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2008.06.29

「混じりあうこと、消えること」を見る

「混じりあうこと、消えること」小劇場3作品連続公演 シリーズ・同時代Vol.2
作 前田司郎
演出 白井晃
出演 國村隼/南果歩/橋爪遼/初音映莉子
観劇日 2008年6月28日(土曜日)午後1時開演
劇場 新国立劇場小劇場 D2列14番
料金 5250円
上演時間 1時間25分

 終演後にシアタートークがあり、1時間くらいの予定だということだったのだけれど、20分くらいはオーバーしていたと思う。
 かなりの人数がそのまま客席に残っており、司会を務めた元NHKアナウンサーの堀尾正明氏は「みんな、判らなかったんですよ、腑に落ちたいんですよ」と何度も言っていた。
 確かに、シアタートーク終了後、パンフレット(800円)と台本(400円)の売場には列ができていたし、客席からの質問でも「判りませんでした」という発言が多かった。

 シアタートークの内容はネタバレになってしまうので、以下に譲るけれど、それにしても堀尾正明氏のインタビューというか司会はあまり上手とはいえないものだったと思う。
 主役の筈の作家と演出家の発言を、司会者が発言を被せて奪い取ってしまうのはどうかと思ってしまった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 確かに、感想として「判らない」というのはある。
 國村隼演じる喪服の男が遊具はたくさんあるけど印象としてガランとした公園にやってくる。
 遊具の一つである猿山みたいな奴に南果歩演じる母と橋爪遼演じる息子が住み着いていて、突然その女から「お父さん!」と呼びかけられる。
 その呼びかけに対して、男が「おまえ、思い出したのか!」と言った時点で、この芝居の枠組みに対する解釈のひとつは、一定程度、示されているんじゃないかと思う。
 少なくとも、私はかなり芝居の頭の方の段階で、「そういうことだろう」と思っていたので、そんなに「判らない」という感想は頭に浮かばなかった。

 不思議な世界ではあるけれど、それは息子を失った女が自分の中に作り出した幻想なんだと思って見ていた。
 だから、女が公園の遊具で暮らそうが、公園の地面がまるで家の中であるかのように靴下で過ごしていようが、「ここは水底町だ」と言おうが、自分は最初に人間で他に人間がいなかったからピラニアとの間に子どもがいるんだと女が主張しようが、それが何故ピラニアなのかといったことは考えなかった。

 ただ、そこに夫である男は最初はいないことになっていたし、恐らく現実世界では存在しない息子の姉が初音映莉子演じるところの「ピラニアとの間に生まれた娘」ということで登場する。
 「女」の中の優先順位や願望はそういうことになっていたんだ、夫は「不在」も同然だったから幻想の世界に逃げ込むことになったし、逃げ込んだ先の作り上げた世界に夫はいないんだな、と思った。

 その幻想世界に入り込んだ「男」は、妻である女を取り戻すべく戦っている。
 芝居の始まりは確かに男の意識が場を支配していたのだけれど、いつの間にか場を作った女に支配権が移っている。
 ラストシーン近くで、いったん猿山の「家」に靴を脱いで入った男が、もういっぺん、靴を履いて戻ってくる。それは、男が再度、場の支配権を取り戻し、女を取り戻したことの象徴なんじゃないかという気がした。

 ずっと死んでしまった息子の名前である「トシオ」と呼ばれていた少年が、姉である少女とともに「この街を出て行く」と宣言し、本当に出て行く間際になって「自分はトシオじゃない」と言うのは、女が作り上げた幻想の終わりを宣言していたのじゃないかという風に思う。

 とりあえず、ここまで感想を書いたけれど、我ながら、随分とシアタートークに影響されている感想である。

 作家の前田司郎という人は、淡々としているような飄々としているような、でもその奥にはかなりギリギリでギラギラしたものがありそうな感じの人だった。
 彼の発言で覚えているのは、作品のテーマとして(ではなかったかもしれないけれど)、嘘と本当だったり、生と死だったり、人間とそうでないものだったり、そういった「境界」をなくしたいということを思っていたと。そして、その「境界」のない世界こそが「神話」の世界なんだということだった。
 これも乱暴なまとめ方で、実際はもっと色々な角度から語られていたのだけれど、私が受け取ったことをダイジェストで示すとこうなる。

 お芝居で「わかりやすい」といわれるものは、その「境界」がはっきりしているということであって、それは自分の目指すところと違う。
 芝居というのは、自分にとって「考える手段」であって「道具」である。だから、同じことを考えようとしている人には自分の芝居は「道具」として使いやすくわかりやすいと思うけれど、同じことを考えようとしていない人にとっては「わからない」という感想になるだろうし、「わかろう」とする必要もない。

 普段は「五反田団」という劇団で作・演出・出演をしているわけだけれど、自分がこの芝居を演出しようとしたら、それは違うものになったと思う。それは、同じ出発地から同じセブンイレブン(目的地)に行こうとするときに、どういう道を辿って行くかが違うということである。
 そもそも、この場合の目的地は「セブンイレブン」よりもずっと漠然とした広い場所である。
 そもそも、「同じ目的地を目指そう」とすることが大事であって、その姿勢がなければ問題外だが、逆にいうと「同じ目的地を目指そう」としているのであれば、目的地に到達したかどうかは問題ではない。
 出発地は「台本」であり、そこから目的地まで真っ直ぐに行くのが「わかりやすい」お芝居ということになると思うが、道に迷ったり回り道をしたりする中に「大事なもの」があると思っている。

 一方の演出家である白井晃は、どちらかというと、例えば「音響として使っている水音や雑踏の音はもう少し絞った方がいいと思っている」など、実際的な話をしていることが多かったように思う。
 前田氏は20稿くらい書いたということだったが、自分のところに渡されたのは5本あり、3本目のときに「脱稿した」と言われた。3稿はこの上演台本よりも「わかりにくい」ものであったが、その次に届いた4稿は逆に説明が明確にされた「わかりやすい」ものになっていた。そして、5稿をもらって「これで行こう」と言ったのだけれど、それでよかったのかどうか、実は確信が持てていない。

 キャスティングについては、4〜5人で男と女と少年少女にあと1人加わるかも知れないということは聞いていた。男については、前から國村隼氏とやりたいと思っていたので台本がない段階からオファーをした。台本がある程度できたところで、南果歩氏と橋爪遼氏の持っているものがこのお芝居に合うのではないかと思ってお願いした、少女役の初音映莉子(「初音くん」と呼んでいたのが印象的だった)はオーでションで選んでいる、ということだった。

 白井晃の発言は非常に慎重で、「前田さんの台本をわかった"つもり"なので」といった言い回しをしていることが多かったし、パンフレットには「誤読します」と書いたそうだけれど、それは演出家の特権だし、客の特権なんじゃないかという風に思いながら聞いていた。
 逆にいうと、その慎重な言い回しは、自信の表れなんじゃないかという風にも思った。

 客席からの質問では、「山形から来ました」とおっしゃる方などがいて驚いた。
 その方が「靴は脱いであるのに、靴を履いて再登場したことには何か演出意図があるんですか」という質問をしていた。それに対する白井晃の答えは「もちろんあります。」だった。その「意図」は説明されず、「でも、気がついていただけて嬉しいです」と言っていたのだけれど、その「意図」について、ついつい感想として書いてしまったのは、やはりシアタートークに引きずられているなと自分で感じる。

 多分、前田司朗の「わかる」は「判る」なんだろうけれど、白井晃の「わかる」はひらがなの「わかる」なんじゃないかという気がした。

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