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「ビューティ・クイーン・オブ・リナーン」
作 マーティン・マクドナー
訳 目黒条
演出・出演 長塚圭史
出演 大竹しのぶ/白石加代子/田中哲司
観劇日 2007年12月22日 午後7時開演
劇場 パルコ劇場 F列3番
料金 7800円
上演時間 2時間25分(15分間の休憩あり)
劇場に到着して、張り紙を見て知ったのだけれど、出演を予定していた黒田勇樹が降板し、演出でもある長塚圭史が代役を務めていた。
ロビーではパンフレット(値段をチェックするのを忘れた)の他、パルコ劇場作品のDVDが販売されていたのはいつも通りだ。
2007年の観劇予定はこれで終了である。
年内か年明けに、2007年の私のベスト5を選んでみようかと思っている。
ネタバレありの感想は以下に。
白石加代子と大竹しのぶが母娘を演じその母娘が決して仲良しな訳ではない、長塚圭史が演出と聞いたら、おどろおどろしい物語を想像する。少なくとも、私はかなりぞっというかおどろおどろしいというか、追い詰められるようなお芝居なんだろうとかなり覚悟を決めてお腹に力を入れて見始めた。
舞台はアイルランドで、丘の上にぽつんと立つ農家に、母娘が2人きりで暮らしている。訪れる人もほとんどないようだし、2人のやりとりはトゲトゲしているし、お世辞にも楽しい暮らしとは言えないようだ。
娘は長女で、下の妹2人はもう嫁いでいるらしい。
隣家(と言っても丘を上り下りしなければ行けないくらい遠そうだけれど)の兄弟のうち、長塚圭史演じる弟のレイは時々はこの母娘の家にやってくることもあるらしい。登場人物4人の中では、彼だけが母娘の物語に関係がなく、関係がないためにこの話がどちらに転ぶかのキーを握っているのが彼だ。
母娘のやりとりも、意外なくらいじめじめとした雰囲気はなく、大竹しのぶがしゃべり、白石加代子が表情を変えると客席から笑いが起きる。「自分は尿路感染症で腰も痛い、火も怖い」と主張してオートミールを作るのも何とかというスープを作るのも紅茶を淹れるのも全て娘にやらせる母親も、母の言うことを聞いてやりながらも適当に端折ったり途中で取り上げたり端々で意地悪を仕返している娘と、娘がやられっぱなしでなく実力(?)が拮抗しているせいなのか、何故かカラっとした印象がある。
そこをさらに、隣家の「若者」であるレイがかき回し、さらに笑いを取る。
一幕のレイは、田中哲司演じる兄のパッド(と聞こえたけれど違ったかも)が帰郷していることと翌日に2人の伯父の送別パーティを開催することを伝えに来て、大竹しのぶ演じるモーリーンへの伝言を白石加代子演じる母のマギーに頼む。でも、この母は、娘が自分から離れていくことが許せないのか、幸せになるのが許せないのか、彼女に伝えようとしない。
モーリーンは帰って行くレイとすれ違ってこの情報を得て、パーティに出かけて行く。
黒いミニのワンピースを着たモーリーンは設定の40歳には見えないのだけれど、何歳に見えるのかと聞かれると悩む。でも、一緒に返ってきたパッドと比べると年上に見えるのだけれど、実際のパッドの設定年齢は何歳だったのだろう。
2人は一夜を過ごし、嬉しそうで得意そうなモーリーンを見て、母は「これが切り札だ」とばかりに、パッドにモーリーンが以前に精神を患って入院していたことを伝えてしまう。
それでも「大したことではない」「一生懸命考えた結果だ」とモーリーンへの態度を変えないパッドは男らしい、かなりいい奴だ。
出稼ぎ先のロンドンからパッドは「一緒にアメリカに行こう」とモーリーン宛の手紙を書き、レイに「絶対に直接渡せ」と厳命する。
でも、パーティへの招待も伝言で済ませたレイは、かなりガマンしつつもついにモーリーンの帰宅を待ちかねて母に託してしまう。もちろん、その母は手紙を焼いてしまう。
私は、特段の理由もなく、ここではちゃんとモーリーンに手紙が渡り、でもモーリーン自身が自分に枠をはめてしまい、一緒にアメリカに行くという人生を選択できなかったという方向に進むのじゃないかと思っていたので、少し意外だった。
「返事がなければ諦めます」と阿呆なことを手紙に書いていたパッドは、モーリーンからの手紙がないまま、帰郷してアメリカ出発前にパーティを開く。モーリーンは招待されていない。
「あと少しで作戦終了」というところで、母はいつもの意地悪癖が出て、娘が見栄と虚勢の限りを尽くしてパッドとのことを語るのに、それは嘘だとつい言ってしまう。母がどこからか何かを聞いていることを知った娘は、一瞬で沸騰し、油を火にかけ始める。母の顔は恐怖に歪む。母は右手に火傷を負っているから、その恐怖の様はこちらにまで増幅して伝わってくる。
その母の火傷跡に、熱くなった油を垂らし、娘は母から手紙が来ていたこととその内容を聞き出す。
残りの油を母にぶちまけ、大急ぎで娘はパッドを追いかける。
書いているだけでおどろおどろしいシーンだし、油をかけられた母からは白い煙が立ち上るのが見え、苦悶の表情と声も恐ろしい。
だけれど、何故だかそこにはカラっとした空気が流れている、ように思える。
その日の夜、娘はロッキングチェアに座った母の周りを歩きながら、駅でパッドに会えたこと、アメリカに来てくれるように言われたこと、母についてはモーリーンの考えるようにすればいいと言われたことを語る。
ふっとそれまで薄暗かった舞台が明るくなり、母はロッキングチェアから前のめりに倒れ、後頭部には血が流れ、モーリーンの手にはレイが「人を殺すのに手頃だ」と言っていた火かき棒が握られている。
彼女は、とうとう、自分がアメリカに行く障害を除くために、母を殺してしまったのだ。
母の葬儀を終え、どうやら警察の追及も逃れたらしいモーリーンが旅立つ準備をしようとしている。
そこにレイがやってきて、パッドはモーリーンにちゃんとお別れを言ってもらえなくて残念だったと伝えてくれと言っていたと語る。パッド汽車ではなくタクシーで出発したと語る。「駅で会えた」というのは全てモーリーンの思い込み、妄想だったのだ。
そして、伯父の送別会で、モーリーンと話し始める前に一緒にいたという女の子とパッドが結婚することになったと伝える。
モーリーンは、妄想を打ち砕かれ、現実を突きつけられる。
それをしているのが、全く妄想とも現実とも縁がなさそうな、「ティーンエイジャー」という風情を漂わせる(恐らく違うのだけれど)レイだというのが残酷極まりない。
そうして、パッドに「さよなら」と伝えてくれと言うモーリーンは、ロッキングチェアに揺られ、その姿勢も表情も、言うこともまるっきりマギーにそっくりだ。
モーリーンを支えていた何かが壊れ、彼女の中に母が巣くった瞬間だ。
それにしても、いい奴そうだったのに、アメリカに行ってそれほどの時間もたたないうちに、あっさりと別のしかも若い女の子との結婚を決めるパッドという男もどうかと思う。
多分、モーリーンはパッドと会えなかったけれど、それでもアメリカに追いかけて行くつもりだったろうに。あるいは、「もうすぐアメリカに行く」という妄想とともに生きるつもりだったのかも知れないけれど、いずれにしても、パッドがモーリーンを支えていた何かをぶちこわしたのは確かだ。
モーリーンが母を殺した意味は何ひとつなかった。
それが、恐らくこの物語の一番やるせないところなのだけれど、それでもやっぱりカラっとした印象が強いのは何故なんだろう。
ラストシーン、ロッキングチェアから立ち上がったモーリーンが、スーツケースをしまいに奥の部屋に入って行き、揺れているロッキングチェアにスポットが落ち、音楽のフェイドアウトと共に揺れも止まり、そしてすっと灯りが消えて幕となる。
その終わり方も、ぞっとするというよりも、綺麗な感じがしたのが不思議である。
凄くよく考え抜かれた作り込まれた物語を、できるだけ忠実にでも重くなく舞台にしたという感じがする。そういうお芝居だった。
2007年の最後の1本には重かったような、でも考えるべきことがたくさんあって良かったのではないかという気もする。
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