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2008.07.13

「かもめ」を見る

「かもめ」
作 アントン・チェーホフ
演出 栗山民也
出演 藤原竜也/鹿賀丈史/美波/小島聖
    中嶋しゅう/藤木孝/藤田弓子/たかお鷹
    勝部演之/麻実れい
観劇日 2008年7月12日(土曜日)午後6時開演
劇場 赤坂ACTシアター V列13番
料金 10000円
上演時間 2時間40分(20分間の休憩あり)

 ロビーでは、パンフレット等が販売されていたし、カフェでも「ロシア」にちなんだメニューが出ていたようなのだけれど、あまりの混雑にチェックしそびれてしまった。

 赤坂ACTシアターのオープニングシリーズということだったので、この劇場には初めて行ったのだと思う(いや、しかし、別の名前で元々あの場所に劇場があったような気もする)。
 客席数に比べてロビーが狭いように感じた。

 客席は圧倒的に女性が多かった。
 満席ではなく、後方はちらほら空席がありつつも立ち見の方もいたようだった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 随分と奥行きを大胆に使った舞台装置で、舞台を台形のような形に切り取るように額縁が造られている。右奥に伸びる通路があり、その前に大小の衝立が2つ置かれている。
 この大枠は変えないまま、舞台セットを造ることで湖岸の様子にしてみたり、ベンチを置くことで庭にしてみたり、家具を置くことで屋内の様子にしてみたり、変化させている。
 その舞台装置の転換は、音楽の音量を上げ、薄明かりの中で行われる。

 「かもめ」は、やっぱり初めて見たようだ。
 だから、登場人物たちが一体どういう人たちで、このお芝居の最後はどうなるのかといったことは、全く判らないまま見ることになった。
 もの凄く豪華な出演者陣なのだけれど、「かもめ」を知らないこともあって、この豪華な役者さんたちが、それぞれが演じる役に合っているのか、意外性を追求しているのか、その辺りがピンと来ないままになってしまった。

 ポスターなどでは、藤原竜也と鹿賀丈史の2人が並んでいたし、この戯曲の中心は、藤原竜也演じる大女優の息子で戯作家志望であるコンスタンチンと、鹿賀丈史演じる大女優の愛人で流行作家であるトリゴーリンとの2人なのだと思う。
 けれど、印象に残ったのは女優陣の方だった。

 女優陣の中で最初に登場したのは、小島聖演じるマーシャである。
 シルエットで浮かぶその姿はスレンダーで、「常に喪服を着ている」ということもあって、とても美しく見えた。
 「欲望という名の電車」で見せたひたすら「よい子」とは一転して、コンスタンチンへの報われない恋に絶望して喪服しか着ないというひたすら後ろ向きな暗い女を演じている彼女は、また違う魅力があった。

 ニーナを演じた美波は、舞台で拝見するのはこれで3回目だと思う。
 今回は、特に彼女の声というのは独特なんだな、声がいいと美人度が上がるというのは納得できるな、という印象が強かった。
 時に一本調子になってしまうのが勿体ないような気がしたけれど、一幕目の10代の頃はあくまでも澄んだ高音でしゃべり、数年後を描いた二幕では少し低めの声に変えていて、それだけでも時の経過とニーナの変化が伝わってくる。

 大女優アルカジーナを演じた麻実れいは、もう彼女以外の何ものでもなく、アルカジーナ以外の何ものでもない。
 これほどこういった、「大人物」で「独善的」な女を演じさせてはまる女優さんは他にいないのじゃないかと思うくらいだ。

 私の中では、かもめは、「2人の男をめぐる3人の女の物語」である。
 ニーナと恋仲だった(というよりも、どっちかというとコンスタンチンの方が入れあげていたという感じだけれど)コンスタンチンは、彼女に自分の戯曲を演じさせる。
 それを、自分の母親であるアルカジーナや彼女の愛人であるトリゴーリンに見せるのだけれど、観客は勝手におしゃべりを始めてしまって大失敗する。
 その上、ニーナはどんどんトリゴーリンに惹かれて行ってしまう。
 その様子をひっそりとマーシャが暗い目で見守り、時に自分の心を隠せずにさらにドツボにはまる。

 コンスタンチンが撃ち殺したかもめを見て、トリゴーリンは、「短編の構想だ」と言いつつ、湖岸に住む無垢な少女を弄んで捨てる男の話を語る。
 こんなにあからさまにこの話の「その後」を語ってしまっていいのかと思う。
 トリゴーリンに様々な意味で嫉妬するコンスタンチンとトリゴーリンを引き離そうというのは表向きの理由で、トリゴーリンをニーナから引き離したいアルカジーナは、息子を置いてトリゴーリンと街に戻ることにする。
 トリゴーリンが、「街に出て有名な女優になる!」と宣言するニーナにキスして**ホテルに来いと言い、あーあ、短編の構想を現実にしちゃったよ、というところで一幕が終わる。

 二幕は、一体何年後のことなのかはよく判らない。数年後といったところである。
 湖岸に残ったコンスタンチンは戯曲家ではなく小説家になっており、伯父と暮らしている。その伯父が体調を崩し、母とトリゴーリンがやってくる。

 一幕で登場した人物が再び全員登場する。
 伯父は病気である。
 マーシャは彼女に惚れていた教師と結婚して子どももいるようだけれど、全く幸せそうには見えず、喪服も着たままである。
 その彼女の父親で湖岸の家の管理人は相変わらず頑固で物わかりが悪そうである。
 彼女の母親も相変わらず湖岸の家にいるということは、昔の恋人(らしい)医者と新しい人生を送るという選択肢は選ばなかったらしい。
 アルカジーナは相変わらずの「大女優」ぶりである。
 ニーナが自分の子どもを流産するとトリゴーリンは彼女に飽きてまたアルカジーナの元に戻っているらしい。
 この場にいないのは、ニーナだけである。

 コンスタンチン以外の客人が夜食を食べに席を外したところに、ドサ回りの女優になっているニーナがやってくる。
 「自分のところに戻ってきてくれた」と思うコンスタンチンだったけれど、彼女は「どんな扱いを受けてもトリゴーリンを愛している」と言い切って去ってゆく。
 彼女が「わたしはかもめ」を繰り返していたことは、何を表していたのか。彼女の精神状態が普通でないことを表していたのか、そう思っていたコンスタンチンだけれど彼女本人を見て本気で正常にトリゴーリンを愛していることを思い知らされるというギャップを表しているのか。

 コンスタンチンは、「庭でニーナと会ったら母さんは気分を悪くする」とブツブツと呟きながら部屋を出て行く。
 ニーナを殺してしまうのか?
 銃声が響く。
 医者が様子を見に行く。
 アルカジーナには「私の持っている薬品が破裂した音だ」と伝え、トリゴーリンを物陰に引っ張ってきて「アルカジーナをここから引き離せ、コンスタンチンが自殺した」と告げる。
 そこで幕である。

 この本当のラストシーンで、医者がトリゴーリンにコンスタンチンの死を告げるところも、暗転した後に起こる客席からの拍手も、両方とも「最後を急ぎすぎている」と感じた。

 前に、読売新聞(だったと思う)の劇評で「説明しすぎている」という趣旨のことが書かれていたと思う。
 ということは、戯曲や他の上演ではもっと「判りにくい」感じなのだろうか。
 私には今回のお芝居がそれほど「説明している」ようには思えなかった。

 カーテンコールが何度も繰り返され、最後はスタンディング・オーベイションになっていた。
 そういう種類のお芝居ではないし戯曲でもないということかも知れないけれど、私にはそこまでの「熱」は舞台から感じ取ることはできなかった。

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コメント

 ガマ王子さま、コメントありがとうございます。

 「かもめ」は正直に言ってよく判らなかったので、別の演出家、別の役者さんたちで上演される機会があったらそちらも見てみたいと思っています。

 「SISTERS」ご覧になったのですね。私はこれから見る予定です。
 「よかった」とのこと、私も楽しみに行くことにします。

投稿: 姫林檎 | 2008.07.19 23:08

結構バラバラでしたよね
豪華な幕の内弁当たべたけどバランスわるいみたいな^^;
藤原君はよかったです

「sisters」かなりよかったです
笑いはないお芝居だけどね^^

投稿: ガマ王子 | 2008.07.19 21:46

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