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「闇に咲く花」こまつ座
作 井上ひさし
演出 栗山民也
出演 石母田史朗/浅野雅博/辻萬長/小林隆
石田圭祐/北川響/水村直也(g)/増子倭文江
山本道子/藤本喜久子/井上薫/高島玲/眞中幸子
観劇日 2008年8月23日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 6列1番
料金 5250円
上演時間 3時間(15分間の休憩あり)
ロビーでは、パンフレット(800円)や、井上ひさしの著作本、過去の公演のパンフレットなどが売られていた。
ネタバレありの感想は以下に。
チラシなどで第2次世界大戦と野球の話だということだけ頭に入れていたので、最初のうちは戦争中の早慶戦をモチーフとしている映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」とごっちゃになり、神社の神楽殿を舞台に野球をするのかしら、今は戦後のようだけれど回想シーンで時間が戻るのかしらなどと余計なことを考えながら見てしまった。
そういう話ではない。
では、どういう話だったのかといえば、もの凄く理不尽な話だったという印象が強い。
それは、例えば芝居の筋立てがご都合主義だというような意味ではもちろんなくて、このお芝居で描かれている僅か数ヶ月に起きたことがもの凄く理不尽で哀しいのだ。
どうしてこんな理不尽なことが起こるのか、という答えは、多分、それが戦争だからだということになるのだと思う。
こんな理不尽なことを許しちゃいけないし、繰り返しちゃいけない、そのためには忘れちゃいけないし忘れたふりをするのはもっといけない。
そういうメッセージがもの凄く強い。
私は井上ひさしの芝居で、生演奏の音楽がピアノではなくギターだったのは初めてだったような気がする。
これはどうしてなのだろう。
ギターの音は哀愁が漂うときはとことん淋しく怒りを表すときはとことん激しくなる分、ピアノの音が出す楽しさや軽みが少ないような気がした。
辻萬長演じる神主を囲む5人の戦争未亡人という構図は、どことなく「円生と志ん生」を思い出させる。
また、神主が「神社本庁傘下に入った」と平和の太鼓を叩くのだとはしゃいでいるのを見たときには、同じ辻萬長が「人間合格」で演じていた太宰治の生家の番頭を思い出した。
戦争と向き合った人と、戦争をいち早く忘れた人と、双方を彷彿とさせるから困ってしまう。
けれど、多分、元々が人間はそういう存在で、実はなかなか首尾一貫、筋を通し、自分の考えを確固として持ち続けることはとても難しいのだと考えさせられる。
戦死通知が届いていた神社の息子である石母田史朗演じる健太郎が、ある日、ひょっこりと神社に姿を現す。
少し前まで記憶を失い、連絡も帰国もできなかったのだと話す。
それまで神主と5人の女たちが次々とおみくじで大吉を引き当ててはそれが大当たりし、健太郎とバッテリーを組んでいた浅野雅博演じる稲垣は「自分の医学部の卒論のテーマは集団ヒステリーでした」と興奮していた。
神主は「卵100個分の幸せ」を手にするけれど、その戻ってきた健太郎自身は唯一人「凶」を引く。
その「凶」のおみくじを増子倭文江演じるおしげさんが、こっそり素早く自分が引いた大吉のおみくじとすり替えて読み上げたとき、このお芝居の中での健太郎の不幸は決まったような気がする。
元々、出征前もプロ野球選手だった健太郎は、山本道子演じるおふじさんが応援するチームにピッチャーとして入団する。
そこに、GHQの仕事をしているという石田圭祐演じる佐藤という男が現れ、健太郎のグアム時代についてやけに詳しいと思っていたら、健太郎をC級戦犯容疑で拘束すると宣言する。
その容疑が、グアムで健太郎がジャイアンツ打線をイメージしてグアム島民にキャッチャーを頼んでピッチングをしたことが拷問であり、特に最後に受け損なった島民の額に投球が命中し入院してしまったことだという。
佐藤本人だって、「島民は、覚えていることしか語れないし、覚えている名前しか語れない。島民に親しまれていたウィスキー(牛木)さんのことを皆語ったのだ」と呟いている。
自分が理不尽なことを言っているともやっているとも判っていて、それでも「決めるのはマッカーサーだ」の一言で押し通ろうとする。
健太郎は、あまりのことに再び記憶を失ってしまう。
精神科医になっていた稲垣は健太郎の記憶を取り戻させようとする。
健太郎が記憶を取り戻したら、GHQに突き出すのではなく、匿おうと思っている。
健太郎は、自分と同じように境内の杉の木の下に捨てられた泣く男の子を見て、知らなかった筈の「自分が捨て子だった」ことを思い出す。
そして、彼の記憶には、神社の境内で開かれていたお祭と、中学時代の野球の想い出だけが辛うじて見えるところに浮かんでいる。
中学時代のチームメイトが全員すでに戦死か戦死に近い形で亡くなっていることを聞いたとき、健太郎は記憶を取り戻す。
その場にいた小林隆演じる鈴木巡査は、神社とそこに併設されたお面工場で働く女性達と親しみ、健太郎に激しく同情しながらも、佐藤の命により、健太郎が記憶を取り戻した瞬間を録音していた。
健太郎は、父に訴えた「忘れちゃいけない。忘れたふりをするのはもっといけない。」という自分の言葉が録音され、再生されたのを聞いて、「自分は正気です」と自ら告げる。
健太郎の物語と同時に、神主と5人の女達は、闇での食料調達に奔走している。
妊婦のふりをして検問を突破したり、突破できずに取り上げられたり、取り上げられる際には公定価格で買い上げられるのをいいことに無料同然のもう傷んだ野菜を買い上げて貰った成功談を鈴木巡査から聞いたり(こうしたことからも鈴木巡査が神社の人々と親しんでいることが判る)、取り上げられた闇米分を取り返そうと同じことを企んで失敗し、15000円もの罰金を科せられたりする。
この物語が理不尽で暗くてやりきれないのに、でも見ていてどん底まで行かずに済むのは、この女達のたくましさと笑い飛ばす腹の据わり方があるからだと思う。
そしてまた、この舞台で笑いが生まれているのは、この「闇食料」を巡る闘いと、鈴木巡査を演じている小林隆のキャラクターに負うところ大なのだ。
鈴木巡査は、健太郎拘束のきっかけを作った手柄と、闇食料を積んだトラックに乗って「署員の栄養補給のための任務だ」と検問を突っ切った罪とを相殺し、警察を辞めて、神社で働いている。
そこで売りさばいたお金で神主さんの罰金を払い、神社の境内に捨てられていた子供たちのミルク代を捻出しているようである。
健太郎は軍事裁判を受けるためにグアムに送られ、3日間の裁判の後、野球ボールを持ったまま死んだのだそうだ。
それを神社の面々に伝えに来たのは、GHQの仕事を辞めて田舎に帰ろうとしている佐藤である。
実は、私が一番理不尽に感じたのはこの結末だったりしている。
佐藤も鈴木も、そこで辞める勇気があり、野球ボールを私に行く気持ちがあるなら、どうして健太郎を送り出す前にそれを絞り出せなかったのかと思うのだ。
どうして健太郎が死ななくてはならなかったのか。
理不尽すぎると思ってしまう。
淋しそうに、喪失感を漂わせている女たちと神主さんだけれど、でも、どこか「健太郎の選択」だと思い、彼の死を納得してしまっているようにも見えるのが何だかおかしいと思ってしまう。
もう、そういう心は乗り越えているのだということだと思うのだけれど、でも、健太郎の死はおかしい、何も生んでいない、健太郎は生きている筈の人間だったとみんなが思っていて欲しいと思ってしまったのだった。
怒りは何も生まないかも知れないし、出征する兵士を見送り空襲で亡くなった人を焼く場所となってから神様がいなくなってしまった神社に神様が戻ってきて「清く明るい」場所になったことは多分よいことだし、きっと神主さんは神社本庁傘下に入ることを止めたのじゃないかと思うのだけれど、でも、やっぱり怒るべきことに対しては怒らなくてはならないと思うのだ。
何だか「闇に咲く花」というこのお芝居に相応しからぬ、そして理解できていない感想なのかも知れないのだけれど、それが一番強く思ったことだった。
理不尽なことには怒らなくてはいけない。
それが「忘れない」ということだし、「忘れたふりをする」自分を引き戻す方法だと思う。
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