2008.08.18

エジプト旅行記の入口を作る

ルクソール神殿 ここはエジプト旅行記への入口である。
 
 ただでさえ、後から行った伊勢志摩旅行記や伊豆断食旅行記を先行させてしまっていたし、せめて箱根に行く前にエジプト旅行記を書き終わりたいと思い、特に後半は超特急で書いてしまった。

 以下の日程表の日付部分をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。

1日目 2007年12月31日 成田 -> ギザ(泊)

2日目 2008年1月1日 その1 ギザ 

2日目 2008年1月1日 その2 ダハシュール -> メンフィス -> サッカラ -> ギザ(泊) 

3日目 2008年1月2日 その1 ギザ -> ルクソール(王家の谷)

3日目 2008年1月2日 その2 ルクソール(ハトシェプスト女王葬祭殿・ネフェルタリの墓・メムノンの巨像)

3日目 2008年1月2日 その3 ルクソール(ショッピング・ルクソール神殿ライトアップ)(泊)

4日目 2008年1月3日 その1 ルクソール(カルナック神殿)

4日目2008年1月3日 その2 ルクソール(ルクソール博物館・ショッピング・ファルーカ)(泊)

5日目 2008年1月4日 その1 ルクソール -> アスワン(アスワンハイダム・オベリスク・ショッピング) -> アブシンベル 

5日目 2008年1月4日 その2 アブシンベル(アブシンベル神殿・音と光のショー)(泊)

6日目 2008年1月5日 アブシンベル -> カイロ(ハンハリーリ市場・ナイル川クルーズ)(泊)

7日目 2008年1月6日 その1 カイロ(カイロ考古学博物館)

7・8日目 2008年1月6・7日 カイロ(モハメドアリモスク) -> 成田


その国の旅を終えて 100の質問 (エジプト編)


持ち物リスト (エジプト編)

2007年12月 エジプトの写真

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エジプト旅行記7・8日目

2008年1月6日(日曜日)

 ランチのレストランに行くまでの道は大渋滞で、カイロ考古学博物館から30分くらいかかった。もっとも、向かったレストランは「カイロの下町にある」という以外、その所在地は知らないので、通常はどれくらいかかるものやらサッパリ判らない。

 バス移動の間、ハニーさんはエジプトの結婚事情について熱く語っていた。ハニーさん自身は、1歳くらいになる男の子のお父さんである。
 カイロでは、男性が32〜33歳、女性が28歳くらいで結婚し、エジプト南部地域の方が結婚が早くて、男性は27歳くらい、女性は20歳くらいで結婚するそうだ。
 結婚が決まると、それぞれの家で1年くらいかけて準備をし、特に男性は家や家財道具一式を用意しなければならず、女性は洋服だけを持ってお嫁に行くという。
 エジプトでは木曜日(安息日の前日)に、夜中の2時頃までかけて披露宴を行うことが多いらしい。

 12時30分くらいから、このツアー中、最初で最後のエジプト料理のお食事となった。
 「ハティ」というこのレストランは、かなり車通りの激しい大きな道沿いにある、洋服屋さんが並ぶ隙間の細い通路を通って行かねばならず、その途中ではちょうど時間だったので絨毯の上でイスラム教のお祈りをしている人などもいて、一人ではとても辿り着けないような立地である。

エジプト料理 メニューは、かなりうろ覚えだけれど、こんな感じである。
 前菜 アイシ、チーズ2種、タヒーナ(ゴマのペースト)、ホンモス(ひよこ豆のペースト)
 スープ モロヘイヤスープ
 ファッタ(ライスとパンとトマトスープのリゾット風)
 ターメイヤ(空豆のコロッケ)、シシカバブ(マトン串焼き)、コフタ(細長い牛肉のミートボール)、ポテトフライ
 フルーツ

 タヒーナというゴマのペーストが美味しい。
 アイシというのはホブスのような中が空洞になったぺったんこのパンで、そこにタヒーナやホンモスを乗せて食べる。美味しい。
 エジプトの名物料理だという鳩を食せなかったのが心残りである。

 昼食を終え、モハメドアリマスクに向かうバスの中では、もちろんイスラム教講座となった。
 イスラム教徒は1日5回のお祈りをし、中でも最も大切なお祈りは金曜日の2番目のお祈りで、みなモスクに行き、20〜30分くらいのスピーチを聞くという。
 エジプト人の80%がイスラム教徒で、そのうちの90%が金曜日にはモスクに行くそうだ。敬虔な人が多いのだ。

 また、これから行くモハメドアリモスクは、エジプトで最も有名なモスクで、モハメドというのはイスラム教の預言者の名前である。エジプトでは、子供が生まれるとそのうちの一人に必ずモハメドという名前を付けなくてはならないという。
 ここまで聞いて、モハメドという名前の人が多い理由が判ったような気がした。
 ハニーさんの長男も、確かモハメドという名前だと言っていたように思う。

 エジプトでは、昼間が暑いため、7時くらいにオフィスアワーが始まり、14時くらいに終わるところが多い。そのため、この時間帯は渋滞することが多くなるのだそうだ。
 レストランに向かうときもかなりの渋滞、13時30分過ぎのこのときも大渋滞で、しかも、お腹がいっぱいになったところで道路を眺めていると、誰も信号など守っていないし、割り込みのオンパレードで今にも事故が起こりそうである。

 エジプトの教育事情の話も聞いた。
 エジプトの学校は2部制になっていて、小中学校は義務教育だけれど、学校に通っているのは概ね70%くらいだという。大学進学率は概ね50%くらいだそうだ。
 アズイール大学は1000年前くらいに始まった世界で一番古い大学であり、イスラム教の教えを学ぶための大学だそうだ。
 大学入試という制度はなく、高校最後のセンター試験のような試験で各大学に振り分けられ、カイロ大学などトップの大学には95〜97%の正解率が必要だという。

 14時を回ったころに、モハメドアリモスクに到着した。
 このモスクのデザインは、例えばドームの部分などは特にトルコのブルーモスクを模しているそうだ。そして、モスクの下半分が大理石で造られているところから「アラバスターのモスク」とも呼ばれているという。

カイロ市街 モハメドアリモスクは、ギザのピラミッドを造るための石切場の跡に建てられており、カイロ市街で一番高い丘の上にある。
 お隣にある城塞は、クフ王のピラミッドから剥がした石で作られているというから皮肉な話だ。
 お天気が良ければここからギザのピラミッドが見えるそうだけれど、この日は、残念ながら見ることはできなかった。
 でも、カイロ市街は一望である。
 モスクの内部に入る前、ハニーさんとの大撮影大会が開催された。

モスクの中庭 モスクの中庭は八角形になっており、身体を浄める場所と水のタンクがある。手足、顔、髪、耳を3回ずつ洗う。
 中庭から見える時計台はモスクには珍しいもので、フランスから、コンコルド広場のオベリスクへの返礼として贈られた物である。お礼の品がエジプト到着時からずっと壊れているというのはどうなのだろう。

 中庭からモスク内部に入るときには靴を脱ぐ。ここで、行きのエジプト航空でもらってきた機内用靴下に履き替えた。
 モスクの中には、このモスク自体より古いというモハメド・アリのお墓もある。格子がはまった扉の奥の部屋に安置されている。大理石製だという棺がとても美しい。

 イスラム教では、メッカの方向に向いて、アッラーの神に祈る。
 1日5回のお祈りは、5分ずつくらいかかるという。
 必ずリーダーがいて、少し高いところに乗ってお祈りを主導するそうだ。金曜日や、断食(ラマダン)の後は、そのリーダーが立つ場所が特別な階段の上に変わる。

モスクの天井 モスクの天井は、真ん中にある一番大きなドームとその周りにある小さなドームで構成されている。
 この5つのドームは、1日5回(4時30分、お昼、15時、日没直後、日没1時間後かまたは寝る前)のお祈りの象徴でもあり、イスラム教の「五つのやってはいけないことの教え」の象徴でもある。

 イスラム教徒が守るべき教えは、お祈り、ラマダン、寄付・喜捨、巡礼の四つだ。
 お祈りは、お祈りの文句は唱えなければならないけれど、モスクに行かなくても大丈夫だし、立ったり座ったりという動作は無理にやらなくてもいいそうだ。
 ハニーさんは、ガイドの仕事中はもちろんお祈りはできないから、心の中でお祈りをしているという。

 ラマダンは1ヶ月続く。
 日の出から日の入りまで、それが例えどんなに暑い時期だろうと飲食を慎む。熱中症になったり脱水症状を起こしたりしないか、心配になってしまう。
 ラマダンは、辛い生活を味わうことで、兄弟愛と社会正義を守る心とを育てるという意味があるそうだ。

 寄付・喜捨は、ラマダンの直後に行う。
 収入の2.5%をあて、誰に、どうやって、などの細かいところまで全て決まっているという。
 イスラム教の教えでは、がんばっている人にあげるのはいいことだけれど、がんばっていない人にあげてはいけないそうだ。
 かつ、本人には知られないように行うのがベストだとされているというから、かなり難しい「行い」ではないだろうか。

 そして、メッカ巡礼である。
 今年の場合、10日間で70万円くらいかかるとハニーさんは言っていた。一体この数字はどこから出てきたものなのだろう。
 いずれの教えも無理をせずできることをやればいいし、やるべきことをやったかどうかは自分自身が一番よく知っているし、神様も見ていらっしゃるとハニーさんは言っていた。

 モハメドアリモスクで全ての観光が終了し、そのまま空港に向かった。
 ハニーさんは今年中に来日の予定があるそうで、「そのときにはまたみなさんで会いましょう。」という話も出て、明るく「またね」という感じでお別れとなった。
 出国手続きもスムーズに行われ、「16時から1時間フリータイムにします。」と言われた。とはいうものの、それほどやることもない。

 免税店を覗き、エジプトワインに惹かれた(8ドル!)けれど重かったので諦めた。
 同じ飛行機で帰る日本人旅行者も多く、次々とハーブティーやナッツをデーツでくるんだお菓子などを購入していた。試食もさせてくれていて、これまた迷ったけれど、個包装になっていないと配るときに困ってしまう。

 結局、あとは椅子に座ってぼんやりしていた。
 エジプト航空964便は17時50分発の予定だったけれど、具合を悪くした方がいたようで、かつ空港が混雑していたため、19時になってから離陸した。
 ツアー一行の席は後方にほぼ固まっていた。私は一人だし、通路側の席を希望したためか、前方のスクリーンのところの席になった。隣の席に人はいないし、かなり楽ちんである。
 一つ置いた隣の席に座っていたお兄さんはシリア人で、日本にスクラップを仕入れに行くと言っていた。
 大阪と福岡には行ったことがあるけれど、東京に行くのは今回が初めてだという。スクラップの市場は西日本が中心なのだろうか。

 往路はかなり辛かった機内も、帰りは席に余裕があったためか、単純に疲れていたためか爆睡できて、時間のたつのが早かった。
 でも、ひたすら寝ていたらマスクをしていても機内の乾燥に負けてしまい、飛行機に乗る直前にセキュリティチェックがあってミネラルウォーターのペットボトルを持ち込めなったこともあって、何だか喉がいがらっぽくなってしまった。
 しかも、ブランケットをかけても寒い。

 途中、日本語のアナウンスで目を覚ました。
 「お客様にお医者様はいらっしゃいませんか。」という急病人が発生したというアナウンスである。
 ツアーでご一緒した方が行っていらしたし、他にも何人かお医者さんが乗っていたらしい。具合が悪くなった方にとっては心強いことだったろう。


2008年1月7日(月曜日)

 離陸の遅れそのままに、日本時間の13時45分に成田空港に到着した。
 こうして、年末年始のエジプトの旅が終了した。

*この日の服装
 ピンクのタートルネックの長袖シャツ、ピンクのTシャツ、黒の薄手のコート
 タイツ、黒のパンツ

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2008.08.17

エジプト旅行記7日目その1

2008年1月6日(日曜日)

コンラッドのロビー 朝の5時に目が覚めた。エジプトに来て初めて熟睡できた気がする。
 7時に、クリスマスイルミネーションをしたロビーを見下ろすレストランに朝食を食べに行った。
 コンラッドの朝食は美味しい。ターメイヤコロッケなどのエジプト料理もあるし、何より、グアバジュースとストロベリージュースが美味しかった。

 同じテーブルになった他社の添乗員さんによると、彼女のツアーは4名で催行しているそうだ。羨ましい。
 彼女も「エジプトは今の時期がいいですよ。」としみじみと言う。これが夏になると、オベリスクでは木陰の争奪戦になるし、お腹も壊しやすいそうだ。

 ルクソールで頼んでおいたデーツとアーモンド入りチョコレート(19個入り1箱12ドル)と、Tシャツ(ヒエログリフの名前の刺繍入り、1枚15ドル)を受け取り、8時30分にホテルを出発した。
 昨日アスワンに置き去りにされてしまったハニーさんも合流する。

 カイロ考古学博物館に向かうバスの中で、昨日のディナーショーについて改めて解説してもらった。
 スーフィー・ダンスと紹介された男性がくるくる回るダンスは、正しくは「タムーラ・ダンス」というそうだ。スーフィーというのは、イスラム教の一つの派の名前だという。「タムーラ」は、トルコ語で「スカート」という意味だったそうだ。
 MAXIMで踊るのはやはり一流のダンサーで、20〜30分のダンスで3000円〜4000円になるという。

 もともとイスラム教では女性のダンスはよくないとされていることと、肌を見せるということもあって、ベリーダンスを踊った女性は、1時間踊って20000円くらいだという。
 エジプトでトップといわれているティナさんというダンサーは、元は大学教授で、給料が安いのでダンサーに職業替えをしたそうだ。1時間踊って70万円くらい稼ぐというから、転職したのも判ろうというものだ。

カイロ考古学博物館 朝食のときに会った添乗員さんも言っていたけれど、日曜日はカイロ考古学博物館は混雑するらしい。オープン前なのにセキュリティチェックにも行列ができているし、チケット売場にも行列ができている。
 中庭の池には「パピルス」と「ロータス」というエジプトを代表し、象徴する二つの植物が植えられていた。

 カメラを預けて9時過ぎに入場し、「じっくり説明すると1週間はかかる」という博物館のハイライトをまずはハニーさんの説明付きで見て回る。
 博物館入り口の女神像は、上エジプトと下エジプトを表しているという。
 この博物館の大元はフランス人のエリオットが整えたものであり、この博物館に納められているものは「ロゼッタ・ストーン」以外は全て本物だそうだ。
 ロゼッタ・ストーンのレプリカの隣には、ヒエログリフを解読したエリオットの像が並んでいる。エリオットの像は博物館の中庭にもある。

 階段ピラミッドの主であるジェセル王の像は、4800年前のもので、この博物館でも最古の展示品のひとつだそうだ。
 王の像としては珍しく等身大であることも好感を呼ぶ。

 メンカウラー王の像はそれより時代が少し下がって4500年前のものだ。
 ハトホル女神とカイロの街の守護神に挟まれた像である。

 4600年前の無花果の木から造られた像が今まで残っているのは、お墓の中で密閉されていたという理由が大きいという、クフ王の書記官であったカーアペルの像もある。
 目に石がはめ込んであるところが妙に不気味である。

 スフィンクスの井戸から出土したというカフラー王の像は黒くて硬い石で作られている。
 カフラー王の頭をホルス神が後ろから覆うようにしている。王は神の力をもって支配し、死して神となると考えられていたエジプトで、こういう意匠の像は珍しいそうだ。

 ルクソール博物館にも同じような意匠の像があったけれど、こちらの書記官像の方が綺麗である。
 パピルスに文字を書いているところで、かつらから少し耳を出しているのは王の声が聞こえるためだというから芸が細かい。「目が充血しているでしょう、それは書記官の任務がハードだからです。」とハニーさんは説明したけれど、私には赤いようには見えなかった・・・。

 4600年前の石灰岩で作られた男女の像は、1回も消毒されたことのない彩色が残っている貴重なものだそうだ。ただし、カルトゥーシュが入っていないので、誰の像なのかは判っていないという。
 男性が黒いのは日焼けしているからであり、女性が白いのは野外で働かなかったからだという。
 お墓の中でちょうどドアの後ろに置かれており、最初にお墓に入った人は、人がいると勘違いして逃げてしまったらしい。

 ハニーさんが言うには、カイロ考古学博物館で一番貴重で一番値段が高いのは、僅か7.5cmの高さしかないクフ王の像だそうだ。
 クフ王の像は世界中でこれ一つだけだ。座像の膝のところにカルトゥーシュがあったためにクフ王の像だと判ったそうだ。
 小さいながらハンサムである。

 クフ王の像は世界に一つしか残っていないのに、クフ王の母が使っていた木製のベッドがそれと特定されて残っているのが謎である。
 作り付けの枕の高さが異様に高いのは、布団を敷くことを計算に入れているからだという。

 アメンホテップの石棺には文字がびっしりと刻まれている。
 そこには食べ物や道具の名前が書かれていて、それを唱えると本物になって食べたり使えたりするようになると信じられていたそうだ。
 なかなか合理的な信仰である。

 カイロ考古学博物館の白眉は、何といっても「ツタンカーメンのお墓の副葬品全部」である。
 ツタンカーメンの治世は短かったため、お墓も小さく、副葬品のお宝も歴代の王に比べれば全くお話にならないレベルだったらしい。
 それにしてもこの博物館の何分の一かを占めてしまうのだから恐ろしい話である。

 棺というよりは部屋、部屋というよりはコンテナコンテナに近い大きさと形の箱に何重もの入れ子になっていたそうだ。
 その棺を大きい順にガラスケースに入れて並べてあり、ガラスケースに次の大きさの棺が映り込んで「元々はどうなっていたか」が想像できるようになっているのがなかなかの工夫である。

 黄金のマスクは、ツタンカーメンのお墓から出てきたお宝のうちでも「(推定)特に重要なもの」が集められた部屋の中で輝いていた。
 ミイラ室と同じように、この部屋にはガイドさんは入ることができない。
 ツタンカーメンの黄金のマスクは、少し高い位置でスポットライトを浴び、ほとんど睥睨するようにしてそこにある。
 正直に言って、怖い。
 視線が空を貫いているように見えるところが不気味かつ不思議な雰囲気を醸し出している。

 ツタンカーメンのマスクに視線の方向に、その外側にあった棺が2つ並べられており、そこにも王の顔が描かれている。
 この三つの「ツタンカーメン王の顔」はそれぞれが全く違っているように見える。
 そもそも、ツタンカーメンの顔をモデルにしたのではないのかも知れない。本人に似るように描いたとしても、当時の一般的な感覚の「ハンサム」な顔にしようとしたとしても、余りにも違いすぎるような気がする。
 内側の棺に描かれた顔が一番ハンサムだと思う。

 黄金のマスクの周りや、この部屋の壁に沿って作られたショーケースの中では、宝飾品がゆっくりと眠っている。きらきらピカピカに輝いているのはスポットを浴びたマスクの方で、宝飾品はどちらかというと「鈍く光っている」という感じである。
 例えば、ツタンカーメンの時代にも王杓が使われていたようで、埴輪にも残っているし、現物も残っている。素焼きしたものに金箔が貼られており、20〜30cmの長さがあるそうだ。

 ツタンカーメンのお墓に入っていたドライフラワーは何のお花かは不明だそうだ。

 ネフェルタリの墓にもネフェルタリがチェスに似たゲームをしている壁画があった。こちらには、ツタンカーメンが遊んだと思われるゲームも残っている。ただし、遊び方は未だに不明だそうだ。

 ツタンカーメンの黄金の椅子は、背もたれに描かれた妻がその足元に額ずいている絵と共に有名である。この絵では、妻は左手に香水瓶を持ち、右手でツタンカーメンに塗っている。
 肘掛けは鷲の身体にコブラの頭の意匠で、四つ足はライオンの足を模してある。ライオンの頭が座面に飾られている。
 足を乗せるオットマンがあるのも気が利いている。
 黄金の椅子は、ラピスラズリやトルコ石など貴石を彩色に使っているというから、贅沢な話である。

 階段に飾られたパピルスは3300年前のものだそうで、死者の魂の裁判の様子が描かれているという。
 モノトーンでシックなバージョンと、彩色がかなり綺麗に残っているバージョンとがあった。

 この辺りで1時間20分が経過し、ミイラ室のチケットを渡され、11時15分に集合といわれてフリータイムとなった。
 まずは一つめのミイラ室へ行く。
 照明が落とされていることもあって「眠りについている」という感じが漂う。

 ラムセス2世のミイラは、ツタンカーメンのミイラと比べると少し褐色で、大きくて、そして皺が深くて、白茶けた髪も残っていて、いかにもおじいさんという感じだ。
 枯れ木のイメージである。
 そんな「年老いた」風情なのに、白い綺麗な歯が1本だけ残っているのが変な感じである。

 ハトシェプスト女王のミイラかも知れないミイラもある。
 ラムセス2世のミイラを見た直後だからかも知れないけれど、流石に女性のミイラは小さい。
 そして息子との確執を聞いてしまった後だからか、何だかぞんざいに扱われているミイラという感じが漂う。

 ツタンカーメンの棺にもドライフラワーが入っていたという話だし、アメンホテプ1世の棺にもミイラとともにお花が残されている。
 古代エジプトでも死者に花を手向ける週刊があったのだろうか。

 博物館内には新ミイラ室もあり、同じチケットで入ることができる。
 ラムセス3世のミイラには動物の顔が付き、それ以外の場所はほとんど布で覆われている。これは何かのお呪いだろうか。
 ミイラといえば包帯のような布でぐるぐる巻きにされたイメージがあるけれど、カイロ考古学博物館のミイラは布がかけてあってもぐるぐるまきという感じではない。

 新ミイラ室には、ミイラの目として石を埋め込んであるものが多く、その石が表情を持っているように見えて少し怖い。あまり目を合わせたくない感じである。

 ミイラ室を一通り見た後で、もう1回ツタンカーメンのマスクがある部屋に戻った。
 ここもガラスで覆われて「特別の部屋」という感じであり、ガイドさんは入場できないけれど、入場制限や特別のチケットはない。
 ロンドンで開催されているツタンカーメン展のために何点か貸出中で、貸し出されている展示品のところには代わりに写真が置いてあった。

 ハトシェプスト女王のスフィンクスは、「ハトシェプスト女王の」という枕詞に引きずられてしまうのか、何故だか女性的に見える。
 その近くにはラダック神もいたけれどこの辺りで時間切れとなり、「私はどうしてこんなお宝の間を必死に脇目も振らずに走っているのだろう」と疑問に思いながら、アクアンアテンとネフェルティティの像に視線を向けて「グロテスクだ・・・。」などという不埒な感想も持ちつつ、集合場所にダッシュする羽目になった。
 
 集合場所のカイロ考古学博物館の中庭オベリスクの辺りに駆けつけたところ、そこには添乗員さんだけが待っていた。
 私がトップの筈はないという顔をしていたのだと思う。彼女の方から「みなさん、もうお集まりで、そこのギフトショップに行かれていますよ。」と教えてくれた。
 何故そんなに「お土産」に燃えるのだろう。
 館内に「お土産」より価値のあるお宝の山があったのに、スーベニアショップの方が興味深いのだろうか、

 そんなはてなマークを頭中に充満させてギフトショップに入ると、そこでは「30分一本勝負」と声を掛けたくなるようなお土産探し合戦が展開されていた。
 その勢いに吊られ、私もアンクのペンダントトップを買った。だから人のことは言えないけれど、本当にこのツアー参加者の方々のお土産に寄せる情熱は私には計りがたいレベルだと思う。
 ここでも貴金属類の値段はあくまでも「重さ」によって決まり、同じ意匠でほぼおなじ大きさでも微妙に値段が異なっていた。

NOWANDTHEN カイロ考古学博物館の正門を出たところにあるブックショップにも立ち寄った。そのブックショップは、エジプトに関する本はもちろんのこと、カレンダーやカード、シールなどの文房具類も充実していた。
 エジプトの遺跡の「建造当時の姿」と「今の姿」を絵本のようにして見せてくれる本と、パピルスにネフェルタリやツタンカーメンなどの絵柄が描かれたカードを5枚購入し、合わせて26ドルだった。レジのおじさんがボールペンをおまけにくれる。
 エジプトで、ボールペンを値引き交渉に使った人は大勢いても、おまけにもらう人はほとんどいない筈である。

 おまけしてもらったから言うわけではないけれど、この二つのお店はお土産物探しにお勧めだ。
 このEGYPT NOW AND THENも含め、私が見聞きした中では、ここのブックショップで売られていた値段が一番良心的だったと思う。

 この後はバスでランチをいただくエジプト料理のレストランに向かった。

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2008.08.14

エジプト旅行記6日目

2008年1月5日(土曜日)

 朝の飛行機でカイロに向かう前にアブシンベル神殿の日の出を見に行くため、この日は4時に起床した。
 砂漠地帯だから日の出前の気温はかなり下がるに違いない。しかし、そのまま空港に向かい、カイロに到着したら観光だから、そうそう厚着もできない。そこはカイロ(懐炉)でカバーした。

*朝の服装
 半袖Tシャツ、赤のチェックの長袖シャツ、白いフリース、赤いコート
 膝下のストッキング、10分丈のスパッツ、黒のパンツ

アブシンベル神殿 6時にホテルを出発し、すぐにアブシンベル神殿に到着した。
 到着するなりフリーで、6時45分が集合時間と言われる。
 日の出前のアブシンベル神殿は、普通にアブシンベル神殿で、つい夜明け前のナセル湖の方に目が行ってしまう。
 ナセル湖の水はあくまで黒く、空はあくまで群青色で、その間だけが白くオレンジに染まっている。
 ツアーの方で、「フリータイム」と言われた瞬間にアブシンベル神殿入口に走り、入口から誰も中にいない神殿内部の写真を撮った方がいて、なるほどと思ったのはこの後の空港での話だ。

 日の出を待っていると、ナセル湖クルーズの船がどこからともなく現れて、ちょうどアブシンベル神殿と太陽の間に入ってしまった。
 「もう! 邪魔!」と叫んでいたら、ツアーの方に「あの人たちは我々よりも高いお金を払っているんだから。」と諭された。なるほどど思いつつもやっぱり腹が立つというものだ。

 そして、6時37分、ナセル湖から日が昇った。
 湖の黒さはそのままに、空の群青色にゆっくりと白が混ざって行くようである。

朝陽を浴びるアブシンベル小神殿 振り向くと、アブシンベル神殿が赤く染まっていた。
 本当に赤く染まっているアブシンベル神殿は、日の出前に見たアブシンベル神殿とは明らかに違うものだ。
 同じように、アブシンベル小神殿も赤く染まっていて、こちらはちょっと「妖気漂う」という感じに見えたのが我ながら不思議である。

 そろそろ集合場所に向かおうかと歩いていたら、ツアーの方に「アブシンベル神殿を見に行きましょう!」と声をかけられた。
 年に2回だけナセル湖から昇る太陽の光が神殿の入口から真っ直ぐに射しこみ、一番奥にある4体の神様のうちの闇の神を除く3体を照らす。今見るとどういう風に照らされているのか、どうしても自分の目で確認したいとおっしゃる。

アブシンベル神殿内部 なるほど! ということで、神殿入口に向けて走った。砂地なのでかなり走りにくい。
 入口から覗き込んで「こういう感じなんですねー。」「あと2ヶ月でこの光が真っ直ぐ入るようになるのね。」などと話していたら、門番のおじさんが入口のラインを指さして、「ここから写真を撮っていい。」と言ってくれた。
 中に入らなければお目こぼししてくれるらしい。
 神殿内部は、灯りはついているものの暗く、ブレブレになってしまったけれど、1月初旬では光はかなり斜めにしか入っていないことが判る。

 この後、集合場所までのダッシュは辛かった。
 7時15分くらいに空港に到着し、エジプト航空246便でアスワンに向かう。
 ツアーの方で、空港のお手洗いで普通の洋服の上に着込んでいたレインウエアを脱いでいる方がいらっしゃって、私も次はそういう風にしようと思った。いいアイデアである。
 空港までのバスの中でストッキングとフリースは脱いだけれど、スパッツを脱ぐのは難しく、かなり暑い思いをした。

 アブシンベルからアスワンに向かう飛行機も、左側の座席からアブシンベル神殿を見ることができるのではないかと思う。
 8時20分くらいにアスワンの空港に到着した。
 セキュリティチェックの面からいうと、アスワンの空港が一番厳しいのかも知れない。他の空港ではあっさりと通ることができたのに、アスワンの空港ではアラームが鳴り、コートを脱いだりカイロや時計を外してみてもダメで、結局、係の女性のボディチェックを受けることになった。

ネフェルタリの本 アスワンの空港では乗り継ぎで1時間以上待ち時間があった。暇である。
 暇すぎて、お土産物屋さんが日本語バージョンをエンドレスで流していた「アブシンベル神殿の移転の過程を追ったビデオ」を何回も見た。
 お土産物屋さんもぶらぶらし、買おうかどうしようか迷っていたネフェルタリのお墓の本が売っていて、20エジプトポンドまで値切れたので購入した。
 意外とネフェルタリの墓に関する本は見かけなかったので嬉しい。

 9時40分搭乗開始の筈が、オーバーブッキングがあったようでなかなか動きがなかった。
 結局、各ツアーのガイドさん10人くらいを置き去りにしてエジプト航空346便が離陸したのは1時間以上たってからだ。
 この日のお昼はエジプト料理の予定だったけれど、時間も遅くなったし、エジプト料理のレストランは空港からだいぶ離れているため、ランチはホテル・メーヴェンピック内のチャイニーズレストランに変更になった。

 メニューはこんな感じである。
 これに、エジプトに来て2度目のマンゴ・ジュース(20エジプトポンド)をいただいた。

 スープ
 飲茶(春巻き、揚げ餃子)
 白身魚のフライ
 牛肉の炒め物
 野菜炒め
 イカとインゲンの炒め物
 炒飯
 フルーツ

 添乗員さんも心配して「いかがでしたか。」と何度も聞いてくれる。
 正直に言って、豚肉もラードも使えない中華料理はかなり厳しいと思う。
 
 昼食後、今日の半日だけガイドに付いてくれることになったナセルさんと顔合わせをし、バスはハンハリーリ市場に向かった。
 エジプトでは、小学校から英語を学び、中学校でフランス語も習い、さらに高校でもう1カ国語を勉強しなくてはならないそうだ。流石に観光立国である。
 来るときのエジプト航空機内で、フライト・アテンダントさんに「英語かフランス語で話せ。」と言われた意味がやっと判った。

 エジプトの失業率は今は20〜25%に達していて、その中ではやはり政府機関に勤めるか観光業に従事するのがいいと評価されているようである。
 ツアーの方で「大学まで出てガイドをしているなんて。」と言う方がいたけれど、やはり観光業従事者はエリートなのだ。

ハンハリーリ市場 そういった説明を受けているうちに、ハンハリーリ市場に到着した。
 元々の予定ではまず全員で香水瓶&香水のお店に行くことになっていたらしい。香水瓶と香油はアスワンで「ここよりももっといい」お店に既に連れて行ってもらったので割愛され、すぐにフリータイムとなった。
 もっとも、ほとんどエジプトポンドを使い果たしていた私は、本当に単なる「冷やかし」である。

 「サフランを買いたい」という方にくっついて、ナセルさんに香辛料屋さんに連れて行ってもらう。
 お安く購入できるということで、確かにたくさんの種類の香辛料やお茶が売られている。
 クミンやスターアニスも売られていていい香りだ。

 本気で買おうとしていない私はすぐに飽きてしまい、そぞろ歩きに戻った。
 アクセサリーを売りつけてくるお兄ちゃん達も、「No,thank you」の一言ですっと引き、それ以上しつこく言ってくることもない。しつこく言われるのも嫌だけれど、これでは張り合いがないというものだ。
 16時少し前に集合場所に行ったら、もうほとんどの方が集まってミントティーなど飲んで休憩していた。
 その話をしたら全員に「そんなことはない。しつこくて大変だった。」と言われる。私はそんなにお金を持っていなさそうに見えたのかしらとちょっと複雑な気分だった。
 しかも、そういう会話をしている間にもネックレスを売りに来たお兄ちゃんがいて、やっぱり「No,thank you」の一言で撤退し、その場にいた方々に大笑いされた。

ナイル・ビュー

 少しゆっくりしてくださいと言われ、早めの17時にカイロ・コンラッドのお部屋に入った。
 ベランダに出るとナイル川を眺めることができる。ルクソールで見たナイル川と同じ川とは思えない。
 どうして下流の筈なのに川幅が圧倒的に狭くなっているのだろう?

 ハンハリーリに残ってもう少し街中を散歩したいという方もいらっしゃったけれど、ガイドさんに「ここからタクシーに乗るのは危ない。」と言われて断念したらしい。
 ナイル川べりまで散歩に行ってみようかとも思ったけれど、19時30分にはナイル川クルーズに行くために集合することになっているので、お風呂にゆっくり入ったり、部屋でのんびり過ごすことにした。
 もっとも、のんびりしていたら、ノックだけしてキャリーケースを廊下に置き去りにしたポーターさんとか、いきなりドアを開けてミネラルウォーターを配ってくれたおじさんとか、不思議なことも起こったりした。

ナイル川クルーズ 「マキシム号」でナイル川クルーズに出発である。
 添乗員さんから「優雅な船ですので、ドレスアップしてください。」とアナウンスがあったし、ツアーの皆さんお洒落をしていて素敵だ。
 こういうとき、男の人はとりあえずスーツとネクタイがあれば格好がつくからいいよなぁ、と思う。

*ディナークルーズの服装
 黒の長袖シャツ(テロンとした素材のもの)、黒のストール
 黒のロングスカート、バレエシューズ

 これで髪をアップにして何とかごまかしたつもりだ。
 チェーンを持って行って、買ったばかりのカルトゥーシュのペンダントでもすれば良かったけれど、時すでに遅しだ。
 カイロの夜は意外と涼しくて、この格好では少し肌寒く、ツアーの方にカイロをいただいた。
 
前菜 ディナークルーズの船は、出航したことに気がつかないくらい静かに動き始めた。
 まずは、ディナーだ。
 夕食のメニューはこんな感じである。これに白ワインをグラスで(60エジプトポンド、流石に高い!)をいただいた。
 前菜 サラダビュッフェ
 メイン ビーフorチキンorフィッシュから選ぶ
      私が選んだフィッシュは白身魚のソテー
 デザート ナッツのアイスクリーム、コーヒー

 ビュッフェの前菜をみんなが取り終わってテーブルに着いた頃、ステージが始まった。
 最初はバンドが入って、ツアーの方のお話によるとエルヴィス・プレスリーなど1960年代の曲が多く演奏されていたらしい。

スーフィー・ダンス バンドの音楽に合わせ、スーフィー・ダンスと呼ばれる、男性がひたすら延々とくるくる回り続けるダンスが始まった。
 私が座った席は特等席で、ステージの真ん前だ。
 このダンサーは20分以上も踊り続けただろうか。ずーっとくるくると回りっぱなしである。目が回らないのか、こちらの方が心配になってしまう。
 見ていると、頭の位置と向きを固定して、身体が一回転したら、頭を素早くくるっと回転させるのがポイントのようだ。

 ステージの最後はベリーダンスだ。
 肉惑的な美女というのはこういう人のことをいうんだろうなと見とれる。
 しかし、この美人ダンサーではなく、彼女が休憩兼衣装替えのためにホールから出ていくときに、ドア際で待機して彼女にさっと大きなタオルをかけてあげていた男の人になりたいと思った私である。
 そう言ったら、またもやツアーの方々に大笑いされてしまった。

 いつもだと、このスーフィー・ダンスとベリーダンスのときにダンサーのが各テーブルを回って記念撮影し、その写真を販売してくれるらしい。
 今日はカメラの調子が悪かったということでその撮影がなかったのが残念だ。
 5ドルだという話だったので、もし販売していたら買ってしまっていた気がする。

 約2時間のナイル川ディナークルーズが終了し、22時前にホテルに到着した。
 何だかとても疲れていて、明日は帰国だというのに何の片付けもせず、22時30分には寝てしまった。

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2008.08.03

エジプト旅行記5日目その2

2008年1月4日(金曜日)

セティ・アブシンベルのお部屋ホテル・ガーデンとナセル湖

 セティ・ファーストは、コテージ風になっていて、なかなか可愛いお部屋である。
 ナセル湖に向かって窓が開いており、テラス風になっていて椅子も置かれている。ブーゲンビリア越しにナセル湖をのんびり眺めるのも優雅そうでいいけれど、水辺のために虫が多いという。
 もうすでに16時近かったこともあり、お部屋に荷物を置いてすぐアブシンベル神殿の観光に出かけた。ホテルから神殿まではバスに乗って10分くらいである。

姿を現したアブシンベル神殿 お土産物屋さんが並び、なかなか売り込みの激しい中を歩いて、アブシンベル神殿に向かう。
 チケット(70エジプトポンド)をちぎってもらい、セキュリティチェックを抜けると、砂の中を歩く近道(?)と、最近整備されたという歩きやすいけど遠回りの道とがあった。
 ハニーさんに従って砂のちょっと歩きにくい道を歩くこと少し、岩山をぐるりと回った、その岩山がアブシンベル神殿だった。
 ハニーさんが「世界の七不思議を決めたときにはまだアブシンベル神殿は発見されていなかったので選ばれなかった。もし発見されていたら絶対に七不思議の一つに数えられていた筈だ。」と言い切る遺跡である。

 このアブシンベル神殿と小神殿を造ったのは、言わずと知れたラムセス2世である。
 97歳まで生きてエジプトを67年に渡って支配したというこの王様は、アブシンベルの地で生まれた王妃ネフェルタリを溺愛したことでも知られている。また、このアブシンベル神殿を見ても判るように、自己顕示欲の塊のような人物だ。何しろ、この4体のデカすぎる像は全部ラムセス2世の像なのだ。
 でも、このアブシンベル神殿は、金山で働いていた人々の雇用を守るために造らせたそうで、なかなか自己顕示欲だけの王様でもなかったらしい。

 ハニーさんによると、フランスの「エジプト記」という本には、小神殿を見た人が帰り道で大きな岩を見つけ、それが実は砂にたっぷりと埋もれていたアブシンベル神殿のラムセス2世の像の頭部分だったと書かれているそうだ。
 アブシンベル神殿発見の瞬間である。

 砂の取り除き作業などに四苦八苦しているうちにアスワンハイダム建設の話が進み、この遺跡はナセル湖の湖底に沈みそうになる。
 そこでユネスコによって移転計画が始まった。
 元々が山の中の一枚岩をくりぬいて造った神殿を移転させるのは難しい話で、各国からアイデアを募った結果、コンクリートでドームを作り、神殿自体はブロック状に切り離して移転させようというイタリア人の提案が採用され、5年をかけて実施されたそうだ。
 私にはこの「ブロック状に切られた跡」を確認することはできなかった。このときに使われた接着剤は日本製だったそうで、エジプトのアブシンベル神殿でも日本製品の優秀さが証明されたというものだろう。

アブシンベル神殿左アブシンベル神殿右 アブシンベル神殿大神殿の正面にいるこの4体の像は、いずれもラムセス2世である。
 左から2番目の像に顔がないのは、彼が呪われて破壊されてしまったわけではなく、紀元前にあった地震で崩れてしまったそうだ。どちらかというと、その他の部分が崩れていないことの方が驚きである。
 しかも、全体がデカすぎて実感がないけれど、この像はそれぞれメムノンの巨像とほぼ同じ大きさだという。

 真ん中の上の方に小さく彫られているのは、ホルス神だそうだ。
 その「神」と比べて自分をこれだけデカく、年代順に作らせるなんて、やっぱりどこかラムセス2世という人は常軌を逸している。
 古代エジプト人の縮尺は間違っているとずっと思ってきたけれど、アブシンベル神殿ほど縮尺がおかしい遺跡はなかったような気がする。

 アブシンベル神殿でも内部での写真撮影及びガイドさんによる説明は禁止されていて、一通りの説明を受け、全員で集合写真を撮った(10ドル)後でフリータイムとなった。
 ここにアップした神殿内部の写真は、みな、この集合写真のおまけでもらった写真をスキャナで撮ったものである。
 それにしても、1時間もないフリータイムなんて短すぎる。

捕虜のレリーフ まずはアブシンベル神殿に向かった。
 入口ぎりぎりのところにあるこのレリーフは、ラムセス2世が戦争に勝ち、連れてきた捕虜達を描いたものだそうだ
 この神殿はラムセス2世の生前に作られたものだ。それなのに、何故かラムセス2世がときどき両腕を交差させた「死者」のポーズを取っているのが不思議だ。
 大列柱室のど真ん中にいるラムセス2世は、きちんと左足を前に出して立つ「生者」のポーズである。

 神殿内の壁画は、自らの権威と力を見せつけるためか、戦争を題材にしたものが多い。
 戦車に乗ったラムセス2世は何故か千手観音のような姿で描かれ、強さと速さを表しているそうだ。
 また、リビア人の捕虜を打ち据え、足で踏みつけているラムセス2世の壁画もある。これが思いっきり顔を正面から踏みつけていてえげつないことこの上ない。
 スパイを拷問している絵もあれば、スパイを問いつめるための戦争会議の様子の絵もある。後者の絵では、ラムセス2世だけが、座っているくせにやたらと大きく描かれている。
 捕虜を引っ立て、騎乗して凱旋するラムセス2世の乗馬の足元に馬よりも遙かに小さくライオンが描かれていたりする。
 要するに「ラムセス2世は戦争になったら(勝ったら)容赦ない男である」ということをあの手この手で表しているのである。

足で踏みつけているラムセス2世凱旋するラムセス2世

 大列柱室を通り抜けた一番奥の至聖所には、4体の神が座っていた。
 右から、ラー神、生き神様になったラムセス2世、アメン神、プタハ神である。
 闇の神であるプタハ神の像は必ず頭が壊れた状態にされており、その理由はまだよく判っていないらしい。
 アブシンベル大神殿では、2月と10月に真っ直ぐにこの至聖所に光が差し込む日がある。その日であってもプタハ神は闇の神であるために陽の光が当たらないようにされているそうだ。
 ロマンとか神秘とかというよりも、その執着が恐ろしい。

アブシンベル小神殿 時間に余裕があったらもう1回来ようと決めて、隣のアブシンベル小神殿に向かう。
 王妃ネフェルタリとハトホル女神に捧げられた神殿で、正面には「ラムセス2世、ネフェルタリ、ラムセス2世、入口、ラムセス2世、ネフェルタリ、ラムセス2世」の順番で10mの高さの像が並んでいる。
 アブシンベル神殿では、ラムセス2世の足元に膝までの半分もないくらいの大きさで刻まれていたことを思えば王と王妃が同じ大きさになっているだけでも進歩(?)だ。とはいえ、どうしてネフェルタリのための神殿でラムセス2世の像の方が数が多いのだろうと思う。

ネフェルタリと女神ハトホル女神 小神殿の中のレリーフは全体的に色が残っていて綺麗である。
 描かれている題材も、ラムセス2世が拷問をしていたり、ラムセス2世の戴冠式の様子が描かれた壁画がありつつ、基本的にはネフェルタリが楽器を演奏していたり、パピルスを持っていたり、捧げものをしていたりする。
 この小神殿で不思議だったのは、列柱室の柱に浮き彫りでレリーフが作られていたことである。浮き彫りを見たのはここだけだったと思う
 ラムセス2世は、消されたり上書きされたりしないように「深く」彫らせたという話を聞いたし、概ねレリーフは掘り下げて作られていたと思う。

 規模が小さいから明るい感じがするのか、レリーフの題材が「戦争」ではなく神との関わりの部分が大きいからなのか、アブシンベル小神殿は、大神殿よりもずっと落ち着ける空間だった。
 その居心地の良さに小神殿でのんびりしてしまったら時間が来てしまった。
 かなり冷たくて強い風が吹きつける中ダッシュする羽目になり、もう1回大神殿に行けなかったのが心残りだ。

 心残りといえば、エジプトに行く前に友人から「アブシンベル神殿の入口に大きな鍵が刺さっていて、それを持って記念撮影ができるよ。」と教えて貰っていた。アブシンベル神殿のあまりのデカさに呆然としていてすっかり確かめてくるのを忘れたのが心残りである。
 いくら何でも入口に大きな鍵があったら気がつくと思うし、その鍵を持って記念写真を撮っている人がいたら絶対に気がつくと思う。年末年始は鍵もお休みだったのだろうか。

ナセル湖の夕焼け 小神殿から集合場所の入口までダッシュしていた途中、ナセル湖に落ちる夕陽がとても綺麗だったので、つい立ち止まって写真を撮った。
 ギリギリ集合時間には間に合ったと思うけれど、お待たせしたみなさんに申し訳ないことである。

 17時30分くらいにホテルに戻った。
 この日は同じ旅行社の関空発ツアーの方々や、他の旅行社のツアーも来ているので、2回目の「音と光のショー」のメイン音声が日本語になりますと説明があった。
 日本人客が少ないとスピーカーで流される音は英語やフランス語になり、イヤホンで日本語の案内を聴くことになるというから、まずは目出度い。
 ただし、その日本人観光客のほぼ全員がこのセティ・アブシンベルに宿泊しているので、音と光のショーから帰って来てからだとお湯が出なくなる可能性が高いと言われ、ひとまず解散となった。

 ホテルにあるプールサイドから見えたナセル湖上の夕焼けも、とても綺麗だった。
 ルクソールの夕焼けはピンク色、アブシンベルの夕焼けはオレンジ色だったのが不思議である。

*この日の(ここまでの)服装
 白の長袖Tシャツ、赤のチェックの長袖シャツ、カーキのカーゴパンツ

 アブシンベル神殿の音と光のショーに出かける集合時間が19時30分である。
 お部屋にあったドライヤーがかなり強力だったので、ハニーさんの忠告に従って、出かける前にお風呂に入った。
 かなり冷えると聞いたので厚着をし、夕方の湖からの風が強くて冷たかったので、湯冷め防止も兼ねて髪にバンダナを巻く。

 アブシンベル神殿に到着すると、第1回の音と光のショーの邪魔をしないように、そして足元が確かなように、遠回りだけれど整備された遊歩道を行くように誘導された。
 座席の左半分に日本人が集まり、右半分はイヤホンが設置されているようで外国の方々が陣取っている。集まったといってもガラガラで、私は動きやすいように後方の端っこの席に陣取った。

 明かりが消え、20時少し前にアブシンベル神殿の音と光のショーが始まった。
 アブシンベル神殿の大神殿と小神殿の両方をスクリーンに見立て、遺跡のライトアップはもちろん、ラムセス2世の生涯を語るストーリーに合わせてそこに様々な絵を流すという趣向だ。

ユネスコの遺跡移動事業 ラムセス2世の生涯を語っているのは、ラムセス2世とその王妃であるネフェルタリである。
 だから、ユネスコによるアブシンベル神殿の移動事業について語られるときは、「我々の子孫が・・・」という風になるのが何となく可笑しい。
 しかも、これがかなり低音のいい声なのだ。

ワインを捧げるネフェルタリ もっと可笑しかったのは、日本語のどちらかというと優しげな声で、ネフェルタリがラムセス2世に向かって「ファラオ様」と呼びかけていたところだ。
 うーん。何だか違う。可笑しい。
 本当に「ファラオ様」と呼んでいたのだろうか。

 観客席はアブシンベル神殿の大神殿と小神殿の両方を見渡せる位置に作られていて、もちろん大神殿全体をスクリーンに見立てたショーも展開される。
 この頃には席に座ってなどおらず、ちょうどそばに塀があったのでその横に立ち、カメラを塀の上に置いて固定し、写真を撮りまくっていた。
 おかげで、どんなストーリーが展開されていたのか全くといっていいほど記憶にない。

女神たち? だから、この4人の女性もラムセス2世の王妃達なのか、王女達なのか、ラムセス2世が信仰していた女神たちなのか、それとも全てがネフェルタリの姿なのか、さっぱり判っていない。
 一人ずつ闇に白く浮かんで行く姿が綺麗だったことだけ、はっきりと覚えている。

貿易の図、かな アブシンベル神殿の音と光のショーは、スライドショーではなくて動画のショーなので、途中でデジカメの動画機能を使って撮ろうとチャレンジした。
 残念ながら真っ暗にしか写らず、どうやって調節すればいいのか暗い中で動かすのは難しくて断念した。予め設定しておけば良かったと思う。
 動画で撮れば音声も入ったから、かなり臨場感溢れる状態で残せたと思う。

 約30分のショーが終わって、パーッと明るい光で照らされたアブシンベル神殿大神殿の姿がとても綺麗で印象的だった。

夕食 昼間はお土産物屋が並ぶ通りを出たところまでしかバスが入れなかったけれど、夜は一番奥まで送迎のバスが入っていいことになっているそうだ。
 神殿とホテルが近く、21時過ぎには夕食を食べ始めることができた。
 ビュッフェ形式で、普通の洋食という感じである。
 かなり冷えていたのか、温かいスープが美味しい。
 私は全く気にしていなかったけれど、このときに「火の通った野菜はあった?」と聞かれて、ツアーのみなさんは生野菜を食べないように注意していたことに初めて気がついた。

 ツアーの方の中に、音と光のショーに行く前にかなり熱めのお湯をバスタブに張っておいたという方がいらっしゃって、なるほどと思った。
 戻ったときにも、お湯が極端に冷めていたり、栓が緩んでいてお湯が抜けちゃったりということはなかったそうだ。
 そこまで頭が回らなかった私は、なるべく手早く荷物を片付けて、22時30分くらいに就寝した。
 寝てしまったけれど、やはり水辺は蚊が多く、朝までに何回も目が覚めてしまった。

*音と光のショーでの服装
 赤のタートルネックシャツ、赤のチェックの長袖シャツ、白いフリース、赤いコート
 6分丈のスパッツ、カーキのカーゴパンツ

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2008.07.26

エジプト旅行記5日目その1

2008年1月4日(金曜日)

 この日は、アスワンを少しだけ観光してからアブシンベルに向かう。
 旅行もそろそろ終盤である。

 4時に起床し、ホテルのレストランで朝食をいただき、5時30分にはバゲージダウンである。
 鍵を失くしてしまったので、キャリーケースのファスナー同士をリボンで結び、それをガムテープでグルグル巻きにする。どこまで「鍵」の効果があるかは疑問だけれど、何もしないよりはいいだろう。
 6時出発だ。少し早めに降りて、一昨日のビール代を清算する。フロントにはお釣りの用意がなかったらしく、お兄さんをどこかに走らせてしまった。

 一昨日の夕食は、レストランに行かずにお部屋で持参のインスタント食品で済まされた方もいたらしい。「お部屋のミネラルウォーターを使ったから、もの凄く高いお夕食になっちゃったわ。」と笑っていらっしゃる。
 ミニバーの請求書は次の日にボーイさんが持って来たそうで、しかも何故か帰り際、テレビの上にあったホテルの用意したお菓子を持ち去ったという。そのお菓子代は請求書には書いていなかったと笑っていたけれど、謎なボーイさんである。

 空港では結構待ち時間があった。
 ルクソールの空港では、セキュリティチェックを受けた後のお手洗いにチップのおばさんがいないのが気楽である。その代わり、トイレットペーパーは持参しないといけない。

 ガイドのハニーさんは、カイロ大学で日本語を勉強して、同時に別の大学でエジプト古代史を勉強したそうだ。
 しかも、日本に留学してさらに日本語を勉強したという。
 途中で彼の携帯電話の着メロが鳴っていたので、「それはエジプトで流行っている曲ですか?」と聞いてみたら、「日本の友達が送ってくれた日本の音楽です。」というお返事だった。
 しかし、ツアー一行は誰一人としてその曲を知らなかった。多分、最近の若手のバンドの曲なのだと思う。

 8時くらいにアスワンに到着し、アブシンベル行きの飛行機までの時間を利用して観光に出かける。
 エジプトでは、アスワンより南に街はなく、かつ、アスワンに一番近い街はアブシンベルだそうだ。
 アスワンの街にはヌビア人が多く住んでいて、ハニーさN曰く「みんないい人」なのだそうだ。
 また、ヌビア語には文字がなく、とても難しい言語なのだという。

 まず向かうのはアスワンハイダムである。
 エジプトのダムはトンネル式なので、例えば黒部ダムのように水が落ちることはない。
 アスワンハイダムの建設によって出現したナセル湖は、東京−大阪間くらいの大きさがあり、一部はスーダン国内にも及んでいるそうだ。
 また、ナセル湖にはワニが多く、その代わりナイル川からワニがいなくなってしまったらしい。

発電所 アスワンハイダムに発電所が作られた頃には、全エジプトで使う電気の60%を供給していたという。今でも全体の10%の電気を供給している現役の発電所だ。
 アスワンハイダムに来るバスの中で「超望遠レンズでの撮影は禁止されている」という話があった。発電所を写真に撮るないう意味かと思っていたところ、みんなしてここで記念写真を撮っても特に問題はなさそうだった。

 ナセル湖は、本当に意味なくデカい湖である。
 湖というよりも、「地球のみずたまり」という雰囲気の方が強い。
 当たり前だけれど、「対岸」などというものは、全く見えそうな気配すらない。
 結局、ナセル湖とアスワンハイダムとの違いというか区別が最後まで判らなかった。
 とにかく、このナセル湖の水は、ミニ湖を通ってアスワンダムに注ぎ込み、最終的に80mの高低差があるというナイル川に注ぎ込むそうだ。

アスワンハイダム記念塔 アスワンハイダムは、1970年にソ連の協力によって完成したそうだ。
 ハニーさんがあっさりと「当時、ナセルとアメリカは仲が悪かったですから。」と説明しているのが何だか不思議な感じである。
 この記念塔はその「協力の記念」に建てられたもので、5本の塔は手を表しているらしい。
 この塔に上るエレベータも設置されているけれど、上がるには事前に許可を得る必要があるそうだ。高いところ好きの私としては残念だけれど、そもそも、この何にもない塔に入るだけでもセキュリティチェックがあったくらいだから、仕方のないことかも知れない。

石切場 次に向かったのは「切りかけのオベリスク」である。
 まだ9時30分くらいだというのに、この強烈な日光と濃すぎる影は一体何なんだと思う。
 「アスワン」というのは「花崗岩」という意味で、切りかけのオベリスクもその「花崗岩」の岩山の中にある。
 この岩山に25エジプトポンドという入場料が見合っているかどうか、微妙なところだと思う。

 「オベリスク」とは、ロシア語で「焼け串」という意味だそうだ。
 カイロ周辺にはないことや、そのてっぺんの形がピラミッドと同じ四角錐になっていることなどから、オベリスクは新王国時代以降のもので、ピラミッドの代わりとして神に捧げられていたのではないかと考えられているという。

 切りかけのオベリスクがあるからこそ、巨大なオベリスクがどう切り出されていたかが判ると言われればその通りだけれど、ここまで切り出して最後に失敗した当時の人はきっとがっかりしたに違いない。
 2ヶ所に亀裂が入っていて、その亀裂を避けて真ん中の大丈夫だった部分だけを使えないか検討した跡があるそうだ。
 途中まで切り出したオベリスクの両脇に、この場合は6ヶ所人間が入れるくらいの穴を開ける。その穴に木の楔を打ち込み、水をかけて楔を膨張させることで岩を割っていたそうだ。

Photo この後どうやって運んだかといえば、ナイル川の氾濫を利用していたという。
 また、この大きすぎるオベリスクをどうやって立てていたかについては、貴族の墓の中にその様子を描いたレリーフが残っているという。
 相変わらず稚拙な絵で申し訳ないけれど、イメージとしてはこんな感じで、この砂を抜くことによってオベリスクを台座に立たせることができるそうだ。

 見学を終えて空港に向かう途中、道ばたにバスが停車した。
 香水瓶をお土産にする方は、そこに詰めるサハラ砂漠の砂をここで持ち帰りませんかという。準備よく添乗員さんがビニルの袋を配ってくれる。
 道路際まで砂は落ちてきていて、その場で袋に砂を詰めている人が多かった。
 あまり砂集めに興味のなかった私は、2mくらいの結構急な砂の斜面を上ってみた。

砂紋 「一面の砂漠」を期待して上ったら、残念ながらそこまでの広さはなく、すぐ向こうに鉄塔なども見えていた。
 それでも、砂紋がくっきりと風によって描かれていて、上がった甲斐もあるというものである。
 気がつくとツアーのほとんどの方が上がって来ていて、添乗員さんに後で「上まで上がる方はほとんどいらっしゃらないんですけれど。」と言われた。
 先陣を切ってしまって申し訳ない。

 10時30分、アスワンの空港に到着した。
 アスワンの滞在時間は2時間だった。
 ここで初めてセキュリティチェックに引っかかった。朝のルクソールの空港では全く問題なく通過できていたし、未だに何がいけなかったのかは謎である。
 アスワンの空港はルクソール空港からさらに進んで(?)いて、お手洗いの壁に「NO TIPS」と張り紙がある。お掃除の女性はいたけれど、その張り紙に気が大きくなり、チップを出さないまま無事にお手洗いを脱出できた。
 その話をハニーさんにしたら、軽く「無視すればいいのに。」と言われたけれど、なかなかそうもできない。

 アスワンからルクソールへ行く飛行機が遅れていた。
 ハニーさんが次の便への振替を狙ったけれどそ果たせず、遅れてやってくる飛行機に乗ることになった。
 さっき空港に送ってくれたバスを呼び戻して、そのまま香水瓶のお店に案内してもらえることになった。
 香水瓶のお店よりは、フィラエ島のイシス神殿に行きたかったけれど、なかなかそうは行かないらしい。

香水瓶づくり 11時45分くらいに、「KYPHI PERFUMES」というお店に到着した。
 香水瓶のお店で、香油も一緒に販売している。ハニーさん曰く、「香水瓶はアスワンが一番。」だそうだ。
 まずは香水瓶づくりのデモを見せてもらう。材料はクリスタルの耐熱ガラスで、それを超強力そうなガスバーナーの火で成型する。最後に「パンッ」と凄い音がして、完成だ。

 地下に移動し、お茶など供していただきながら香油の説明を受けた。もちろん、日本語である。
 話を聞いていて、「香水」と呼んではいるけれど、それは「香油」のことで、香油とアルコール等々を混ぜていわゆる「香水」が作られるということが判った。
 フランス製の香水の原材料である「香油」はほとんどエジプトのものなんだと、説明してくれたおじさんは自慢気である。

 ロータスやジャスミン、オレンジブロッサムなどの植物そのままのオイルの他に、「Secret of the Desert」や「Queen Cleopatra」などと名付けられたブレンド・オイルも売られている。
 いずれも、30g30ドルのところを20%引きにする、三つ買ったら1つオマケすると、商魂たくましい。
 香水瓶の方は、300エジプトポンド以上のものについて10%引きにすると言う。

 置物や飾りにはあまり興味はないけれど、「ロータスのオイルはエジプトにしかない」という一言に負け、Lotus Flowerのオイル30gを24ドルで購入した。
 お店のお兄さんはしきりと「三つ買えば四つ目は無料だ。」と勧めるけれど、オイルランプを使おうとしないかぎり、アロマオイル30gを消費するのは結構時間がかかる。それならどれくらいつかと聞きたかったけれど、それを聞ける語学力もなく、保って1〜2年だろうという読みもあって、一つに留めた。

軽食 このお店を出たときには12時30分を回っていて、バスの中で、ケーキバーとポテトチップスが軽食代わりに配られた。
 足りない。お腹が空いた。
 珍しく手回しよく手荷物に入れてあったウィダー in ゼリーをこっそり飲んで、ケーキバーも食べて、ポテトチップスは食べると喉が渇くような気がしたのでとりあえず取っておくことにする。
 添乗員さんが「軽食を用意するって言っていたので、てっきり、サンドイッチか何かだと思ったんですよね・・・。」とボヤいていたのが可笑しかった。

 アスワンの香水&香水瓶のお店でお買い物を楽しみすぎ、実は結構ギリギリの時間になっていたらしい。
 配られたお菓子をぱくぱく食べているツアー一行を乗せたバスは、飛ばしに飛ばして空港に向かった。
 13時過ぎに空港に到着し、13時20分には乗った飛行機が離陸したから、本当にギリギリである。

 飛行機の右側の後ろ半分がガラガラだったのでもしかしたらと思っていたら、やはり、アスワンからアブシンベルに向かう飛行機の左側の窓からは、アブシンベル神殿を見ることができるそうだ。
 右側の座席にいたため見られなかったのは残念だった。
 今回は本当に「空の旅」の部分で恵まれていない。

パスタフルーツ

 今日の宿である、セティ・アブシンベルに到着したときには14時半を過ぎていた。
 ホテル内のレストラン「トシュカ」で、まずはランチである。
 メニューは以下のとおり。
 スープ パスタのスープ(と言われたけど、具は麦のような気がした)
 パスタ スパゲティ・ナポリタン
 メイン 牛肉のソテー野菜添え
 デザート フルーツ

 ランチのとき、添乗員さんとガイドのハニーさんと一緒のテーブルになった。お二人は見事に席になんか着いていない。
 飛行機が遅れて今日のスケジュールが遅れていたし、今ホテルに到着したばかりで部屋割りやこの後のスケジュールの調整などのお仕事もあったのだろう。
 「もしかして、今までもちゃんと食べられていないの?」とハニーさんに聞くと、「ごはんを食べないのはラマダンで慣れていますから。」と答えられた。
 そういう問題ではないと思う。

 ナポリタンは、「何故エジプトにまで来ていんちきイタリアン・・・。」と心の中で呟いてしまうお味だった。
 フルーツで出てきたデーツはエジプトに来て初めてで、何だか嬉しい。厚めの皮を剥いて食べると、甘みが凝縮されている味がした。

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2008.07.25

エジプト旅行記4日目その2

2008年1月3日(木曜日)

 12時前くらいにルクソール博物館(入場料は70エジプトポンド)に到着した。
 近代的というのか、スタイリッシュというのか、新しい博物館ということもあって「演出された」博物館という感じである。
 入口からすぐのところにあるアメンホテップの頭像も、アムン・ラー神の像もなかなかの迫力である。ハニーさんの「カルナック神殿にいらっしゃった街の神様」というアムン・ラー神についての説明が楽しい。

 ツタンカーメンのお墓から出土したものはほとんどがカイロの国立考古学博物館に納められているけれど、牛頭を持つハトホル女神の像だけは、ここルクソール博物館に納められている。
 また、カルナック神殿にもあったツタンカーメンの作ったスフィンクスは二つあり、そのもう一つはこのルクソール博物館にいる。

 写真撮影禁止なのが残念だけれど、本当に意外なくらい「お宝の山」である。
 そのお宝を前にして、ハニーさんから色々と説明を受ける。

・エジプト中王国時代の書記官は「大臣」の地位に匹敵していたこと。
・ヒエログリフを使うのは王や神官などごく限られた人だけで、一般の人はヒエログリフを崩したデモティックという文字を使っていたこと。
・古代エジプトでかつらをつけていたのは、王、神官、大臣、書記官という地位の高い人だけであったこと。
・コム・オンボ神殿の主神がワニの頭であるように、人を食べちゃうような動物は、人に仇をなさないように神様として崇めてしまうという発想だったこと。
・古代エジプトの王の仕事は戦争だったこと。弓と矢はその象徴であること。
・ラムセス2世の像は花崗岩と御影石が一つの岩になったものから彫りだされていること。この石はとても珍しくて産出場所が不明であること。
・新王国時代の終わりには、お墓に太陽の船の絵を描くのも止めて、模型を作ってヒエログリフを書き込み、その呪文を唱えれば船が大きくなって人を乗せられるようになると考えられていたこと
・カルナック神殿を造る際に使われた定規などの道具が残っていること。

博物館でのスケッチ

・色の残っている木製の棺があり、どの棺の内側にもヒエログリフで食べ物の名前が書かれている。その文字を読み上げるとそれらを食べられるようになると信じられていたこと。
・ツタンカーメンの父ではないかと言われているアクナアトンは、太陽神アトンの一神教を試みた王であること。
・アクナアトンは、他の王とは違って写実的な自分の像などを造らせており、病気で体型が変わっている様子もそのまま表現されていること。

 そういえば、ここにも誰のものかは判らなかったけれど(これは私が判らなかっただけで学問的には判っているのかも知れない)ミイラが展示されていた。
 ことここに至って初めて私は「mummy」という単語が「お母さん」ではなく「ミイラ」という意味だと認識したのだから、我ながら恥ずかしい限りである。

 最近になってカルナック神殿で発見されたものは、少し奥まった部屋に集められていた。
 このお部屋だけはフリーで見てきてくださいということになった。発掘の様子の写真も展示されており、発掘はひたすら人力で行われているらしいことが見て取れた。
 その他の発掘品などをぼんやり眺めていたら、あっという間にツアーの方はいなくなってしまい、慌てて戻ったら博物館入口のミュージアムショップのような小さなお店にみなさんが集まっていた。

 13時30分近、ホテル・メルキュールのレストラン「イタップ」のプールサイドで、ランチになった。
 温度計は24度を指していて爽やかである。
 このホテルではまだクリスマス・イルミネーションが残っていた。不思議に思ってハニーさんに聞くと「エジプトのクリスマスは、カトリックなので、1月7日にお祝いするのです。」と言う。これもまたよく判らないままになってしまった謎の一つである。

タラプリン この日のランチのメニューはこんな感じだった。
  前菜 野菜スープ
  メイン 鱈のソテー
  デザート プリン
 ビタミンCを摂取しようとレモンジュース(20エジプトポンド)を頼んだら、これが粉末ジュースのような味で大失敗だった。

 鱈のお皿の左上に載っているガーゼのような布で包まれているものはライムである。
 このライムを絞っていただく。それでも、味にもう一押し欲しい。
 そんなことを何となくしゃべっていると、ツアーの方がポケットから魔法のように、お寿司などについているおしょうゆの袋をいくつも取り出され、テーブルの皆でお裾分けに預かって美味しくいただいた。

 日程表ではこの日の午後ははフリータイムなっていたけれど、添乗員さんもガイドさんもフリータイムは実施したくないらしい。
 そういえば、「ルクソールで馬車に乗ったお客様が、馬が何かにつまずいて馬車から放り出されてしまったことがあったので、社内ではルクソールの馬車は危険ということになっています。」と添乗員さんも言っていた。
 パピルスを購入したいという方が何人かいらっしゃったこともあり、バスはそのままパピルスのお店(多分、店名は「AEGYPTUS PAPYRUS」だと思う)に向かった。

 まずは、パピルスの作り方について「日本語での」デモンストレーションを見る。この店内も撮影禁止だったのが残念だ。
 パピルスは植物なのでもちろん太陽光によって育つ。また、茎の切り口が三角形になっていてピラミッドに通じる。そんなことから「神聖なもの」とされているそうだ。
 「丈夫なので強く引っ張っても切れない。」「柔らかいので折り曲げても切れたりしない。」という説明を受けた後でツアーの方がチャレンジしたら、あっさりとこのパピルス(この場合は植物の方)が折れて切れてしまった。

 お店の方も若干慌てた風情を見せつつ、パピルス(植物)の皮を剥き、中味の方を薄く切る作業を続けた。
 ローラーをかけて水分を出し、さらにハンマーで叩いて水分を出す。
 糖分を抜くためにしばらく水につける。店内には生成り色のパピルスと茶色いパピルスがあり、てっきり作ってから長い時間がたったものが茶色くなるのだと思っていたら、そうではなく、ここで長く水につけると茶色いパピルスができあがるという話だった。

 水分と糖分を追い出してリボン状になったパピルス(植物)を格子状に並べ、プレス機で1時間くらい圧縮をかけると、ようやくパピルスが完成する。
 だから、本物のパピルスは光に透かすとタテヨコの線がはっきり見える。
 バナナの皮で作られたニセモノは、すぐに折れてしまうしこのタテヨコの線がないという。

 何人かの方が大きなパピルスの絵を購入しようと早速商談に入った。
 一緒にくっついて聞いていると、例えば、蓮の花は愛情の象徴であり、いちじくの木は家族を表している、死後の世界を描いた絵でアンクを持って秤の上に座っている人は死者の裁判官である、カレンダーのパピルスでは男の人は東西南北の方角を表し女の人は季節を表し、24本描かれた手は時間を表すなどということを教えてもらえて楽しい。

パピルス 店内をうろうろしていたらパピルスで作られたしおりがあった。お土産に15枚購入する。
 色々な絵柄があって迷いに迷い、ネフェルタリの絵とアンクの絵、イシス神の絵をそれぞれ5枚ずつ選んだ。10枚買うとオマケに1枚もらえるそうで、それはお店のおじさんがツタンカーメンを勝手に選んでくれた。

 しおりが置いてあった場所は、しおり売場ではなく、商品を梱包したりキャッシャーに渡す伝票を作ったりする場所だったらしい。そこにいるおじさん達はヒマだったらしく、突然日本語を教えて欲しいという話になった。
 1から10までの数字と、1000と100万を伝える。
 「No problem」は日本語で何と言うんだと聞かれ、しばし考えてから「大丈夫」だと教えた。我ながら名訳だと思っている。おじさん達は覚えてくれただろうか。

 皆のお買い物が済んでホテルに戻ったのは15時30分くらいだった。
 ホテルのロビーには、バスの中で話のあった「ヒエログリフを刺繍したTシャツとポロシャツ」の見本が用意されていた。明日の夜までにハニーさんに注文書を渡しておけば、カイロのホテルに届けてくれるそうだ。
 「着てみてもいいですよ。」と言ってもらえたので、試着してサイズを確かめる。
 エジプトの人は大柄だけど首は細いそうで、全体のサイズだけで選ぶと日本人には首周りがきついかもしれないと言われた。

青いナイル 16時30分にホテルのロビーに再集合し、ホテルの船着き場からファルーカに乗り込んだ。
 ヌビア人(だと思われる)船長さんが操るファルーカは、すーっと滑るように進む。
 のんびり自己紹介をしたり、ハニーさんが振る舞ってくれたチョコレートを食べたりしながら川風に吹かれる。
 このチョコレートは中にデーツとアーモンドが入っていて、なかなか美味しい。ギザにあるお店で買ったものだと言う。後で何人かでお願いし、予め注文を取ってもらってカイロのホテルに届けてもらえることになった。職場のお土産はこれで決まりである。

ナイルの夕陽 そんなことをしている間にも、ナイル東岸を見れば青い空と青い水、ナイル西岸を見ると今にも陽が沈みそうに黄色い光がぱーっと空に広がっている。
 そして、陽が沈むと、今度は西の空にたなびいていた雲がゆっくりと赤く染まって行った。
 ナイルの夕景に浮かぶファルーカは、ピラミッドや王家の谷と並ぶ、「これぞエジプト」という景色の一つだと思う。

赤い空 ファルーカがホテルの船着き場に帰って来た頃、ナイル川対岸の空は、嘘のような真っ赤な色に染まっていた。
 ファルーカの出発時間は、その時期の日の入りに合わせるという話で、見事に青から黄色、ピンクから赤に変わる空と、青から太陽の色を移した黄色、そして黒く暗く沈むナイル川を堪能できた1時間だった。
 黒い半袖Tシャツに赤いチェックの長袖シャツ、黒い薄手のハーフコートでは川風は涼しすぎ、最後の頃にはスカーフも首もとに巻いたくらいだから、防寒対策が必要な1時間とも言えると思う。

 エジプトから20通くらい年賀状を兼ねて友人に絵はがきを出すつもりでいた。意外と絵はがきを買う機会がなくて数が足りない。
 夕食前にホテルのブックショップで買おうと行ったら閉まっていたので、ホテルを出て並びにあったお土産物屋に向かった。
 たった20mかそこらだけれど、エジプトの街初一人歩きである。

 店先で5枚選んだら10エジプトポンドと言われ、値切った末に8エジプトポンドになった。
 8エジプトポンドちょうどはなかったので10エジプトポンド札を出したら、「おつりがないからもう1枚選べ。」と言われる。
 何となく悔しくて「2枚増やしていいでしょ。」と強気に出て、結局、7枚を10エジプトポンドで購入した。
 これが得をしたのか損をしたのかとっさに計算できないまま気になっていた。今計算したところでは、5枚8エジプトポンドだと1枚1.6ポンド、7枚10エジプトポンドだと1枚約1.42エジプトポンドということで、後者の方がお得だと判って嬉しい。

 そんなことをしている間に集合時間になった。
 夕方涼しかったことと、夕食のときは着替える方が多いというこれまでの経験則からして、黒いタートルシャツに黒地に赤から白へのグラデーションが入った毛のショール、黒いパンツに黒いコートを羽織ることにする。足元のバレエシューズは、裸足で履くと少し当たるけれど、ストッキングを履けば大丈夫そうである。

 歩いてお隣のホテルに向かう。
 これが、後から添乗員さんに送ってもらった「旅日記」にホテルの名前もレストランの名前も書いておらず、一体どこで食べたのか未だに謎である。
 メニューはこんな感じで、これに白ワイン(48エジプトポンド)を頼んだ。

コーヒー前菜 トマトのクリームスープ
メイン ビーフ、チキン、フィッシュから選ぶ
    (チキンにしたら、塩胡椒の効いたソテーだった)
デザート アップルパイ、コーヒー

 念のために書くけれど、このホテルもレストランも、名前は判らないながら、外観も内装も宿泊したナイル・パレスよりも立派かも知れないくらいの場所だった。
 そこで、ネスカフェのスティックと一緒にお湯を出されたときの衝撃はかなりのもので、あちこちのテーブルがざわついたのを覚えている。
 あまりのショックに、わざわざネスカフェのスティックが載せられたお皿を引き寄せて写真を撮ってしまった。

 20時頃ホテルの部屋に戻り、お洗濯をし、先ほど買った絵はがきで友人に年賀状を書き、明日の早起き(4時起床)と移動に供えて22時過ぎには寝てしまった。

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2008.07.21

エジプト旅行記4日目その1

2008年1月3日(木曜日)

 気球に乗るなら4時起きだけれど、それは断念したので、今日の出発は9時30分だ。朝寝坊を決め込むこともできた。
 でも、旅先ではやけに健康的に早寝でも遅寝でも早起きしてしまうのは何故なんだろう。

ナイルの朝

 6時30分過ぎに目が覚めて外を見たらあまりにも空が綺麗だったので、慌てて着替えてプールサイドに降りた。
 ナイルの朝である。
 たくさんの気球が浮かんでいる。いいなぁと眺めていたら、同じように眺めていたヨーロッパ人らしいおじさんに「僕たちは明日気球に乗るんだ。」と自慢される。ちょっと悔しい。
 早い時間には雲もあり、ナイルの水も空も薄青い色をしていた。
 日が昇るにつれて、対岸の山は光り始め、雲は消え、空もナイルの水も濃い青に変わって行く。
 その変化は見飽きることがない。

 部屋に戻って洗濯をしたら、洗った水が真っ黒というか真っ茶色になって驚いた。
 8時前に朝食を摂る。
 昨日の夕食のときと同様、このレストランのウエイターさん達は、手を挙げてもなかなか気がついてくれない。しかし、ヨーロッパ人らしいおじさんおばさん達は精力的に隣のテーブルからお皿やナイフなどを分捕ってきて熱心に自分たちのテーブルを整えている。うん、ああでなくっちゃ、と気を取り直す。

ハトシェプスト女王葬祭殿 ホテルを出発し、20分くらいで今日のメインイベントであるカルナック神殿(入場料50エジプトポンド)に到着した。
 カルナック神殿の「カルナック」は日干し煉瓦の障壁という意味で、6500年前のものが残っているのだそうだ。
 カルナック神殿の前には少し前まで家が建ち並んでいたそうだ。それをナイル川を挟んだちょうど反対側にあるハトシェプスト女王葬祭殿が見通せるように全て壊して整地してしまったというから驚く。家を失った人々にはちゃんと安住の地があるのだろうか。
 この写真で、左側から並ぶ木が切れた辺りの画面右端の山裾に見える、四角いものがハトシェプスト女王葬祭殿である。判るだろうか。

 ルクソール神殿の参道に並んでいたスフィンクスの頭は人で、ここカルナック神殿の参道に並んでいるスフィンクスの頭は羊である。
 カルナック神殿はどんどん建て増しを繰り返した神殿なので、内部に行くほど古く、一番外側にある第一塔門は一番新しいそうだ。

ツタンカーメンのスフィンクス 第一塔門を入ったところが中庭で、一般の人はここでお祈りをしたそうだ。
 中庭の入口までスフィンクスが並んでいたところを、第一塔門を作ったときにスフィンクスも移動したという。これは執念なんだろうか。
 ここに無造作に置かれていた大理石のスフィンクスは、ツタンカーメン王が作らせたものだそうだ。スフィンクスの顔もツタンカーメンと似ていると言われているらしい。一生懸命思い出そうとしたけれど、昨日見た真っ黒のミイラの顔を似ているかどうか、今ひとつ確信が持てなかった。

第2塔門 第2塔門は、建造途中で王が死んでしまったためにレリーフもなしで放り出された第1塔門と異なり、レリーフもあるし、彩色もされている。
 彩色には自然のものが使われており、例えば赤い色はざくろ、黒い色は鉄さびを利用しているそうだ。
 また、この第2塔門には、1887年のナイル川氾濫の際の水位が刻まれているという。
 ハニーさんはこの話題満載の第2塔門はくぐらずにその手前を左に折れて、アメン神殿の外に出てしまった。

 アメン神殿の外側にも、闘いの様子を描いたレリーフが深く彫り込まれていた。
 誰のどことの闘いを描いたものかさっぱり判らないけれど、迫力に満ちあふれていたことは確かだ。
 こういった大きなレリーフは、日干し煉瓦で作業台を作りつつ壁を作り上げ、今度は日干し煉瓦の作業台を少しずつ崩しながら、上の方からレリーフを作って行ったという。全体像が見えないまま作るとはなかなか高等技術ではなかろうか。

ヒエログリフ 妙に歩きにくい砂地をどんどんアメン神殿から離れて歩いて行く。
 ガイドのハニーさんの姿はすでに遠く、どこを目指しているのか聞くのは不可能である。
 ハニーさんにやっと追いつけたのは、「これが一番キレイに残っているヒエログリフです。」という説明をしているときだった。確かに綺麗にくっきり残っているけれど、「どこで」一番なのかは聞きそびれた。カルナック神殿で一番だったのかも知れないし、エジプトで一番だったのかも知れない。
 そうして、一番キレイなヒエログリフの横を通り過ぎて至ったのは、ビタッフ女神の神殿だった、と思う。

 この辺りの書き方が曖昧になるのは、私のメモの字が汚すぎるせいと、数多あるだろうサイトや本のうち少しだけ探してみたところ、この神殿について言及しているものはほとんどなく、それっぽいと思えたところには「ムト神殿」と説明書きがあったからだ。
 確かに、その神殿に入ったところの部屋には、頭部のない闇の神の像がポツンと置かれていた。 
 その姿は、明るいところにあってもかなり異様だ。

 でも、ハニーさんが私たちに見せたかったのは闇の神の像ではなく、その隣にある鍵のかかった部屋にいらしたビタッフ女神の像の方だった。
 ハニーさん曰く「美術館にあるべき像だ。」「同じ女神の像がカイロ考古学博物館にもあるけれど、こちらの方がずっと美しい。」「エジプトで一番美しい立像だ。」ということである。
 フラッシュをたかれるとその後の闇が深くなってよく見えないから止めてくださいと、心の中でツアーの方々にお願いしつつ、最後の最後に、フラッシュをたかずに写真を撮ってみた。
 かなりISOを上げてもやはりこれくらいが限界だった。

 この神殿は高いところに上がることができて、そこからはカルナック神殿(正確にはアメン神殿というべきだろう)の全景を眺めることができる。
 正直にかつ控えめに言って、莫迦みたいに巨大な建造物であり、眺めである。

柱頭 第2塔門に戻り、中に入るとそこはセティ1世が作った計134本の大列柱室である。
 真ん中の2列の柱が高く、外側の柱が低くなっているのは、この差を利用して明かり取りに使っていたからだという。
 この大列柱室の柱にはかなり彩色が残っており、中でも王の名は黄色で彩色し目立つようにしたという。そこをさらに、ラムセス2世は、自分がセティ1世の名を消して自分の名を上書きしたものだから、未来の王に同じことをされないよう深く彫ったという。ラムセス2世という人は、もの凄く自己顕示欲の強い王様だったようだ。

ハトシェプストのオベリスク ところで、世界で一番高いオベリスクは、ここカルナック神殿にある、ハトシェプスト女王によって作られたオベリスクだそうだ。
 上1/3ほどは金箔で飾られていたそうで、オベリスクには「金で作ろうと思ったのに神官に剥がされちゃってごめんなさい。」という意味のことが書いてあるらしい。
 そもそもオベリスクはどんな目的で作られ、誰が最初に作ったのかはまだ判っていないそうだし、そんな謝罪の言葉を刻まなくてもと思う。
 ハトシェプスト女王のオベリスクがある塔門を入ると、そこは至聖所で、王と神官のみが入ることを許された場所だったという。

聖なる池 外に出ると、そこには「聖なる池」がある。
 至聖所で1日に3回お祈りをするたびに、ナイル川の水を引いているこの池の水で王と神官は身体を浄めたそうだ。
 今はパイプでナイル川とつないであるそうだけれど、昔はどうしていたのだろう。カルナック神殿近くまでナイル川が来ていたということだろうか。

 神官は神殿に住んでいたとして、王はどこに住んでいて、お祈りの度に住まいから神殿までやって来たのだろうか。
 何かで読んだところによると、エジプトでは「死後の世界はずっと続く」と考えて神殿やお墓は石灰岩や花崗岩などの丈夫な石で作り、現世の住まいは「一瞬」と考えて日干し煉瓦等の適当な素材で作ったという。そのため、宮殿は崩れ去り、現在まで残っているのは「死後」のものばかりだという。
 昔のエジプト人が刹那的だった証拠なのか、刹那的ではなかった証拠なのか、微妙なところのような気がする。

スカラベ このスカラベの説明を受けてフリータイムとなった。
 スカラベは幸福・幸運の神様だそうだ。
 ハニーさんが言うには、このスカラベの周りを反時計回りに5周回れば幸せになり、6周回ればお金持ちになり、10周回れば結婚でき、42周回れば離婚できるそうだ。
 離婚するのが一番大変なのか・・・と思う。それはイスラム教徒ならではの発想だろうか。
 添乗員さんが「一人で回ると恥ずかしいですから、この際、みなさんで5周回りましょう。」と音頭を取り、一同は粛々と5周回った。

ハトシェプスト女王祈りの間 ここまで大体1時間半をかけてハニーさんにガイドしてもらい、30分間のフリータイムとなった。
 至聖所に戻ると、そこからさらに奥に行けるようである。そこは庭のようになっていて、窓から出るような感じで低い壁を乗り越えて降りることができた。
 すると、ヒマそうなおじさん達が手招きして「ハトシェプスト」「ハトシェプスト」と言う。
 言われるままに指さす方に進むと、顔を消されたレリーフと、群青色の石で作られた門というか入口のある部屋があった。
 顔を消されちゃうのはハトシェプスト女王の専売特許だと信じているので、ここは私の中ではハトシェプスト女王祈りの間だったろうと思っているけれど、真偽は今もって不明である。

 中に入ると、そこには色鮮やかなレリーフがあった。
 暗くて天井の高い部屋で、中には2〜3人しか人がいない。
 何だか不思議な雰囲気のある場所だった。

お呪いの石 祈りの間の隣にはロープが張られた一角があった。
 一人でうろうろしていたせいか、何故だかヒマそうおじさん達の一人に手招きされてその一角に入った。
 恐らくはスカラベが彫られている場所だけ黒くなった、碑文のような石が置かれている。
 おじさんに言われるまま、黒くなったところに左手を当て、次にその手を自分の心臓に当てることを2回繰り返す。さらに、おじさんに促されてお辞儀を2回した。これで儀式は完了のようだ。
 何かのお呪いだと思うけれど、意味を聞けるほどの語学力がない。
 未だに気になっている、エジプト旅行での謎の一つである。

 そして、慌てて集合場所に走った。
 11時30分、バスに乗って、渋滞するルクソールの街中を抜けてルクソール博物館に向かった。

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2008.07.14

エジプト旅行記3日目その3

2008年1月2日(水曜日)

日本食 この日のお昼は、「ハナ」という日本食のお店だった。
 14時30分というランチタイムを大きく外れた時間に行ったせいか、他にお客の姿はなく、微妙に工事中のような雰囲気である。
 でも、お店の見た目に反して、ごはん、御味噌汁、焼きサバ、卵焼き、肉じゃが、バナナというランチメニューがやけに美味しく感じられた。

 その後、ホテルに直行するかどうか多数決が取られ、15時30分過ぎに「Jewellers-Souvenirs」のお店に立ち寄ることになった。
 ハニーさんによれば、金製品はルクソールが一番だという。
 「PHILIPPE work shops」というそのお店はカイロにも支店を持ち、政府お墨付きのお店だという。
 
 何個買おうがどれを買おうが一律1割引というその値段設定に微妙に不審を感じつつ、ツアーの方の勢いと熱気、そして誘惑に負けて、カルトゥーシュのペンダントトップを購入した。
 このお店では、金製品のお値段は重さだけによって決まり、デザインや例えば名前をヒエログリフで彫ってもらうときの文字数などは全く影響しないらしい。このお店だけでなく、後にカイロで立ち寄ったお店でも同じだったので、エジプト全体でそうなのかもしれない。

カルトゥーシュのペンダントトップ 最初は、自分の名前を透かし彫りにしてもらおうかと思ったけれど、透かすために土台が薄くなり、どうしても安っぽく見えてしまう。
 透かし彫りが160米ドルで、カルトゥーシュの周りに模様の入ったものだと400米ドルだ。
 お値段で2.5倍の開きがあったのでかなり迷い、結局、カルトゥーシュの周りに模様の入ったものを選んだ。
 400米ドルの1割引で360米ドルだったので、ダメ元で「350にならない?」と聞いてみたら、値引きの代わりなのかスカラベのお守りをくれた。

 ところで、私の名前は「TOMOKO」なので、「O」が三つ入る。
 そして、ヒエログリフのアルファベットには「O」が2種類ある。
 お店のお姉さんに「どっちがいいと思う?」と聞くと「同じよ。」という答えが返って来た。どちらも「O」だと判っているのだけど、デザインとしてどう思うということを聞きたいのである。
 しばらくやりとりしていたら、そばで聞いていたおじさんが「これでどうだ。」と見本を書いてくれ、デザインとしてMは凝った鷹のような鳥の絵になっているのでその前後の「O」はすっきりした方、「K」はデザインとして単純なのでその後ろの「O」は鳥に似た方ということになった。

 裏側にも文字が入れることができる。「ツタンカーメン」や「ネフェルティティ」などと比べ、デザインとして綺麗だったし、「愛された王妃」だし、何より午前中に見たお墓の印象が強かったので「ネフェルタリ」を選んだ。
 ツアーメンバーの中には、カルトゥーシュのペンダントトップの裏側に、アンク(生命の象徴)とウジャト(悪を退けるホルスの目)とスカラベ(心臓を守るエジプトのお守り)の三つのお守りを彫ってもらった方もいて、それもいいアイデアだわ、真似すればよかったわ、と思った。

ナイルパレスのお部屋 ホテルに帰り着いたときには16時30分になっていた。
 ルクソール神殿のライトアップに出かけるのは19時となり、つかの間の休憩である。
 実は、メムノンの巨像の辺りから私の足は筋肉痛のために悲鳴を上げ続けていて、もう一歩も歩けませんと言いたいくらいだ。

 ホテルのお部屋に付いたバルコニーからはナイル川を眺めることができる。
 汗だくのTシャツだけ洗濯し、バルコニーの椅子に座ってぼんやりナイル川を眺めた。
 この時点で、キャリーケースにつけておいた鍵が失くなっていることに気がついたけれど、とりあえず、面倒なことは後回しである。

 ぼーっとしつつ友人に年賀状代わりの絵はがきを書いたりしているうちに夜になり、19時、ルクソール神殿のライトアップに出かけた。
 ルクソール神殿(入場料40エジプトポンド)は、その土台をアメンホテプ3世が建造し、その上に被せてラムセス2世が拡大したそうだ。
 入口のオベリスクの後ろにはラムセス2世の像が6体あったけれど、今は3体しか残っていないという。
 残っていないといえば、そもそもこのオベリスクも2本あり、1本はパリのコンコルド広場に持ち去られてしまっている。
 
ルクソール神殿中庭 ルクソール神殿の中庭は、ラムセス2世によって一般の人の祈りの場として造られたそうだ。
 また、柱の一番上の部分のデザインは、パピルスをモチーフとしているものか、ロータスをモチーフとしているものか、どちらかになっているという。
 この二つの植物がエジプトでどれだけ大切にされてきたかということが表れていると思う。

キリスト教 ことさらにライトアップされていたわけではないので随分暗い写真になってしまったけれど、ルクソール神殿の中には教会も造られている。
 この絵は、1800年くらい前に描かれたというから驚く。
 漆喰を塗ってその上にこの絵を描いたというキリスト教徒の人々も執念深いけれど、その教会の上にさらにモスクを築いたイスラム教徒の人々もなかなかの根性をしている。
 そして、このモスクがつい2ヶ月前まで使われていたと聞いてクラクラしてしまう。
 エジプトの人にとって、ルクソール神殿などの遺跡は本当に生活に近いところにあるのだなと思う。

エジプト統一の壁画 今ひとつ記憶には残っていないものの、何故かメモ帳に図入りでハニーさんの説明を聞き取っているので多分感銘を受けたと思われる壁画がこれである。
 この図は、上下エジプトが統一されたことを表しているという。
 上の方の横線で地中海を表し、真ん中の縦線でナイル川を表し、一番下のところでビクトリア湖を表している。その脇にはナイル川の神である「ハピ」が描かれている。この神様のお腹が出ているのは、その場所からナイル川が氾濫することを表しているという。
 そして、パピルスとロータスが結ばれ、上下エジプト統一を象徴しているのだそうだ。

 一通りの説明を受けてからフリータイムになった。
 とてもじゃないけれど時間が足りずに小走りで端から端まで巡る。

 20時30分にはならない頃にホテルに帰り着いたら、中庭で何やらダンスのショーが行われていた。
 「明日の朝に気球に乗りたい!」と騒いでいた結果を聞くべく添乗員さんを探したところ、4時出発と朝が早いこともあり他に希望者がいなかったので、料金が4万円くらいになるという。流石に「二人以上いれば2万円なんですが。」と言われると微妙なものがあったので、今回は諦めることにした。
 ラムセス3世葬祭殿跡を空中から見たかったけれど、仕方がない。

ステラ・ビール 昼食が遅かったこともあって、この日の夕食は各自自由にホテル内のビュッフェ・レストランで食べてくださいと言われた。
 22時30分まで開いているという。
 シャワーを浴びて、21時30分過ぎにレストランに行ったら、どうしようかと思うくらいガランとしていた。
 「ヌビア」というレストラン名からしてエジプト料理のビュッフェだろうと思っていたら、並んでいるのはステーキやシチュー、ライス、サラダといった洋食のメニューである。
 ツアー全員での食事だとミネラルウォーターを頼んでもらえるけれど、お水を頼むのも悔しいし、まだエジプトのビールを飲んでいなかったので、ステラ・ビールを頼んだ。500mlで25エジプトポンドだった。

 私は「このガランとしたレストランがわびしすぎる」と思ったけれど、翌日にツアーの方にお聞きしたところでは、早い時間は逆にレストランでショーが行われていて大混雑だったらしい。
 レストランの人も忙しくて飲み物の注文を取るどころではなく、お皿を下げて新しい席を作るので精一杯、追い立てられるように食べたそうだ。
 さて、どちらが良かったのか、迷うところである。

ホテルのプール 流石に500mlのビールは1人では持て余した。
 夕食を終え、プールサイドに出て夜風に当たって酔いをさます。ライトアップされたプールが綺麗だし、ナイル川沿いのためか、涼しい風も吹いている。
 ビールの酔いは結構まわっていて、部屋に戻り、連泊なのをいいことに部屋中ぐちゃぐちゃのまま23時前に寝てしまった。

*この日の服装
 黒の半袖Tシャツ、赤チェックの長袖シャツ、カーキのカーゴパンツ
 ライトアップを見に行くときは、Tシャツの代わりにピンクの長袖タートルネックシャツ
 夕食のときは、ピンクの長袖タートルネックシャツにスカーフ、黒のパンツ

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2008.07.12

エジプト旅行記3日目その2

2008年1月2日(水曜日)

葬祭殿の柱 王家の墓を後にし、12時前にちょうど裏側に当たるハトシェプスト女王葬祭殿に到着した。
 ここでも、入口でセキュリティチェックを受けた後、電気自動車に乗って移動する。
 この葬祭殿(入場料25エジプトポンド)は、エジプトの遺跡としてはとても珍しい形をしており、かつ、非常に保存状態が良いそうだ。
 40年をかけてフランス人が修復をしており、白っぽいところは新しい石が使われている。

 ハトシェプスト女王は、戦争を行わなかった王として知られている。これは、エジプト初の女王としてのイメージ戦略でもあったらしい。
 「プント貿易」として知られるソマリアとの交易を盛んに行ったことで知られていて、例えば、ミイラを造るときに内蔵に詰めたナントカという薬草をそこで得たりしていたらしい。
 このプント貿易を描いたレリーフでは、川を遡ってソマリアに行き、この薬草を得てエジプトに戻って来るまでが描かれている。

削られたハトシェプスト女王 ハトシェプスト女王は、当初は息子の摂政という形で権力を握り、そのうち本当に女王になってしまい、かつ権力を握り続けていたために、相当息子に恨まれていたらしい。
 壁画にレリーフとして描いてもらえるのは原則として王と神官だけで、このハトシェプスト女王葬祭殿に描かれたものも含め、彼女の肖像はことごとく削られてしまっているそうだ。
 その中で、珍しく残っているのが、このハトシェプスト女王の肖像のレリーフだという。

鉄格子の奥 30分くらいハニーさんの説明つきで主に壁画を見た後、20分のフリータイムになった。
 ハトシェプスト女王葬祭は、珍しく内部も写真撮影OKだったので、つい夢中になってあっちにフラフラこっちにフラフラして歩き回った。
 この写真は、何故かここだけ鉄格子がはまって中に入れなかった場所が気になって、鉄格子にレンズを突っ込んで撮った写真である。念のため、壁画を傷めないようにフラッシュを使わなかったので、かなりブレている。
 この壁画も特にブルーが色鮮やかである。
 天井に黄色で描かれたアスタリスクに似ている図形は、星を表しているそうだ。

 集合場所は、ハトシェプスト女王葬祭殿から少し離れた四阿風の休憩所だ。
 向かいつつ、実はずっと気になっていた、中央のスロープの始まりで睥睨している鷹もカメラに納める。やっぱり写真を撮れる場所は楽しい。
 集合場所に到着すると、ほとんどの方はすでに集まっていて、それぞれ飲み物など頼んで優雅に休憩していた。

ネフェルタリの墓の説明板 次はいよいよ「ネフェルタリの墓」を目指して王妃の谷に向かう。
 この特別入場があったからこのツアーを選んだといっても過言ではない。
 まずはお墓の入口隣にある四阿のようなところでハニーさんの説明を受ける。ベンチも用意されていて、いかにも「特別なお墓」という感じだ。

 ネフェルタリは、ラムセス2世の王妃で、ヌビア人だそうだ。
 ちなみに、ヌビア語は世界で一番難しいと言われているらしい。
 ネフェルタリのお墓は、その構造がエジプトの神殿と同じようになっているという。そして、壁画は「死者の書」にちなんで、ネフェルタリがあちこちの神様を訪問する姿が描かれているという。

チケット 1986年から92年にかけて修復が行われたそうだ。現在は、原則として閉鎖され、通常の入場観光は許されていない。
 それなのにチケット(100エジプトポンド)が用意されているのが謎といえば謎である。
 ツタンカーメンのお墓と同様に、ここでも入場前にカメラを預けた。

 13時20分、いよいよ、ネフェルタリのお墓に入る。
 ガチャンと錠前が外される。
 入口からすぐ階段を下ってゆく。
 控えの間に着いたときには「おぉ」とため息ともつかない息が漏れてしまった。

 とにかく鮮やかで綺麗で優美である。
 王家の谷のお墓とは異なり、石を彫ってそこに色を乗せているのではなく、白い漆喰を塗った上に壁画が描かれている。
 細かいし、何よりも色鮮やかである。
 そして、ここではガラスが嵌められておらず、全て直接に見ることができるのが嬉しい。

 お墓全体は左右対称にレリーフが描かれていたように思う。
 白い衣装を着ているのはネフェルタリだけのようだ。そして目元くっきりの美人である。
 天井は濃い青に塗られ、やはりステラが描かれている。

 ネフェルタリが拝んでいる聖牛は7頭という説明だったけど8頭いるじゃないかとか、つまらないツッコミを心の中で入れつつ、様々な姿のネフェルタリを追う。
 やはり、有名な、チェスのようなゲームをしているネフェルタリの姿が目に残っている。
 それは、私の視線よりも高いところに、他の絵は等身大かそれ以上の大きさだったけれど、その絵は1m四方もないくらいの大きさに描かれていた。

ワインを捧げるネフェルタリ また、控えの間から玄室に向かう階段の途中に描かれていた、後にアブシンベル神殿の音と光のショーで見ることになるワインを捧げるネフェルタリも、丸いボトルを捧げ持つ手の優雅さが印象的である。
 玄室の柱に描かれていた女神イシスとネフェルタリが二人で連れ立ってどこかに行こうかという風情の絵も印象に残っているから、私はどうも、ネフェルタリが女性(女神)と一緒にいる絵に惹かれていたようだ。

 そうやって、ネフェルタリの優美&優雅な姿に呑まれていたせいか、ふと気がつくと、周りに誰もいなくなっていた。
 驚く。
 せっかく、「今は空いているから10分とかカタイことは言わないよ。」って言ってくれたのに、どうして皆、あっさり出て行ってしまうのだろう。何て勿体ない! と半ば憤りすら感じる。

 でも、考えてみれば、係のおじさんが一人残っているとはいえ、今の私はネフェルタリの墓を独占しているのだ。
 これ以上贅沢な時間などない。
 係のおじさんに「もう1回見てきていい?」と聞くと、「行ってこい、行ってこい。」と手を振ってくれ、階段の上に向かって「あと1人いるぞ。」と声をかけてくれた。
 おじさんの好意に甘え、最後に控えの間と控えの間の横に造られたお部屋で、「ネフェルタリの墓」の壁画と空気と「時」を満喫した。

ネフェルタリの墓入口 私が階段を上がって外に出ると、すぐに「がちゃん」とドアと鍵が閉められ、「時」は封印された。
 名残惜しくて振り返ると、ネフェルタリのお墓は、地味に(入口はどのお墓も地味なのだけれど)、ひっそりと(王妃の谷自体に人が極端に少なかった)、そこにあった。

 「昼食前にあと1ヶ所だけ」と、ルクソール西岸観光の最後にメムノンの巨像に立ち寄った。
 この像はアメンホテプ3世が建造した物である。
 実際はこの後ろに大きな葬祭殿が広がっていたけれど、今はこの2体の像だけが残されている。そのせいでさほど大きく見えないけれど、実際は18mの高さがあって、奈良の大仏よりも大きいそうだ。

 ルクソール西岸観光は14時に一段落した。
 お腹も空いたことだし、これからお昼ご飯である。

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