「小林一茶」を見る
「小林一茶」こまつ座
作 井上ひさし
演出 木村光一
出演 北村有起哉/高橋長英/キムラ緑子/小林勝也
松野健一/柴田義之/永江智明/吉田敬一
田中壮太郎/佐藤淳/大原やまと/島川直作
観劇日 2005年9月17日 午後6時30分開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 2列4番
料金 5250円
上演時間 3時間15分(15分の休憩あり)
上演時間としてはかなり長かったけれど、とても楽しく見ることができた。
井上ひさしの戯曲は、特に今回のような推理評伝的なものでは、最後の最後にどんでん返しがあると判っているのに、毎回だまされてしまう。
ネタばれありの感想は以下に。
江戸時代とか俳諧とかその手のものは全く詳しくない。
学校の国語で習った遠い記憶からすると、小林一茶というと「純朴」「好々爺」「清貧」というイメージがあった。
「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」とか「やれ打つな蝿が手をする足をする」とか「痩(やせ)蛙負けるな一茶これにあり」とかである。
それが、ここではいきなり近所の嫌われ者で、嫌われ者故に「480両盗んだ」と嫌疑をかけられるというところからお話が動き始めたからかなり驚いた。
実際は、北村有起哉演じる小林一茶と高橋長英演じる竹里(俳諧と恋で生涯のライバルになる)との出会いから舞台は始まる。
そして、この最初のシーンは、嫌疑をかけられた小林一茶を知るために、北村有起哉演じる新米同心見習が主役となって小林一茶の一生を追うというお芝居の一部だったことが、次のシーンで説明されるのだ。
ややこしい。
この「説明」のシーンでは、流石に少し頭がぐるぐるしたけれど、以降はすんなり入り込むことができた。
シーンが変わるごとに「これから演じるのはいついつのこれこれの思い出です」という説明が入ったおかげでもある。
そうして小林一茶が俳諧を目指して以降の生涯が語られてゆく。
何というか、一言で言うと、野心家の一生である。
「俳諧の道で生きてゆく」「俳諧の世界で上を目指す」ためには何でもする。どんな汚い手段も使う。
と、ここで「何でもする」と書いてから思い返してみると、小林一茶は「何でも」したわけではない気がしてきた。一茶の俳諧師としての栄達のために犠牲になったのは、常にキムラ緑子演じるおよねという女だった気もする。
一茶と竹里の関係がなりふり構わぬ宿敵同士になったのは、俳諧の世界を両者が目指していただけではなくて、間におよねという女がいたからだと思わせる。
一茶が竹里をどう思っていたのかは最後まで判らなかい。
けれど、竹里は一茶の執念を、尊敬していたかどうかは判らないけれど、理解しようとしていたし尊重しようとしていたんじゃないかと思う。
たまたま自身番にいた飯泥棒が竹里本人だったり、「小林一茶犯人説」どころか「480両の盗難」自体が実は「座」の連中と札差でもあり江戸でも三本の指に入る遊俳である夏目成美が仕組んだ汚い金儲けのためのお芝居だったり、というどんでん返しがラスト近くで立て続けに明かされてゆく。
そして、「新米同心見習のあなたに手柄を立ててもらいたい(そして、自分たちも楽な暮らしがしたい)」という「座」の連中の薄笑いを振り切って、この同心見習は最後の最後で彼らの計画をぶちこわし、竹里も逃がし、自分は同心見習を辞して元の戯作者に戻ることを宣言する。
そこで、幕、である。
この正義感溢れる新米同心見習の好漢ぶりにスカッとし、次のスケープゴートは誰にしようかとすぐさま相談を始める「座」という江戸庶民の代表のような連中のたくましさと恐ろしさに感心したりぞっとしたりする。
竹里は一茶に友情(というような単純なものではないかもしれないけれど)を持っていたんだな、と少しほろりとさせる。
そして、でも、一茶の今の想いは全く見せることがないまま終わる。
釈然としない気もするけれど、でも「やられた!」という思いの方が強い。
とにかく、楽しいお芝居だった。
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