「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」を見る
「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」平成中村座 十月大歌舞伎
Aプログラム
<大序>鶴ヶ岡社頭兜改めの場
<三段目>足利館表門進物の場、松の間刃傷の場、裏門の場
<四段目>扇ヶ谷塩冶判官切腹の場、表門城明渡しの場
出演 中村勘三郎/坂東彌十郎/片岡亀蔵/坂東新悟
中村七之助/中村勘太郎/片岡孝太郎/中村橋之助/片岡仁左衛門
観劇日 2008年10月9日(木曜日)午前11時開演
劇場 平成中村座 22列8番
料金 14700円
上演時間 4時間(20分間・25分間の休憩あり)
Bプログラム
<五段目>山崎街道鉄砲渡しの場、二つ玉の場
<六段目>与市兵衛内勘平腹切の場
<七段目>祗園一力茶屋の場
<十一段目>高家表門討入りの場、奥庭泉水の場、炭部屋本懐の場、引揚げの場
出演 中村勘三郎/坂東彌十郎/片岡亀蔵/坂東新悟
中村七之助/中村勘太郎/片岡孝太郎/中村橋之助/片岡仁左衛門
観劇日 2008年10月9日(木曜日)午後4時45分開演
劇場 平成中村座 25列5番
料金 14700円
上演時間 4時間15分(20分間・15分間の休憩あり)
判っていて申込み、判っていて出かけていったのだけれど、休憩がかなりゆったりめに入るとはいえ、8時間を超える観劇は腰とお尻が痛かった。
お弁当や飲み物、中村座謹製の手ぬぐいなどのお土産も販売されていた。
イヤホンガイドは650円で1000円の保証金が必要である。
筋書きは1800円で売られていて、かなり迷ったけれど購入しなかった。
御手洗いは流石にもの凄く混雑していたけれど、係の方々が「ここから5分以内で回します」「御手洗いが早く回転するのが平成中村座の名物です」と声を枯らし、それは事実だった。
見事だ。
ネタバレありの感想は以下に。
平成中村座という劇場(というよりも、「芝居小屋」と呼びたい)は、仮設だから微妙に安っぽいところもあるのだけれど、それにしてもなかなかよい空間だと思う。
歌舞伎座や新橋演舞場とは違って、幕が「柿、よもぎ、黒」の3色ではなく、「白、海老茶、黒」の3色なのも、「ちょっと違う」雰囲気を醸し出している。これは、江戸時代から他の2座と異なる中村座の伝統なのだそうだ。
また、イヤホンガイドによると平成中村座では舞台の横幅に比べて花道が長いのだそうで、確かに後方の席でもあるいは端の方の席でも、役者さんを近く感じられるというメリットがあるかもしれない。
席といえば、平成中村座には「桜席」と「お大尽席」が設けられていた。
「桜席」というのは、幕の向こう側(つまり舞台の真横の上)に作られていて、幕が閉められた後の舞台上の転換などなども見られる席のことである。「桜を仕込む」といった場合の「桜」はこの「桜席」から来ているのだそうだ。
「お大尽席」は半分洒落なのだろうけれど、2階正面に座椅子にほとんど寝転がって見られるような席が2席(だったと思う。3席だったかも)が用意されていたのだ。その席のお客が来ると、スタッフの方は「お帰りなさい」と挨拶し、「お大尽様のご来場〜」と大きな声で言っていたから、やっぱり洒落なんだろう。
「仮名手本忠臣蔵」は、元々、人形浄瑠璃から始まったのだそうだ。
そのため、他の歌舞伎と比べて(って、他の歌舞伎を私が知っているということではないのだけれど)、義太夫の語りが多くなっているのが特徴だという。
また、元々が人形浄瑠璃の作品だからなのか、幕が開く前、人形だけが幕の前に現れ、ひとしきり口上を述べていたのが何ともおかしみがあって良かった。
「大序」の冒頭シーンも、ぴたっと全員が動かずに始まるなと思ったらそれは「人形振り」で、一体ずつ人形に命が吹き込まれて動き出すという演出になっている。これが平成中村座固有の演出なのか、あるいは昔から伝わっている「型」なのかはよく判らなかったけれど、雛人形を見ているような感じで面白かった。
このとき最初に動くのが「将軍」役の役者さんで、幕府に睨まれがちな芝居小屋としては、そういうところでちょっと「お上」に阿ってみたというところらしい。
しかし、ここで阿ったら、せっかく「仮名手本忠臣蔵」の時代を鎌倉時代に飛ばし、場所を鎌倉に飛ばした意味がないんじゃないかという気もする。
「仮名手本忠臣蔵」というこのお芝居では、吉良上野介が浅野内匠頭に意地悪をしたのは、彼の妻に横恋慕していたことが彼にバレたと思い込んだことと、もう一人の供応役桃井若狭之助安近の家老から賄賂をもらい、従ってあまり好きではない若狭之助に平身低頭してみせたその鬱憤が溜まったからだ、ということになっているようだった。
この辺り、彼らのしゃべっている言葉が半分も判っていない私には、吉良上野介がどれほど酷い悪口雑言を内匠頭に浴びせたのかが今ひとつ判らず、何だか内匠頭がそれほどの辛抱もなく激発したように見えるところが困りものである。
だけど、松の廊下で斬りつけたその日その時の前数十分の出来事が原因で斬りつけたような見せ方になっていると思う。
狙ったのか、二段目が上演されなかったからそう見えるのかはよく判らない。
しかし、このシーンを見たとき(プラスして、イヤホンガイドを聞いたとき)の私の感想としては、内匠頭の妻が「大序」で上野介に口説かれて危うくなびきかけたり、そこで歌の添削を一度は断って彼の歌も受け取らなかったくせに自分の夫と同じ職場にいる上野介に文を送ったりしたのが諸悪の根源じゃないの! と思ったことだった。
赤穂藩の江戸家老の気が利かず、主君の代わりに賄賂を贈っていればこんなことにはならなかったのに、とイヤホンガイドで言っていたけれど、少なくともこの日見た限りでは、上野介は松の廊下事件が起こるその日までは内匠頭に特に辛く当たったり賄賂を求めたりしていなかったんだから、それは違うんじゃないのという感じがした。
それはそれとして、この江戸家老はとんでもない奴で、それはBプログラムで明らかになる。
そういえば、松の廊下の刃傷沙汰のシーンの後で「裏門の場」に入る前、転換のためにいったん幕が下ろされる。
そのとき、少し客席の照明が明るくなった(ような気がした)からか、刃傷沙汰でいかにも一区切りという感じがあったせいか、バラバラと席を立つ人がいて驚いた。ついでに、そういう日頃、歌舞伎に縁のない私みたいな人がたくさん見に来ているんだなと嬉しかったりした。
このときは、客席から大きな声で「まだ続きがあるから席を立たない方がよい」とおっしゃった方がいたのと、客席の外でスタッフが「お席にお戻りください」という話をしたようで、ほとんどの方が「裏門の場」の幕開きに間に合ったようだった。
勘三郎の浅野内匠頭はウソのように若々しい。片岡孝太郎の阿久里が姉さん女房に見えたくらいである。
仁左衛門の大石内蔵助は堂々と恰幅の良い重鎮という雰囲気が漂い、この2人がこの2役で出会うのは、内匠頭が切腹すべく刀を自らの腹につき立ててから絶命するまでの本当にわずかな間だというのが、本当に何とも勿体ない。
でも、そういえば、「内蔵助が江戸家老だったらこんなことには」とは思わず、「内匠頭がただ、無念だ、とその意図するところを説明することもせずできずに絶命したことが、内蔵助をあだ討ちに追い込んでしまったのだな」という風に感じた。
そして、この内匠頭切腹のシーンがあるので、この四段目は1時間くらい客席への出入りが禁じられ(だから四段目の前の休憩時間の御手洗いは大騒ぎになったのだけれど)、花道に出入りする度に「シャリン」と鳴るのれんではなく、このときだけは引き戸に付け替えられて、こしらえからして厳粛になったのだった。
でも、筋書きを買わなかったので役者さんのお名前が判らないのだけれど、道化でもある吉良の家老を演じた役者さんが楽しくて一番大好きだった。
笑いを取るシーンはほとんどこの役が絡んでいるんじゃないかと思うくらい一身に「笑い」を背負っていて、舞台に登場する度についつい「次は何をやらかすんだ?」と期待してしまった。
きっと、相当の反射神経とお稽古が必要なんだろうと感じた。
ここまでがAプログラムである。
Bプログラムは、早野勘平とおかるの場面から始まる。
しかし、忠臣蔵は女性の登場人物が少ないせいなのか、このおかるが大活躍である。
大河ドラマのイメージだと、「内蔵助が山科にいる間に身辺の世話をしていた若い女」だった。
でも、今回見ただけで、内匠頭が刃傷沙汰を起こした頃には内匠頭の家で腰元をしていて、内匠頭のお供をしていた早野勘平と逢引をしていたり、そのことを悔いる早野勘平と実家に戻って彼を武士に戻すために身売りしたり、身売りした先で内匠頭の未亡人から内蔵助に届いた手紙を盗み読んで危うく内蔵助に殺されかけたり、しかも四十七士の最後の一人である足軽の寺坂何某の妹ということになっていたり、大活躍である。
別に同一人物であるという設定にする必要はなかったんじゃないのと思ったりした。
この辺りの早野勘平の物語は、私にとっては、「仏果を得ず(三浦しをん著)」で読んだ世界が定本である。
だから、早野勘平は「けっこう、いい加減な男」というイメージである。勘三郎の早野勘平も実は「いい加減な男」というのがコンセプトなのじゃないかと思う。
雨なのに簡単に火口を濡らしてしまったり、イノシシを撃ったつもりが人を撃ち、しかもそれが誰だったのか確認をしなかったばっかりに、後で義父を殺した犯人をやっつけたのに、義父を殺してしまったのだと思い込む羽目になる。
死んだ男の懐から50両を奪うのだって「仇討ちに加わりたい」という一心からだとはいえ、つまるところ猟師から追いはぎに早変わりである。
しかも、駆け落ちまでした女房のおかるが、自分が武士に戻って仇討ちに加わるための金を作ろうと身売りしたのを、何だかんだ言いつつもあっさりと認めている。
その早野勘平のいい加減さをできるだけ見せないようにして、実は義父の仇を討っていたのに義父を殺してしまったのだと思い込み、「腹切り」した後で早野勘平は義父を殺していなかったということが判明する。
悲劇だし、実際にそう演じられていると思うのだけれど、よくよく考えると何重にもおっちょこちょいだし、冷静さに欠けているし、早合点である。
そして、いまわの際に「そういうことなら」と討ち入る四十七士(この時点では早野勘平が46人目だけれど)に加えてもらい、血判状に記される。
この、「仇討ちに参加しなくては死んでも死にきれない」という気持ちが、「仏果を得よ」という同輩の言葉に首を振らせたのだな、「仏果を得ず」というタイトルはここから取ったのだなと、今頃になって気がついたのだった。
ある意味、暗い貧しい暮らしの場面から一転して、七段目では内蔵助が京都の祇園で遊んでいる。
ふと気がつくと、勘三郎も三役やっていたし、橋之助も三役やっていて概ね満遍なく出番があるのに、内蔵助を演じる仁左衛門は(多分)内蔵助しか演じていないので、出番が少ない。ちょっと寂しい気もする。
七段目に至って、やっと内蔵助の見せ場である。
遊興にふける様子も、用心に用心を重ねていたのに少しの油断で討ち入りの計画を台無しにしそうになったりすることも、おかるの兄に「吉良家と通じている裏切り者の元江戸家老を鴨川に投げてしまえ(実際は、水がゆを食べさせろという、婉曲なのかそうでないのか判らないことを言うのだけれど)と命じる威厳といい、とにかく格好良い。
ところで、この七段目に至って突然におかるの兄が登場するのにも驚かされる。
色々あって(というのも安易なごまかし方だけれども)、おかるの兄は足軽の身でありながら四十七士の一員として吉良邸に討ち入ることが許される。
しかし、この人間関係を狭く狭く偶然に作るというのもどうなんだろう。
それとも、江戸時代の役者さん達に等分(応分、かも知れない)に出番を作るための工夫なんだろうか。
そして、十一段目に入り、討ち入りの場面となる。
勘太郎と七之助の兄弟の立ち回りシーンがやはり軽快で見応えがある。コサックダンスのような動きをするのも何だか楽しい。
吉良上野介を討つシーンもそうなのだけれど、舞台上で何か細工をするときに、舞台上の役者さんが集まってその姿を隠すのが不思議な感じである。今だけ桜席に行きたいと思ったことだった。
もちろん、討ち入りは成功し、吉良上野介を討ち果たし、一行は主君の菩提寺に向かう。
川を渡ろうとしたところで、その橋は渡るなと幕府側の武士が馬に乗って現れ、別の道筋を示す。吉良上野介を討ったことを称える。
この辺りまで来ると、イヤホンガイドによれば、江戸時代の観客もすでに太平記の世界だとは誰も思っていないし、完全に赤穂浪士の世界に浸っているのだそうだ。
だったら、せっかく冒頭シーンでお上に媚びを売り、内蔵助にも何度も「狙うべきは一人だ(吉良上野介だけでありお上ではない)」と台詞を言わせたのも台無しである。
見事に幕府批判ではないか。
でも、Aプログラムの最後に舞台上で一度会ったきりで、Bプログラムでは同時に板の上に立つことのなかった勘三郎と仁左衛門が最後に内蔵助とこの武士という役で相まみえるのは嬉しい。
いささか無理があるようにも感じられるけれど(例えば、赤穂浪士は別の道筋をたどるために次々と花道から去って行き、最後に舞台上に残るのはこの赤穂浪士とはほとんど何の関係もない武士であり、勘三郎なのである)、「平成中村座では初共演」というからには、こういうシーンも欲しいのである。
見ていたときはもっと色々なことを考えたり思い浮かべたりしていたのだけれど、なかなか思い出せない。
8時間を超える長丁場はキツかったのだけれど、でも楽しめたし、続けて見て良かったと思ったのだった。
イヤホンガイドのお世話にならなければ何にも判らないのだけれど、それでも、とても楽しく歌舞伎見物ができたのだった。
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