク工房から1時間くらい走ったところで昼食になった。
 野外レストランのようなところで、冷蔵ケースに入ったシャシリクを見て選ぶ。私はトマトが刺してあるところに惹かれてこの手前の牛の串を選んだ。ウズベキスタン最終日ということもあって、ラムを選ぶ人が多かった。
 シャシリクとナン、オニオンスライスがついて、お茶が出てきて、いつものウズベキスタンらしい昼食だった。

 食事の話の直後に何だけれど、食後にお手洗いに行ったにもかかわらず、ここから10分もかからずに到着した木彫り工房でもいきなりお手洗いに行きたくなった。
 危険である。
 ギリギリ間に合ったけれどこれはもう緊急事態だと認定して、持参した止瀉役を飲んだ。これが驚くほど即効性があって、こんなにすぐに楽になるのなら、どうして今まで飲まずに我慢しなかったんだろうと後悔したくらいだ。
 ちなみに、ライオンのストッパという薬である。

細工中細工中

 ここはダンガラの木彫り工房だ。
 薬も飲んで落ち着いたところで、見学に合流する。工房の中に入れてもらい、ご夫婦と息子さんが作業している様子をみんなで取り囲む。
 とても細かい一面に施された模様を、かなり細い彫刻刀を用いて彫って行く。これは相当の手間と時間がかかっていそうだ。

書見台 また、お土産物屋さんで見かけたコーランの書見台もここで作っていた。見た目は一枚板だけれど、組み立てるとあっという間に書見台になるというスグレモノである。
 ちょっと欲しかったけれど、「買って何に使うのか?」という客観が購入を押しとどめた。
 その他にも、例えば柱の飾りなどもここで作っているという。ご主人は30年くらい前にサマルカンドで働いていたそうで、サマルカンドにご主人の彫った柱(を使った建物)がまだあるという話だった。
 また、この工房では、ウズベキスタンの古い模様などを探して(図面やデザイン画のようなものがあるらしい)、それを復刻する取組も行っているというお話だった。

テーブルの天板 また、自宅の廊下の端っこにグッズ売り場を設けてみました、といった感じで即売所も設けられていた。
 こちらはニスも塗られている。直径50cmくらいのテーブルの天板に一面彫り込まれているのは圧巻だ。そこまで大物ではなくても、木彫りをやっている母にお土産に買おうかと思ったけれど、板があまり良くないように思えて、しかも継ぎ目がすでにずれていたりしている。湿度のある日本に持って帰って大丈夫かな? という感じがしたので断念した。

 ウズベキスタン旅行記6日目 <- -> ウズベキスタン旅行記7・8日目その2

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2013.04.01

ウズベキスタン旅行記6日目

2011年9月22日(木曜日)

 前の晩、空港で迎えのバス待ちで冷えたのがいけなかったのか、3時半頃に目が覚めて、トイレに通う羽目になった。サマルカンド最終日の朝も結構キツかったし、この日はそれ以上という感じである。
 これまで、旅先でお腹を壊したことなどほとんどなかったので、自分でも意外だ。
 ツアーのみなさんが言うように、綿実油は日本人の胃とは徹底的に合わないのかも知れない。

朝食 今日はフェルガナに向けて長時間の移動だし、お腹の調子も悪いので、朝食は控えめにした。もっとも、控えめにしてこれだけ食べているのだから、やっぱり私の胃腸は丈夫である。
 7時に朝食、8時出発だ。
 これまでの移動はマイクロバスだった。しかし、タシケントからフェルガナ地方に行くには峠越えの道しかないため、普通サイズの乗用車4台が用意されていた。適当に荷物を積み込み、ほぼ部屋割り通りの感じで分乗し、出発である。

1時間後の車窓 ガイドさんとは別の車になったので、ドライバーさんと意思疎通することは難しい。車内では他愛ないおしゃべりに興じた。
 ドライバーさん達はみな親切で、あまりの日射しの強さにストール等々を窓にかけて日射し避けにしていたら、ドアを外から閉め直して上手くストールが固定できるようにしてくれた。
 1時間も走ると、車窓から一面の畑が見られるようになった。
 道は、タシケントーサマルカンドーブハラ間よりも整っている感じがするけれど、乗用車でも結構揺れる。

 10時くらいに一度トイレ休憩が入った。
 タシケントからフェルガナ地方に抜ける際にタジキスタンとキルギスタンと3国が国境を接している場所を通るため、国内移動にも関わらずパスポートコントロールを通る必要がある。また、この道は麻薬を運ぶルートにもなっているため、警備が非常に厳しい。
 ガイドさんから「湖が見えてきたら、もうすぐ国境です。」という説明を受け、再び車に乗り込んだ。
 カムチク峠は標高が2267mもある峠だし、この辺りまで来ると、周りは荒涼とした岩山という感じである。道もカーブを描きながら上り、そして下って行く。

国境越え後 国境を越えた後も1時間弱は、岩山沿いの道が続いた。
 フェルガナ地方は四国とほぼ同じ面積で、ウズベキスタンの人口の15%が住み、日本と同じくらいの人口密度を持つ農業地帯だという。しかし、少なくとも国境近くにはそんな風情はみじんもない。
 ひたすら、荒涼とした景色が続く。

 フェルガナ盆地には1世紀からゾロアスター教徒が住んでいた。
 8世紀にアラブ軍に征服され、イスラム教が広がった。13世紀始めにモンゴル軍に征服され、ティムールのおかげで中央アジアは独立している。
 ティムールの死後、国は子どもや孫に分けられ、1501年まで続いている。16世紀はサマニ朝が続いていたが、17世紀の始めにシルクロードが衰退するのと同時にサマニ朝も弱体化し、コーカンド・ハン国がそれに代わっている。

 17世紀、コーカンドに要塞が造られ、1845年から1876年まで、コーカンド・ハン国の首都であった。
 18世紀から20世紀まで家具工場が多くあり、中央アジアの家具の90%はコーカンドで作られていた。
 コーカンドは「風の街」という意味で、サマルカンドは「豊かな街」という意味だそうだ。どちらも美しい名前である。

昼食ラグメン

 12時を過ぎ、コーカンドの街に入ったところで昼食になった。屋根はあるけれどオープンエアの、ちょっと洒落た感じのレストランである。
 ナンや野菜の前菜が出てくるのはいつも通りで、その他に今回はラグメン(日本のうどんのような麺がトマトベースのスープに入っている)と、ハンバーグのようなメインディッシュがついた。
 なかなか美味しい。胃腸の調子を探り探りしながら食べざるを得ないのが残念だ。

フダヤル・ハンの宮殿 14時前に、フダヤル・ハンの宮殿に到着した。
 コーカンド・ハン国最後の王であるフダヤル・ハンは、1863年から1873年にかけてこの宮殿を建設した。当初は114の部屋から成っていたけれど、1876年の民主運動に伴ってその多くが破壊されてしまった。
 宮殿は壊されたけれども、王自身は20世紀初頭までロシアで暮らしていたらしい。
 現在は、表玄関、王座の間、受付の間、寝室しか残っておらず、内部は博物館になっている。

宮殿表玄関 破壊されずに残された表玄関はタイルで覆われている。やはり美しい。
 中に入って、2000スムのカメラ代を払う。
 内部のタイル装飾も美しい。ただし、内部の装飾は、タイルで飾られているというよりは、イメージとしてはウエッジウッドのジャスパーの感じだ。その地の色は濃いブルーである。

 この木造の天井は、受付の間のものだ。天井板は、彩色され、細工されてから天井に付けられたそうだ。彩色の基調は赤と青と黄色の三原色である。
 当時も今も木材は貴重な資源の筈で、少なくとも建設当時、王の権威と財力は相当なものだったのだろう。
 ドアですら、一般の家屋では非常に小さいものしか付けられず、大きなドアは豊かさの象徴であり、実用品というよりは装飾であったという。
 ポプラの木は柔らかいのでドアを作ることはできず、ドアになったのは楡の木だ。細工がしやすいポプラは天井等の装飾に使われている。

 幌馬車(当時は非常に高価なものだったらしい)などが中庭に並べられ、お皿などの陶磁器やアクセサリー類がケースに入って陳列されている。中国や日本に由来する品も展示されていて驚いた。
 驚いたといえば、宮殿を見学しているとき、大きなビデオカメラを抱えた集団がいた。テレビ局のカメラで、レポーターがいたから、もしかしたら生中継していたのかも知れない。
 「さりげなくカメラの前を横切っちゃおうか。」などと言い合ったけれど、もちろん、自重した。

女子高生? 1時間くらいで宮殿の見学を終え、歩いている途中、またもや可愛らしい女の子たちに遭遇した。
 中学生か高校生かどちらだろう。制服を着ている。
 特にこの真ん中に写っている女の子が人気で、みんなで写真を撮らせてもらい、一緒に撮ったり、大騒ぎになった。ガイドさんは私たちのこんな写真好きが今ひとつ理解出来なかったようだ。「みんな、写真撮ってるから待って。」と声をかけると、諦めたように呆れたように首を振っていた。

モスクのミナレットテラス 次に向かったのは、金曜モスクである。カメラ代2000スムを支払って入場する。
 このモスクは1812年に建設された。中庭の真ん中に高さ22mのミナレットが建っている。
 幅100mのテラスで飾られており、テラスの天井を支えている多数の柱を作るための木はインドから運んで来たという。その当時、フェルガナ地方にはこれほど丈の高い木は存在しなかったのだ。
 ここのモスクでお手洗いを借り、15時過ぎに次の目的地であるリシュタンに向けて出発した。ガイドさんに聞くと、目的地まで1時間だと言う。聞くたびに所要時間が変わるので、その後、ひとしきり笑い話になった。

陶器工房中庭 16時近くになってリシュタンの陶器工房に到着した。
 外観は大きな農家、一歩中に入ると素敵な邸宅である。どちらにしても、やはり陶器工房っぽくない。
 まずは、工房のご主人に陶器づくりの工程を説明してもらった。

陶器づくり陶器づくり この左の機械に土をセットして型を取ることによって、お皿を同じ大きさ・形に整えることができる。
 この土は、リシュタンの地元の土を使っている。土を整えるのに1ヶ月から2ヶ月かかる。
 実際に土をこねて、この機械に土を置き、プレス(というよりは、回転させて少しずつ伸ばしていたからろくろかも知れない)して型取りをする様子を見せてくれた。
 成形した皿は2日間外に置き、水分を飛ばす。

 その後、釉薬をかけて一度600度くらいで焼いてから模様を描き、もう一度釉薬をかけて今度は1200度で焼く。「九谷など、日本の染付けと同じ方法です。」と説明されてもピンと来ない自分が悲しい。
 釉薬にはコバルトや銅、マンガンを混ぜて色を出しているようだ。
 この絵柄を描いていたのは若い男の子たちだった。

イシクール 釉薬は、キルギスタンに生える草を燃やして残った灰を使って作る「イシクール」というものだそうだ。
 この釉薬はウズベキスタンでもこの工房でしか作ることができず、使われていないという。サマルカンドなどで売られていたリシュタンの陶器には、イシクールは使われていないらしい。
 貴重な釉薬であり、貴重な陶器なのだ。
 イシクールという釉薬の品質はとても高いという。工房に飾られている数々の作品を見て、さもありなん、と思う。

200年前のお皿 工房の2階はミニ博物館になっていて、展示されている作品のいくつかもご主人が説明してくれる。
 ご主人が手に持っているのは、200年以上前の陶器で、これだけの色を残しているのは、イシクールの力によるらしい。
 イシクールはメドレセ等を飾ったタイルにも使われていたことが確認されており、その作り方を知っているのはこの一家だけであることから、補修のプロジェクトに参加したこともあるそうだ。

 一通りの説明をしてもらった後は、お買い物に突入した。
 ギジュドゥバンで買わなかった分、私も購入する気満々で並べられたお皿を見る。私だけでなく、みなさん、結構熱心かつ真剣に見ている。
 この工房は「NORIKO学級」という日本語学校を併設していて、卒業生なのか先ほど絵付けをしていた男の子が日本語で対応してくれる。お買い物熱も高まろうというものだ。
 売り物として並んでいる物ではなく、こちらのお宅で塩入れとして使っていた壺を交渉の末に手に入れた方もいらした。流石である。

魚の皿 そして、自分が買うと、周りの人にも買って貰いたくなるらしい。
 ここまでほとんどお買い物をしていなかった男性がターゲットになって、女性陣が束になって「買いなよ!」「買ったところが見たい!」コールとなった。可笑しい。
 その間隙を縫って工房のご主人に相談し、この手が込んだ模様の、綺麗に発色していると推薦してもらった魚のお皿を購入した。2枚で15ドルだ。安くはないけれど、いい色の可愛いお皿を買えたので満足だ。

 17時半過ぎに陶器工房を出て、リシタン・ジャパンセンターに行った。
 次にどこへ行くとも説明されずに車に乗り込み、到着して入るよう促された建物は、何というか、近代的な感じである。
 中に入ると子どもたちがたくさんいて、並んだ椅子に促され、女の子が二人現れてラジカセがスタートすると、いきなり「マル・マル・モリ・モリ!」だったのには驚いた。
 歌詞も振りも完璧である。

 そして、次に始まったのが「アルゴリズム体操」だ。
 さらに、びっくりする。どうしてこの子達はそんなリアルタイムで日本で流行っているものを知っていて、かつマスターしているのか。もう、大拍手だ。
 ソーラン節の歌と踊り、日本の曲の楽器演奏と続く。

smile さらに、子ども達が並んで、smileが歌われては、ツアーメンバーの涙腺直撃である。
 曲は「smile」だけれど、こちらはもう鼻をすする音の大合唱だ。
 これ以上「健気」という言葉がしっくりくることも他にないだろうと思う。そう思いながらずっとカメラを構えて動画で撮っていた私自身についてはどうかと思わなくもない。
 このときが、この旅行で一番印象的な場面だったことに異論のあるツアーメンバーはいないと思う。

 そのうち、あちこちで車座になっておしゃべりが始まった。
 「マル・マル・モリ・モリ!」を踊ってくれた女の子たちとおしゃべりを始めたら、歌はCDで覚えたと言われてびっくりした。ここにはカラオケがあると聞いてさらにびっくりだ。
 彼女たちは、日本人がつけたという日本の名前も持っていると言う。3人はそれぞれはなちゃんにいずみちゃんにまいこちゃんだそうだ。
 日本語を勉強して、日本の大学に行きたいと言う。日本でウズベキスタンのことを教えたいという子もいる。

 日本のどこを知っている? と聞くと、富士山、京都はいいとして、「別府」という答えが来てのけぞった。
 そんなシブイ場所に何故行きたい? と思ったら、ここに通っている20歳の男の子が別府の大学に合格して留学することが決まったのだと教えてくれた。
 ガイドさんも会話に入りたくてうずうずしていたらしく、彼が何年間日本語を勉強していますかと尋ねたら、3年という答えが口々に返ってきた。12年英語を勉強した自分が・・・、というのは考えないことにしようと思う。

 漢字も書けると言われて見せてもらったら「必勝」だった。何でも、ゴルフの大会があるので、応援をするために作っているという。
 アリメさんに教わっていると言われて???と思ったら、JICAから派遣されている方のお名前だった。このときはいらっしゃらなかったけれど、代わりに、ボランティアで来ているという日本の学生さんがいた。

 ウズベキスタンの学校は午前と午後の二部制で、彼女たちは、午前の学校が終わった後で毎日14時から来ているそうだ。今日は特別に私たちのために残ってくれていたそうで、早めに帰った子もいるという。
 7歳から24歳まで、様々な年齢の人が40人ほど集まっていると言う。遠くから来るまで通っている子もいるらしい。タクシーで30分という子もいると聞いて驚いた。

 日本の遊びをしていると言うので「何?」と聞いたら、ドッジボールの他に、「鞄持ち」という答えが来て笑ってしまった。「smile」の曲を教えてくれた人が鞄持ちも教えてくれたそうだ。可笑しい。
 また、以前に日本人が来たときに、トトロとサツキとメイがネコバスを待っているシーンを演じて、「アニメのどのシーンでしょう?」というクイズをやったという。
 日本語コンテストの話も出て、「言葉の大切さ」をスピーチをしたと聞いてさらにのけぞった。日本語コンテストというよりは弁論大会らしい。ガイドさんも弁論大会に出て3位になったと自慢げに語っていたのが可笑しい。
 私が彼女たちと話しているのを聞いていたガイドさんが学生時代の英語の先生を思い出したと言うので笑ってしまった。ツアーの方からは「幼稚園の先生をしているの?」と聞かれたけれど、それも不正解である。

 突然、停電になったりしつつ、学校の勉強の話も聞いた。
 どの科目が好きかという話から、ウズベキスタンの学校は、ウズベク語のクラスにいるとロシア語が必須で、ロシア語のクラスにいるとウズベク語が必須で2時間ずつ、その他に英語が3時間あることを教えてもらった。誰でもトリリンガルに育つということだ。
 日本語能力試験の話も出て、2級を取ると留学の資格が得られるらしい。

 そんな話をしていたらあっという間で、そろそろ時間ですとガイドさんから声がかかった。
 サイン帳が周り、記念撮影をして、メールアドレスを交換する。「日本語で書いてね!」と懇願したら、「ローマ字じゃないと読めないよ。」と留学生からツッコミが入った。流石に日本語OSは入っていないので、文字化けしてしまうらしい。確かにそのとおりだ。
 とても名残惜しかった。
 このときおしゃべりしたいずみちゃんとは、今もときどきメールのやりとりをしている。

夕食 リシュタンからフェルガナのクラブホテル777までは1時間弱だった。
 クラブホテル777はやけにリゾートの風情のホテルで、お部屋が無駄に広い。
 到着後15分ほどの時間をみて、すぐにホテル内のオープンエア・レストランで夕食になった。希望者で赤ワインをシェアする。私も「お腹を壊しているのにいいの?」と言われつついただいた。
 この夕食のとき、何故かガイドさんがいじりたおされていた。スイカにウォッカを注射して飲むとか言い出すから、それはいじられるに決まっている。

 ゆっくり夕食をいただき、流石に長距離移動で疲れたのか、22時30分には就寝した。

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2013.03.12

ウズベキスタン旅行記5日目その3

2011年9月21日(水曜日)

 カラーン・モスクから歩いてすぐのところにタキ・バザールがある。
 タキとは「丸屋根」という意味で、こうしたタキ・バザールは最盛期には40を数え、交差点のド真ん中に建てられていたそうだ。ブハラにはこの丸屋根をたくさん乗せたバザールがいくつか残っている。
 入口と内部の通路の天井が高くなっているのは、荷を積んだラクダが通るためである。

(推定)香辛料屋 その昔はタキごとに扱う品物が違っていたらしい。今は様々なお店が並んでいる。
 このタキの中で、楽器屋さんのおじさんが色々と演奏してくれたのにつられて、彼が自主製作したらしいCD(10ドル)を思わず購入した。この香辛料などを売っているお店のお兄さんのポーズの取りっぷりに負け、思わず写真を撮る。
 その他にアクセサリーや定番のスザニや絨毯なども売っていたし、今やタキ・バザールはお土産物屋さん街となって観光客を集めている。確かに人々の集まる場所になっている。

アブドゥルアジズ・ハン・メドレセアブドゥルアジズ・ハン・メドレセ 次に入ったのは、アブドゥルアジズ・ハン・メドレセだ。
 このメドレセは17世紀になってから建てられたせいか、他のメドレセとはだいぶ印象が違う。
 何しろ、カラフルである。
 概ね煉瓦色とブルーで統一されていたこれまでのメドレセとは違って、赤などの色も入っている。それにしても、宗教の建物に赤が使われていると途端に仏教のイメージが強くなる気がする。
 色使いだけではなく、抽象化していない花を始め、いわゆる「偶像」としてイスラムでは排除されるだろう意匠が使われていることも珍しい。

アブドゥルアジズ・ハン・メドレセ このメドレセは、内部もちょっと変わった感じだった。
 キンキラキンではない。ブルーでもない。
 やはりこちらも赤を基調とした装飾になっている。色褪せてしまったり、タイル自体が落ちてしまったり、傷みはかなり激しいけれど、それでも往時の美しさを偲ばせる。何だか落ち着く空間だった。

 次に向かったのはアブドゥラ・ハン・ティムだ。
 ティムとは、屋根付きバザールの一種で、ただしタキとは違って通り抜けはできず入口は1ヶ所だけだ。
 アブドゥラ・ハン・ティムの中は絨毯と織物のお店になっていて、絣のような布を織っている織機があった。しげしげと見ていたら皆に置いて行かれそうになってしまった。
 この後、絹織物の産地であるマルギランに行く予定で、みなここではスルーしたようだ。

コウノトリの形をしたハサミ 逆にみなが心惹かれていたのが、ブハラではとても有名なコウノトリの形をしたハサミだ。お店のおじさんもデモンストレーションしてくれる。
 かなり迷ったけれど、「使うか?」という自問に「使う。」と答えられずに諦めた。
 コウノトリのハサミではなく、このハサミの切れ味でデザインだけではないという感触を得て、サバイバルナイフに吸い寄せられていた方もいた。山登りには必携の品らしい。

 陶器のお人形のおじいさんに一目惚れしつつ熟考の末買わなかったり、ハマムの中をちょこっと覗かせてもらったり、ホテルに残った方の旦那様が街歩きをしているところと行き会ったり(奥様はホテルで休んでいらしたらしい)した。
 やはりブハラは見どころが旧市街にぎゅっと集まっている街だということだろう。

マガーギ・アッタリー・モスク 次に行った、というよりも立ち寄ったのがマガーギ・アッタリー・モスクだ。ブハラに現存するモスクでは最古のものだという。
 一部改築されてはいるものの、12世紀の建築で、20世紀に入って発掘されるまでほとんどの部分が埋まっていたのだそうだ。だから、この写真ではちょっと判りにくいかもしれないけれど、道路などよりも低いところに建てられている。
 そうなるとさっきの「モンゴル軍侵略より古い建物はブハラには2つしかない」というガイドさんの説明はどうなるんだろうとこれは後追いで考えた。チンギス・ハンのブハラ侵略は1220年だから、12世紀に建てられたここも「それより前の」建物である。カラーン・ミナレットとイスマイール・サーマーニ廟と、ここも入れれば3つということになる。

 中は絨毯の博物館らしいのだけれど、私たちは残念ながら入館しなかった。この後の時間の使い方を考えると、ぜひここは立ち寄りたかったなと思う。
 何故そう思うかというと、この後行ったスザニ工房で何故か2時間を過ごすことになったからだ。この時間配分は未だに納得がいかない。結果として、先ほど書いたウルグベク・メドレセや絨毯博物館、チャル・ミナールなどに行っていないからということもある。

スザニ工房スザニ

 それはそれとして、スザニ工房はなかなか楽しかった。
 お嬢さん達が刺繍のステッチを実演してくれ、お好きな方々はこの真ん中に積まれた糸をもらって刺繍を始めている。手先の不器用さに自信がある私はやりかけてすぐ放り出してしまい、お台所を覗いたり、赤ちゃんを抱っこさせて貰ったり、お茶を飲んだりしていた。
 そして、右側がこのスザニ工房で購入したスザニ(75ドル)である。ウルグットのバザールで購入したスザニもブハラのスザニだったし、私はこの街のことが大好きらしい。何の意匠なのか聞いた記憶があるのだけれど、思い出せない。
 でも、やっぱりここで2時間というのはどうなんだろう。最初からそう言われていたら、多分、私は勝手にお散歩に出かけていたと思う。

 17時30分くらいになって、このスザニ工房を出た。ちょうど裏口辺りで可愛らしいお嬢さんたちに出会い、あまりの可愛さにカメラを向ける。はにかんで、でも笑顔を見せてくれるのが嬉しい。
 彼女たちは絶対に美人になるだろう。

ラビ・ハウズ スザニ工房を出た私たちは、ラビ・ハウズ(タジク語で池のほとりという意味だそうだ。判りやすい。)に向かった。
 このラビ・ハウズは六角形のため池で、周りには桑の木が並んでいる。意外に深くて、10mくらいもあるらしい。
 まさに「憩いの場」といったイメージのこの池の周りには、お金持ちのユダヤ人の邸宅が並んでいたのだそうだ。その邸宅のひとつをこの溜め池にしたという。
 その昔、ブハラには120もの溜め池があったのだ。

 ナディール・ディヴァンベギ・メドレセは当初、当時の総理大臣ナディール・ディヴァンベギによってキャラバンサライとして建設された。しかし、当時の支配者のハンがここをメドレセと勘違いして褒めちぎったため、支配者に反抗するなど思いも寄らなかった彼はここをキャラバンサライではなくメドレセとしたといういわれを持つそうだ。
 その後、ミナレットの建て増しもされたけれど、元々がキャラバンサライだから全体の構造は伝統的なメドレセとは異なっていて、例えば内部にある筈の回廊もない。
 ファサードはモザイクで覆われており、上部にはシムルという幸せの鳥が図案化されている。ただ、元々がキャラバンサライとして建設されたため、偶像崇拝を理由に壊されずに済んだという。

民族舞踊民族舞踊

 ガイドさんは我々を席に案内すると、ホテルでお休みされていた方のお迎えに行った。飲み物の注文をどうしようかと思ったけれど、お店の方も観光客慣れしているし、みなさんも旅行慣れしているのでそこは手早い。
 もう一つのツアーは確か4人だった筈なのだけれど、3人しかいない。お一人はホテルで休息だそうだ。あちらはお腹を壊した方はいらっしゃらないらしいのだけれど、やはり疲れが出ているのだろう。

 メドレセの中庭がレストラン兼ステージで、中央に大きくスペースが取ってあって、その周りにテーブル席がしつらえてある。前菜にスープ、ポトフ風のお料理がテーブルに並ぶ。
 ガイドさんとツアーメンバーお二方も到着して、写真を撮って、動画も撮って、食事もして、大忙しである。もっとも、民族舞踊ショーではあるけれど、半分くらいはファッションショーの感じだった。

 1時間くらいたったところでツアーメンバーのお一人がガイドさんに尋ねると、19時過ぎにここを出ると言われた。21時過ぎの国内線に乗るにしては、やけに早いなと思う。
 空港に到着したのは19時15分くらいで、とりあえず持ち歩いていた水筒の中身をその辺の花壇にあける。もう熱湯ではないし、お茶だから、多分お花にも害ではないだろう。

 それにしても心配はスーツケースの重さである。私のスーツケースには大きなスザニが3枚とコニャック2本が足され、結構持ち重りのするナンも入っているのだ。ブハラの空港ではグループチェックイン扱いだったのでパスできたけれど、注意して見ていたら、私のスーツケースは20kgを超える数値を指していた。

 かなり遅くなってガイドさんが説明してくれたところでは、元々この日は21時35分発のウズベキスタン航空でブハラかタシケントに戻る筈だったが、その便がキャンセルされ、20時25分発の便に変更になったそうだ。
 事前に民族舞踊ショーを見る場所と食事の場所は変えますと案内されていたにもかかわらず、民族舞踊ショーを見ながらの食事になったのはそのためだったようだ。

 20時25分発の便は意外と早く21時10分にタシケントに到着した。
 ウズベキスタンの国内線はシンプルである。何しろ荷物の受け取りが外なのだ。いわゆるターミナルビルに入る前、露天である。雨が降ったらどうするのだろう。
 そこに、持ち運び式のターンテーブル(トレーラーの低めの荷台に荷物を流すナナメの板が取り付けられているイメージだ)があったのか運ばれてきたのか、これを使うよりはコンテナに取りに行った方が早いんじゃないかというような「ターンテーブル」だった。
 そこで荷物を受け取り、そのまま空港の外にコロコロ転がして出て行く。もはや驚く人はいなかった。

 搭乗便の変更の連絡が上手く行っていなかったのか、空港の外でバスを30分くらい待つ羽目になった。
 流石にこの時間だとウズベキスタンでも冷える。ブハラで観光したままの格好だったので、震えてしまった。けれど、こういうときに楽しくおしゃべりしながら待てるのがこのツアー・メンバーならではである。

 面白かったのは、昨夜テレビを見ていたら日本語講座をやっていたというお話だった。日本ではウズベク語講座はないけれど、こちらでは日本語講座がやっているんだと驚いた。何でも「あ、ごめんなさい」みたいなシチュエーションをやっていたのだそうだ。
 私は元々あまりテレビを見ないので、旅先でも部屋のテレビをつけることはほとんどないのだけれど、こういう発見もあるんだなと新発見した気分だった。

 初日にも泊まったBekは空港から割と近い。22時過ぎには何とかホテルに到着できた。
 明日は、モーニングコールが6時、朝食は7時から、出発は8時だそうだ。結構、早い。
 お水が欲しいという方がいらして、ガイドさんが買って来てくれるという話になった。ガイドさんがお部屋の水を飲んでもいいですと言ったけれど、部屋で見てみたらガス入りだったので、ガスなしのお水をもえらえるのは有り難い。
 そういえばやったことがないけれど、ガス入りの水を湧かしたらどうなるのだろう?

ホテルのお部屋 お部屋は今回も1階だったので、ポーターさんを待つのも面倒臭いし、自分で転がして行ってしまった。
 ところが、部屋に入ってカーテンを閉めようとしたら、何故だかカーテンが丸ごと落ちてきた。え???
 しばらく呆然としていたのだけれど、今はいいとしても明日の朝カーテンなしのお部屋は辛い。ロビーまで行って、そこにいたポーターさんを問答無用で引っ張ってきて、落ちてきたカーテンを見せたところ、お部屋係の女性を連れてきてくれた。あっという間に修理完了。有り難い。
 明日も早いし、シャワーを浴びて、12時くらいに就寝した。

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2013.03.09

ウズベキスタン旅行記5日目その2

2011年9月21日(水曜日)

アルク城 道路を渡ればそこはアルク城である。
 アルク城も当時のまま残されている。
 城門には2本の塔があり、その塔はバルコニーに繋がっている。1920年までは城門に時計があり、その横に軍刀とムチが掲げられ、支配者の権力の象徴であったそうだ。
 アルク城の前の広場がブハラのレギスタン広場で、街の中心だ。元は市場として利用されていた場所だ。
 このアルク城を研究した考古学者によって、2400年くらいたっていると判ったそうだ。
 入口のスロープは1905年まで木造だったけれど、その後、煉瓦で作り直されたらしい。

 紀元前4世紀からあった要塞が建て直され、その後、8世紀にやってきたアラブ軍が要塞を破壊し、ゾロアスター教会の代わりにモスクを建設した。
 8世紀から13世紀にかけて、この要塞は壊されたり直されたりを繰り返し、13世紀にモンゴル軍に破壊され、16世紀に再建された。そのまま、20世紀までここにあったが、20世紀初頭に80%が壊されてしまった。
 「流石、要塞」という歴史だ。
 
 20世紀初頭まで、アルク城は、支配者の住まい、モスク、ハレム、国庫、造幣局、各種の倉庫、馬小屋、迎賓館、王座の間、監獄などから成立していた。さらに、警備隊も常駐していた。
 住まいがあっても支配者はここに住んでいた訳ではなく、馬で通っていたらしい。
 入場料とカメラ代(2300住む)を支払い、スロープを上って、中に入る。
 この坂は、筋肉痛がキテいた足には結構な急坂に感じられる。

監獄 中に入ってすぐのところに監獄跡があった。何故かここだけ人形までセッティングされている。
 この監獄に繋がれた人に水は与えられなかった。この監獄の上に厩が作られていて、その糞尿が落ちてくるような仕組みになっていたそうだ。今も床が傾いて、水を集めて下に落とせるような穴が残っている。
 女性陣からは「うわぁ。」「嫌だ・・・。」と悲鳴とも溜息ともつかない声が上がった。
 見学の最初からインパクトのある話を聞いてしまった。

モスクの天井 要塞の中にはモスクもある。モスクには冬仕様の部分と夏仕様の部分があり、テラスはもちろん夏仕様だ。
 さっき行ったモスクに支配者が通っていたと言わなかった? と思うけれど、ガイドさんは特にそこには触れずに説明を続ける。
 このモスクは16世紀に建設され、このテラスの天井部分は修復されたことのないオリジナルだという。
 奥の方に作られているのか、もの凄く先っぽだけ、水色のドームと、そのてっぺんに付いている三日月のマークが見えた。

耐震構造 タシケントとサマルカンドとブハラは地震が多く、そのため、建物は耐震構造になっている。
 土台は焼いた煉瓦で作られ、その上に丸太が置かれ、骨組みも作られている。楡の木の丸太で作られた骨組みの間を埋めるように焼いた煉瓦が重ねられる。
 ここの壁の表面がないのは、その耐震構造を見せるためなのかも知れない。だとすると、横に置かれた自転車はなかなかのご愛敬である。
 そういえば、攻め込まれて破壊されたという話は何度も聞いたけれど、地震で崩れたという説明は聞いた記憶がない。

 城内で開かれているお土産物屋さんで往時の様子を描いた絵はがきなどを冷やかしながら進む。次に入ったのは王座の間だ。
 王座の間はテラスに囲まれ、現在そのテラス部分はしっかりお土産物屋仕様になっている。ここで戴冠式なども行われていたらしい。
 少し高くなったところに四阿風に大理石で作られた王座がある。しかし、これは作り物で、本物はロシアに征服された後ロシアに運ばれ、今はエルミタージュ美術館にあるそうだ。
 次の王をカーペットの上に座らせ、カーペットに乗せたまま王座に移動させたらしい。空飛ぶじゅうたんみたいだ。

王座の間 入口を塞ぐように壁が作られているのは、謁見の後、支配者に背を向けることが禁じられていたため、その壁まで後ずさりして戻り、壁に隠れて方向転換するためである。ややこしい。
 謁見の間で支配者と目と目を合わせることも禁じられていたというし、相当に権威のある支配者だったのだろう。このかなり広い王座の間は、ブハラ産の絨毯で覆われていたらしい。金持ちでもあったようだ。
 王座(もどき)には衣装や王冠などの小道具が揃っていた。それを着て化けている方もいて、なかなか様になっていた。

 王座の間で働く支配者のために、何とか(聞き取れなかった・・・)という受付が備えられていた。
 殺し屋が支配者を探せないようにするため、その受付はハーレムに囲まれていたという。ハーレムに囲まれていれば暗殺防止になるのか、ちょっと謎だ。
 この城には3000人の人が暮らしていたたため、支配者は3000人と挨拶を交わすのに疲れ、挨拶担当の影武者がいたという。

四阿 アルク城の下に広がっているレギスタン広場は市場として使われていたが、同時に死刑場としても使われていた。そんな両極端な使い方をしなくてもいいだろうにと思う。
 この四阿はレギスタン広場に面して作られている。支配者が、死刑の前にはここから太鼓で合図を送り、死刑の過程を見物したらしい。治安維持のためにも見せしめが必要で、見せしめのためには人が集まらないと意味がないということだろうか。

 アルク城を出ると、ガイドさんがスタスタ歩いて行こうとするので、慌てて止めた。ツアーメンバーの半分はまだ姿も見えていない。このまま私たちが動いたら迷子決定である。
 ガイドさんは慌てて探しに行き、残ったメンバーで、「リュックを背負ってると背中に来るよね−。」などと言いつつ再びストレッチ大会となった。
 やっぱりウズベキスタンの方々の注目を集めてしまった。そんなに変だったろうか。

ナンづくりの道具肉屋

 アルク城の横を回り込み、市場を通り抜ける。
 ナンを作るときに使ったハンコをいうか、模様を付けるための道具が売られている。記念に買って帰ろうかとも思ったけれど、この道具を使う機会はないだろうと思い直して諦めた。
 道具だけでなく、お肉屋さんも並んでいる。何というか、肉というのは生々しい。
 ここはブハラでも最も古い市場のひとつで、金製品などのアクセサリも売られている。ちょっと気になったけれど、ここで買うのは、目が利かない私には勇気が必要だ。ただ、24金だというから、買って損はなかったかも知れない。

カラーンモスク全景 カラーン・モスク前に到着し、見学の前にお昼ごはんになった。
 12時くらいに昼食を食べるのはこのツアーで初めてのことではなかろうか。
 狭くてちょっと怖い階段の一番上まで行くと、カラーン・モスクを見渡せる屋上にテーブルが並んでいる。日射しはかなり強いけれど、気持ちいい。
 そして、いい眺めである。
 
昼食の前菜メインディッシュ

 テーブルセッティングが可愛らしい。
 前菜のサラダもニンニクが相当に効いていて美味しい。ナンはホテルの朝食でいただいたものに一歩譲るといった感じだ。
 メインディッシュは、ポトフのようで、油っぽさがなくて美味しい。
 この頃には「お腹の調子が・・・。」というのは定番の話題になっていて、なかなかガッツリ食べるという訳には行かない。残念である。
 コーラが人気で「体調を崩したときはコーラだとパリの医者に言われた。」とか「コーラを飲むとしゃっくりが止まる。」等々のトリビアまで飛び出した。
 このレストランの唯一の欠点は、お手洗いの電気がつかなかったことだ。

カラーン・ミナレット 1時間くらいかけてゆっくり昼食をいただき、カラーン・モスクに向かった。
 オイカロン広場は、カラーン・ミナレットとカラーン・モスクとミル・アラブ・メドレセで構成される。
 ミナレットは高さ47mで、一番太いところで太さ13mあるという。石膏のモルタルにラクダのミルクと雄牛の血液と玉子を混ぜられているという。ちょっと気持ち悪い。
 チンギス・ハンがブハラに来てカラーン・ミナレットを見上げたときに帽子を落としてしまい、腰を屈めてその帽子を拾ったとき、自分に頭を下げさせたこのミナレットを壊すなと命じている。
 嘘か本当かかなり怪しい伝説だけれど、ブハラの街を破壊したチンギス・ハンがこのミナレットを壊さなかったことは確かである。
 かくして、モンゴル軍は、先ほど行ったイスマイール・サーマーニ廟とこのカラーン・ミナレット以外の建築物を全て破壊し尽くした訳だ。

 ミナレットは煉瓦積みで、上のベルト状のところは釉薬をかけた煉瓦で飾られている。釉薬をかけた煉瓦が初めて使われたのは、12世紀だ。
 上部は16のアーチで飾られている。
 20世紀の始めにモスクは200くらいあり、ミナレットが必ずその近くにあった。このカナーン・ミナレットが中でも一番重要ということになる。カラーン・モスクにも付けられている「カラーン」という名前は、「偉大な」という意味のタジク語だ。
 イスラム教徒が1日に5回祈りを捧げる前、アザーンがこのミナレットから流される。

モスク内部の礼拝堂 モスクの内部は、広い中庭の周りに回廊が張り巡らされている。この回廊だけは、何故か白く塗られ、冷たい雰囲気を醸し出している。
 中庭自体は、門に近い方に樹木が1本、そして一番奥の礼拝堂の手前に小さな泉がある。
 その礼拝堂側から振り返ると、泉と門と右奥にカラーン・ミナレットが見える。
 このモスクは、8世紀末にこの地に建てられて以来、常にブハラの中心的モスクであった。ミナレットを破壊しなかったチンギス・ハンは、このモスクを宮殿だと誤解して徹底的に破壊したという。
 現在のこの姿は、16世紀始めに建立され、ロシア時代には倉庫として使われるなど荒廃を極めた後、修復されたものだ。
 いずれにしろ、広々として静謐で気持ちのよい空間だった。

 以前は、このモスクからカラーン・ミナレットに入り、上ることができたという。私たちが行ったときには上れないようになっていた。残念である。
 カラーン・モスクのカメラ代は1000スムだった。

ミーリ・アラブ・メドレセ カラーン・モスクの真正面に、ミーリ・アラブ・メドレセがある。
 これまで見た「メドレセ」がどれも今はお土産物屋さんになっていたり、モスクとして使われていたり、ホテルになっていて泊まったりしたのに対し、このメドレセは現役の神学校であり、宗教指導者の養成に当たっている。
 中に入ることはできず、入口も格子戸が閉められていた。そして、修復中だったのが惜しい。
 モスク側から写真を撮ろうと奮闘していたら、ガイドさんが「カメラを貸せ。」と言い、この写真を撮ってくれた。

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2013.03.03

ウズベキスタン旅行記5日目その1

2011年9月21日(水曜日)

朝日に染まるホテル 長距離移動の疲れもあって、旅行に来て初めて5時半くらいまで熟睡した。このアムレットホテルはお部屋も暖かくベッドも快適で、1泊しかしないのが勿体ないくらいだ。
 6時くらいに起き出してホテルの写真を撮っていると、ホテルのお兄さんが英語で「この近くに小さなマーケットがあります。」と教えてくれた。
 聞けば本当にホテルを出てすぐのところだったので、有り難く行ってみることにした。

マーケットマーケット

 確かに、こぢんまりしていて、近所の方々が売りに来て買いに来ているといった雰囲気だ。野菜や乳製品、玉子や果物にお肉などが売られている。
 一人で入り込んでじろじろ覗き込んだり、カメラを向けたりしている私にも笑顔を向けてくれる。
 お肉屋さんのおじさんもバッチリ、カメラ目線で写真に写ってくれた。
 上右の写真のお兄さんは、この後、赤いバケツに入っている乳製品を食べさせてくれた。ヘラをつかってすくい取ると私の指に置いてくれる。お腹は大丈夫かな、乳製品なのは確かだけれどこれは一体何だろうと思いつつ、恐る恐る舐める私に、その辺りにいたおじさん達は揃って面白そうな視線を向けてくる。
 舐めてみるとそれは濃厚なクリームとバターの間くらいの乳製品で、こってりしっかりしていて美味しかった。ジェスチャーで「美味しい」とやったけれど、伝わっただろうか。

ホテル中庭アムレットホテル外観 昨日は暗くなってから到着したのでちゃんと見ていなかったホテルの外観はこんな感じである。
 ギリギリ月を入れて入口の写真を撮ってみる。
 元神学校だったためか、かっちり固められて閉ざされている感じがする。修業の場だからだろうか。
 その分、中庭が取ってあって、そこには寝台(昼寝台?)が置いてあり、共通の開かれたスペースというイメージがある。

朝食 7時半くらいから三々五々集まって朝食をいただいた。
 それほど広いスペースではないのだけれど居心地のいい空間だ。
 ウズベキスタンといえばナン、ナンといえばサマルカンド、ウズベキスタンの人もサマルカンドのナンが一番美味しいと言ってお土産に買うほどだと何度も聞いたけれど、このアムレットホテルの朝食に出されたナンは、私の中で不動の1位を獲得している。
 フランスパンぽい感じで、本当に美味しいナンだった。そういえば、さっきのマーケットではナンは売っていなかったから、各家庭で焼いているのかも知れない。

 9時に中庭に集合し、ブハラ市内観光に出発した。最初の目的地まではちょっとバスに乗るけれど、あとは夕方までバスには戻らないという。
 今日は夜の飛行機でタシケントに戻るので、荷造りを終えたスーツケースもバスに積み込んだ。
 本格的に体調を崩した方がいらして、今日はホテルで休息されるという。ご夫婦2人を置いて、7人とガイドさんで出発した。

 ブハラの街は非常に古く、1520年くらいに成立している。ブハラには40以上の民族が住んでいるそうだ。
 大陸気候で昼夜の温度差が激しく、一番寒い1月にはマイナス15度にまで下がることもあるし、雪が降ることもある。逆に7月には気温が48度にまで上がることがあるという。
 ブハラは、食料品工場や石油精製工場、織物工業や皮工房などが発達している。

 言い伝えによると(という台詞をガイドさんがどういう意味で使っていたのか未だによく判らない)、ペルシャ王子とサマルカンドの王女が結婚し、ブハラの地に要塞を作って支配者となったそうだ。ブハラは中央アジアの中心に位置し、シルクロードも通っていて、紀元前5世紀から発展していた。そのころの名前はノミチケントで、今のブハラという名前はサンスクリット語で「お寺」という意味である。
 9世紀にサマニ朝の首都になったのを始めとして、何度も中央アジアで興った王朝の首都になってきた。そして、ブハラの街は常にこの場所にあった。だからこそ、シャイバニー朝が16世紀に建設した街がブハラ旧市街となっていて、そこは20世紀になるまでほとんど変わらずに維持されてきたのだろう。

チャシュマ・アイユブ廟 最初に到着したのはチャシュマ・アイユブ廟だ。チャシュマ・アイユブとは、(旧約聖書に出てくる)ヨブの泉という意味である。
 12世紀に泉が湧くようになってこの建物が作られ、14世紀にドームが造られ、さらに16世紀にその手前に建て増しされて今のような形になった。今でも井戸が建物の中にあって水が湧き出ている。
 昔はこの井戸の水は眼病に効くと言われて巡礼者が多く、今も巡礼者が集まっている。
 この建物自体は、現在は、ブハラ州の博物館として使われている。

 中に入ると井戸がまだ残っていて、覗き込むと水を湛えているのが判った。井戸につるべのようなものはついていない。どうやって汲み上げているのか蛇口がいくつか並んでいて井戸の水が出るようになっていて、手に受けると冷たい。
 コップも置いてあって、ツアーの女の子が果敢にチャレンジしていた。お腹は大丈夫だったんだろうか。
 ブハラには20世紀始めまで120以上の貯水池があったけれど、今はほとんど残っていない。
 主に飲用水として使われていたものの、そのまま飲むことはできず、沸かして飲んでいたという。ますます、口にしていた彼女のお腹の具合が心配である。

聖人のお墓 チャシュマ・アイユブ廟の中には14世紀の聖人のお墓があった。
 博物館になっているという説明を受けたじゃないかと思うけれど、確かに展示物もあって、でもお墓もある。
 お墓の近くには柱が立てられ、そのてっぺんには馬の尻尾がつけられていて、手の形が打ち付けられている。これは聖人のお墓であることのしるしだ。この柱とメッカが何か関係があるという説明を受けた記憶があるけれど、詳しいことは忘れてしまった。

 このチャシュマ・アイユブ廟からイスマイール・サーマーニ廟までは歩いてすぐだった。
 ただし、間にお土産物屋さんが並ぶ一角があり、誘惑のタネがたくさんある。イスマイール・サーマーニ廟が見えてくるとその向こうには観覧車も見え、そばには動物園もあるそうで、やっぱり誘惑のタネがたくさんある一角だ。
 イスマイール・サーマーニ廟に近づくと、この建物も鳩の住処になっていることが判る。なかなかたくましい鳩たちだ。

イスマイール・サーマーニ廟 イスマイール・サーマーニ廟は10世紀に造られた建物で、中央アジアで最古のイスラム建築である。
 高さも幅も10mで立方体になっている。
 壁の厚さは2mもあり、戸口の高さも2mだ。ぞろ目というか、揃っているのが好きな人だったんだろう。
 煉瓦積みで飾られ、壁が全体に凹面になっていることで豪華に見せている。なかなか凝った建物なのだ。
 立方体の上にはドームが乗っている。
 ここはイスマイール・サーマーニの霊廟で、彼のおかげで中央アジアは独立を果たせたそうだ。ガイドさんは「前にお話ししたとおり」と言ったけれど、そんな話を聞いていただろうか?

 13世紀にやってきたモンゴル軍は中央アジアの各都市を破壊したけれど、サーマーニ朝は人々に尊敬されていたため、ブハラ市民はモンゴル襲来の前にこの建物を土に埋めた。さらに周りが墓地だったことから、気付かれずにすみ、破壊されずに残ったという。
 1925年に発掘されるまで土の中に700年埋まっていたので、保存状態はとてもよく、修復の手が入ったのはドームだけだ。

イスマイール・サーマーニ廟内部 カメラ代700スムを払って中に入る。
 窓の構造が工夫されていて、内部にはとても柔らかな光が差し込むようになっている。
 このイスマイール・サーマーニ廟は日干し煉瓦ではなく焼いた煉瓦が使われており、そのため、保存性も高くなっている。今まで残ったのにはそういった理由もあったのだろう。
 中には支配者であったイスマイール・サーマーニのお墓がある。ここでもやはり、遺体は地下に安置されている。

 そうして観光している途中、出発時に成田空港でお会いした同じ日程で別コースを回っていた4人の方々と再会した。ここでだけ、一瞬、スケジュールが重なったようだ。
 別コースに付いたガイドさんが「やはりブハラはシルクロードの街だから会いますね。」などと洒落たことを言っていた。

城壁 次に向かったのは、城壁と16世紀に造られたタリパチ城門である。最初に作られたのは5世紀で、8世紀にやってきたアラブ軍に壊されたけれど、サーマーニ朝の時代にまた作り直され、13世紀にモンゴル軍が壊し、と何度も建設と破壊を繰り返されてきたそうだ。
 その後、モンゴル軍は民衆による反乱を抑えるために城壁を作ることを禁止したけれど、14世紀にティムールの時代になってまた城壁が作られ、最終的に16世紀に建て直されて20世紀の始めまで残ったという。その間、ブハラという街の大きさは変わらなかったということだ。城壁の外周は25kmである。
 この用水池も20世紀始めに作られたものである。

城門 城壁は日干し煉瓦、城門は焼いた煉瓦で作られている。
 この辺りは、よく歴史映画の撮影現場に使われているそうだ。
 丸太で補強されているとはいえ、ちょっと簡単に破れそうな城門にびっくりする。口々に「私たちでも破れるよね、きっと。」、「それこそ映画撮影用なんじゃない?」などと言い合う。本当のところどうなのかは不明である。
 上れる高いところを見ると上りたくなるのが人情で、みんなで代わる代わる上がっては記念撮影大会になった。

バラハウズ・モスク 来た道をゆっくり歩いて戻り、ガイドさんに「もう夜までバスまで戻りません。」と宣言されて荷物をちょっと整理し、アルク城の真向かいにあるバラハウズ・モスクに向かった。モスクに到着したのは10時30分くらいだ。
 私がイメージするモスクとはだいぶ外観が異なるので、モスクだと言われたときには「え?」と聞き返してしまった。
 「バラハウズ」とは「貯水池の近くに建設された」という意味だ。
 このバラハウズ・モスクは1712年に、テラス部分とミナレットは1919年に建設されている。そして、このモスクは今でもモスクとして使われている。

テラスの天井 テラスの天井は高さ12mの柱で支えられている。昔の中央アジアには高い木がほとんどなかったため、柱は2本の丸太を合わせて作られている。修復された柱は1本の木で作られているから、すぐに判る。
 そして天井部分は蜂の巣構造で飾られている。この天井はこれまで修復されたことがないオリジナルだ。
 恐らく、そもそも「木造建築」ということ自体、贅沢なことだったのだろう。
 このモスクは支配者専用のモスクだったそうだ。向かいのアルク城から絨毯を敷いて道を作り、このモスクまでお祈りに来ていたという。

モスク内部 モスクの中に入った。
 うろ覚えの記憶では、確か靴を脱いで、絨毯の上に上がらせてもらったと思う。
 イスラム教は偶像崇拝が禁じられているというイメージが強かったので、「意外と飾られている」というのが第一印象だった。
 アーチのうちいくつかは修復されたことのないオリジナルだ。何故か複数のアーチのうち1箇所だけが緑色にライトアップされていた。その理由は不明である。
 声も響いて、やっぱり少しだけ厳粛な気持ちになった。

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2013.03.01

ウズベキスタン旅行記4日目その3

2011年9月20日(火曜日)

 14時過ぎ、一路ブハラに向けて出発した。
 ガイドさんに聞くと(聞かないと教えてくれないというところにツアーメンバーの不満がある)、ブハラまでは280km、途中、キャラバン・サライに立ち寄り、またギジュドバンという街で陶器工場を見学すると言う。次の休憩までは1時間半から2時間くらいだと言うけれど、今ひとつはっきりしない感じだ。
 移動時間はウズベキスタンの歴史講座の時間である。ガイドさんが、16世紀以降のウズベキスタンの歴史について語り始めた。

 ウルグベクは息子に殺され、ティムールの玄孫の世代で1449年から1501年まで続いた権力争いが始まる。1490年代にはウズベク民族はカザフスタンと黒海の間に住んでいたけれど、シャイバーニーがウズベク民族をまとめて中央アジアに侵攻する。そして1501年に中央アジアを征服し、シャイバーニー朝を成立させた。首都はサマルカンドである。

 1511年、シャイバーニー・ハンは戦死し、また権力争いが始まる。結局、二つに分裂し、16世紀初め、中央アジア西部にホレズム国家が独立する。
 16世紀始めから船を用いたヨーロッパとの交易が始まってシルクロードが衰退する。中央アジアの国々の経済状態が悪化し、17世紀の始めにはシルクロードが消滅してしまう。
 この頃、中央アジアは三つの国があった。シャイバーニー朝の首都をブハラに移してブハラ・ハン国となり、コーカンドからヒヴァに首都を移したホレズム国家はヒヴァ・ハン国となり、ブハラ・ハン国が分裂してさらにコーカンド・ハン国が建てられた。
 この3ヶ国は常に争っており、19世紀の始めまで経済状態は悪いままだった。

 帝政ロシアの中央アジアの征服は、1718年の遠征に始まる。
 1686年にヒヴァ・ハン国はブハラ・ハン国に征服され、隷属する。ヒヴァ・ハン国の支配者はロシアに保護を求め、ロシアの領土となる。その支配を確実なものにするため、1717年にロシアはヒヴァ・ハン国に攻め入る。
 1730年代、現在のカザフスタンにあった三つの国は、中央アジアの三つのハン国に圧迫されていたため、やはりロシアに近づき、結果としてロシア領となった。
 しかし、ヒヴァ・ハン国はカザフスタンがロシア領となることを了とせず、1830年代になってロシアは自らに敵対するハン国の周りに要塞を築いた。この要塞は今もカザフスタン領内に残っている。

 1830年代のロシアは経済成長がおき、中央アジアの資源を狙うようになる。
 南北戦争が終わって米国はロシアに綿花を輸出しなくなり、インドを支配していたイギリスが発展するのを見て、ロシアは中央アジアを征服した。ヒヴァ・ハン国だけは自ら従属することを選んだけれど、ブハラ・ハン国とコーカンド・ハン国は征服され、その領土はかなり小さいものとなった。
 この征服が激しいものにならなかったのは、中央アジアの側が著しく武器で劣っていたためだ。

 1917年にロシア革命が起き、1924年にソ連が起こる。ウズベキスタンにはウズベキスタン社会主義共和国が置かれ、当初、その首都はサマルカンドだったが、1930年にタシケントが首都となる。1991年9月1日にウズベキスタンが独立したが、その後も引き続き首都はタシケントである。
 「スタン」は「国」という意味で、ウズベキスタンはウズベク人の国、という意味だ。さらに、ウズは「私」、ベクは「支配者」という意味だそうだ。
 ついでに書くと、「キルギス」というのは40人の女性という意味だという。それがどうして国の名前となったのか、きっと何か言われがあるのだろうと思うのだけれど、よく判らなかった。

綿花摘みの少女たち バスを1時間くらい走らせると、綿花畑でたくさんの少女達が綿花摘みをしているところに行き会った。何だかよく判らないままバスが駐まり、みんなで綿花畑に降りる。
 とにかくこの綿花摘みの少女が美人さんで、みんなのカメラが集中する。いや、本当にウズベキスタンには美人が多いのだ。
 20分くらいお邪魔させていただき、にぎやかな彼女たちに混じってひとつふたつと綿花を摘んでみる。
 雨がポツポツと降り出したのをしおにまたバスに戻った。
 でも、旅行社がこれを指して「綿花摘み体験もできる!」とパンフレットに謳うのはどうかと思う。

 サマルカンドの街を出てからはずっと一本道を走って来た。
 綿花摘みから30分くらい走った頃に久々の三叉路を見て騒いでいたらバスが停まった。ガソリンスタンドでお手洗い休憩である。トイレが一つしかない・これが数十人のツアーなら大問題だけれど、9人のツアーなら何とかなる。
 それでも待っている間はヒマだったので、ヨガのインストラクターをやっているツアーメンバーの女性を講師にヨガ教室が開かれた。数人が輪になって片足立ちし、両手を上に上げて手のひらを合わせ、バランスを取ったりしている姿はかなり妙だったらしい。
 ちょうど給油しに来ていた人達の注目を浴びて笑われたり、写真に撮られたりした。

 ツアーも中盤で、何となく体調を崩したりお腹の調子がおかしかったりする人が出てきていたし、昼食のプロフがちょっと油っぽかったこともあって、みんな食べるのをセーブしていたようだ。
 その代わり、バスの中ではおやつの交換が行われ、サマルカンドのスーパーで買ったというクッキーなどもご馳走になった。スナック菓子などもいただいた。思っていたよりもしょっぱすぎずに美味しい。
 トイレが結構重要な問題になりつつあったので次の休憩までの時間をガイドさんに口々に聞いても、どうもはっきりした答えが返ってこない。答えてはくれるのだけれど、「本当〜?」とみんなから懐疑的な声が出るとすぐ答えが変わってしまう。

隊商宿入口 17時過ぎ、ガイドさんに「どうしますか、キャラバンサライ(隊商宿)を見ますか?」と聞かれた。
 ぜひ見て欲しいのか先を急ぎたいのか、よく判らない質問である。しかし、こう質問されたら「見る」と答えるのが今回のツアーメンバーだ。バスを降りる。
 すでに傾いた陽に照らされた門は赤く染まっていて美しい。

往時の石畳隊商宿跡

 この隊商宿は、その昔通っていたシルクロード沿いに造られたものだという。
 当時は、30kmおきにこうした隊商宿と貯水池が用意されていた。隊商宿は2階建てで、普通の人用と偉い人用(という言い方もどうかと思うけれど)に分けられていたという。
 写真左は、入口を入ってすぐのところにあった石畳で、このゴツゴツした方の石畳は17世紀当時のものだ。出発してすぐのガイドさんに説明からすると、シルクロードが最後に活躍していた時台の石畳ということになる。

貯水池外観 道路を渡った反対側に貯水池があった。
 こちらも夕陽を浴びて赤く染まっている。
 貯水池の水は湧き水で、春に満杯になりあとは減る一方だったらしい。夏の間の蒸発を避けるために屋根が付けられているそうだ。
 もう9月で夕方だけれど、さもありなんという日射しである。

貯水池内部 中に入ってみると、ちょっと飲める感じはしないものの、水が満々とたたえられていた。
 もしかして、今も農業用水として使われていたりするのだろうか。

ウズベキスタンの桜 18時30分くらいにギジュドバンの陶器工房に到着した。流石に辺りは薄暗くなってきている。
 ギジュドバンの陶器工房はスザニ工房も併設していて、こちらで作られたスザニが中山恭子氏の著書ウズベキスタンの桜の表紙にも使われている。
 このスザニがそうだ。
 自然素材の染料を使って染められた糸のみで刺繍されたスザニは、柔らかい印象である。

 そのスザニなどが展示されている資料室を見学する。
 この工房は200年くらい陶器を作っており、ご主人はレギスタン広場の修復にも参加したことがあるらしい。ヒラリーも来たし、チャールズ皇太子も来たんだと言う。
 ギジュドバンの陶器は、釉薬が流れるようになっているのが特徴だ。

釉薬をかける前のお皿挽き臼?

 ろくろのある工房や窯などを見せてもらう。もうすでに火が落とされてしまっていたのが残念だ。
 明かりがないから、恐らく、そもそも日が落ちた後で作業することは考えていないのだろう。暗い中、フラッシュを使わずに写真を撮ろうとしたけれど、あまり上手く撮れなかった。
 手ぶれをなくそうと壁に腕をついてカメラを支えていたら、袖口に真っ黒く煤のようなものが付いてしまった。我ながらマヌケである。水洗いしたら簡単に落ちたので助かった。

 一通りの見学を終えたらお買い物タイムになった。こちらは観光客慣れしているらしく、同じくらいの大きさのお皿や鉢が集められて「*ドル」という札が置かれているのが判りやすい。
 自然染料のみというスザニも気になっていたし、お皿も欲しいと思っていたけれど、如何せん、長距離バス移動の疲れが激しい。そして、欲しいと思っていた20cmくらいのお皿が少なかったこともあって、私にしては珍しくお買い物をしなかった。
 後になって、自分用にごはん茶碗になりそうな鉢をひとつ買えば良かったと思った。それは次の機会に取っておくことにしよう。
 みなさんは、結構お買い物をされていたようだ。

野菜スープシュークリーム

 ギジュドバンの陶器工房から45分くらいで、ブハラの街に到着した。
 まずは、夕食である。RESTRANT BELLA ITALIAという名前のイタリアンのお店である。
 野菜を使った前菜の他に、ブルスケッタが出てくるところがイタリアっぽい。
 野菜スープはビーツが入っているのか赤く、さっぱりしていて美味しい。油に疲れ始めている胃にはこのさっぱりさ加減がとても優しく感じる。
 メインディッシュは牛の細切りを炒めたものとフライドポテトだった。
 そして、私たちの感動を呼んだのは、デザートのシュークリームだ。スワン・シュークリームではないか! 供されると「おぉ!」という歓声が上がった。

ホテルのお部屋
 宿には21時くらいに到着した。
 ブハラの宿は アムレットホテルという、メドレセを改装したホテルだ。
 今回のツアーで宿泊した中で、ナンバーワンを付けたいホテルである。
 メドレセを改装したといういわれもいいし、なおかつ、水回りが綺麗に改装されてシャワーのお湯もたっぷり出る。お部屋のファブリックもウズベキスタンのスザニと絹織物(窓のカーテンと椅子の座面はマルギランの織物である)で統一されている。部屋では靴を脱ぐという仕様も嬉しい。
 予めお部屋を暖めてくれている、その心遣いも有り難い。
 そして、小さなホテルで、私たちだけで貸し切りのようだった。

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2013.02.10

ウズベキスタン旅行記4日目その2

2011年9月20日(火曜日)

メドレセのお土産物屋さんメドレセのお土産物屋さん ミナレットに上がっていた方達と合流し、中庭に面した部屋で営業されているお土産物屋さんに入った。元は学生の部屋だったそうだ。メゾネット形式で上の階は寝室として使い、1部屋2名というから結構恵まれた環境なのではなかろうか。
 各部屋には暖炉もある。自炊のために必要だったらしい。
 せっかくなのでお店の奥にあった階段を上って屋根裏を見せてもらったら、本当に屋根裏っぽい部屋で、でも今は完全に物置のように使われて埃っぽかった。ちゃんと整えたら居心地良さそうなのにと思う。

メドレセ内部 ウルグベク・メドレセの一角だったかティラカリ・メドレセの一角だったか忘れてしまったのだけれど、ガイドさんが「ここの角が一番タイルが美しい」と教えてくれた。シャッターを切る位置の指定付きである。
 この後、全員が集まって、全員のカメラをガイドさんに預けて大記念写真大会になった。ガイドさんとしては、私たちの写真好きは常に予想外だったらしい。
 そして、日本人が集まって写真を撮っていると、ウズベキスタンの方々からカメラを向けられたり、少年が私たちの記念写真に混ざったり、ついでにお父さんまで混ざったり、さらに楽しいひとときになった。

ティラカリ・メドレセの中庭 ティラカリ・メドレセの内部に向かった。
 昨日に続いて2回目の「金ピカの間」だったので、流石にインパクトは減っている。その証拠に、金ピカのドーム内部の写真は今回はほとんど撮っていない。
 その代わり、昨日は全く写真を撮らなかった中庭が気になった。

 ティラカリ・メドレセは17世紀からモスクとして使われ、1970年代に修復されている。
 ドーム屋根のためか声が響き、ガイドさんの説明が聞き取りづらい。
 ここでコーランなど詠んだら荘厳な響きになって宗教的効果バッチリだろうと思う。

3つのメドレセ 私が持っていたカメラはあまり広角ではなく、レギスタン広場を正面から撮って三つのメドレセを写真に納めることが難しかった。
 しかし、ティラカリメドレセを出てそのまま左に向かって歩いているとき、ふと気付いたら、メドレセ3つを1枚の写真に納められる場所があった。
 大分列からは遅れてしまったけれど、試行錯誤の末、何とか撮ったのがこの写真である。
 今から考えればパノラマ撮影すれば簡単である。しかし、ほとんど初めて使ったカメラだし、ほとんど初めてデジイチを使ったので、そこまで頭が働かなかった。情けない。

 レギスタン広場を出ると、そこはだだっ広い石畳の道だった。歩行者天国っぽいけれど、それほど人が歩いている訳ではなくガランとしている。
 トロッコというかトロリーバスというか、どちらも違うことは確かなのだけれど、素通しのトロッコ電車のような車体のとにかくゆっくりしか走らないバスのようなものが走っていて、それに乗ってビビハニム・モスクまで行った。
 だだっ広いだけに日陰ひとつなく、屋根があって涼しい風が起きて気持ちのいいこの乗り物は有り難い。
 道の両脇に結構色々なお店もあって、私たちを歩かせたらいつまでもたどり着けないだろうというガイドさんの判断だったのかも知れない。

ビビハニム・モスク ビビハニム・モスクには、11時30分過ぎに到着した。
 このモスクは、とにかくデカイ。幅127mで、高さは169mだという。
 建造された当時、世界で一番大きなモスクだったという説明もむべなるかなという感じである。この写真が一番全景に「近い」けれど、決して全景ではない。
 ここに写っている表玄関の高さだけでも38mある。15世紀にはさらに高く60mも高さがあったという。確かに表玄関もミナレットも途中でばっさりと切られたようになっている。この上に22mもさらに塔なり玄関なりがあったなら、さらに荘厳かつ迫力の姿だったろう。

 内部にも入れるようになっている。このモスクも、カメラ代は3000スムである。
 往時は中庭もタイルで飾られていたそうだ。現在は失われている。
 中央アジアの大きなモスクには必ず中庭とその周りに回廊があった。ビビハニム・モスクの回廊には大理石の柱があったらしいけれど、今は基礎部分を残すのみで失われてしまっている。柱に使われた大理石はウルグットの近くの山から象で運んできたとガイドさんは言うけれど、何だか嘘っぽい話である。
 17世紀の初めの大地震で壊れてしまい、それ以来、使われないままになっている。現在も修復はされているものの、モスクとしては使われていない。割と不遇なモスクである。

モスク内部モスクの表玄関とドーム このモスクにももちろんドームがある。表玄関が大きいので中庭からは見ることができない。
 現在、モスクの表玄関の高さは44mだけれど、往時は50mを超えていたという。
 外回りは修復されたけれど、モスク内部は放ったらかしだったようで、コンクリートむき出しといった感じである。もしかしてタイルなどの美観のみ修復され、補強工事はされていないんじゃないかと疑ってしまう。

大理石の本台 モスクの中庭にある、大理石の本台は有名だ。
 1401年にバグダッドを征服したティムールが持ち帰った古いコーランは2m×1mという大きさで、この本台の上に置かれ、そしてこの本台はもちろんモスクの中に置かれていた。そのコーランは今はタシケントの大学で展示されているそうだ。ちょっと見てみたい。
 しかし、この本台はそのコーランを載せたことで有名になっているのではない。この本台の足の間を3回周ると妊娠できるという言い伝えで有名なのである。あるいはまた、本台の周りを3周歩くと願いごとが叶うということでも有名だ。
 この辺りの逸話は、ビビハニム・モスクが、ティムール本人というよりはティムールの第一夫人の命令で作られたという話から生まれたものらしい。

 ティムールの第一夫人は、ティムールがインド遠征しているとき、サマルカンドで一番の建築家を呼んで世界で一番大きなモスクを建設するよう命じた。
 しかし、この建築家が夫人に惚れてしまったために建設は順調に進まなくなった。さらに建築家は、「キスしてくれれば、ティムールの凱旋前にモスクを完成させる。」と夫人に迫ったというから大胆だ。夫人は2個の玉子のように女性は誰も一緒だと言って女中を差し向けたけれど、建築家はワインの入ったコップと水の入ったコップを示してワインを飲めば喉を焼かれるけれど水を飲んでそうなることはないと反論した。
 夫人が仕方なく彼にキスしようとしたところ、建築家が逆に夫人の頬にキスして跡を残したというから始末が悪い。
 この二人、はっきり言ってどっちもどっちである。

 凱旋したティムールはモスクに驚いたけれど夫人の頬を見て真相を知ってしまう。ティムールが建築家を殺そうとしたら、この建築家はミナレットから飛んで逃げたという。
 一方の夫人は、ティムールが支配者になれたのは彼女がチンギス・ハンの子孫という血筋の持ち主だったからなので、お咎めなしになった。
 ティムールも含めてこの3人、もはやどうでもいい気がする。

 この言い伝えのどうでも良さはともかく、我々ツアーメンバーの多くがこの本台の周りを回り、お二人が足もとをくぐった。私も周りを回ったけれど、何をお願いしたかはすっかり忘れ果ててしまった。
 回る方向は時計回りである。
 この本台の周りでは、何だかもの凄くいい音のする鳥笛を売っているおじさんがいて、凄く気になった。

バザール ビビハニム・モスクを出てすぐのところにシャブ・バザールがあった。
 お手洗いを借り、屋根が付けられた生鮮市場っぽいところに突入した。野放しにしたら危険だと学習したらしいガイドさんから「30分」と時間を切られ、集合は入口のところと言われる。
 しかし、私たちはロシア語もウズベク語もしゃべれないし、市場で英語をしゃべる人は少ないので、買い物は全てガイドさん頼みだ。買いたい物があれば、ガイドさんにくっついていた方が効率的である。
 ガイドさんお勧めのナッツやドライフルーツをたくさん買いたいけれど、私のスーツケースはこの時点でスザニとコニャックで重量オーバー状態である。厳選せねばならない。
 
おかず売場ナッツ売りの少年

 おかず売場のお皿も美味しそうだし、ザクロを綺麗にカットして並べているお兄さんもいる。この「綺麗に並べる」「飾り切りをする」というのはどこの市場でもやっていて、なかなか見応えがある。
 ウズベキスタンではお買い物するときには基本的に試食オッケーだ。
 熟考の末、ウズベキスタンで買ったコニャックにドライフルーツを漬けナッツを入れてケーキを焼こうと考え、黄色い干しぶどう200g(3000スム)と殻付きのアーモンド300g(10000スム)を購入した。

ビビハニム・モスク 流石にバザールの喧噪は凄い。それほど混雑している訳ではないけれど、屋根があるので声が反響する。
 ちょっと一休みと思って外に出ると、目の前にビビハニム・モスクが見えた。しかも、どうしたって判らなかった建物の並びがこちらからだとよく判る。
 この写真を撮った時点で約束の30分はとっくに回っていた。しかし、まだまだお買い物は続いているようだ。ガイドさんを引っ張り回して一つずつ欲しいものを買って行くしかないのだから時間がかかるのも当たり前である。

ビビハニム・モスク全景 昼食のレストランに向けて歩いている途中、ふと振り返ると、ビビハニム・モスクの全景が見えた。前の人が見える範囲で、でもこれは写真に撮らなくてはと張り切る。
 大きいだけあって、その近くで観光しているときよりも、少し離れてからの方がたくさん写真を撮った、不思議な観光場所となった。

 大きな通りに出ようというところで、学校帰りらしい、制服姿の少女たちと行き会った。
 レギスタン広場からビビハニム・モスクに至る道で学校を見かけたから、この辺りは文教地区なのかも知れない。
 あまりにも可愛い少女たちだったので、いきなり道ばたで写真を撮らせてもらった。
 本当にウズベキスタンの女性は美人揃いだ。

レストラン入口プロフ

 レストランでガイドさんに「プロフを食べますか?」と聞かれた。即答できなかったのは、この辺りで既に胃腸をやられる人が続出していたからだ。
 ウズベキスタンで料理に使われる綿実油が日本人に合わないらしい。しかし、どう考えてもプロフにはオイルがたっぷり使われているだろう。プロフは要するにピラフである。
 この後はブハラに向けて長い移動ということもあって逡巡する。しかし、ガイドさんから「プロフは夜には食べられません。」と言われ、チャレンジすることになった。

 ナン、グリーンサラダ、コールスローが出てくるのはもう定番である。茄子の薄切りにトマトを載せた前菜のような料理が加わり、そしてプロフが出てきた。大皿に盛られていて取り分けるようになっている。
 ガイドさんが真っ先に手を付けたのを見て、ツアーの女の子が「ねぇ、レディファーストって知ってる?」とツッコミを入れているのが可笑しかった。ガイドさんの返事は「知っています。」で、彼女がさらに「本当に〜?」と懐疑の気持ちをたっぷり表現しているのにガイドさんがどこ吹く風の様子で食べているのがさらに可笑しかった。

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2013.02.04

ウズベキスタン旅行記4日目その1

2011年9月20日(火曜日)

朝食 朝3時半くらいに目が覚めてしまった。何となくお腹の調子が良くない。昨夜冷えたせいかも知れない。
 6時半くらいには落ち着いた。普通にお腹も空いてきた。我ながら頑丈な胃腸である。
 7時半に朝食である。一応、控えめにした。朝食の席でお話ししたところ、みなさん、多かれ少なかれ不調があるらしい。何となく逆に安心する。この「不調」と、ガイドさんの気の配り方が今一歩だったことで、このメンバーの結束は固くなったように思う。

食堂中庭の縁台

 今日は午前中に観光し、午後、ブハラに向かう。このツアー中、唯一連泊したこのホテルともお別れである。
 お散歩兼観光に気軽に出かけにくい立地が難点だけれど、雰囲気のいいホテルで、居心地は良かった。
 中庭の縁台も、ずっとここでお昼寝をしていたい感じの気持ちのよい場所だった。

 朝食後、キャリーケースに荷物を詰めたら、大きなスザニと自分で模様を付けたナンを詰めても意外と余裕があった。重さは判らないけれど、容積としてはまだまだ大丈夫そうだ。
 9時頃観光に出発した。
 昨日の午後は何チームかに分かれて行動したので、バスの中はその報告大会のようになった。
 レギスタン広場に行ったチームは、スーパーに寄ってもの凄い色をしたアイスクリームを食べたり、ホテルまでのタクシーで適正価格を目指して値段交渉をしたり、なかなかアクティブに楽しんだようだ。
 
 バスはサマルカンドの新市街を通って進む。新市街の公園なのにあっさり「19世紀に造られました。」という説明が入るところが凄い。プラタナスの並木もあって、なかなか涼しげである。比較的雲が多いためかも知れない。
 私たちが泊まったホテルの系列ホテルであるマリカ・プライムホテルを過ぎ、本日最初の観光場所であるグリ・アミール廟に到着した。

グリ・アミール廟 グリ・アミール廟は1404年に完成した、ティムールらが眠るお墓である。
 この中に、ティムールだけでなく、その子供達、孫達が埋葬されている。
 霊廟には、建物、中庭がある。左側のメドレセと、右側にハナカ(巡礼者のための宿)は、地震で崩れてしまって今はない。
 また、中庭は高さ10mの壁で囲まれ、ミナレットのような塔もあったらしいけれど、今は開けた感じになっている。

 霊廟は高さが32mあり、ドームの高さは12m、直径が25mだ。相当に大きい。
 ミナレットは幾何学的な模様で飾られているように見えるけれど、実は、アラビア語でコーランの詩が書かれている。文字が飾りも兼ねているのだ。

 ティムールは、1402年にトルコを征服したものの、一番好きだった(とガイドさんは説明してくれたけれど、期待していた、というニュアンスではなかろうか)孫をその戦いで亡くし、このグリ・アムール廟を彼のために建設するよう命じている。
 ティムール本人は、シャフリサブスに埋葬されることを望んでいたそうだ。しかし、1405年に中国との戦いで亡くなったティムールはサマルカンドまで帰って来たものの、雪のためシャフリサブスまで運ぶことができず、ここに埋葬された。

表玄関 グリ・アミール廟の表玄関はモザイクで覆われている。
 このモザイクには、15世紀の建造当時のものも60%くらい残っている。しかも、色の濃い、より美しいものが古いものだというから驚く。20世紀の始めに釉薬の技術が失われてしまい、今も取り戻すことができていない。何と勿体ない、惜しいことだろう。
 さらに、霊廟はたった10日間で造られたと説明され、口々に「この姿に?」「タイルの飾りも?と質問が重なる。何人がかりで造ったのか尋ねると、1500人くらいと書かれている歴史書もあるという回答だった。本当だろうか。

中庭のタンク 中庭にはタンクがあり、ティムールはこのタンクの水で手足を清めていたそうだ。
 戦の前にこのタンクにざくろのジュースを絞り、戦の前後に兵士に配ることで戦死者の数を知り、戦死者を思い出すよすがとしていたという。ジュースがないときには小石を代わりに使ったと聞いて、「数」の問題だけなら小石の方が確実なんじゃないかと思った私は情緒に欠ける。
 いずれにしろ、戦意を鼓舞するために行われていたらしい。

霊廟内部 外から見た霊廟は、タイルの飾りが美しいものの、決して「絢爛豪華」という感じではない。
 しかし、一歩中に入れば金をふんだんに使った装飾が施されている。
 多分、この内部に入るところでカメラ代3000スムを払ったと思う。
 アーチやドームのおかげで内部はより広く感じられるようになっていて、そして、装飾は全て金箔が使われている。内部装飾は1930年代に色を入れ、金箔をさらに上から施したけれど、一部は当時のまま残してある。この左の写真の中央部に見える、凸型に金箔が光っていない部分がオリジナルの部分だ。
 修復には4kgの金箔が使われたらしい。

 アーチやドームには植物紋様が施され、下の方の壁にも幾何学的模様に見える文字でコーランの詩が書かれている。
 ガイドさんに「読む人が読めば読める?」と聞いたら、昔の特殊な字体なので現在アラビア語ができる人でも読むことは難しいだろうという返事だった。

墓石 私の目には棺のように見えたこれらは墓石で、1427年に造られた大理石の塀で囲われている。それを命じたのはティムールだと説明されたけれど、年代が合わないような気もする。
 墓石は翡翠で造られている。当時、翡翠は相当に高いものだったらしい。
 真ん中にあるのがティムールの墓石である。
 お墓は地上と地下の2層になっていて、今見ているのが地上の層、地下の層にもここと同じように遺体が配置されているという。過去にはお墓を開けて、顔の修復が行われたこともあるそうだ。
 ティムールの父親や祖父はウズベク人だけれど、長くシャフリサブスで暮らしていたので、タジク人のような顔をしていたそうだ。

 その話をした後で、ティムールの墓石にはこの墓を開けたら流血の事態になると書いてあると言うのだから、ガイドさんも人が悪い。実際、墓を開けようとした歴史家に、僧侶が忠告したこともあったらしい。
 結局、ティムールのお墓は、1941年6月21日午前4時に開けられたそうだ(何故かここだけ日時が詳しい)。そして、まさにその時期にドイツとロシアは戦争を始めたとガイドさんは言う。
 ティムールの遺体は1942年までロシアで研究され、発掘の様子を撮影したカメラマンはこの呪いの話をスターリンに伝えたというから、話の展開がデカイ。スターリンは、その後、ティムールの遺体を埋葬し直し、そのための費用として100万ルーブルを出したという。
 ガイドさんは何年か前にティムールのお墓に入ったことがある(通常はもちろん入ることはできない)そうで、でも特に問題はないようだ。

霊廟内部 支配者は聖人のお墓の近くに霊廟を造ろうとしたそうで、ここも例外ではない。
 聖人オマール(と聞こえたけれど、発音が違っているかも知れない)という陶器師の庇護者である牧師のお墓がここにあるそうだ。
 聖人のお墓の近くには柱が立てられ、馬の尻尾がその先端に付けられている。これは今も続いている習慣だという。

1404年のドア 霊廟入口のドアは1404年の建造当時のものが残っている。
 木で造られ、そこにさらに金と陶器で象嵌がされている。
 この霊廟の中には、ティムールの宝も集められている。シャンデリア(重さ240kg!)もあると教えてもらったけれど、何故か他にどんなお宝が集められていたのかという点については話が続かなかった。

正面のアーチから 1時間弱で、グリ・アミール廟の見学は終了となり、写真撮影タイムとなった。やはり、フォトジェニックである。
 写真を撮りまくっていると、旅行で来ていたらしいウズベキスタンの一家と一緒に写真を撮ってもらうことになった。
 ウズベキスタンの方々は、みな、人なつっこいし、写真にも快く応じてくれるので、ついつい楽しんでしまう。

 再びマイクロバスに乗り込み(来るときは全く作動しなかった自動ドアが復活していた。ドライバーさんが直してくれたらしい)、割とすぐ、レギスタン広場に到着した。
 ガイドさんの説明を拝聴する。

 レギスタン広場はサマルカンドの中心である。
 15世紀のウルグベク・メドレセ、17世紀のティラカリ・メドレセ、シェルドル・メドレセで有名である。
 レギスタンとは「砂の場所」という意味で、この場所は昔川が流れていたけれど、そのうち川の流れがなくなり砂だけが残ってそう呼ばれるようになったらしい。
 サマルカンドは13世紀初めにモンゴル軍に破壊され、元の街の西の場所で建て直された。その中心をレギスタン広場である。
 中央アジアの人々は、その後、街の中心の広場のことを「レギスタン広場」と呼ぶようになった。

 サマルカンドは、14世紀半ばにティムール帝国の首都となった。その当時は、レギスタン広場は街の6つの目抜き通りが集まる市場であった。
 ティムールはこの場所で閲兵も行ったし、敵軍の兵士の首を槍の先につけて掲げたり、罪人の処刑を行ったりもしていた。
 随分と血なまぐさい広場である。

ウルグベク・メドレセ この場所に最初に建設されたメドレセは、ウルグベクの命により建てられたウルグベク・メドレセである。中央アジアの古典的な様式に従っており、左側にモスク、右側に講堂が置かれている。全てのメドレセには中庭があり、その周りに2階建ての学生寮が造られている。
 ウルグベク・メドレセは51m×81mの広さがある。
 ミナレットは、昔は55mの高さがあったけれど、地震等の被害で今は低くなってしまった。20世紀初めの2回の地震でドームも落ちてしまった。現在、そのドームは下の部分だけが修復されている。建造当時のドーム自体の姿は失われたままだ。
 メドレセの正面にはファサードが造られ、モザイクで飾られている。アーチの上に星模様が見られるのは、ウルグベクが優秀な天文学者だったからだ。

 当時の建物は、通常、表玄関だけが飾られていた。
 ウルグベク・メドレセは、正面だけでなく全ての面が、釉薬がかけられたタイルで飾られている。タイルにはコーランが書かれている。
 20世紀の初め、向かって右側のミナレットの周りには古本屋があった。1918年にこのミナレットがどんどん傾いていることが明らかになり、古本屋さん達は何とかしようと寄付をした。当初は木造のコルセットで応急処置され、次ぎに、中央に木造のアンカーが造られ、24本のワイヤーでアンカーにくくりつけるようにして修復した。
 さらに傾いても大丈夫なように、多少、傾く方向とは逆の方向に引っ張ってある。修復後の今も傾いて見えるのはそのためだ。
 1931年から始まった工事は、重機でミナレット自体を持ち上げて行われた。このような工事を行った例は、今に至るも世界中のどこにもない。

 ウルグベクの時代には、ウルグベク・メドレセには聖人のお墓があったため、その周りにハナカがあった。
 ウルグベク・メドレセに埋葬されていた聖人は、ハジスという、コーランに次いで重要とされているものを集めた人だ。
 時台が下ると、ハナカはキャラバン・サライとして使用されていたという。

 イスラムでは左右対称の建物はよくないとされているため、ウルグベク・メドレセと向かい合っているシェルドル・メドレセとは似ているけれど、同じではない。例えば、ウルグベク・メドレセには各面に玄関があるけれど、シェルドル・メドレセにはない。
 また、模様も左右対称ではない。
 しかし、サイズはほとんど同じだと。

シェルドル・メドレセ そのシェルドル・メドレセは、ウルグベク・メドレセが造られてから200年後、ハナカのあった場所に建てられた。シェルドルとは「ライオンの」という意味だ。
 イスラムでは生き物を描くことは禁止されているけれど、想像の生き物を描くことは許されているらしい。シェルドル・メドレセに描かれているものは、ライオンでも虎でもない、この世に存在していないものだそうだ。
 それはそれとして、ライオンや虎は支配者を表し、その後ろから太陽が出ている図案はやはり支配の意味があるらしい。
 こちらのメドレセもコーランの詩で飾られていることは同じである。

 正面にあるティラカリ・メドレセも、シェルドル・メドレセと同時期に同じ支配者の命によって建設された。ティラカリというのは「金」という意味である。
 このメドレセは、17世紀に崩れてしまったビビハニム・モスクの代わりのモスクとしても機能していた。
 ドームの下にモスクがあり、その内装にはふんだんに金が使われている。モスクがそんなにも金ピカでいいのかと思う。

はりぼてのおじさん 「今はウルグベク・メドレセの各部屋にはお土産物屋さんが入っているのでお買い物ができます。」という台詞で説明が終わったのが可笑しい。
 まず、ウルグベク・メドレセに向かった。
 希望者は、ミナレットに上り、残った私たちはお土産物屋さんを覗いて歩いたり、写真撮影タイムにしたり、のんびりしていた。

ティラカリメドレセ

シェルドルメドレセウルグベクメドレセ

 それぞれのアーチ上の意匠をアップで撮ろうとうろうろしていたら、3人くらいのおまわりさんから「ミナレット?」と聞かれた。サマルカンドの見晴らしがとてもいいのだと(英語で)誘ってくる。
 やはりいいお小遣い稼ぎになっているのだろう。
 日本語で「もう上った。」と答えたら(多分)ちゃんと通じていた、と思う。

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