2006.08.30

熊野古道旅行記の入口を作る

継桜王子 ここは熊野古道旅行記への入口である。
 旅行記を書き終えたので、入口を作っておくことにした。
 以下の日程表の日付部分をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。

 2006年秋にもほぼ同じ内容で、「熊野古道を歩く」ツアーが開催されるようだ。
 熊野古道の紅葉はどんな感じなのだろう。
 
1日目 2006年4月29日(土曜日) 紀伊田辺駅 -> 近露の里(泊)

2日目 2006年4月30日(日曜日) 近露の里 -> 熊野古道・中辺路 -> 熊野本宮大社 -> 湯の峯温泉(泊)

3日目 2006年5月1日(月曜日) 湯の峯温泉 -> 熊野速玉大社 -> 神倉神社 -> 熊野那智大社 -> 新宮市内 -> 雲取温泉(泊)

4日目 2006年5月2日(火曜日) 雲取温泉 -> 熊野川舟くだり -> 熊野速玉神社 -> 熊野古道・高野坂 -> 紀伊勝浦


持ち物リスト(熊野古道編)


2006年4月 熊野古道の写真


 熊野古道旅行に当たってお世話になったサイト
 (持って行ったガイドブック等は「持ち物リスト」に掲載)
田辺市の観光

東紀州ほっとネット くまどこ

スカイゲート 熊野古道

JRおでかけネット - 聖なる森 熊野古道を歩く

高田グリーンランド・雲取温泉

熊野川川舟センター

熊野交通株式会社

K社


 旅行後に読んだ本

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2006.08.23

熊野古道旅行記4日目

2006年5月2日(火曜日)

雲取温泉のお湯 昨日、20時消灯・就寝などという小学生のようなことをしてしまい、目覚めたのは5時30分過ぎだった。
 ごはんは食べっぱなしビールも飲みっぱなしで寝てしまったのでその辺りを片付け、朝一番で再び温泉を堪能した。30分くらいぼーっとしていたけれど誰も来ない。
 これはチャンスだ! と、お湯から上がって部屋にカメラを取りに戻り、温泉の様子を写真に撮った。こんなことをしたのは初めてだ。お湯は写真よりも実物の方が白っぽいブルーである。

 7時30分に、併設の食堂に頼んであった朝食をいただく。
 ごはん、わかめのおみそ汁、サンマ(自分で網で焼く)、サラダ、温泉卵、海苔、梅干し、お漬け物という定番メニューだ。
 ごはんを食べた帰り、飲用泉の水道があり紙コップも用意されていたので、少し飲んでみた。どんな味だったのか覚えていない。多分、そんなにクセはなかったんじゃないかと思う。

 昨日は絵はがきを買ったきりだったので、出発までの寸暇を惜しんで友人に絵はがきを書く。和紙で作ったはがきに沢ガニや季節の植物が描かれている可愛い絵はがきで、昨日や一昨日に熊野古道を歩いて見かけた山桜やれんげの絵のものを選んで買っておいた。
 今日は川舟くだりをする。その船に大荷物を担いで乗るのも邪魔なので、宿の人に頼んで宅配便で自宅まで送ってもらうことにし、その荷造りもする。

 9時頃に宿を出発し、熊野川川舟センターまで車で送っていただいた。
 途中、私があまりにも「滝が見たかった」と騒いだせいか、センターのすぐ近くにある鼻白の滝が見えるところまで寄り道してくださる。本当に何から何まで申し訳ない。
 20分くらいで乗り場に到着し、受付までしていただいた。

 朝の天気予報がお昼前に天候が崩れるよと言っていたので、上だけゴアテックスのレインコートに着替えた。貴賤傘(身分の上下に関係なく皆で協力し合わないと熊野三山にたどり着けなかったことからそう名付けられたそうだ)と救命胴衣をお借りして身につける。
 同乗してくださる語り部さんの傘は檜で作られている本物で、、檜でこの傘を作れる人はどんどん減ってしまっているそうだ。私たちがお借りしたものは、何で作っていると言っていたか忘れてしまった。

 ゴールデンウィーク中の平日だし、もしかして最少催行人員に達しないのではないかと心配したけれど、14人くらい乗れる「八咫烏」という舟と8人くらい乗れる「速玉」という舟との、二艘出るようだ。私が乗ったのは大きい方の舟で、こちらは船頭さんの他にアシスタントの方が付く。
 川舟くだりに使われる舟はちゃんとした和舟で、普通の舟と違って底がすり鉢状ではなく平らになっている。そして、この舟を造れる人は、もう近辺にお一人しかいらっしゃらないそうだ。

舟くだりに出発 上流のダムが放流すると川の水が濁ってしまうけれど、お客さんが多いゴールデンウィーク中はまずやらないでしょう、ということで水も澄んでいる。
 10時に出発した。
 水面はとても静かで水も澄んでいるけれど、熊野川は別名「暴れ川」ともいわれているそうだ。この舟下りも、雨天決行だけれど風が出ると舟を出せなくなってしまうという。

 私が乗った「八咫烏」の語り部さんは女性の方で、キョウコさんとおっしゃる。
 まず、川面の表情、川の水の色から語り起こす。本当に綺麗なブルーだ。彼女は「曲玉のような翡翠色」と言い表していた。この後、川面がまるで流れがないかのように静かに平らになったり、川の水の色が次々と変わっていったりするという。
 舟にはエンジンがついていて、かなり船足は速い。その昔は4時間かけてくだっていた川を1時間半でくだるのだから当たり前かも知れない。
 出発してすぐの辺りで、とてもとても運がよいと野生のニホンカモシカを見ることができるそうだけれど、残念ながら現れてくれなかった。
 代わりにウグイスの声が聞こえる。

布引の滝 最初に現れた、橋の奥に見えた滝が「布引の滝」である。距離があるし、少し曇っているのでちょっとぼんやりとしか見えない。それでも、雨が降ったばかりなので水量はある方だという。さらに水量が減ると「白糸の滝」のようになり、さらに水量が減ると「洗濯板」状態になってしまうらしい。
 この布引の滝は熊野川沿いで最も高さのある滝と言われているそうだ。
 
 昨日、熊野川に沿って走る国道から見たときもとても綺麗なブルーに見えていた。川に浮かぶ舟から見ていると、ブルーが濃いのに川底の石も見えるほど澄んでいるという不思議な感じの水だ。
 また、川沿いに滝が多いのも意外だった。「葵の滝」と呼ばれる滝は、徳川頼宣公が「見事だ」と言ったことからそう呼ばれるようになったという。この「葵の滝」は別としても、キョウコさん曰く、川下りに時間がかかり、皆して暇だったので、滝や岩に名前をつけていったのだろう、ということだった。 

宣旨返り また、熊野川沿いの三重県側には古道が一部残っている。舟に乗れない人々(5〜6人でチャーターして、今のお金で20000円くらいかかったそうだ)は歩いて熊野速玉大社に向かったという。
 宣旨返りと呼ばれる場所は、上皇の手紙(これが宣旨)という大事なお役目を持った人ですらここで引き返したくらい険しいということで名付けられたそうだ。舟から見ている分にはそこまで険しい道とは見えないのが不思議だ。
 
 宣旨返りから少し舟足を速めた右側に、今度は奇岩が並んでいる場所が現れる。
 その中には、まな板と包丁に見立てられるような岩や、風になびいているかのように見えることからなびき石と呼ばれている岩もある。この岩は400万年前の火山活動で流れたマグマが収縮する際に亀裂が走り、そのときに風が吹いたから斜めになったといわれているそうだ。本当だろうか? 

 全国をくまなく歩いて熊野信仰を布教したといわれている熊野比丘尼ですら転んだといわれる険しい道や、熊野権現に切られた鬼神の骨だといわれている「骨嶋(実際は島ではなく、川岸に白い背骨のような骨が並んでいる)」、釣り鐘型に岩の割れ目があり今にも川に落ちそうな釣鐘石などが川の両岸に続く。
 釣鐘石というのは本当に今にも落ちそうに不安定に見えるけれど、「この石が落ちたらこの世が終わる」と言われており、当然のことながら、今まで落ちたことはないそうだ。
 
 釣鐘石を過ぎ、徳川頼宣公が名付けたという「飛雪の滝」を過ぎた辺りが舟下り一番の難所だそうだ。
 川底に岩が多く、強い瀬もある。船頭さんの腕の見せどころだ。道を探しながら、蛇行するように舟を走らせる。毎日そのルートは変わるそうだ。
 確かにそれまで静かなゆったりした流れだったのが、川面が波打ち、白波が立っている。
 ちょうどこの辺りが舟下りを始めてから5km弱、30分というところだ。

昼島上陸 川が蛇行する辺りになると、カヌーの姿が突然現れた。川舟下りもいいけれど、カヌーで下るのもいい感じだ。
 カヌーで行く人たちに手を振っていると、昼島が近づいた。ここに上陸して休憩である。
 昼島は、その上部が碁盤の目のようになっていて、天照大神と熊野権現とが碁を闘わせたともいわれている。砂の上を歩き、岩を登って、その上部まで行くことができる。
 この昼島からの眺めがなかなかすばらしい。いかにも「川の流れ」「悠久」という感じがする。

 昼島では10分ほど休憩を取り、熊野川の眺めを満喫した。
 そうしている間に、たまに当たるくらいだった雨がポツポツ落ち始めた。雨が降り始める中、二艘の舟に再び乗り込み、出発する。
 これは本格的な雨になるかもしれないと、リュックからレインコートのズボンを取り出して履く。裾のマジックテープを締めて何とか落ち着いた頃から、雨が段々激しくなってきた。

 頭は笠をかぶり、救命胴衣も着ているからある程度守られているともいえる。しかし、そんなものは相手にしないような、叩きつけるような雨だ。木の舟に雨が当たる音がまるで小豆が降ってきているかのような音に感じられる。
 アウトドア用レインコートで上下完全防水状態だった私はともかく、他の方はかなりびしょぬれになっていたと思う。大きなビニル袋が配られ、それぞれ荷物を覆ったり、体に被ったりしている。
 キョウコさんも本当にびしょぬれになって「ありえなーい!」と叫んでいらした。それくらいの雨だ。

 そんな激しい雨の中、ちょうど雲取温泉の脇を流れていた高田川が熊野川に合流する地点にさしかかった。2年前に大きな地震があり、雲取温泉は白濁し、泉質も良くなったのだそうだ。地震で良かったことはそれだけだ、とはキョウコさんの弁だ。
 雲取温泉は糖尿病にも効くといわれているという。

 30分近く雨は降り続いた。
 それも、本当に叩きつけるような雨だ。笠を被っていても顔を上げるどころではなく、うつむいてなるべく雨が当たる面積が小さくなるように体も小さく丸めて、じーーっとしているしかない。
 キョウコさんは古(いにしえ)の上皇様たちも、こんな大変な思いをして熊野詣でをなさったのだとおっしゃるけれど、ごめんなさい、私はやっぱり晴れて欲しかった。

川霧 嘘のような晴天、とまではいかないものの、河口が近づき、新宮市街地に近づくにつれ、雨足は弱くなり、かすかに陽も射すようになった。
 舟に乗り込んだ頃に「雨の日は雨の日のいいところがある」と説明があったように、両岸の山から霧が立ち上っているのが見える。川面も穏やかになり、色を深めている。いい雰囲気である。

 雨もあがった頃、苞苴渕に差しかかった。
 毎年10月15日・16日に行われる熊野速玉大社の例大祭に、この渕で近くにある庄司家の人が75匹の鮎を捕まえて奉納することになっているそうだ。
 何故75匹なのか、神社も知らないし、奉納する庄司家の方も判らないというのが面白い。

 雨が降っていた間はやはり舟足も抑え気味だったのか、この辺りから舟くだりは飛ばし始めた。
 畳を立てかけたように見えるところから「畳石」といわれる岩が立ち並ぶところに差し掛かり、一度エンジンが切られる。エンジンを切ってゆっくりと舟が漂い、川の流れる音が楽しめるのもここが最後だ。

 その後、舟は、熊野速玉大社の例大祭で神幸船が3周するという御船島をゆっくりと巡る。どうも、この島の進行方向右側はかなり浅いので、左側に迂回し、結果として島の周りを半周することになるようだ。
 この御船島に、神倉山から熊野速玉大社に向かっていた女性の神様の一人が降り立ったといわれているそうだ。
 また、行政区画(というのか)としてはこの御船島は三重県になるけれど、和歌山県の熊野速玉大社の飛び地という扱いになっているという。面白い。

 この島を通り過ぎると「熊野川舟くだり」も最後だ。
 熊野川は、「熊野古道」の一部として、川というよりも道として世界遺産に登録されているという説明も改めて聞かせてもらう。
 前方に大きな橋が見えて来る。
 さて、どこにこの舟は到着するのだろう? と思っていたら、石ころが転がる川原に着けられた。出発点から14km、1時間半の舟旅の予定が、恐らくは雨のせいで2時間近くかかっていた。
 そこは、権現川原といい、昔から熊野参詣の舟の乗降場所であったといわれているそうだ。確かにその通り、熊野速玉大社のほんの裏手だった。昨日来たときには、熊野速玉大社がこんなに川のすぐそばにあるとは、まるで気がつかなかった。

 舟が出発地点に戻る方々を乗せて戻っていくのを見送った。バス停に近いところに着け直してもらい、語り部さん達と一緒にバスで戻るという。今は、出発地点に戻るマイクロバスが用意されるようになったという記事を以前に読んだけれど、思い返してみると、確かにずぶ濡れになって路線バスを待つのも辛いだろう。
 舟に乗っていた方々が三々五々散る中、川原の石が乾いていたので適当なところを選んで座り込み、レインコートを脱いで畳み、靴を脱いで干し、靴下を履き替える。それだけでも気分はだいぶ違う。

巫女 しばらく(といっても、10分くらいだろう)ぼーっと川の方を眺めながら休憩し、天気も何とかもちそうなので、当初予定通り高野坂に行こうと決めて歩き始めた。
 まずは、熊野速玉大社にもう一回お参りする。
 ちょうど、そこに巫女さんが通りかかったので、声をかけて写真を撮らせていただく。(お仕事中だったのに、申し訳ない。)
 
 熊野速玉大社近くの商店街にあった喫茶店でお昼ごはんにパスタをいただいた。
 ゆっくりお昼ごはんを食べている間に空模様がおかしくなったようで、再び高野坂を目指して歩き始める頃には、パラパラと雨が降ったり止んだりする妙なお天気になっていた。
 いくらも歩かないうちに、昨日登った神倉神社が見えてきた。そういえば、昨日は下から見上げることはしなかったなと思い、振り仰ぎ振り仰ぎ歩く。雨上がり(というか、まだポツポツしていたのだけれど)の緑がとても綺麗だった。

 そこから新宮駅の近くまで歩いた辺りで、本格的に雨が降り出した。
 仕方なく、すぐそばにあったバス停に屋根とベンチがあったので、雨宿りする。地元の方らしい女性も雨宿りなのかおにぎりを食べていらっしゃる。
 「どこまで行くの?」と聞かれたので「高野坂を歩いて三輪崎まで行きたいんです。」と答えたら、何故か肝心の前半は横に置いておかれて「それなら、ここのバス停から紀伊勝浦行きのバスに乗ればいい。」と教えてくださる。
 思えば、この辺りから「高野坂」の知名度について、幾分かの不安を感じてよかったのだ。
 そんなこんなお話ししているうちに雨も上がってきたので、「旅行で来ているので、少し歩いてみます」とお別れし、再び高野坂を目指して歩き始めた。

 ずっと歩いてきた国道42号線沿いに大きなジャスコがあり、そのとき私が持っていた地図によると、ジャスコの裏手を入ってすぐの辺りに高野坂への入口があるように見えた。
 しかし、道の左手が少し小高く緑が濃くはなっているけれど、「世界遺産 熊野古道 高野坂」という気配はみじんもない。
 ちょうど向こうから自転車を押した地元の方らしい女性が来たので「高野坂にはどうやって行けばいいんでしょう」と聞いてみたら、そんなものは知らない、というお返事だ。

 今から思えば図々しいことをしたけれど、ちょうどそこに「南紀州新聞社」という看板が目に入り、新聞社の方だったら世界遺産にも詳しいに違いないというとんでもない理由で、私はその扉を開けて、「すみません、この辺りに世界遺産になっている高野坂はないでしょうか」と尋ねた。
 ちょうど入口近くにいた若い女性に首を傾げられ、更に不安になっていると、ベテランらしい男性の方が「ここからだと結構距離があるよ。XXさん(この若い女性の名前だと思う)、行ったことない?」と声をかけてくださった。
 あるじゃないか!

高野坂入口 高野坂入口までの道順を教えていただいたら、これが結構複雑で、どうも「近くにある」という私の認識と地図の表示が誤っていることが判った。
 私があまりにも自信なげに教えていただいた道順を復唱していたせいか、「15時半くらいまでに三輪﨑の駅に着きたいんです」という私の希望はあまりにも無茶だと判断されたのか、ついに「じゃあ、高野坂の入口まで送ってあげるよ」とおっしゃっていただき、さらに図々しいことにお言葉に甘えて車で連れて行っていただいてしまった。
 車で5分くらいは走ったから、私の目算はまるっきり的はずれだったということだ。
 今さらながらだけれど、どうもありがとうございました!!
 
 「世界遺産 熊野古道 高野坂」の看板は造成が続く住宅街のようなところに立っていた。そこから歩いてすぐのところに、本当の高野坂の入口がある。看板が立ち、すぐ脇を線路が走っている。海岸沿いの熊野古道の上にこの線路を通してしまったため、今は歩くことができない。
 線路のすぐ向こうは海である。
 さて、歩き始めようとしたところに轟音が近づき、特急くろしおがすぐそばを走り抜けて行った。

 14時10分くらいから高野坂を歩き始めた。
 世界遺産だし、歩いて1時間くらいで三輪﨑に出られるし、それほど急なアップダウンもない、散歩コースとしては最適だ。しかし、知名度が低いせいか、アクセスが判りにくいためか、歩いている人はほとんどいない。
 しかも、語り部の方に先導されて歩いているときには全く気にもしていなかったけれど、「今は全行程のどれくらいのところを歩いている」ということが判らず、「あとどれくらい歩けば目的地に着く」ということも判らず、でも電車の時間があって15時半までには三輪﨑の駅に着きたいという目標だけがある状態は、とても不安だ。

高野坂からの海 高野坂を歩き始めてすぐ、振り返ると王子が浜が見えるポイントがある。昨日は南国調にあんなに綺麗なブルーだった海が、今日は曇天の下グレイに霞んでいる。ちょっと残念だ。

 そこから、山道(といっても息が切れるようなアップダウンはなく、なだらかな道筋だ)を再び歩き始める。木々が遮ってくれるているのか、ほとんど雨は感じられない。念のため、レインウエアのズボンだけは履いたままだ。
 本当に人影がなく、ところどころ、道筋に埋まっている石に苔生していたりする。一昨日歩いた中辺路は、植林されて綺麗に整った美林で、こちらは雑木林といった雰囲気だ。むしろ、熊野古道の雰囲気はこちらに残っているような気さえする。

金光稲荷神社 途中の竹藪がやけに明るくなっていて、張り紙があった。「お礼 4月25日(火)予定されていたイベント「タケノコ掘って古道整備」につきましては、当初計画通り実施し、無事終了いたしました。ありがとうございました」と書いてある。高野坂にもこうして世界遺産を守ろうという取り組みがあるらしい。
 赤い前掛けをしたお地蔵様を過ぎ、14時40分くらいに、金光稲荷神社に到着した。緑と茶色の中に赤い鳥居があるととても目立つし、何だかほっとする。少しお邪魔して、お参りする。

 神社から少し歩いたところに道しるべがあり、「展望台」「三輪崎」と書いてあった。もうここからはそんなに時間もかからないだろうと、展望台に寄り道した。
 2〜3分で到着するだろうと思っていたら、結構歩く。途中で少し不安になって、向こうから戻ってくる人がいたので「あとどれくらいですか?」と聞いてみたら「すぐですよ」というお返事だった。確かに、道しるべから展望台まで、歩いて5〜6分というところだ。
 展望台からは、三輪崎の海が見える。
 晴れていないのが惜しまれるけれど、少なくとも「今にも降りそう」という感じではなくなっていた。暑くなったのでレインウエアのズボンを脱ぎ、風に吹かれてしばし三輪崎の海を眺める。

 高野坂の終わりには、佐野王子に続く道も示されていたけれど、そこまで行く時間はない。
 三輪崎の駅に向かおうとすると、線路はあるものの、駅がどの辺りにあるのかサッパリ判らない。ちょうど玄関から出てきた女性に尋ねると、「判りやすいのと近いのと、どっちがいい?」と質問された。
 「それはもちろん近い方を」と言ったけれど、説明を聞く私の表情に不安を覚えたのか、その女性は「やっぱり判りやすい方から行きなさい」とおっしゃって、海沿いの道を教えてくださった。

 15時15分くらいに駅に到着した。
 そこで駅の待合所に貼ってある時刻表を見て気がついた。私はずっと15時32分発の電車に乗るつもりで歩いて来たけれど、紀伊勝浦行きの電車は15時21分発である。
 新聞社の方に送っていただいてよかった、途中で焦って歩いてよかった、とほっとした。

紀伊勝浦の港 紀伊勝浦駅前には足湯がある。結構混み合っていたので、駅からまっすぐ伸びる道を港の方に行き、「足湯 海の湯」に浸かった。
 結構広くて20人くらいは入れそうな感じだ。テーブルがあるところもあって、ガイドブックを開いている人たちや家族連れもいる。
 港の風景を眺めながらしばしぼーっとする。ちなみに一番左の山が「ホテルうらしま」である。

 16時30分くらいまで足湯にのんびり浸かり、駅に戻りつつ、那智の滝の水で作った日本酒や、梅酢エキスをしみこませたお塩や、春香柑という「一番もともとの品種」のミカンや、梅干し(お店のおじさんは「保存するのだから、梅干しは元々塩がきついものなのだ」と言っていた)など、定番のお土産をいくつか購入した。
 特にお塩はどこに行ってもついつい買いたくなるものの一つだ。
 駅の売店でサンマ寿司のお弁当を買い、17時12分発のワイドビュー南紀8号に乗り込んだ。
 
 南紀8号の車内で松阪牛を使ったお弁当が販売され、そちらも食べてみたかったと思ったり、南紀8号が遅れて名古屋駅でのぞみへの乗り換えのためにダッシュしたりしつつ、無事かつ平和に熊野古道を歩く旅行は終了した。

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2006.08.05

熊野古道旅行記3日目

2006年5月1日(月曜日)

 旅館よしのやでの朝ごはんも7時からだった。温泉で炊いたおかゆが美味しい。
 ツアーとしては13時過ぎに紀伊勝浦駅に戻ることになっているので、今日は移動距離も長く、過密スケジュールだ。そこを案配し、当初予定よりも出発を早め、朝ごはんの時間を早めたらしい。
 朝食前に10分くらいだけれど、旅館周辺を歩き、湯の峯温泉の風情などを写真に撮った。朝の空気が気持ちよい。

 今日の移動もマイクロバスだ。何時に湯の峯温泉を出発したか覚えていないけれど、8時前だったことは確かだ。
 今日の半日は、宇江先生から替わって榎本先生がガイドを務めてくださる。
 バスは熊野川に沿って、一路、熊野速玉神社を目指す。そのバスの中で、古事記・日本書紀から語り起こし、熊野の起源のお話があったけれど、よく寝た筈なのにいかんせん眠い。しかも、お話が難しい。そういうわけで、あまり覚えていないのが申し訳ない。

 徐福伝説というものがあるそうだ。
 今から2200年ほど前、秦の始皇帝に仕えていた徐福は、その命により不老不死の霊薬を求めて熊野に渡来し、農法・捕鯨・紙漉などを伝えたといわれている。最近になって、この伝説が史実だと言われ始めているという。
 榎本先生の場合はそこからさらに一歩進め、この徐福の渡来が、イザナギ・イザナミの伝説と繋がっているのではないかと考えているそうだ。

熊野速玉大社の神門 添乗員さんは新宮市内に入る辺りで道が渋滞するのではないかと心配していたようだけれど、渋滞にはまることもなく、8時30分過ぎに熊野速玉神社に到着した。
 熊野速玉神社は熊野速玉大神(いざなぎのみこと)と熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を中心にお祀りしている。
 それとは別に、熊野本宮大社はスサノオと阿弥陀如来を奉じて未来を司り、熊野速玉大社はイザナギと薬師如来を奉じて過去を司り、熊野那智大社はイザナミと千手観音を奉じて現在を司るというお話を聞いたように思う。
 熊野速玉大社が「新宮」と呼ばれるのは、熊野「本宮」大社に対するものではなく、この後に行く神倉神社を元宮として現在地に社殿を移したことから来ているという。

 熊野速玉神社の境内には、ナギの大木がある。胴回りが6m、高さが20mのこの木は日本一の大木で、昭和15年に国の天然記念物に指定されている。今から850年くらい前に平重盛が植えたといわれているそうだ。
 昔は、熊野詣でに来ると、このナギの大木の葉をいただいて帰ったものらしい。もちろん、今は保護されていて、葉っぱを取るなどということはできない。
 昔の熊野詣での方に倣い、熊野本宮大社に続いて熊野速玉大社でも牛王宝印を買い求めた。この後に行く熊野那智大社でもそうだったけれど、「牛王宝印をください」と言うと巫女姿の方が「500円お納めください」とおっしゃる。対価として支払うのではないということなんだろう。
 
 熊野速玉大社では、神門の内側での写真撮影も禁じられていなかった。
 「声をかけてくれれば説明します」という看板が立ち、実際に宮司さん(で呼び方としては合っているんだろうか)に説明を受けているグループの方もいらっしゃった。
 昨日よりも明るい空の色のせいか、熊野本宮大社よりも何となく明るく開放的な印象がある。しかし、「ここは過去の悪行を反省する場所だからそういうお願いをしてください」と榎本先生はおっしゃっていた。

 次に向かったのは、熊野速玉大社の元宮である神倉神社である。バスで5分と走らずに到着した。
 神倉神社の入口にはすぐに到着したのだけれど、本体は、階段を上って登って上ったところにある。鳥居のある階段の登り口からは全く見ることができない。
 また、この階段が、登り始めは高さも奥行きも揃っておらず、えらく上りにくい。息を切らせ、足だけで普通に上ることはできずに手も使って半分よじ登るようにして行く。

 この写真でお参りしているこの女性は地元の方のようだった。「登るのは大変だよ、でも神様が助けてくれるから思うよりも楽に登れるよ」とおっしゃる。特に私を集中的に助けてもらいたい気分だ。
 神倉神社の神様は火の神様だということを教えていただいた。
 また、神倉神社では、毎年2月6日にこの急な階段を駆け下りる「お燈祭」というお祭りが行われている。この女性がまだ子どもの頃に、その「お燈祭」が雨のために中止になったことがあり、すると、この一帯が火事で燃えてしまったそうだ。以来、雨が降っても雪が降ってもこの「お燈祭」は絶対に行われるようになったそうだ。
 「コケる人はいないんですか?」と私としては至極真っ当な質問をしたつもりだったけれど、「いないねぇ。神様に守られているからねぇ。」と苦笑されてしまった。
 行ってきます! と気合いを入れ、「上に行ったら海の方まで全部見えるわ。」という言葉に励まされて登り始める。

 ところで、その「お燈祭」は、それぞれが小さな松明を持ち、この上の神社から一斉に駆け下りてきて一番を競うお祭りだ。
 参加できるのは男性だけで、白装束を着るという。スタート地点の山門では、いい場所を取り合って松明での殴り合いが起こることもあるという。白装束に血がつき、飛ぶように駆け下りてくる人もいる、ということだ。
 もちろん、一番乗りを競わずにゆっくりと降りてお祭りに参加する人も大勢いるそうだから、「一番乗りを競うお祭り」というのは間違ったまとめ方かも知れない。

神倉神社の石段(下から)神倉神社の石段(上から) この「もの凄く大変な階段の登り」を強調するために、下から見上げた写真と上から見下ろした写真を載せてみた。上から見下ろすと、ほとんど直角に切り立っているように見える。
 踊り場のような、少し平らな広場のようなところが途中に1ヶ所だけあり、そこから上は比較的段差も小さく奥行きも揃って登りやすくなった。しかし、そこまでの階段は、特に前の日にたくさん歩いてくたくたボロボロになっている身としては本当に大変だった。太陽まで照りつけて、大汗をかいてしまう。

神倉神社から そうやって息を切らせてたどり着いた神倉神社からの眺めはとても気持ちよかった。
 新宮市内と、熊野川が注ぎ込む熊野灘まで見える。
 階段の下りは、ジグザグにゆっくりと降りたらそんなに怖いこともなく、安全に下ることができた。

 バスは、大辺路街道を海岸線沿いに、新宮港や九十九王子の一つである佐野王子、補陀洛山寺などを横目に走る。
 大辺路街道を外れると、周りはどんどん「山」の雰囲気になる。大門坂の看板が見えれば、もう熊野那智大社の入口だ。
 大門坂は、熊野古道の中でもポピュラーな名所だと思う。樹齢800年という夫婦杉がその入口にそびえ、石段が那智大社に向かって続く。平安装束の貸し出しもあり、よく古の旅姿の女性が石段を下りてくる写真を見かける、あの場所だ。
 今回は歩けないのが残念だ。あまりに残念なので、今夜は熊野那智大社の隣にある青岸渡寺の宿坊に泊まることにして、ここでツアーから離脱することにしたという方もいらしゃった。

 参道入口でバスを降り、階段を上らなければ熊野那智大社にお参りすることはできない。その階段は467段あるそうだ。
 参道沿いには、那智黒の産地だけあって、碁石はもちろんのこと、硯や置物などを扱うお店が並んでいる。
 
青岸渡寺 やっと到着した熊野那智大社は、高いところにあるせいか涼しい風が吹き、山の眺めもよいところだった。
 熊野那智大社の成立はおよそ400年頃で、元々は滝がご神体だったそうだ。その後、古来の神道と仏教が合わさり、神仏集合の信仰が始まる。
 また、青岸渡寺は、修験道と真言宗を信じる人たちにより、熊野分社権現としての形態が平安時代に確立されたそうだ。江戸時代になって観音信仰が広がり、西国三十三所の第一番の観音霊場となったという。
 青岸渡寺は織田信長の焼き討ちにあったこともあり、今の建物は豊臣秀吉が再建したもので、南紀地方では最も古い建造物で、重要文化財に指定されているそうだ。

 さて、熊野那智大社にお参りに来たら、何はなくとも那智の大滝を見ないわけにはいかない。那智の大滝は高さが133mあり、滝の落ち口が3つに分かれていることから「三筋の滝」とも呼ばれているそうだ。延命長寿の神様でもある。
 11時30分を回ってそろそろお腹も空いたけれど、滝壺に向かって石段を下る。熊野那智大社から那智の大滝に向かう道は「裏参道」だそうだ。

那智の滝 「この石段を帰りには登らなくちゃいけないのね」と思いつつ下る。歩くこと5分ばかりで滝壺に到着した。滝壺というよりも「滝壺の神社」という感じだ。
 300円也を支払って、さらに深さが10mあるという滝壺に近づき、延命効果があるという滝の水をいただいた。

 那智の滝の上流は自然の川になっていて、そのため、水量の増減が激しいそうだ。今日私たちが見た滝は、「比較的水量のある方」だったらしい。
 また、那智の大滝を一番滝として、四十八番の滝まで確認されている。
 滝の上流では、南方熊楠が粘菌の調査も行ってたそうだ。
 神倉神社と同じように、熊野那智大社でも火祭りが行われる。あちらは冬の最中、こちらは夏の盛りだ。また、あちらは小さな松明を使い、こちらは、重さ50kgくらいの檜の割板で松明を作る。対照的だ。

 そんな説明を聞きながらバスは走り、紀伊勝浦駅で13時に解散となった。
 ここまでで、K社の「熊野古道を歩く」というこのツアーは終了である。
 でも、私は自主的に1泊延泊したので、熊野古道旅行は続く。

 宿泊は、新宮から車で30分くらいのところにある、雲取温泉グリーンランド高田に予約を取った。交通の便があまりよくないので、16時くらいに駅まで迎えに来ていただくようお願いしている。
 紀伊勝浦駅周辺でお昼ご飯を食べ、足湯に浸かり、お土産を見て、郵便局を探してふるさと切手を買うというゆっくりパターンか、紀伊勝浦駅周辺でお昼ごはんを食べて、紀の松島めぐりの遊覧船に乗るというさらにゆっくりパターンか、どちらかにしようと考えていた。
 のんびりガイドブックを広げて考えていたら、榎本先生に「これからどうするんですか」と聞かれ、「とりあえず、今日は雲取温泉に泊まるんです」と話していたら、いつの間にか、これから新宮市内を案内していただけるという話になった。有り難いお話だ。

さんま寿司 もうお一人、今日の予定が決まっていない方がいらして、二人で案内していただくことに決まった。
 13時18分発の電車で新宮に向かう。
 新宮に着いたところでまずお昼ごはんをどうしようかという話になった。ランチタイムはすでに過ぎ、駅前のお店も何となく開いている気配がない。榎本先生に「じゃあ、時間もないことだし、外で食べますか」と言っていただき、駅前のお寿司屋さんでさんま寿司を包んでもらう。

 そのまま車で海岸線に連れて行っていただき、堤防でお昼ごはんを食べた。
 砂浜と海がずーっと続いているけれど、この辺りは海水浴には向いていないそうだ。浅そうに見えるけれど少し行くとストンと深くなっているので、この辺りの人は「海に行く」というと、磯遊びに行くことが多いという。
 また、この浜は「王子が浜」といって、世界遺産には登録されていないけれど、熊野古道の一部だそうだ。熊野古道といわれると「山」というイメージが強いので、何だか意外だった。

阿須賀神社 お昼ごはんを食べて海をのんびり眺めた後、隣に竪穴式住居がある「熊野阿須賀神社」に行った。住宅地にポツンとある、でも朱塗りの社殿や拝殿もあって「普通じゃない」由緒ある感じも漂う神社だ。
 熊野速玉大社の例大祭の日には、速玉大社からこの阿須賀神社にお祭神をお迎えする神馬渡御式という古式豊かなお祭りが行われているそうだ。
 この神社のご神体は背後の山だそうだ。社殿の奥に鏡が祀られているのも見える。神社と鏡というのは似つかわしいけれど、そのご神鏡を一般の参拝客から見えるところに置くのは珍しいのではなかろうか。
 
 新宮駅前にある徐福公園は門構えがやけに立派な公園だった。不老不死の薬として探し求められたという天台烏薬の木に囲まれた徐福のお墓や、徐福の重臣7人を祀った塚などがある。
 売店もあって、天台烏薬のお茶を試飲させてもらった。想像していたよりも漢方薬臭くなく、クセがないとは言わないけれど、美味しいお茶だったと思う。冷やした方が美味しく飲めるのではないかと思った。
 
 浮島の森は、新宮市街地の中央に突然現れる、こんもりと緑の茂った一角だ。
 その一角が丸ごと沼の中に浮いている浮島だというから驚く。国の天然記念物にも指定されているけれど、市街地開発で沼がどんどん小さくなり、浮島もどんどん元気をなくしているらしい。隣の土地で埋め立てた沼を元に戻して浮島を元の姿に戻そうというプロジェクトが進行していた。

 この辺りで、私の宿からのお迎えの時間と、ツアーで一緒だった方の電車の時間とで時間切れとなり、駅前でお二方とお別れした。
 今日の夕食を調達する必要があるので、駅弁を買って行こうと予定していた。しかし、駅の売店は閉まって布までかけてある。電話で夕食の話をしたときに、宿の方に「お迎えに行ったときにスーパーにでも寄りましょうか」と言われたのは、この事態を見越していたのかも知れない。
 スーパーマーケットで食料調達というのも何となく味気ない。お昼ごはんにさんま寿司を買い求めたお寿司屋さんに再び入り、握り寿司の折り詰めを作ってもらった。今日は炭水化物と魚類しか摂取していないような気もするけれど、1日くらいまあ大丈夫だろう。

グリーンランド高田_1 16時くらいに迎えの車が来た。30分くらいで今日の宿である「雲取温泉グリーンランド高田」に到着だ。
 新宮市の第三セクターが運営していて、部活の合宿などに使えそうな運動場が併設されている。名前のとおり日帰り温泉もあり、宿泊客は無料で利用できる。日帰り温泉のお客さん用に売店があり、お土産なども売っている。
 私は洋室に泊まった。お茶セットもあって、昼間に試飲した天台烏薬のお茶もついている。なかなかいい。

 この近くに、日本の滝100選にも選ばれた滝があるそうだけれど、今からでは暗くなってしまって危ない。明日もあることだし、滝までのハイキングは諦めて、宿周辺を少し散歩した。
 月曜日は併設の喫茶も閉まっているくらいだから、日帰り温泉のお客も少なめなんだろうと思う。静かだ。
 裏手に流れている高田川も綺麗で、少し早めに来て周りをゆっくり散歩してもよかったな、と思った。

 雲取温泉という名前は、宿から雲取峠が眺められることから付けられたそうだ。
 お湯は青みかかった乳白色である。西日本で乳白色のお湯の温泉は非常に少ないらしい。それを聞いてここに泊まりたいと思ったのだ。
 宿の人の話では、地震があって、お湯の色が少し変わったという。「前はもっと本当に真っ白だったんです」というお話だった。

 日帰り温泉のお客さんが大方帰ったころを見計らって、温泉に行く。
 内湯は乳白色の温泉の他に、キハダの薬草風呂と天台烏薬の薬草風呂もある。露天風呂までは木製の屋根付き通路を結構歩く。乳白色の温泉がなみなみとあって、すぐそばを高田川が流れる音がして、とても気持ちいい。
 夕方のまだ陽が残っているうちから、外が暗くなるまで、ほとんど独占して温泉を堪能した。歩き疲れた体がほぐれた気がする。

 売店で絵はがきやお土産やビールを買い、夕ごはんにした。
 このビールが効いた。お腹が空き、温泉に浸かりまくって喉が渇き、しかも歩き疲れているとくれば回らない筈がない。
 お寿司を食べながらビールを飲んでいるとどんどん眠くなってきて、歯磨きだけは何とか済ませ、せっかく買った絵はがきを書く暇もなく、20時にはストンと眠ってしまった。

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2006.07.30

熊野古道旅行記2日目

2006年4月30日(日曜日)

 旅館とちごでの朝ごはんは7時からだ。
 ごはん、わかめと豆腐のおみそ汁、サワラの塩焼き、地卵の卵焼き、さといもと蕗の煮物、ほうれん草のごま和え、キュウリの糠漬け、という「これぞ日本の朝ごはん」というメニューだ。
 お昼のお弁当をいただき、ペットボトルにお茶を詰めていただく。

 今日はここからタクシーに分乗して歩きの出発地点まで向かう。大きな荷物は旅館のお父さんが車に乗せて今日の宿まで運んでくださる。
 お母さんと旅館の前で撮影大会をし、8時に出発した。
 乗せてもらったタクシーの運転手さんがまた面白い人で、「とちごの女将さんはうちのおかんに似てる」などとおっしゃる。和歌山県は格好良いお母さんの宝庫なのかも知れない。

 車で走ること30分、今日の歩きの出発地点に到着した。
 旅程表では、湯川王子から熊野本宮大社まで歩くことになっていたけれど、昨日が雨であまり歩けなかったためなのか、それ以外の理由なのか、昨日のうちに語り部の宇江先生から「予定よりもう少し手前から歩き始めます。30分くらい登りが続きます。」と宣言されていた。
 結局どこから歩き始めたか定かではないけれど、後になって思い返し、地図と照らし合わせてみると、岩神王子手前の女坂付近から歩き始めたのではないかと思う。

炭焼き 8時半に、歩き始めた。
 林道を外れ、川に渡された小さな橋を踏んで、山中の熊野古道を出発である。
 出発してすぐ、炭焼き釜の跡があった。ここから出発した理由のひとつは、宇江先生がこの炭焼きの跡を見せたいと思ったからではないかと思う。先生は若い頃は炭焼きのお仕事をされていたそうだ。

 紀州備長炭は江戸時代から熊野の特産物で、上等の炭なら15kgで7000円くらいするらしい。お米と同じくらいの値段なのだ。
 紀州の特産物だから杉の木から作っているのかと思ったら、樫の木から炭を作るそうだ。杉の木からは作れないらしい。
 窯を作り、運んで来られる範囲の樫の木を全て炭にしてしまうと、その窯を捨て、また次の場所で窯を作る(あるいは、古い窯を作り直して使う)。その繰り返しだったそうだ。
 修験道の山伏でもある宇江先生の法螺貝の音の応援を受け、再び出発である。
 
 最初は、ひたすら上り坂だ。出発前に旅行社から送られてきた案内には「息が切れるような難所はありませんが、踏む距離は長いです。」と書いてあったけれど、そんな案内文は大嘘である。
 土の山道はところどころ石が半分埋まっていて、滑らないようになっている(と思う)。
 見上げるような結構な急坂が続き、しかも見上げても終点が見えない。
 このまま永遠に上り坂が続くんじゃないかと思いつつ、黙って一歩一歩足を出す。息が切れてしゃべることもできやしない。

沢ガニ 30分くらい登ったところでふと下を見ると、さっき歩き始めた林道が遙か下に見えた。我ながら、よくがんばっている。
 沢ガニを見つけてみんなでのぞき込む。私は「写真を撮る」と称してしょっちゅう自主的に休憩していたけれど、ツアーのみなさんは本当に黙々と歩いている。そんな中、沢ガニ発見はかなりのイベントだ。
 沢ガニと別れて10分くらいで岩神王子に到着した。休憩である。
 とっくに汗だくになっていたので、上に羽織っていたゴアテックスを脱ぎTシャツになる。

 岩神王子は岩神峠からすぐのところにある。今は社も失われ、「岩神王子」と彫られた石が立っているだけだ。
 ここからしばらくは下りとなる。息は楽になるけれど、今度は膝と足の指に負担が来る。
 足の指が痛いのは、私がいわゆるトレッキングシューズではない、紐ではなくマジックテープで締める山用でない靴を履いているせいだと思う。その靴で踏ん張ると親指に全体重がかかる気がする。
 木を渡して階段状になっているところでは、足の指は楽になるけれど、今度は膝が笑い始める。立ち止まると膝が震えているのが見て判るくらいだ。

 30分くらい歩き、少し道が平らになって楽になったな、と思ったところで、杉林の上の方が開けた。陽が射して若い緑がキラキラ輝いているように見えるところに出た。
 添乗員さんに「写真、撮るんでしょう」と言われ、謹んでカメラを構える。そういえば、せっかくリュックを背負って両手を開けていたにもかかわらず、私はこの日、1日中カメラとタオルを手に持って歩いていた。山歩きに慣れていなければ体力も運動神経もないくせに、我ながらふざけた態度である。

 沢に沿って歩いたり、その沢にかけられた黄色く真新しい丸太橋を渡ったり、もう架けられて何年もたつのか土や葉が積もっているような丸太橋を渡ったりして進む。
 10時少し前におぎん地蔵を通過した。この近くの古道が、私たちが通った約1週間後に崩れている。
 もうこの頃からすでに、私は最後尾を歩くことが多くなった。写真を撮っては遅れ、追いつくために急ぐ体力などカケラもない。

 10時15分くらいに蛇形地蔵に到着した。
 遅れ気味の私は、宇江先生のお話も途中から聞いたり、追いつく頃にはお話の中心は終わったりしていたことが多かった。
 しかし、蛇形地蔵では、お手洗いもあって長めの休憩を取ったので、「だるがつく」という言葉を教わることができた。急に疲労困憊して歩けなくなってしまうことを表す言葉だそうだ。
 私たちみんなが疲労困憊して見えたらしく、励ますために法螺貝も吹いてくださる。
 ツアーの方があんこのお団子を配ってくださる。甘くて美味しい。

 法螺貝についてのお話も伺う。
 奥駆けの修行をするときに、勤行をする。勤行と聞いて「滝に打たれるんですか?」と聞き返してツアーのみなさんに笑われてしまった。真言を唱えることを勤行というそうだ。
 その勤行を始める前に「これから勤行します」、歩き始める前に「これから出発します」、宿に着いたときに「これから宿に入ります」ということを知らせるために法螺貝を吹くという。山の上で吹くと宿の人が到着を知り、ごはんの用意を始められるという仕組みだそうだ。
 法螺貝には音が5つあって、吹き方によって変えられる。その5つの音で奏でる旋律により、違う内容を伝えられる。ただし、高音を出すのはかなり難しいそうだ。

 10時半くらいに休憩を終え、出発する。
 蛇形地蔵を出てすぐは、渓流沿いを歩く。リュックを背負った背中は汗だくだし、この頃から膝が笑ったり足の指に体重がかかるだけでなく、背中が妙に突っ張っているような気がし始めた。それでも、とりあえず気温が少し下がったような気がするし、何より水音が爽やかである。
 蛇形地蔵から10分くらいで、湯川王子に着いた。
 そういえば、元々の予定ではここから歩き始めることになっていたんだよな、2時間かけて出発点にたどり着いたのか、としみじみする。

 湯川王子は九十九王子の中でも比較的格式の高い准五体王子のひとつで、道湯川(多分ここまで沿って歩いてきた渓流の名前だろう)の氏神様だそうだ。明治時代に近くの神社に合祀され、昭和30年代以降は無人になっていたけれど、最近、小社殿が再建されている。
 この再建された小社殿の上屋が再び倒れたのは2006年7月上旬のことだ。
 湯川王子近くに後鳥羽上皇が御所を築き、宿泊や休息、谷川で禊ぎをしたと言われているが、その場所は今も特定できていないという。

 明治時代からこの地が無人になる昭和30年代くらいまで、この辺りは「義務教育免除地」だったそうだ。
 集落に住む人が少なく学校は維持できない、こちらの学校までは7km、あちらの集落までは10km、しかも山道となると通いきれない、という事情からだそうだ。全国的にも珍しいらしい。

 湯川王子から三越峠まで、またしばらく登りが続いた。
 添乗員さんは「軽い登りです」と説明しているが、登りながら撮った動画には私の息が切れている音だけがくっきりと入っている。しかも「朝より辛い」と呟く声が入っているから、相当キツかったのだと思う。
 岩神王子までの登りよりもキツく感じたのは、すでに2時間強歩いていることや、坂ではなく階段だっためではないかと思う。
 それでも、登り始めて25分で三越峠に到着した。

 三越峠 やはり峠だ。風が通ってとても涼しい。
 休憩所やその周辺にみんなして座り込む。水分を補給し、チョコレートなどを囓る。休憩所の近くに水道があったので、思いっきり顔を洗うとサッパリした。
 10分ほどの休憩の後、11時15分、今度は道を下り始める。

 再び渓流沿いの道を歩いていると、急に「ゲッゲッ(と聞こえた)」と声がした。道沿いに石組みが組まれ、苔やシダが生えていて、その辺りから声がしている。立ち止まって目をこらしてみたけれど、蛙の姿は見つけられなかった。
 30分ほど歩いたところに、綺麗な石組みが残っている集落跡があった。結構大きな集落だったのではないだろうか。しかし、もう建物などは残っていない。石組み跡にも綺麗に植林されている。

 何となく気後れして写真を撮らなかったしメモも取らなかったのでうろ覚えだけれど、多分この辺りを歩いているときに、宇江先生から「この家では幽霊が出たんです」というお話を聞いた。
 何軒かの無人の家が集まっているうちの一軒で、もうすでにそのおうちの方は別の場所に引っ越し、無人の家の筈なのに、そこを通りかかった旅人がおうちにいた方に招かれ、お茶を振る舞われたという。

 そんなお話を聞いていたら、ツアーの方が「さっきから、後ろから誰かが付いてきている気がする」とおっしゃる。今は10人以上の人が固まって歩いているからいいけれど、それでもかなり怖い話だ。その話を聞いていた別の方が「そういうときは、お先にどうぞ、って道を譲るといいのよ」とおっしゃる。
 少し道が広くなったところで、「お先にどうぞ」と通して差し上げたら、その後は「後ろから付いてきている」という感じはなくなったそうだ。良かった・・・。
 私はこういう感覚に襲われることはまずない(もしかしたら生まれてから一度もないかも知れない)タイプだけれど、覚えておこうと思う。

 そろそろ正午近くなり、お腹もかなり空いてきた。そんなところにこんな坂(というか階段)はかなりキツい。
 それでも、この坂を登り切った辺りから、道も平坦に広くなり、格段に楽になった。遅れた私たちについていた添乗員さんが、走って前を行く宇江先生を追いかけて行く。お昼ごはんの相談に行ったようだ。
 川沿いの山桜を見ながらのんびり歩いて、公園のような広場のようなところに到着した。

 12時15分、待望のお昼ごはんとなった。お弁当は、朝、とちごのお母さんに渡されたもので、おかかの入っためはり寿司のおにぎり、梅干しのおにぎり、めはりを刻んでご飯に混ぜ込んだおにぎり、卵焼きとウィンナと佃煮が入っている。
 普段ならおにぎり(それも結構大きい)3つなんてとても食べられないけれど、歩き続けているせいか、美味しさのせいか、「お腹いっぱいだよ」と思いつつ完食した。

船玉神社 この広場には、川舟が一艘、展示されていた。
 こういう舟を伝馬船というらしい。昭和の中頃までは渡し船として、その後は鮎漁で使われていたそうだ。この後向かう船玉神社まで、漁師が鰹を担いでお参りしに来ることもあったという。
 30分ほどのお昼休憩後、出発し、2分くらいでその船玉神社に到着した。この神社から峰沿いを歩いて今日の宿である湯の峯温泉まで3時間くらいで歩ける道があるそうだ。松林が続きマツタケも取れるらしい。心惹かれるけれど、今は熊野本宮大社を目指さなければならない。

 もっとも、「目指さなければ」と力むほどのことはなく、船玉神社から30分弱で猪鼻王子に到着した。この辺りから眺めた山の稜線がイノシシの鼻のように見えたことから「猪鼻王子」と名付けられたそうだ。
 現在は「跡」という感じでほとんど何も残っていない。
 猪鼻王子から発心門王子までの道筋に濃いピンクの山つつじが咲いていた。熊野古道を歩きながら、この時期、この山つつじを一番たくさん見かけたような気がする。

 13時20分、発心門王子に到着した。
 発心門王子は五体王子に列せられていた格式の高い王子であり、ここから熊野本宮大社の境内だと考えていいそうだ。
 「ここから境内」だからか、距離として手頃なためか、観光バスで来たらしいツアーの一団をいくつも見かけるようになった。
 理由はすっかり忘れたけれど、私は発心門王子の写真を一枚も撮っていない。何故だろう? 疲れ果てていた、というのが一番ありそうな理由である。

 発心というのは仏教用語で「菩提心を起こすこと」という意味だそうだ。
 そして、菩提心というのは、「悟りを求め仏道を行おうとする心」という意味だと広辞苑に書いてある。
 どうして「熊野本宮大社」という神社に入るのに「仏道を行おうとする心」なのかというと、熊野信仰は昔から神仏混淆だったそうだ。仏様と神様は一緒だと考えられていて、仏様だと考えて般若心経を唱えてもいいし、神様だと考えて祝詞を唱えてもいいらしい。

 昔の人は、今までの道ももちろんのこと、熊野本宮大社の境内であるここからは特に、願いごとを持って歩いたそうだ。生きている今のこととともに、「来世」への願いを強く持って歩いたらしい。
 熊野本宮大社と熊野新宮大社、熊野那智大社のそれぞれに修験道があり、宇江先生は那智大社に所属する山伏だそうだ。那智大社から吉野までの山道を1週間で走破する奥駆けもするという。
 昔の山伏は加持祈祷をしてそれで生計を立てていたけれど、今は宇江先生が知っている範囲でそうやって生計を立てている山伏の人は女性が一人いらっしゃるだけだそうだ。

山のさくら 何か願いごとを思いつつ歩こうと思ったし、そうしたと思うけれど、何を願ったのかどうしても思い出せない。こんなことでは、きっと、聞き届けてもらえないだろう。
 ここからの道は、水田などに面した、細いけれど舗装された道が多くなる。昨日のお話にもあった通り、熊野古道(の一部)は生活道でもあるのだ。
 道から見上げた山にポツポツと白くぼんやり霞んでいるところがある。山桜だ。目一杯ズームさせてファインダーを覗いたけれど、私にはそれでも判らなかった。

水呑王子 前方に鯉のぼりが見えてきたな、そういえばあと5日で子どもの日だ、とのんびりと歩いていたら、そこが水呑王子だった。
 もちろん水飲み場(というと、どうも情緒に欠ける)があり、ひしゃくが置いてあって飲むことができる。ついでに、ペットボトルの水が残り少ない人は補給する。美味しい水だ。
 水呑王子のあるところは、元小学校分校の敷地跡だそうだ。
 ここから先またしばらくは杉林の中の土の道に戻ったり、舗装道になったりする。

 両脇に水田の広がる舗装道では、あちこちに無人販売所があり、野菜やお茶、梅やミカンなどが売られている。見つけるたびに覗き込み、「買いたいけど、我慢しよう」などと言っていたけれど、ついに我慢しきれなくなって梅ジャム100円を購入した。家に帰ってトーストに塗って食べたら、思っていたほど酸味が強くなく、とても美味しいジャムだった。
 庭先の水道で大きなウコンを洗っているお母さんと小さい男の子がいた。「こんにちは」と声をかけると恥ずかしげに顔を隠してしまったその子が可愛い。

 この辺りは水田が広がっているけれど、熊野全体をみると山が海際ぎりぎりまで迫っている土地なのでお米を作るには不向きだそうだ。だからお米は貴重品で、熊野ではずっと茶がゆにして食べるのが一般的だったらしい。
 「茶」はこの場合は番茶で、そういえば道々見かけた無人販売所でも大きな袋に入った番茶が売られていた。

 そうこうしているうちに、また前を歩く方たちとの間が開いてしまう。
 私が伏拝王子に到着したのは14時30分を過ぎた頃だった。伏拝王子は少し小高くなっていて、その10段くらいの階段の向かい側にお茶屋さんがある。梅ジュース(買って飲もうか迷った末買わなかったので覚えている)などなどをその場で座って飲むことができる。ここでお手洗い休憩も兼ねて一休みし、伏拝王子に上がった。

 熊野本宮大社は元々は熊野川の中州にあったけれど、明治22年の大水害で流されてしまい、現在の場所に移されている。
 中州にあった頃は、伏拝王子からまさに目の前に熊野本宮大社を望むことができたので、「伏拝王子」と名付けられたそうだ。
 そう説明してもらったけれど、残念ながら私には、肉眼でも、撮った写真でも、伏拝王子から熊野川中州を確認することはできなかった。

 また、和泉式部が熊野本宮大社にお参りした際に、伏拝王子の地で月の障りになってしまい「お参りできない」と嘆いて歌を詠んだところ、夢に熊野の神様が現れて「お参りしても良い」とおっしゃったという伝説が残っているそうだ。
 以来なのかそれ以前からもなのか、とにかく、熊野の神様は男女の別などにこだわることなく万民の神様である、ということである。

 和泉式部の歌について後で調べてみたら、み熊野ねっとというサイトの「熊野の歌」というページが見つかった。その説明によると、
「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」
 と詠んだところ、その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、
「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」
 と返歌したので、和泉式部はそのまま参詣することができたという物語が残っている。
 実際のところ、和泉式部が本当に熊野にお参りしたかどうかは明確には判っていないらしい。

 伏拝王子の近くに、何年か前に放映されたNHKの連続テレビ小説「ほんまもん」の主人公の家のロケ地が残されている。家の中の様子はスタジオで撮影したけれど、その家の外観と家の周りの風景は「ロケ地」のものだったそうだ。今でも、それを目当てに訪れる人がいるという。
 池脇千鶴演じる主人公の祖父を演じていたのが佐藤慶で、山伏という設定だったそうだ。奥駆けのシーンがドラマの中にあって、宇江先生もエキストラで出演したという。「ゆっくりと、でも速く走っているように走ってくれ」と言われて難儀したと笑っていらっしゃった。

 伏拝王子から熊野本宮大社裏手の祓戸王子まで、1時間くらいかけてのんびりと歩いた。
 写真を見ると、結構アップダウンがあったようだし、祓戸王子に着くまでに前を歩く宇江先生やツアーの方々を見失って少し焦ったことも覚えている。
 それでも、やっぱり「のんびりと歩いた」という記憶が残っているのは、それまでの道が(私にとっては)過酷だったからだろう。

 伏拝王子から熊野本宮大社裏手の祓戸王子までの道のりは、土の道だったり、石畳ぽかったり、階段状だったりで、舗装道はほとんどなかった。
 熊野の山は、昔は雑木林が8割で植林した杉林が2割くらいだったけれど、現在はその割合が逆転しているという。確かにこれまで歩いてきた道筋は綺麗に整って植えられた杉の木を多く見てきたけれど、この間は雑木林っぽいところが多かったように思う。

熊野本宮大社裏手 やっと到着した祓戸王子は、熊野本宮大社のすぐ裏手にある。裏門に当たる(?)鳥居もすぐそこに見えている。この鳥居は、木で作られた何となくタテヨコのバランスの不思議な地味な鳥居で、意外な感じがする。
 ここで全員が揃うまで少し休憩となった。
 祓戸王子自体は石の小さな祠があるだけだ。木に囲まれていて、少し平らに広くなっていて、妙な例えで申し訳ないけれど、田舎のおばあちゃんちのお墓のような感じである。

 何はともあれ、朝8時半に出発して歩くこと7時間20分、15時50分に熊野本宮大社に到着した。
 
 熊野本宮大社がいつの時代に祀られたのかは判っていないそうだ。いずれにしても、古い古い、記録に残るよりずっと以前から信仰を集めていたのだろうという。
 熊野本宮大社は、家津美御子大神(私には「スサノオ」と言ってもらった方がまだ馴染みやすい)と阿弥陀如来をお祀りしている。本来、元々の信仰の最初は、熊野川の流れを崇拝していたのだろう、というお話だ。
 明日行く予定の熊野速玉神社は、今の神倉神社の大岩を、熊野那智大社はもちろん那智の大滝を、ご神体としていた。熊野三山は自然崇拝を元にした信仰から始まっている。

牛王符 昔から熊野詣でをする人は、牛王符をいただくことを目的としていたそうだ。大事にいただいて帰り、魔除けとして貼っていたという。
 授与してくれた巫女さんに伺ったところ、南面または東面するように飾るとよいということだった。または、玄関に貼っておけば泥棒よけになるという。
 この牛王符は熊野三山にそれぞれあり、いずれも八咫烏を図案化し並べているが、デザインは異なっている。

 熊野本宮大社の神門の中に本殿(というのか、四つの社)がある。元々は十二神が祀られていたけれど、あと八つの社は明治の水害で流されてしまい、この地に移されたのは、格の高い神様がいらっしゃる四つの社だけだそうだ。
 この移設を手伝ったのが浅草寺だというのも何だか面白い。
 本宮大社では神門の中は撮影禁止だった。だからなのか、何故かここでだけメモを取っていて、第一殿が「夫須美大神」、第二殿が「速玉大神」、第三殿が「家津御子大神」、第四殿が「天照大神」をそれぞれ祀っている。

 四人の神様にそれぞれお参りし、でも何をお願いしたのかやっぱり覚えていない。「熊野古道を歩く」ことは考えていたのだけれど、「熊野詣でをする」ことは全く考えていなかったのだ。
 せっかくたどり着いた(というのが実感な)のに、熊野本宮大社についての記憶はもの凄く曖昧である。
 集合が熊野本宮大社の正門といえる大鳥居の前で、そこまで長く続く階段を降りながら「これを上がらなくて済んでよかった」と思ったことや、その大鳥居の下で法螺貝を吹く宇江先生をデジカメの動画で撮影したこと、鳥居の横に八咫烏の意匠がついた幟が掲げられていたこと、バスを待っている間にその幟が降ろされてたたまれてしまったことくらいしか覚えていないのが情けない。

八咫烏 湯の峰温泉行きのバスの時間まで少しあったので、大齊原までみんなで行ってみることになった。緑とれんげの花と鯉のぼりが何とものどかである。
 熊野川の中州には、今はこの真っ黒な大鳥居と「世界遺産」の碑が立つだけだ。後鳥羽上皇や後白河法皇が詣でたのは、もちろんこちらにあった熊野本宮大社である。
 そんな昔から川の中州にあってびくともしなかったのだから、明治の水害というのがもの凄い天変地異だったことが想像できる。
 鳥居の真ん中の金色の印は八咫烏だ。

 熊野本宮大社前のバス停で宇江先生とはお別れし、湯の峯温泉行きの路線バスに乗った。運良く全員座れてほっとする。終点の湯の峯温泉まで290円だ。
 30分くらい揺られ、17時15分に今日の宿である「旅館よしのや」に到着した。すぐにお風呂をいただき、18時30分から夕食である。
 夕食のメニューは、お刺身、鮎の塩焼き、酢の物、温泉で炊いた湯豆腐、茶碗蒸し、煮物、フライ、ごはん、お吸い物、山ももである。
 これでお酒を飲んだらすぐ寝ちゃうよね、と同じお部屋になったお姉さんと衆議一決してアルコールは自粛する。お腹は空いているし、とても美味しいごはんだった。

 ツアーの方に、湯の峯温泉に到着すると同時に「つぼ湯(小栗判官を甦らせたという温泉で、世界遺産にも登録されている)」を予約した方がいらっしゃり、ちょうど予約時間になって向かっているところに行き合わせた私は、ちょっとだけ中を覗かせていただいた。岩風呂と岩の洗い場(水道などはなさそうだった)に木の小屋をかけてある感じだ。
 もちろん源泉に近いところにあり、効能がありそうでちょっと雰囲気のあるお湯だった。

 宿から歩いて2〜3分のところに公衆浴場があり、ツアーに一人参加していた女性4人で行ってみることになった。
 券売機で、普通のお風呂と薬湯のお風呂のどちらかを選ぶようになっている。係のおじさんに「どこが違うんですか?」と尋ねると、「薬湯」というのは源泉そのままの薄めていないお湯だと言われ、もちろん、そちらを選ぶ。
 お風呂には先客がお二人いらっしゃった。この近く(といっても車で30分くらいかかるらしい)から毎週のようにいらしているそうだ。何か持病をお持ちで、定期的にこのお湯を使っていると大丈夫だけれど、少し時間をおいてしまうと大変なのだ、というお話をしていらっしゃった。
 小栗判官を甦らせたお湯だ。霊験も効能もあらたかなのだろう。
 しかし、かなり熱いお湯で、3分とは浸かっていられなかったと思う。

湯の峯温泉 公衆浴場からの帰り道、暗い中に浮かび上がる湯の峯温泉の源泉の流れ(だと思われる)の写真を撮った。
 この写真の左奥に写っている木枠のところでは、タマゴやさつまいもをゆでることができるように網をひっかける釘が打ってあり、熱そうなお湯がこんこんと沸いていた。お風呂からあがったら試してみようと思っていたけれど、その時間には売店がすでに閉まっていて挑戦しそびれてしまったのが残念だ。

 明日の午前中いっぱいで、このツアーは終了する。
 4人それぞれに翌日の午後以降の予定を話し(青岸渡寺の宿坊に泊まって翌日伊勢神宮に行く方、大阪の実家に寄り道される方、京都でおいしいものを食べる方)、熊野本宮大社のバス停横のお店で買ったという夏みかんをご馳走になる。
 おまけに、私はその後、同じお部屋になったお姉さんに足のマッサージまでしていただいた。「痛い〜」とか「膝が笑う〜」とか騒いでいたからだろう。申し訳なかったけれど、でもとても気持ちよかったし、翌日かなり楽になっていた。

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2006.07.17

熊野古道旅行記1日目

2006年4月29日(土曜日)

 「熊野古道を歩く」という今回私が参加したツアーは、現地(紀伊田辺駅)集合、現地(勝浦駅)解散で、往復の交通手段は各自に任されている。
 東京から新幹線で新大阪に出て、特急スーパーくろしお13号に乗ると集合時間にちょうど良く現地に着ける。しかし、何となく疲れそうな気がしたのと、早割で航空券が安く購入できたので飛行機で行くことにした。

 9時10分離陸予定のJAL1381便南紀白浜行きの飛行機は、羽田空港が混雑していたため30分近く遅れて離陸した。その時点で何となく嫌な予感はしたけれど、案の定、予定より10分遅れで到着した飛行機を、空港から白浜駅に行く空港連絡バスは待っていてはくれなかった。
 そもそも、南紀白浜空港に到着した観光客は、ホテルから迎えのバスが来ているかレンタカーを借りるかする方がほとんどで、連絡バス利用者は少ないようだ。
 仕方なく、タクシーで白浜駅に向かった。
 
 午前11時くらいに白浜駅に到着した。
 時刻表を眺めていたら、駅員さんが「どこへ行きたいの?」と声をかけてくださる。紀伊田辺駅に行きたいと答えると、11時25分発の特急なら890円、12時2分発の各駅停車なら190円だと言う。
 駅のバス停で確認すると、11時12分発のバスがある。こちらを選択し、30分くらいで紀伊田辺駅に到着した。500円。途中、通りかかった市立美術館でシャガール展をやっていて、事前に知っていれば立ち寄ったのにと少し悔しい。

梅ひろめ寿司 お昼ごはんを食べようと田辺駅前をぶらぶらしていると雨が降り出した。るるぶ和歌山に載っていた、駅から5分くらい歩いたところにある宝来寿司に入る。
 このお店では、サバを芯にして田辺近海でしか育たない珍しいわかめの一種である「ひとはめ」で巻いたひとはめ寿司が味わえる。私は、迷った末、同じひとはめだけれど梅酢でご飯に味と色を付け海老を芯に巻いた梅ひろめ寿司と赤だしのおみそ汁を頼んだ。ちょっと少なめだけれど、美味しかった。

 南方熊楠旧邸は工事中だし、雨も本格的に降ってきたし、コインロッカーは見つけられないしで、仕方なく駅で集合時刻を待った。
 雨が小降りになったので駅から徒歩10分くらいのところにある闘鶏神社に行こうかと思ったけれど、私自身はともかくとして荷物を雨に濡らしたくない。
 闘鶏神社は元は新熊野権現社という名前であり、田辺から先の熊野古道があまりにも辛いので、ここにお参りすることで参詣したことにしてしまった人も多かったという神社だそうだ。何となく私に似つかわしいと思ったけれど、結局行かず仕舞いだった。

 新大阪からの特急が15分ほど遅れ、集合時刻の13時20分を少し過ぎて、添乗員さんも含めて全員が集合した。総勢15人、添乗員さんを含めると16人の一行だ。うち9人は女性である。
 そのままマイクロバスに乗り、出席を取りつつ熊野三山聖域の入口として重視され、そのそばに熊野古道館も建つ、滝尻王子に向かった。
 滝尻王子で、今日と明日の2日間お世話になる、修験道の山伏でもある語り部の宇江先生と合流した。
 熊野古道館に立ち寄った後、簡単な予備知識を授けてもらう。

 例えば。
 熊野古道の沿道に祀られている「王子」(この滝尻王子もそのひとつである)は、簡単に言うと熊野三山の神様の子どもの神様であるということ。
 白河院や後鳥羽院が参詣したときには各王子で定められた儀式を行い、滝尻王子でも歌会が催され、そのとき作られた短歌も残っていること。
 こうした儀式は信仰心を高めるために行うので熊野三山に詣でるまでの行きの道筋で行われ、帰りには行われない。したがって京都から行きは12〜13日、帰りは7日くらいの行程であったこと。
 ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」という名前で登録されており、「霊場」には熊野三山の他に高野山や吉野山も含まれていること。
 参詣道のひとつである中辺路は、地元では「なかへち」と読み、世界遺産にも「なかへち」と登録されていること。
 参詣道として登録されている道は総延長500kmにも及ぶこと。
 和歌山県は人口108万人、和歌山市が人口30万人で最も多く、その次がこの(今いる)田辺市で人口8万人くらいであること。
 田辺市は「熊野」の西の入口に位置し、東の入口は三重県の紀伊長島町であること(奈良県はすぐ隣だけれど、熊野に含まれないこと)。
 熊野は山岳地帯で暖かく、雨が多い。農業はあまり奮わず、林業と漁業が盛んなこと。平地が少ないため大きな工場なども進出しておらず、自然が守られていること。

 そんなお話を聞いている間、歩けば滝尻王子から高原の里を通って5時間の道のりをマイクロバスは走り抜けてしまった。そこから今日は少しだけ歩いてみましょうと言う。
 牛馬童子を目指す。
 雨がぽつぽつ降っているのでみんなレインコートを着たり傘を差したりしたけれど、実は熊野古道に入ってしまえば木立が雨を遮ってくれる。

牛馬童子 歩き始めて15分くらいで、熊野古道を歩く人々に大人気の牛馬童子に到着した。流石にいくら運動不足の私とはいえ、これくらいなら楽勝である。
 向かって左側が牛で、右側が馬、2頭を並べてその上に跨って旅した花山法皇の姿を写したといわれているそうだが、普通の人にこんなことをできるわけがない。実際は、「熊野古道をゆくときには、馬のように早く、牛のようにねばり強く」ということを表しており、花山法皇も牛と馬それぞれが適した場所で適した方に乗って旅をしたらしい。
 牛馬童子の隣に建っているのは、役の小角という熊野古道を開いた修験者の像だそうだ。
 
 また、宇江先生から、この辺りの珍しい風習を教えていただいた。
 毎年11月23日に熊野古道の峠から月を見ると、月が3つに割れて見えることがあるという言い伝えがあり、真冬に月の鑑賞会を開くという。
 さまざまな自然条件が揃わないと見ることはできず、宇江先生もまだ2つに割れた月までしか見たことはないそうだ。

 牛馬童子から歩くこと10分くらいで、暗い木々の向こうにぱっと明るい田園風景が開けた。
 曇っている今日でも鮮やかだったのだから、晴れていたらかなり印象が強かっただろうと思う。そこが近露の里だった。
 この「近露」とうい名前にもいわれがあり、この上の箸折峠で花山法皇がお昼ごはんを食べようとしたところ、お箸がなかったので、萱を折って箸の代わりに差し上げたという伝説が残っているという。その際、お箸から落ちた露が赤かったので花山法皇が「これは血か露か」と言った、らしい。
 いわれというよりはダジャレである。

 近露の里は、田辺から歩いて来た場合に熊野本宮大社までのちょうど中間点に位置する。そのため大正時代くらいまで(一般の人が歩いて熊野詣でをしていた時代まで)は、宿場町として栄えていたそうだ。
 里の中に「近露王子」もある。元は社があったということだけれど、今は残っていない。

 熊野神社は、熊野だけにあるのではなく、日本全国に点在している。特に関東以北に多いらしい。
 それぞれの地域の熊野神社を氏神様としてお祀りし、一生に1回は熊野詣でをしたいと願い、熊野講を作って熊野詣でを行ってきたそうだ。熊野講では、うち一人か二人を「宿取り」として先行させ、その「宿取り」の人は代々伝えられてきた宿の評判帳を見て宿を決め、交渉する。宿が決まると、その「講」の旗を宿の玄関に立てて目印とし、さらに先行して次の里に向かったという。
 この辺りでは、関東から来た人々を「関東べえ」東北から来た人々を「奥州べえ」と言う。関東や東北から来た人々が「**べぇ。」と必ず語尾に「べえ」を付けることから来た呼び名だそうだ。
 
 元々の予定では地下梅雨から継桜王子まで2時間くらい歩くことになっていたけれど、この日は雨で足下もよくないということで、バス移動に変わった。ちょっとほっとする。
 継桜王子は、杉の古木に囲まれている。明治39年に神社合祀令によって伐採されようとしたときに、南方熊楠が保護運動を起こして守った鎮守の森だそうだ。他の王子では杉の巨木はことごとく切られて売られてしまったらしい。
 この階段を上るのは結構大変だったけれど、上りきったところにお社がちゃんと残っていて、そこには狛犬が並んでいた。何となく珍しいような気がする。単に私が見落としただけかも知れないけれど、他の王子で狛犬を見た記憶がない。

 継桜王子は野中の一方杉とも呼ばれ、9本の古木の枝は日の出る方向にしか伸びていない。樹齢は800年くらいだそうだ。中には、裏から見ると全く洞のようになって空っぽの木もある。
 継桜王子という名前の割に桜の木はなく、杉の木の話題ばかりだ。不思議に思って聞いてみたら、明治時代までは、継桜王子には継桜という名前の桜の銘木があったそうだ。850年くらい前の文献にも「継桜」の名前が出ているらしい。
 明治22年の水害で倒れてしまい、その桜の木は近くに移植したそうだ。
 その継桜(秀衡桜)に向かおうとして、継桜王子の前にも牛馬童子がいることに気がついた。

秀衡桜 秀衡桜は、藤原秀衡夫妻が熊野詣でをした際に滝尻王子で出産し、その子を残して野中まで来て、杖にしていた桜の木をこの地で突き刺して子の無事を願い、その桜の木が育ったのが継桜だという伝説を持つ。本当なんだろうか。
 事実かどうかはともかく、この桜はかなり大きくて立派なものだった。花の時期が終わってしまい、葉桜だったのが残念だ。
 そして、その足下には高浜虚子から続く親子孫三代の句碑が立っていた。

 継桜王子、秀衡桜、これから向かう野中の清水の辺りは、熊野古道がそのまま生活道として機能している。最近まで、隣町まで続く道は熊野古道だけだった、というところもあるそうだ。
 従って、舗装されて車も通れるようになっており、そういった道は世界遺産登録からは外されている。
 そうした道を歩いていて、民家の庭先から伸びる桜の枝を見つけた。こちらは山桜らしく薄い何重にもなった花びらが雨に濡れて、とてもいい感じだった。
 
野中の清水 野中の清水は、秀衡桜から歩いてすぐのところにあった。環境省の名水百選にも選ばれている。
 もちろん皆して飲んでみる。とても美味しい。ペットボトルに汲んでいる方もいる。
 宇江先生のお宅を含めた30軒くらいでこの水を簡易水道で引いて使っているそうだ。こんな美味しいお水を毎日飲めるなんて羨ましい。
 雨が降っても濁ることはないし、雨が降らなくても枯れることはないそうである。不思議だ。

 ここで、本日の行程はほぼ終了となった。
 宇江先生が車で先導してくださり、マイクロバスに戻って本日の宿である「旅館とちご」に到着したのは17時くらいだった。もう既に膝が笑っている。明日は6時間は歩くというのに大丈夫だろうか。不安になる。
 旅館とちごは、川べりにある一軒宿といった感じの旅館で、女将さん(どちらかというと「お母さん」という感じだ)がとても元気でちゃきちゃきしている。格好良い。

とちごの夕食 18時30分くらいから夕ご飯だ。本当は夕食は19時かららしいけれど、我々一行のあまりの欠食児童振りに食事開始時刻を30分早めてくれたらしい。もうお腹はぺこぺこである。半分くらいの人がお風呂を済ませていたようだ。
 夕ごはんのメニューは、あまごの煮付け(10時間くらい煮込んだそうで骨ごと食べられる)、いたどり、行者にんにく、鰹のたたき、鴨なべ、レンコンと海老の揚げ物、ごはん、である。
 そんなに歩いてはいないのに結構くたびれていて、お酒を飲んだらお風呂にも入らないまま寝ちゃいそうだったのでアルコールはパスする。

 本当に山の中の一軒宿だから、ごはんを食べ終わってお風呂にも入ってしまうと、やることが何もない。
 私は、一人参加の女性4人が集まったお部屋だった。4人でおしゃべりしたり(関東から来た人が多いこと、新大阪からの特急が振り子走法でとても揺れること、今日の行程が結構辛かったこと、荷造りのこと、3日目に解散した後の行動予定、屋久島や白神山地などのこれまでの旅行の話、ストックが優れものであることなどなど)、真っ暗な外に出て星を眺めたり(最初は何も見えなかったけれど、少しずつ目が慣れてくると星がたくさん見えるようになった)、星が見えたから明日のお天気は大丈夫だろうと安心したりした。
 多分、みんなで早めに寝たと思う。何て健康的な旅なんだろう!

 ->熊野古道旅行記2日目

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2006.06.10

熊野古道の写真をアップする

 マイフォトに熊野古道旅行で撮った写真をアップした。
 500枚以上撮った中から(一応)厳選して30枚を選んだ。
 この「選ぶ」という作業が苦手で、どれが自分の気に入った写真なのか判らなくなってきてしまう。そのうち、何枚か差し替えることもあるかも知れない。

 アップした写真はこちら。
 どうぞ、見てやってください。
 
 

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2006.06.02

熊野古道談義に花を咲かせる その3

 熊野旅行から帰ってきて2週間くらいたってから、大量に撮ったデジカメ写真をCD-Rに焼いて、ツアーでご一緒した方や、案内してくださった語り部の宇江先生にお送りした。
 そうしたら、「お礼に」とご著書をお送りいただいてしまった。有り難いやら申し訳ないやら、海老で鯛を釣るとはこのことだ。「熊野修験の森(宇江 敏勝著)」というタイトルのその本を早速、でも少しずつ読み始めている。

 今日は、久しぶりに友人2人と集まった。前に行った御徒町の「ソン フォン」というヴェトナム料理のお店に行きたかったのだけれど、どうも閉店してしまったらしい。友人が同じ場所にヴェトナム料理のレストラン「ドンナイ」がオープンしていることを調べてくれ、そこに行ってみることになった。
 結果、大正解で大満足。美味しかったしお腹いっぱいになった。お勧めである。
 でも、メニューにバイン・ミー・ティットはないようだった。

 旅行後に会った友人は、漏れなく私の旅行話を聞かされるという不幸な目に遭う。
 それだけではあんまりなので、お土産の「梅塩」を渡した。熊野黒潮本舗というお店のその梅塩には、以下のような説明が書かれている。

**********
 滋養分たっぷりの南紀熊野灘の海水をくみ上げ、釜で煮つめて天日干しした天然塩と、地元の梅酢をブレンドしてひと味ぜいたくに仕上げました。ニガリ成分も豊富に含まれていますので、天ぷらやから揚げなどに添えるといっそうお料理を引き立てます。
**********

 薄いピンク色をしていて、梅の香りや酸味は(当たり前かも知れないけれど)ほとんど感じない。
 でも、確かに、天ぷらをこのお塩で食べたら美味しかった。

 旅行のお土産というのは本当に難しい。最近は、でも、旅先で地元のお塩を売っているのを見るとついつい買うようになった。
 今も我が家の台所には、フィンランド、アイスランド、熊野で買ったお塩がある。

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2006.05.20

熊野古道談義に花を咲かせる その2

 その後も「熊野古道に行って来たんだ」という話を友人にしまくっていたら、「私が購読しているメルマガでも熊野古道の情報が送られてきた」というメールが入り、格安航空券のスカイゲートのサイトにある熊野古道を特集したページを教えてもらった。
 このページでは、「東紀州ほっとネット くまどこ」というサイトが紹介されていた。
 探せば色々と情報源はあったらしい。事前の情報収集が甘かったかもしれない。

 友人に熊野本宮大社の牛王宝印のお札をお土産に手渡したときも、八咫烏について説明できず、後から「みくまのネット」というサイトを見つけて勉強し直してしまったくらいだ。

 先週末にやっとデジカメで撮った写真をCD-Rに焼いて、旅行でお世話になった方に送ったのだけれど、その中のお一人の方は青岸渡寺の宿坊で自主的に延泊をしていらっしゃった。その話を聞くまで「青岸渡寺に宿坊がある」ということを知らなくて、「知っていれば・・・。」とかなり残念に思ったものだ。

 もう1回、熊野旅行に行くとしたら、どんな計画を立てるだろう。考えてみても面白いかも知れない。

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2006.05.08

熊野古道談義に花を咲かせる

 「熊野古道に行って来たんだ」という話を友人にしまくっていたら、「私も前から行きたいと思っていたんだ」という子が結構たくさんいることが判った。
 職場で「熊野に行って来ました」と言ったら、「随分とマイナーなところに行ったんだね」と言われ、「世界遺産に登録されているのよ!」と抗議兼宣伝をしたのとはえらく違う。年代や性別で興味の対象が違うということだろうか。

 友人の一人からは、「方位学では、今年のこの時期に南西に行ったらいいことが起こる!」と断言してもらい、方位その他に疎くて全く意識していなかったので、何となく得した気分になる。

 別の友人からは、JR西日本などで「聖なる森 熊野古道を歩く」というキャンペーンが行われていることを教えてもらった。彼女はすでにスタートセットも購入したのだそうだ。
 知っていたら、熊野旅行に行く前に私も購入したのに!
 熊野古道の各王子にはスタンプが設置されていた。そういったものを集めるのが大好きな私が、何故か今回に限ってひとつもスタンプを押して来なかったのだ。
 恐らく、歩くのと写真を撮るのととで精一杯だったためだと思うのだけれど、スタンプ帳を持っていたら、何はさておいても、スタンプだけは根性で集めていたような気もする。残念。

 このキャンペーンは2007年3月31日まで行われるそうだ。
 「聖なる森 熊野古道を歩く」キャンペーンの詳細はこちら。

 今日、ツアーでご一緒した方から写真のCD-Rと自家製アルバムを送っていただいた。多謝!
 私も早く整理して、お約束した方々にお送りせねば!

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2006.05.06

持ち物リスト(熊野古道編)を作る その2

 持ち物リストのその2で、最後である。

続きを読む "持ち物リスト(熊野古道編)を作る その2"

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