昨日(2008年9月13日)、2008年7月19日から9月23日まで、東京都庭園美術館で開催されている「舟越桂 夏の邸宅」展に行って来た。
サブタイトルとして「アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」と付けられている。
会期もあと残すところ10日という日だったせいか、3連休の初日でお出かけ日和のお天気だったためか、珍しくチケット売場で行列(といっても数人)を見たけれど、逆にぽかっと部屋に1人だけという時間もあったりして、ちょうど良い混み具合だった。
舟越桂といえば、私は真っ先に「永遠の仔」の表紙を思い浮かべるのだけれど、この展覧会ではそういう言及が全くなかった。
そんなことは言うまでもなく、舟越桂といえば、木彫彩色の分野では押しも押されもせぬ第一人者ということなのだろう。
舟越桂の木彫は基本的におへその下辺りから上の上半身のみの人物像である。
タイトルのとおり、デッサンというのか平面の作品も多く展示されているのだけれど、やっぱり中心は木彫作品で、そうなると壁が必要ない。
いつもは絵画を展示するために覆われてしまっている壁面が「邸宅」の元々の姿のままになっていて、暮らしている家に普通に飾られている感じである。もちろん、朝香宮邸が「普通に人が暮らしていた家」とは言えないのだろうけれど、だからこそしっくりと等身大の大きな作品が映えて、その浮遊感のようなものが楽しかった。
それから、この朝香宮邸は意外なくらい鏡が多く、その鏡に後ろ姿が写るように置かれた木彫は、角度によっては正面からも後ろからも同時に見ることができて、これまた楽しい。
この鏡が、木彫の背面を映すためにわざわざ置かれたものではないところがいい。
欠点は、角度を工夫しないと「木彫を見る自分」も鏡に映ってしまい、気恥ずかしくなるところである。
この「上半身のみ」という形は、全身像だと「人間というもの」を表し普遍的にすぎるような気がするし、胸像(頭部のみ)だと逆にその人の性格や個性が全面に出される気がする。だから、上半身という姿は「**さん」というちょうどいい距離感を生むように思う、という趣旨のことを舟越桂は図説にも書いていたし、別館で上映されていたテレビ番組の中でも語っていた。
大抵は、1本足の黒いシンプルな台の上に置かれていたのだけれど、「森に浮くスフィンクス」という作品だけは、その辺の木のような4本の木で支えられていた。確かに「森に浮」いている。
そしてこの「森に浮くスフィンクス」だけだったと思うのだけれど、スフィンクスは両性具有だという設定のようで、そのことが明瞭に示されていた。そのことと、足も含めて作品であるという成り立ちとは関係があるのだろうか。
今回、しばらく公開されていた3階のウィンターガーデンには入れなかったけれど、いつもは入れない、入ってすぐの白い大きな花瓶のようなもの(実際のところは花瓶ではないと思うのだけれど)の左奥の部屋に入ることができた。
そのお部屋は空調が効かないらしく、レトロで小さな扇風機が回されていた。
木彫作品を作る前にデッサンを必ず行っているようで、何点かは木彫作品とその元となったデッサンとを同じ空間で展示していた。
当たり前だけれど、顔が違う。
雰囲気は似せていると思うのだけれど、デッサンの顔をそのまま写し取ろうとはしていないように思う。そして、気のせいか、必ずデッサンよりも木彫作品の方が首が長く造られているように感じられた。
当初は「その変に普通にいる人は服を着ている」ということで、「夏のシャワー」という作品など、ちょっと福田総理風のおじさんで眼鏡まで掛けている。
最後に別館で見たビデオの中で、舟越桂が(概ね)そういった現実にいるような(あるいはモデルのいるような)姿をずっと製作してきて、「夜は夜に」や「水にうつる月蝕」といった、何かを象徴するような作品を作れるようになった。この「水にうつる月蝕」という作品はひとつの到達点だ、という風に語っていた。
この「水にうつる月蝕」という作品は印象的である。
妊婦さんかな、という感じで下腹にかけてゆったりとその身体は膨らんでいる。その丸みのせいでか、他の作品よりも縦に短いように感じられる。
背中から腕が2本交差するように出ていて、パッと見は天使のようだと私は思った。
一方で、「夜は夜に」という作品は、今回は全く離れた場所で展示されていたけれど、「水にうつる月蝕」と対になっているように感じられる。
というよりも、「水にうつる月蝕」と対になることで、「夜は夜に」という作品は悪魔的な印象を持ち始める。単体で、しかも「水にうつる月蝕」を見る前に見たときには、表情が静かであることもあって、「悪魔」という印象はない。
同じように、「戦争をみるスフィンクス」は1階の最初に見られる場所に、「戦争をみるスフィンクスⅡ」は2階展示室にそれぞれ置かれていたのだけれど、この2つも対で展示されていればよかったのになという風にも思う。
「戦争をみるスフィンクス」が穏やかな、「タイトルを聞くと哀しそうな表情に見えてくる」という表情をしているのに対して、「戦争をみるスフィンクスⅡ」は明らかに顔を歪め、怒っているようにも慟哭しているようにも見える表情になっている。
この表情の変わり方を見たときに、何か浮かんでくるものがあったのじゃないかという気もするし、私はたまたま入場したときに混雑していて「戦争をみるスフィンクス」を帰るときに見たこともあって、より印象が強まっているようにも思う。
展示の仕方でいえば、2階に上がったところのソファに座って図説を眺め、ふと顔を上げたら、正面のドアが開いていて、その奥に白い光を浴びた「山と水の間に」という作品が目に飛び込んできて、これはかなりドキっとした。
近づいてみると、穏やかな表情の白い服を着て肩に山を置いた作品なのだけれど、「目が合った」と思ったときは衝撃だった。
あと、私が好きだったのはピノキオのシリーズである。
これは、可愛いし、おどろおどろしいし、哀しい。
木彫の木は楠を使っているのだそうだ。
匂いがするかと思ってかなり近づいてみたのだけれど、しっかりと彩色がされているためか、特に匂いは感じられなかった。ちょっと残念である。
ひと通り見るのに1時間くらいかかった。
そして、別館に行って舟越桂の製作風景を追ったドキュメント番組が流されていたので、それをつい見てしまった。
例えば、頭の後ろが切られていて気になっていたのだけれど、それは、大理石の目を嵌めるためだということがこのビデオで判った。
考えてみれば当たり前である。
その大理石の目を嵌める過程や、目の縁に水色を置くと清々しい印象になることや、逆に赤を置くと怒った印象になること、こうしが技法は鎌倉時代などなどの仏像製作の際にも使われていることなどが語られる。
かなり長い番組で1時間強では終わらず、次の予定があったので全部は見ずに帰ってきてしまったのだけれど、これが長いだけでなく面白かった。
このドキュメント番組を見てから展覧会をもう一度最初から全部見たかったなと思ったくらいである。
ところで、このビデオを見ている間、Gパンに水色のシャツを着て黒い縁の太い眼鏡をかけた男性が出入りしていたのだけれど、あの人は舟越桂氏ご本人だったのじゃないかと気になっている。
東京都庭園美術館の公式Webサイト内、「舟越桂 夏の邸宅 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」のページはこちら。
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