「表と裏と、その向こう」を見る
「表と裏と、その向こう」イキウメ
作・演出 前川知大
出演 浜田信也/盛隆二/岩本幸子/森下創
緒方健児/西牟田恵/内田慈/安井順平
観劇日 2008年7月5日(土曜日)午後6時開演
劇場 紀伊國屋ホール F列19番
料金 3500円
上演時間 2時間20分
パンフレットの販売はなく、かなり詳しい配役紹介が載ったチラシが全員に渡される。
パンフレットを購入しなければ役名も役者名も判らないということの多い昨今、このやり方はかなり好感が持てる。
ロビーでは、過去のDVD作品と戯曲が1つずつ慎ましく販売されていた。
客席は、9割くらい埋まっていたのではないかと思う。
ネタバレありの感想は以下に。
舞台向かって右から左に向けて坂道、そこから折り返して左から右に向けて坂道、この上の坂道は額縁で切り取られているかのように一部しか見えていない。
舞台の前半分これらのセットが置かれている感じで、最初は、舞台が進むとこのセットは取り払われて舞台全体奥まで使うのではないかと思っていたのだけれど、額縁は別にして最後までこのセットのままだった。
最初のシーンは、浜田信也演じる山根と、内田慈(「慈」で「ちか」と読むそうだ)演じる黒沢が、マンションの屋上で何故かストリートファイトを始めるところである。
黒沢はボクサーだし、山根は何故か包丁を持っているし、物騒なことこの上ない。
スプラッタに向かうのかと目を背けてしまったのだけれど、そんなことはなかったのでかなりほっとした。
山根はこの出来事をきっかけにマンションを引き払い、ネットカフェに定住したらしい。
そこに、「遺伝情報を元にしたIDで全てが管理され決済される」この街を取材に来た盛隆二演じる桜井というライターがやってくる。
また、西牟田恵演じる初対面の保住という女性がやってきて、ずっと会っていなかった父親が死んだので、自分と一緒に暮らそうと言う。
彼のIDは何故か無効になっており、IDがなくては実質的に生きていけないこの街では、彼女のいうとおりにするしかない。
黒沢のボクシング仲間である、岩本幸子演じる浅野という看護婦は、保住(彼女は医者である)と同じ病院に勤めており、緒方健児演じる浅野の弟はその病院に意識不明のまま入院している。
その弟が意識不明になったのは、保住の弟である安井順平演じる小松崎がオーナーを務めるコンビニで「自分の時間」を売り、姉の手術代を稼いだためである。
桜井は、たまたま小松崎のコンビニに行き、たまたま「やってしまっ」たため、この「時間を売る」システムに接してしまう。
そこでは、人々の寿命が「予報」され、自分の時間を「売る」ことができる。
売ってしまった時間は、「死んで」過ごすしかない。
山根は「浅野雄大」名義のIDを保住から受け取って「仮の」大学生活を送り始める。
そこで、ストリートファイトを仕掛けられた黒沢と再会し、自分はもうすぐ死ぬのだと言い張る彼女から森下創演じる「モイライの関係者」と出会った経緯を聞く。
この辺りまでで、枠組みの紹介がほぼ済んだといえるだろう。
西牟田恵が出演しているせいか、彼女が「スナフキンの手紙」という舞台で言っていた「ここまでせっかく謎が謎を呼ぶSFミステリ(だったかな?)で来たのに」という台詞がよぎる。「スナフキンの手紙」では、その後、一転してかぶり物ショーに進むのだけれど、もちろんこの舞台ではそんなことはない。
あくまでもシリアスなまま(というよりも、シリアスさを増しつつ)舞台は進む。
浅野(姉)は、黒沢に「もうすぐ死ぬなんて言うものじゃない」と言い、自分が勤める病院に連れて行って「時間を売ってしまった」弟に会わせる。
黒沢は、何とか自分の残り時間を「引き延ばそう」とボクシングに集中する。
桜井は、「売ってしまった時間」に本当に「死んでいる」ことを知る。
山根は、自分が父親と同じ受精卵から生まれていたことを知る。
桜井と小松崎と山根は、自分たちの時間の1/30が何ものかにかすめ取られていることを知る。だから、この街の税金は安く抑えられているのだ。
ある程度以上のカラクリを知っているらしい保住は「自分を守るので精一杯だ」とあくまでも沈黙を守る。
こういう設定、張り巡らした伏線が次第にからまり収斂していく舞台は、カタルシスが味わえて好きである。
しかも、”今回は「時間」を題材に描く「生と死」。”と銘打つように、「時間」について「生」について「死」について、かなりストレートにそれぞれの登場人物達が語ってゆく。いっそ、清々しいくらいに真っ向勝負で「時間」と「生と死」を語ろうとしている。
そして、それ以上に「運命」という言葉をやっきになって否定しようとしているように見える。
ラスト近くになって、上の方の坂道にあった額縁が取り払われる。
黒沢は、必死で「この街を出よう」と説得する山根と本気で殴り合いを始め、時間を延ばそうとし、山根の向こうに何かを見て怯え混乱し何かを納得して自殺してしまう。
山根は街を出ようという決心を実行に移し、「1/30をかすめ取られている」ことに気がついた桜井と小松崎は、そのことによって自分たちの寿命が格段に短くなったことを知りつつ、でも何とか戦おうと決めている。
そこで幕である。
消化不良すぎる。
見ている私の側の理解力の問題なのかも知れないのだけれど、保住はなぜ「時間を売る」などということにコミットしてしまっているのか、黒沢はなぜ自殺を選んだのか、「時間を売る」というカラクリはどうなっているのか、桜井と小松崎はこの後どうするのか、全部放り出されたままである。
これらのことも含めて全部カタをつけてくれると「あー、スッキリ」「そういうことだったのね!」というカタルシスが味わえるのに、と思ってしまう。
タイプは全く違うのだけれど、先週見た「混じりあうこと、消えること」が目指していたことと同じことをしているんじゃないか、出発点は「同じ戯曲」ではないのだけれど、目指そうとしている場所は結構近いのではないかという感じも受けた。
恐らく、そういう意味で、このお芝居も「カタルシスを与える」ことが目的地ではなかったのだろうなという風にも思う。
次回公演も見てみたいと思った。
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