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2009.01.24

「冬の絵空」を見る

「冬の絵空」
作 小松純也
演出・上演台本 鈴木勝秀
出演 藤木直人/橋本じゅん/中越典子/中村まこと
    片桐仁/伊達暁/新谷真弓/六角慎司
    内田滋/小松利昌/前田悟/武田浩二
    八十田勇一/加藤貴子 /粟根まこと
観劇日 2009年1月24日(土曜日)午後6時開演
劇場 世田谷パブリックシアター 2階A列8番
料金 9000円
上演時間 2時間55分(15分の休憩あり)

 ロビーではパンフレット(2000円)や、ポスター(1000円)、パーカー(だったと思う、Tシャツではなく羽織る感じの薄手のもので、値段は忘れた)、出演者の過去のDVDなどが販売されていた。

 思っていたよりも空席がちらほらあって意外だった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 2階席だったのでオペラグラスを持って行ったら、それが正解だった。かなり斜めから見ることになったせいもあり、流石の私の視力でも細かい表情までは見て取れない。
 マイクを使っているせいもあって、最初のシーンで出てきた尼僧が中越典子だとは気がつかなかった。
 それに、失礼ながら、イメージよりもだいぶふっくらしていたと思う。

 言ってみれば「忠臣蔵の真実」みたいな物語である。
 中村まこと演じる浅野内匠頭は実は生きていて、江戸城内で刃傷沙汰に及び切腹したのは彼の影武者だったのだという。影武者はもちろん己の意思で刃傷沙汰に及んだわけではなく、内匠頭の「吉良上野介は嫌いなんだもん」というどーしよーもない理由による命令に従っただけだという。
 のっけから、随分と「忠臣蔵」をおちょくったものである。(褒めてます、念のため。)
 それにしても「嫌な奴」を演じさせて中村まことの右に出る役者さんはちょっといないのではなかろうか。

 元赤穂藩士は次々と仕官の先を決め、商人となり、橋本じゅん演じる大石内蔵助の元に残ったのは「だめな奴」ばかりである。
 その大石内蔵助は、赤穂藩の塩を扱うことで大商人となった生瀬勝久演じる天野屋利兵衛に金銭面で頼っている模様。実は生きている浅野内匠頭も天野屋利兵衛に匿われている。

 大石内蔵助はどうも主君の仇を討とうという感じには見えない。
 正確にいうと、世間からは主君の仇を討とうとはとても思えないと言われている、という風情である。この辺が、このお芝居の中の大石内蔵助の立ち位置が今ひとつはっきりしない理由のような気がする。
 橋本じゅんが演じているのだから、善人にしても悪人にしても真っ直ぐな筈だという私の思い込みがいけないのかも知れない。

 ともかく、実は生きていた主君に「自分の仇を討て」と言われて苦悩する大石を見て、「この大石内蔵助はダメだ」と思ったらしい天野屋利兵衛が、中越典子演じる娘のおかるに惚れている、藤木直人演じる歌舞伎役者の沢村宗十郎を利用することを思いつく。
 今書いていて思ったのだけれど、大石内蔵助が腰砕けになるのは、やはり「主君が実は生きていた」「はらすべき主君の遺恨はない」と知ってからという設定だったんだろうか。

 天野屋利兵衛は、内蔵助を討ち入りに追い詰めるべく、外堀を埋め始める。娘もおかるを結婚させてやると言いつつ宗十郎に内蔵助の振りをさせ、江戸市中で義賊のまねごとをさせるのだ。
 天野屋利兵衛が宗十郎のパトロンらしい様子から、私はこの段階では、てっきり「忠臣蔵」をお芝居にすることを思いついた天野屋利兵衛が、その人気を煽るために真実「忠臣蔵」が行われるよう仕組んだのじゃないかと思っていた。

 その偽内蔵助の義賊ぶりを見たおかるが、内蔵助に惚れてしまうというのが悲劇の始まりである、ような気がする。
 ちょうどその場に居合わせた加藤貴子演じる堀部安兵衛の妻の順がまた賢そうで、偽内蔵助の活躍を胡散臭そうに見ているところも、このとき隠すように持っていた風呂敷包みがあとで討ち入りの際の火事装束だと判るところも、「もう一つの悲劇」を予感させる。

 おかるに「内蔵助が好きだ、あなたに内蔵助は殺せない」と言われた宗十郎が、「確かに俺には殺せない」と呟いたところで、休憩である。
 ここで間髪入れずに拍手をした人は、絶対にリピーターに違いないと思ったことだった。
 宗十郎は歌舞伎役者という設定のせいか、一々見得を切るわけだけれど、この見得の切り方がどうも颯爽としていないような気がする。藤木直人が演じるのだったら、色気をとことん追及した方がよかったんじゃないかという風にも思う。

 それにしても、粟根まこと演じる吉良上野介と交渉(脅迫?)し、討ち入りしない代わりに赤穂藩再興のために口添えしてくれと頼み、それを実現させる内蔵助はそんなに悪者なんだろうか?
 私には至極まっとうに見える。
 死にたくないのは判るし、ましてや実は生きている主君のためにただ主君が「嫌いだった」だけの相手を殺して自分も切腹なんてしたくないというのは当然ではないかと思ってしまうのだ。

 この場合、内蔵助が最終的に「犬でもない、人間でもない」存在になってしまうのは何故なんだろう。
 おかるの嘘に付き合って、おかるの勘違いと妄想をいいことに嫁にもらおうとすることくらいしか思いつかないのが困る。
 あるいは、最初から「赤穂藩再興を目指している」と部下たちに言わずに討ち入りをするかのように思い込ませていたことが悪かったんだろうか。

 この辺りから、片桐仁演じる天草の乱の生き残りで犬の振りをすることで生類哀れみの令を逆用して生きながらえているというシロの存在が効き始める。

 内蔵助は「明日には赤穂藩再興がなる」と天野屋利兵衛に言いに来るのだけれど、作戦的にはこれが大失敗だった。
 内蔵助とおかるの結婚話がまとまったことまで聞いてしまった宗十郎が「まだ今夜がある」と叫んだこの日が12月14日である。

 天野屋利兵衛は内蔵助とおかるの祝言を隠れ蓑にして内蔵助を騙し、偽内蔵助とともに赤穂浪士の元へ行く。
 だめだ、だめだと言われ続けた浪士達は「死んでもののふになる」と思い詰めてしまっている。
 偽内蔵助を放置して、浪士達と正面から向き合ってこなかった内蔵助はすっかり彼らの信用を失っている。というよりも「武士になる」という思い込みの前には何ものも勝てないのだ。
 顔を見ても彼らは内蔵助を「ニセモノ」と断じ、偽内蔵助を本物と頭にいただく。
 生きていた主君を見ても「こいつは影武者だ」と切り捨てる。

 「本物だという証が立てられるか」と言われて惑う主従よりは、役を演じ続けて「衣装と化粧を取ったら自分には何が残る」とずっと惑ってきた宗十郎の方が覚悟が決まっているというべきか、狂気の世界に入ってしまっていると言うべきか。
 実は内蔵助は切腹する寸前に偽内蔵助とすり替わるんじゃないかと思ったのだけれど、そんな甘いことにはならなかったことが後で判る。というよりも、実は最初に示されている。

 あと一人、狂気の世界に狂っていたのが天野屋利兵衛で、討ち入りが終わると彼は「自分が生きていてはいけないんだ」と自分の家に火を放つ。
 それで、結局この大商人の天野屋利兵衛が何を思って赤穂浪士討ち入りを強引に演出したのか、私には最後まで判らなかった。
 痛恨の極みである。
 恐らくこのお芝居の肝はそこにあるのに、「時代を縛ってやった」というのが彼の達成で目的だったのか、何だかピンと来なかったのだ。

 内蔵助は向かってきたシロを殺し、天野屋利兵衛を殺し、おかるを連れ出す。
 でも、もちろん「おかると幸せに暮らしました」とはならなかったのだろう。
 場面はこのお芝居冒頭の「目の見えない尼僧と、犬とも人ともつかない存在たちの頭」の対決に戻る。尼僧が語っていた「自分の目が見えないわけ」と「彼らが犬とも人ともつかない存在になったわけ」の絵空ごとが終わったのだ。

 尼僧になったおかるには、宗十郎があの世から迎えに来る。
 犬とも人ともつかない存在となったものどもも、一緒にあの世へと旅立つ。
 ただ、彼らの頭となった内蔵助が、ともにあの世へと旅立てたのかどうか、判らない。
 そこで、幕である。

 2階席から見ていたせいもあると思うのだけれど、何だか密度が薄く見えてしまったのがちょっと残念である。
 赤穂浪士達に、新谷真弓、六角慎司、内田滋、小松利昌、前田悟、武田浩二、八十田勇一と芸達者な役者さんを集めてそこは厚いのだから、恐らくは単純に物理的に舞台が広かったんじゃないかという気がする。2階席から見るとそこにさらに縦の空間の大きさが強調されてしまうのだ。
 まして、世田谷パブリックシアターは3階席まであるので客席の奥行きの割りに天井が高いし、セットも2階建てのような構造になっていて、どうしても縦の空間に意識が行ってしまう。

 「これからどうなるんだろう」という私の思惑もことごとく裏切られたし、つい身を乗り出して見てしまい、面白かったのだけれど、贅沢を言うと、もう少し小さい劇場で「ところせましと」という感じで上演した方がさらに面白くなったんじゃないかという感じがした。

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