「パイパー」を見る
「パイパー」NODA・MAP第14回公演
作・演出・出演 野田秀樹
出演 松たか子/宮沢りえ/橋爪功/大倉孝二
北村有起哉/小松和重/田中哲司/佐藤江梨子
コンドルズ(近藤良平/藤田善宏/山本光二郎/鎌倉道彦/橋爪利博/オクダサトシ)
観劇日 2009年2月27日(金曜日)午後7時開演
劇場 シアターコクーン 2階D列27番
料金 9500円
上演時間 2時間5分
ロビーでは、パンフレット(1000円だったと思う)が販売されていた。
ネタばれありの感想は以下に。
地球からの移民後900年が経過し、既に滅びつつある火星が舞台である。
2階席から見ると、舞台の床にはマーブル模様が浮かんでいて、透明の壁があって、火星っぽいといえば火星っぽい、SFっぽいといえばSFっぽい舞台になっている。
それでも、どうして滅亡寸前の火星などという舞台設定が判るのかといえば、登場人物達が「亡くなった人の鎖骨に埋め込まれていたおはじきを自分の鎖骨に当てることで、その人の生きていた歴史を追体験することができることになっていて、橋爪功演じる父親が「火星の食い道楽の歴史」研究家であり、大倉孝二演じる8歳の天才児にその記録を覚え込ませようとしているからである。
新井素子の「チグリスとユーフラテス」という小説も、本人が「逆さ年代記」と銘打って、滅亡寸前の惑星に生きる女から遡って、初代移民で大統領夫人だった女に自分の生涯を語らせることで歴史を浮かび上がらせていたけれど、この「パイパー」の場合は、歴史の持ち主よりもその人物が見た火星の方にポイントが置かれている。
「チグリスとユーフラテス」の場合は語り手が重要なファクターだったけれど、少なくとも物語が始まった当初の「おはじき」には個人の属性は感じられない。
松たか子演じる妹のダイボスは父親と「ストア」で暮らし、宮沢りえ演じる姉のファボスはどうも一緒には暮らしていないようだけれど、没交渉というわけでもないようだ。
父親が佐藤江梨子演じる若い女を連れ込もうとすると、妹は姉に助けを求めるし、姉は応援に駆けつけてくる。
妹のダイボスは「無垢」という言葉が似合う感じで、父親からも姉からも大事にされて、「本当のこと」から徹底的に目隠しされて育ってきたように見える。
姉のファボスは、妹よりも「本当のこと」を知ってしまっている分、強がらざるを得ない。そう見える。
この姉妹の物語とは別に、鎖骨に当てられるおはじきの中で、火星の物語が語られる。
姉妹の時代には「攻撃するもの」と化しているパイパーと呼ばれる生き物なのかロボットなのか、とにかくコンドルズが怪しく動かし表現しているものどもは、元々は「人間の幸福のために動くもの」だったそうだ。
そして、火星移民を主導した人間の一人が「パイパー値」と呼ばれる「人間の幸福を数値に置き換え」る方法を作り出し、火星移民の当初777だったその数値を8888にすべく人々が数字に縛られ始めて行く。
そう聞くと「数字」の馬鹿馬鹿しさがよく判るけれど、今現在だって、偏差値とか、**ランキングとか、都道府県別の住みやすさ指数とか、意味のない数字が溢れているのだから、笑ってもいられない。
父親が「食い道楽」の歴史を集めていたり、「ストア」と呼ばれるそこがどうして地下にだけ物が置いてあるのか謎だったのだけれど、実は「ストア」は「スーパーマーケット」のことではなく「墓場」のことであったり、どんどん話があまり進んで欲しくない方向へ流れて行くと思っていたら、やはり。
植物を食べることを拒否し、地球からの食べ物の補給も途絶えて、火星は食糧不足に陥り、どんどん荒廃が進んで行き、「ストア」が「ストア」であったのは、人が人を食べることで生き長らえていたからだということが明かされる。
「赤鬼」のときも感じたのだけれど、野田秀樹にとって「人が人を食べる」ということは、その大きな一角を占める重要な何かなんだろうと思う。
それはストレートに存在しているわけではなくて、何かを考えたり構築したりするときに、これを考えたら自分が捉えたいテーマにつながるような気がする、という存在の仕方なんじゃないかと思う。
自分でも何を言いたいのかよく判らなくなってきたけれど、そう思う。
どちらかというと乱暴で率直で低めのドスのきいた声でしゃべっていた宮沢りえの声が嗄れかかっていたのは惜しいけれど、ファボスが4歳の時に母親と放浪していた時代に戻り「女の子」の声になったときに、あぁそうだったのか、と思う。
放浪のときは母親のお腹の中にいたダイモスを演じている松たか子がそこで母親になるのも多分必然だし、彼女の声はほとんど変わらず、しゃべり方を変えていたのも必然なのだという気がする。
「人が人を食べる」ということ、4歳のファボスは食べ、お腹にダイモスがいた母親は拒否し、その記録を消したいけれど記憶は残したかった父親がいて、パイパーが狂ったきっかけはパイパー値がゼロになったことではなくて「人が人を食べる」という前提で「夕食を一緒にいかがですか」と言った父親の言葉であったこと。
そうした自分の立ち位置が判った後、父親が亡くなった後、どの男の子どもか判らない子どもをお腹に宿したまま男たちとストアを出て行くダイモスも、ずっと待ち続けていたペールギュントが帰ってきたと聞いて走り出すファボスも、両方とも方向性は違うかも知れないけれど「強い女」で、女たちが強すぎるから、格好いい男たちが何とも印象に残らなかったんだなと思ったのだった。
多分、もう1回、もう2回見ていたら、感想は変わっていたような気がする。
ただ、「キル」や「オイル」とはまた違う舞台を見たという印象が強い。
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