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2008.11.29

「表裏源内蛙合戦」を見る

「表裏源内蛙合戦」
作 井上ひさし
演出 蜷川幸雄
音楽 朝比奈尚行
出演 上川隆也/勝村政信/高岡早紀/豊原功補
    篠原ともえ/高橋努/大石継太/立石凉子
    六平直政/他
観劇日 2008年11月22日(土曜日)午後0時30分開演
劇場 シアターコクーン 1階RB列16番
料金 9500円
上演時間 4時間5分(20分の休憩あり)

 この芝居を見て帰宅したらネットワークにつなげなくなっていたので、1週間振りに感想を書くことになった。
 こういうときに限って色々と見ているので、何とか早めに感想を書く予定である。

 パンフレットや平賀源内に関する書籍、出演者の過去の出演作品のDVDなどが販売されていたのだけれど、詳細は忘れてしまった。

 ネタバレありの感想は(簡単に)以下に。

 開演前には、舞台奥のたくさんの衣装が吊された、いわゆる「楽屋裏」を見せていた。
 広い舞台だ。
 そこから暗転し、明かりが入ると、いきなり出演者全員が役の扮装をし、正座して横2列に並んでいる。そして、前口上から始まるところがいかにも「蜷川マジック」である。
 口上の中心で主役を務めるのはもちろん、表の源内を演じる上川隆也、裏の源内を演じる勝村政信はここからすでに黒衣姿で幕の開け閉めなど甲斐甲斐しく働いているところも「仕掛け」だろう。

 でも、この「前口上」の何よりの仕掛けは、開演前までは舞台奥の楽屋裏まで見通せていた舞台の後方に、暗転を利用して鏡(に近いけれどもそこまで映りはよくない)の壁が築かれたことだろう。
 実際「おぉ!」という声が上がったのは、この「自分(客席)が映っている」ことに対してだったのではあるまいか。
 ただ、どうしても「どこかで見た感」がつきまとうのが惜しい。

 確か、最初にこの舞台の仕掛けを見たのは、大竹しのぶが出演していたギリシャ悲劇の舞台だったと思うのだけれど、タイトルが思い出せない。
 そのときは、ギリシャ時代は全て劇場は円形劇場だったので、観客は真っ正面を見ると他の観客の姿が見えていた筈だし、演じている役者の後ろにも反対側に座っている観客の姿が見えていた筈である。それを再現したかったのだ、ということだったと思う。
 今回のこの趣向の意図は何なんだろうと余計なことを考えてしまう。

 このお芝居は、平賀源内の一代記、その嘘も誠も含みますバージョンというところらしい。
 平賀源内が高松藩の足軽の息子だなんて知らなかったなとか、子どもの頃から神童と呼ばれていたのだなとか、しかしこのお芝居は微妙に下ネタが多いよなとか、結構難しい節回しの曲が多いらしく聴いていると何だか座りが悪いなとか、そういうことをぐるぐると頭のどこかで思っていると、あっという間に物語が進んでしまう。

 表の源内は、生まれた瞬間から始まって、少しずつ育ってゆくのだけれど、裏の源内はどうも最初から最後まで同じ姿のようだ。
 表の源内が長崎に留学する辺りから2人の関係は対等になり、話をするようになってくる。
 で、この頃から思っていたのだけれど、裏の源内の方が格好良いような気がする。

 決して、裏の源内が「悪の源内」というわけではない。
 それが証拠に、長崎に入るときに踏み絵が行われているのだけれど、聖母マリアとその子イエスの絵を何度も何度もときにはジャンプしてまで踏みまくり、断腸の思いで踏んで何とか関所を通った信者の男に、「自分は隠れキリシタンだ」と言わせてしまうのは表の源内なのである。

 表の源内は常に動いていなければならず、常に表に立ち、外の世界と向き合っていなければならない。
 裏の源内は、時折現れては何やら忠告したり相談に乗ったり斜に構えた感じで表の源内のやっていることを眺めていたりする「だけ」だ。
 失敗のない分、斜に構えちゃったりできる分、裏の源内の方がずるい立ち位置にいるのだけれど、それにしても格好いい。
 私が役者だったら、表の源内よりも裏の源内を演じてみたいと思ってしまった。やっぱり、「主役」の表看板を背負うのは辛いのである。

 井上ひさしの戯曲に蜷川幸雄の演出というと、「天保十二年のシェイクスピア」を思い出す。あのときも思ったけれど、この猥雑な感じはどちらの持ち味なのだろう。

 休憩まで2時間を超える一幕なのだけれど、歌も多いし、歌詞は舞台両脇に設置された電光掲示板で見せてくれ、全く退屈しない。
 何より、表裏の源内の競演が素晴らしい。「拮抗している」というのは何て凄いことなんだろうと思う。
 この舞台で最初から最後まで同じ役を演じているのは、表と裏の源内を演じる上川隆也、勝村政信、そして青茶婆を演じていた高岡早紀の3人だけだった、と思う。
 これが巴のように三すくみのようになるとまた別の面白さが出たんじゃないかと贅沢なことを考えてしまう。

 後半の源内は何というかどんどん見ていて辛い感じになっていく。
 どこまでも仕官だ出世だと現世的な権勢を夢見ている割りに、やることなすこと上手く行かない。
 しかも、本当にこんなに女癖の悪い人物だったのか?
 将軍のおねしょを治す薬を調合して満足だったのか?
 ターヘル・アナトミアを訳したのは本当は平賀源内だったのか?
 エレキテルの実験って「マンガ日本の歴史」で読んだような気がするけど、それが失敗して江戸幕府に出仕することができなくなったのか?
 平賀源内は最後には牢死したのか?

 どこからどこまでが「嘘」でどのへんが「誠」なのかさっぱり判らない。
 さっぱり判らないなりに、このお芝居の中の源内は、決して発明を楽しんではおらず、街場の暮らしに馴染んでもおらず、常に鬱憤を抱え、上へ上へと目指しながら最後の一歩で常に失敗し、もしかすると心のどこかで自分の立身出世を拒んでいるのではないかとすら思わせる。
 表を演じている上川隆也も裏を演じている勝村政信もどこまでも軽やかで楽しそうなのだけれど、2人の役者が軽やかであればあるほど、平賀源内という人の鬱屈と闇は深いのだと思い知らされる。

 意外なことに、高岡早紀や篠原ともえといった華やかさを担うに違いない筈の女優陣が地味に見える。歌うことが少ないからか、声を張ることが少ないからか。
 六平直政の八面六臂の活躍が目につく。悪人から悪人に苦しめられる農民まで、どんな役でもはまって、その場を引き締める。

 休憩20分を含めて4時間5分の長丁場を全く飽きずに見られたのは、本の力であり(場の名前も電光掲示板に出ていたのだけれど、それを見ると少なくとも端折った部分があるのは確かなようだ。全てを演じたら何時間かかるのだろう。)、演出の力であり、音楽の力であり、役者さんの力であるのだろう。
 どんな結末になるのだろうと気になって、最後まで集中して見てしまった。
 さて、その平賀源内が戯作者でもあったというのは、本当なんだろうか。

 ところで、この戯曲のタイトルはどうして「表裏源内」まではいいとして「蛙合戦」なのだろう。「合戦」も、表の源内と裏の源内との葛藤をそう表しているのだと考えればまだ判るのだけれど、どうして「蛙」合戦になるのか。
 そういえば、最後までよく判らなかった。

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