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「コンフィダント・絆」
作・演出 三谷幸喜
出演 中井貴一/寺脇康文/相島一之
堀内敬子/生瀬勝久
観劇日 2007年5月2日(水曜日) 午後7時開演
劇場 パルコ劇場 K列11番
料金 9000円
上演時間 2時間50分(15分間の休憩あり)
私の席から見える範囲で2席ずつ2ヶ所の空席があった。何て勿体ない!
客席は、やけに芸能人率が高かった。私の目なのであまり当てにならないけれど、観月ありさと佐々木蔵之介と妻夫木聡がいた、と思う。こういう方々は、開演直前の客席が暗くなるかならないかというタイミングで席に着くことが多いので、却ってとても目立つ。
久しぶりに舞台を見てパンフレット(1500円)を購入してしまった。(でも、まだ読んでいない。)
パンフレットの知識なし、ネタバレありの感想は以下に。
生瀬勝久演じるゴッホ、中井貴一演じるスーラ、寺脇康文演じるゴーギャン、相島一之演じる「コンフィダント」のシュフネッケルの若い4人が共同でアトリエを持ち、絵を描いている。
そこに、モデルとして雇われた堀内敬子演じるルイーズがやってきて、という物語だ。
この舞台を見てしまうと、それぞれの役はそれぞれしかできないだろうと思わせる。
舞台の左端の一段低くなったところにグランドピアノが置かれ、生演奏がされ、年取ったルイーズが酒場でピアノをバックに歌っている。彼女が客にせがまれて、若き日の彼ら4人を回想し、物語るという体裁だ。
そうやって年取ったルイーズが照明の落ちた一瞬に若き日のルイーズに早変わりし、舞台の大半を占めるアトリエに登場するという始まりが鮮やかだ。
ゴッホはまるで子どもか赤ちゃんみたいに自分の好きなことを好きなようにやり、絵が売れないことを嘆き、同じ話を何度もし、生活能力はまるでなさそうに見える。一方のゴーギャンはそんなゴッホの嘆きになんだかんだ言いながらも根気よくつきあい、料理もし、パリに来た観光客をキャバレーに送り込んで日銭を稼ぐ。
4人の中で絵描きとして一番成功しているスーラはどこかかのお坊ちゃんでやけに気取り屋、美術教師のシュネッケルはひたすら「いい奴」だ。
楽しく笑いに満ちた一幕だけれど、でもそんな4人が集まって絵を描いている今は本当に一瞬だけの宝物のような時期なんだということが伝わってくるのは、その宝物が壊れようとしている片鱗があちこちに見え隠れしているからだろう。
どちらかというと蓮っ葉というか気取らないルイーズは、パリで踊り子になることを夢見て南フランスから出てきた女だ。
その彼女に、ゴッホもゴーギャンも「亡くなってから妻子がいたことが判った」スーラもあっという間に惚れる。「アトリエに泊まらない」「モデルに手を出さない」という4人の約束はあっという間にどこかに吹っ飛んでしまう。
彼女を描いたヌードを見て「ゴッホは目の前にないものは描けないんだ」「(ゴーギャンに)君は想像だけではこんな生き生きとした姿は描けない」と彼女との関係をなじる画家達が哀しくも可笑しい。
結局、「絵」なのだ。
ルイーズは、4人の画家に見つめられる女であり、モデルであり、「たった1ヶ月だけ付き合った4人の画家」を描き出す語り手でもある。
全編を通して、多分、それぞれの画家の悩みを聞き慰めようとするとき、彼女は歌う。
逆に男4人が歌うのは、ロートレックの前でヌードになり「パリの女じゃなければイメージが湧かない、君からは土の匂いがする」と言われて4人の元に返ってきた彼女を慰め笑わせようとする、一幕の最後のシーンだけだ。
それが、彼ら4人が協力して何かを成し遂げた最後の夜になった、というルイーズの台詞が哀しい。
二幕の始まり、作・演出の三谷幸喜が赤いネクタイを締めてピアノの隣に登場した。バンドネオンで、ルイーズが随所で歌うこの芝居のテーマのメロディを演奏する。
その演奏が終わるのを舞台上で待っているスーラがいかにも可笑しい。
退場しようとしてバンドネオンを持ち直した瞬間、ぷーと妙な音を立て、慌てて退場していった様子も何だか可笑しかった。
毎回の演出なのかどうかはよく判らなかった。
二幕目は、「壊れてゆく」物語だ。
実は、スーラもゴーギャンもゴッホ自身も、ゴッホが天才だということは判っている。どんなに社会生活に馴染んでいないにしても、生活の全てを弟に頼り切りでも、でも絵の才能はゴッホが一番なのだ。
そして、スーラもゴーギャンもゴッホも、シュフネッケルには絵の才能はないということを、自分たちと比べて劣っているのだということを知っている。それは彼がどんなにいい奴だとしてもそうなのだ。
そして、シュフネッケルがどちらのことも判っていないという事実が、どんどん4人の中で大きくなってゆく。
スーラが出品する展覧会に、このアトリエからもう1枚絵を出品できることになる。
ルイーズをモデルに描いた絵を出すことになっているようだ。
その「展覧会に出す絵」を決めようとする前、スーラはゴッホの絵を見る。ルイーズのバックには夜明け前の空の色が塗られている。
「どうしてそのブルーなんだ」というスーラに、ゴッホは「僕は見えるものしか描いていない。ずっと見ていれば、ルイーズ自身の色が彼女の周りに見えてくる」と鬼気迫る様子で話す。その話の間、ルイーズに当てられたスポットはどんどん明るくなり、彼女の顔がどんどん輝いてゆくのが印象的だ。
4人はルイーズだけには自分の気持ちの本当の部分を少しだけ語る。
ゴーギャンもスーラも、ゴッホの才能への嫉妬を語るのだ。
ゴッホが彼女に何を語ったのかは判らないけれど、シュフネッケルだけはゴッホの才能が判っていない。そのことを彼女にも語る。
つまるところ、そのことが彼ら4人の関係を終わらせた原因なのじゃないかと思う。
現象としては、スーラは展覧会に出す絵をシュネッケルに選ばせ、彼はゴーギャンの描いたルイーズの絵を選ぶ。スーラは、シュフネッケルがゴッホの才能を絵の善し悪しを判っていないということを知っていてそうする。
ゴッホはルイーズを描いた自信作のキャンバスを切り裂き、その絵に敵わないことを知っているゴーギャンは自分の絵を捨て、スーラはゴッホの絵に触ったときについた青絵の具で自分の絵をぐちゃぐちゃにしてしまう。
こうして、ルイーズの絵は1枚も残らない。
窓の外は夜空のブルーが広がり、そこに一つだけ白く光る星がある。ゴッホが見たルイーズの姿だ。
ゴッホはアルルに行くと言い出す。ゴーギャンに「一緒に行こう」とは言うものの、一緒に行くことをもう決めているようだ。
ルイーズは、ゴーギャンが自分ではなくゴッホを選んだことを改めて突きつけられ、「一緒に来ないか」という台詞に「お断り。私はパリの女だから」と答える。
パリを去るというゴッホにシュフネッケルが「絵の基本を教えよう」と言ったことから、ゴッホは激高し、シュフネッケルを自分たちと同等だと思ったことはない、友達だと思ったことはない、とついに言ってしまう。
そして、その場にはシュフネッケルとルイーズと、シュフネッケルが描いた4人の絵が残る。
でも、その絵には描いたシュフネッケルの姿はない。
コンフィダントとは、絵描きを精神的な部分も含めて様々にサポートする人のことなのだという。でも、シュフネッケルは一流のコンフィダントになりたかったわけではなく、絵描きになりたかったのだ、というのがやっぱり哀しい。
ここで終わったら哀しいなと思ったら、ルイーズが再び年老いた酒場の女に戻り、シュフネッケルが晩年に「彼らと一緒に絵を描いていたんだ」と生徒に話していたというエピソードを語り、シュネッケルの絵がそこに掛かっていることを語る。
最後のシーンは、アトリエを構えようとするその日、彼ら4人が4つのルールを確認している。舞台は明るく、4人の表情も若く明るく、これから「宝物の時間」が始まる。
何だか、とてもほっとした。
このお芝居を見ながら、こういう絵を最近見たことがあるような気がする。最後に「ゴーギャン、ゴッホ、スーラ」というタイトル(このフレーズはそのままルイーズが歌うこの芝居のテーマの歌詞でもあるのだけれど)だと紹介されるこの絵を見たことがあるんじゃないかと思っていた。
この今年早春に上野で開催されたオルセー美術館展で見たのかと思っていたのだけれど、それは私の勘違いだった。
この時、アンリ・ファンタン=ラトゥールという人の「バティニョールのアトリエ」という絵を見ているのだけれど、それはマネのアトリエの風景で、モネ、バジール、エミール・ゾラ、ルノワールらが中央で絵筆を持つマネをとり囲んでいる絵だった。
シュネッケルが描いたこの絵を見ることができるのだろうか。
ロビーには彼ら4人(シュフネッケルも含めて)が描いた絵の複製が掛けられていたけれど、シュフネッケルの絵は「ゴーギャン、ゴッホ、スーラ」というタイトルではなかった。
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