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「ちいさき神の、つくりし子ら」プレタポルテvol.2
作者 マーク・メドフ
翻訳 板垣恭一/平田綾子
演出 板垣恭一
出演 岡田達也(演劇集団キャラメルボックス)/津田絵理奈
長野里美/樋渡真司/伴美奈子
大橋ひろえ(SAP.AZN)/石曽根有也(らくだ工務店)
観劇日 2008年2月9日 午後2時開演
劇場 俳優座劇場 10列19番
料金 5000円
上演時間 2時間40分(10分間の休憩あり)
ロビーでは、パンフレット(1000円)が売られていて、どうしようかと迷ったけど購入した。
それとは別に渡される配役表の「今後の活動予定」蘭に、主演の津田絵里奈を取りあげたテレビ番組の放映予定が載っていた。
ぜひ見てみようと思っている。
NHK教育「ろうを生きる難聴を生きる 初舞台に賭ける!〜津田絵理奈さん〜」
2008年2月16日午後7時40分〜(再放送2月22日午後0時45分〜、29日午後0時45分〜)
ネタバレありの感想は以下に。
正直に言うと、感想を書くのが何だかとても難しい。
舞台上では手話がかなり頻繁に使われているのだけれど(主演の2人の会話はほとんど手話だ)、その手話を通訳しているという趣旨ではなく、舞台を見に来た耳の聞こえない方に向けてという趣旨で、舞台両脇に字幕が出されていた。
手話の台詞自体は、例えば主演2人の会話は、岡田達也演じるジェームズは聴者という設定なので、自分の台詞はしゃべりながら手話で表現しているし、津田絵理奈演じるサラはほとんど全ての台詞が手話で彼女の手話をジェームズが声に出して反復しつつ会話している。
石曽根有也演じるオリンと大橋ひろえ演じるリディアは口話を使うという設定だし、何よりもサラの台詞は感情というよりも激情とともに語られることが多いので、手話が判らなくても会話はほとんど理解できる。
それでも、字幕があるとついついそちらに目が行ってしまい、役者さんを見ていないことにふと気がついて「いかん、いかん」と思うことがたびたびあった。
ちらしにもあったように、このお芝居はラブストーリーとして見るととてもよく判る。
理解して欲しいし、同情して欲しくはない。
相手が自分の思っていたイメージと違うと何だか裏切られたような気持ちになるけれど、自分は相手の思うように変えられたくはないし変えられない。
そういう、「相思相愛になった後」に噴出してくる問題を丁寧にすくい上げているお芝居のように見える。
もっとも、その分、ろう学校に口話教師としてやってきたジェームズと、学校は卒業したけれど読唇も口話も学ぼうとせず学校で働いているサラと、ジェームズが一目惚れしたのはいいとして、最初は頑なで全身からトゲを出して身を守っているようだったサラがジェームズに心惹かれてゆく過程は実はかなり大ざっぱだったようにも思う。
ジェームズの「大抵の問題はキスすれば解決してきた」という態度もどうかと思うし、そういう奴に心惹かれるというサラの心情の変化は唐突に見えてしまった。
前半のサラの変化が唐突だと見てしまったせいかも知れないのだけれど、後半の結婚生活を描いている中でのサラの求めていることや言っていることは、よく判らなかった。
もっと正直に言ってしまうと、ラブストーリーなんだという目で見てしまうと、サラが言っていることは「それはちょっと欲張り過ぎでしょう」という風に感じてしまった。
それは、サラが全く耳が聞こえないという設定で、私の耳が聞こえていて、それで私の理解がまるで浅薄なものになっているからなんだろうか。
この辺りから話がややこしくなってくる。
私がサラの心情に同調できないのは、サラという登場人物があまり好きになれないからなんだろうか。
それとも、サラが台詞で何度も言うように、耳が聞こえない彼女の思いは決して耳が聞こえている人には判らないものだからなんだろうか。
それとも、サラが置かれている状況に対する私の理解の足りなさから来ているものなんだろうか。もっと言ってしまうと、私の人間性の問題なんだろうか。
人と人とが理解し合うことは難しい。
割とストレートなテーマである筈なのに、「サラは耳が聞こえない」ということから、ストレートに考えてはいけないような心持ちになる。お芝居を見ての感想ですら、こういうもどかしいような心持ちになるということが、多分、一番大きな問題なんだろうというようにも思う。
その「もどかしさ」を、長野里美演じるサラの母親や、樋渡真司演じるろう学校の校長や、オリンが校長を訴えようとするときに協力を求めた伴美奈子演じる弁護士らが、ときに堅く、ときに笑いを交えながら象徴していたのだと思う。
でも、何故か彼らにも感情移入できなかった。
ラストシーン近く、ジェームズとサラは、お互いが思っていること、思っていたことをぶつけあう。
それは、ぶつけあうとしか言いようのない激しさである。
そして、サラは18歳から6年間帰っていなかった母親の元に帰る。
迎えに来たジェームズに、サラは「一緒には帰らない。私たちはまたお互いを変えようとしてしまう」と告げる。その後のサラの台詞は、絶対にもの凄く大切なことを言っていた筈なのに、「これは大切なことだ」ということしか判らなかった自分が少し悲しい。
そして、このシーンで印象に残っているのは、実は彼ら2人の会話ではなくて、サラが母親にジェームズと2人だけで話したい、席を外して欲しいと言うときに、「お願い」という手話が加わっていたことだったりする。
これまで、サラと母親との会話は随分と素っ気なく、ときに敵意だけが前面に出ているようなものだったので、余計にその「お願い」という手話が印象に残った。
このお芝居では、ジェームズと母親の関係、サラと母親の関係も大きなテーマなのだ。
何年か前に手話を習っていたとき、先生に「(耳が聞こえない人は手話を)やめられない。」と言われたことがある。でも、色々とあって習うのを止めてしまった私には、かなり痛いお芝居で、だから何だか虚心には見られなかった。
でも、カーテンコールの最後、岡田達也が手話で(間違っているかも知れないけれど、恐らく)「これで終わりです。ありがとう。」と語って去って行ったことが判ってよかったなとも思うのだ。
普通の拍手じゃなく、掌を広げて左右に手首を振る拍手ができなかったのが、少し心残りだ。
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