「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」を見る
「幻に心もそぞろわれら将門」 シアターコクーン・オンレパートリー2005
作 清水邦夫
演出 蜷川幸雄
出演 堤真一/木村佳乃/段田安則/中嶋朋子/高橋洋
田山涼成/沢竜二/松下砂稚子/冨岡弘/山下禎啓/二反田雅澄 他
観劇日 2005年2月11日(金曜日) 午後2時開演
劇場 シアターコクーン 1階T列4番
料金 9000円
あらすじ (ちらしから引用)
藤原勢に追いつめられ、すでに見方が少数となっている平将門一行。逃げ落ちる途中、頭に大怪我を負った将門は、こともあろうに自分が将門の命を狙う武者だと思い込むという狂気にとり憑かれた。その姿に混乱する将門の影武者たち。参謀者でもある三郎はなんとか事態を収拾し、窮地からの脱出を図る。しかし、将門の恋人、桔梗の前は、影武者の中から新たな将門を生み出そうと、三郎の弟、五郎を誘惑。不穏な空気が立ち込める中、三郎や今や戦地で男に体を売る歩き巫女に身をやつした妹、ゆき女と再会する。藤原の追っ手が一行に迫る・・・。
結局、平将門が何者か、日本史上どういう位置づけにある人なのか、全く判らないまま出かけてしまった。
蜷川さんのお芝居でよく思うことなのだけれど、高橋洋という役者さんはどういう役者さんなのだろう? 私にとっては「浮き沈みの激しい役者さん」というイメージの強い人である。挫折する役柄を多く演じているように思うのだけれど、その役柄と本人が重なるせいだろうか?
ネタバレがあるので、お芝居の感想は以下に。
いきなりの真っ赤な照明、そこに白く浮かび上がる女が一人。そして馬上の男と声をぶつけ合う。
その台詞の中でもやはり「赤」と「白」が強調されていたように思う。
そして客席から登場する彼らを呼ぶ声。・・・とても印象的な幕開けだった。
最後までこのシーンが頭に残っていたのか、私にはこのお芝居は将門ではなくこの二人(段田さん演じるところの三郎と、中嶋朋子演じるところのゆき女)の物語のように見えた。
この幕開けのシーンで、舞台の奥で鉄玉が吊られ、ぶつけられていた。浅間山荘事件を思い出させる(といっても、私にリアルタイムの記憶はない)この演出を、蜷川さんは別の舞台でも使っていた筈だ。もちろん意図はあったと思うけど、私は「使い回しか・・・。」とまず思ってしまった。
舞台上の大部分をかなりの高さ、かなりの角度の階段が占めている。
圧迫感、登場人物同士の上下関係、閉塞感、どこにも行き場のない感じが醸し出されていたけれど、役者さん達は神経と体力を消耗しただろうと思う。
もちろん危なっかしさや疲れた感じは全く見せず、美しく軽やかに動いていたけれど。
目を潰されたあとのゆき女が階段を降りるときは、本当は見えているんだと思いつつもかなりヒヤヒヤしてしまった。
一幕目の白眉は、堤真一演じるところの将門の参謀である三郎の弟で、将門の影武者でもある、高橋洋演じるところの五郎が、将門というシンボルを乗っ取ろうとして果たせず影武者として死んでいく、一幕終了の場面だったと思う。
このシーンの主役は間違いなく五郎だった。
暗転して客電がつき休憩に入ったとき、この芝居そのものが終わったのかと一瞬勘違いして「この終わり方は何だ!」と怒ってしまったくらいだ。
そして、五郎の生を歪め死に追い込んだのは、三郎とゆき女の兄妹に見えた。五郎を偽将門として仕立てようと謀り、彼を唆して三郎を殺させようとした、木村佳乃演じるところの桔梗ではない気がした。
そして、もう1シーン。真っ暗な舞台、階段のど真ん中にスポットを浴びたゆき女が一人いて、謡っている。このお芝居を見ていて鳥肌が立ったのはこのシーンだった。
三郎とゆき女の物語に見えてしまったのは、将門の恋人である桔梗の存在感が今ひとつ薄かったせいかもしれない。それと、彼女の高笑いに違和感を感じた。本当に嘲笑ったり笑い飛ばしたりしているのではなく、無理して「ははは」と言っているような笑い方が中途半端だったと思う。
二幕で、狂った将門が「子供の頃はいつも3人一緒だった」と三郎に言い、その3人目を思い出せずに「子鹿のような目をした・・・」とだけ言ったとき、私はゆき女だと思ってしまった。物語の中では、もちろんその3人目は桔梗なのである。
狂ってしまった将門を堤さんはそれこそ「伸びやか」に演じていて、それはもしかしたら将門本人が自身の中で圧殺していた本質なのかも知れず、その明るさと軽さが残された将門一行や桔梗を追い詰めた。そう伝えたいんじゃないかと感じた。
けれど、それなら一瞬「将門」に戻ったときにもっと重く冷酷に演じて、そこに落差があった方が絶対に格好良く見えたんじゃないかと思う。
だから、闇に向かってでも明るく走って行く将門をラストシーンにするよりも、伝説になった将門を何らかの形で見せて終わった方が、このお芝居も格好良かったんじゃないかと思った。
もちろん、私が「将門」という伝説を知らなすぎるために、説明された「三郎」の物語を強く感じてしまったのかもしれない。「将門」を知ってから見ていれば、狂う前の将門の姿が常に脳裏に浮かんでいただろうし、そのギャップを常に意識して見ていたら全く違うお芝居に見えていたのかもしれないと思う。
私にとってこのお芝居のラストシーンは、三郎とゆき女の二人が、将門を伝説として生き続けさせるために差し違えて死んだ、まさにそのシーンである。
ラストシーンと言えば、将門が走るその横にあの馬は必要だったんだろうか?
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コメント
肝臓先生さま コメントありがとうございます。
私は「少し」じゃなくて「とっても」難しいと思いました(笑)。
平将門という人のポジションを勉強すればまた違った見方・感じ方ができるのかもしれないと思いつつ、まだ全然勉強していません・・・。
投稿: 姫林檎 | 2005.02.15 22:43
初めまして,肝臓と申します.
先日,私も舞台を見に行ったのですが,少し難解でした.
投稿: 肝臓先生 | 2005.02.15 15:07