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2009.06.14

「桜姫」を見る

「桜姫」Bunkamura20周年記念企画 −ふたつの趣向で魅せる2ヶ月−
原作 四世鶴屋南北
脚本 長塚圭史
演出 串田和美
出演 秋山菜津子/大竹しのぶ/笹野高史
    白井晃/中村勘三郎/古田新太
    井之上隆志/内田紳一郎/片岡正二郎/小西康久
    斉藤悠/佐藤誓/豊永伸一郎/三松明人
観劇日 2009年6月13日(土曜日)午後7時開演
劇場 シアターコクーン ベンチシート117番
上演時間 3時間(15分の休憩あり)
料金 12000円

 ロビーではパンフレット(1800円)が飛ぶように売れていた。
 迷ったけど購入せず。
 オリジナルTシャツ(2900円)も、白と黒の2色、両方とも金色で描かれた桜の花が方丈にたくさん並んでいるという柄でかなり惹かれたのだけれど、黒が売り切れてしまっていたので(150cmというサイズはあったかも)断念した。

 ネタバレありの感想は以下に。

 ベンチシートと書いてあったので、「背もたれなしで3時間はきついな」と思っていたのだけれど、背もたれもあり、座面のクッションもよくて、かなり立派なベンチシートだった。
 舞台の横や上(舞台上の席は、舞台に組まれた櫓のようなところの上になる)にも席がある中、私の席は正面の前から3列目でかなりラッキーだったと思う。

 最初に登場したのは、大竹しのぶと笹野高史で、彼らはどうも「この世の者」ではない設定らしい。
 狂言回しという感じもせず(私の中では狂言回しは「舞台を進める人」で、彼らは舞台を進行しているのではなく、舞台上で展開されている物語を進行しているように見えた)、でも、この舞台を始めたのは間違いなく彼らである。

 「現代版」ということは知っていたのだけれど、まさか舞台が南米になっているとは思いもせず(それも、休憩時間にロビーで販売されていたパンフレットだか雑誌だかをぱらぱらとめくっていて知った)、白井晃が、いきなり十字架を背負って「セルゲイ」と名乗って現れたのには驚いた。
 歌舞伎の現代版が、まさかいきなりキリスト教の世界に飛ぶとは思いもしないではないか。

 セルゲイが十字架を背負い終わったあたりで、舞台奥の両脇にあった櫓兼客席が扉を閉めるように動き、舞台奥を夫妻で背面になる。だから、その櫓席の人は舞台上のさらに上から見下ろす形で、後ろ側から見ることになる。

 チラシなどを読む限り、「桜姫」がとことん堕ちてゆく話、なのだけれど、どうもそういう感じがしない。
 ちなみに、大竹しのぶ演じる「桜姫」は「マリア」という名前の16歳の少女である。
 大竹しのぶが若さを強調するため高い声で「16歳」と名乗ったとき、古田新太演じるココージオ(と聞こえたけど違っていたかも)がプッと吹き出し、大竹しのぶがキッと睨みつけたのが可笑しかった。
 可笑しかったけど、いいのか、ここで可笑しくて。

 マリアが堕ちてゆく話だと思って見ていると、ずっと「どうも違う」という違和感を覚えっぱなしということになる。
 大竹しのぶがマリアと狂言回しを兼ねているせいか、特に舞台の前半でこの2人の境界が曖昧になっているせいか(というか、そういう風に見えた)、どうもマリアが堕ちてゆくのではなく、マリアはかなり自主的に好きなように生きているように見えるのである。

 マリアは南部(どこの南部かは最後まで説明されなかったと思う)のいわゆる名家のお嬢さんで、家族を亡くし、でも北部の篤志家と結婚することになっている。
 彼女の左手が全く開かず、それは十字架を背負って貧しい人に施しをすることで「聖人」と呼ばれているセルゲイの祈りで開かれ、その手のひらにはセルゲイが下げている青い石と同じものが握られている。
 それまで普通に聖人だったセルゲイがおかしくなり始めるのはその石を見たときからである。

 マリアと秋山菜津子そのお付きの女中らしいイヴァ(と聞こえたけど違っている可能性が高いと思う)と一緒にセルゲイはその北部の町に赴く。自分の活動に多額の寄付をしていた男がマリアの結婚相手だという事情もあるのだろうけれど、とにかくこの北部に向かう電車の車中が怪しい。ココとイヴァはできているようだし、突然マリアがお人形を抱えて「肌身離さず持っていたのだ」と言い出すし、井之上隆志演じるルカという男だけが無愛想ながら正気を保っているように見える。
 大体、なぜだかこのお芝居では、マリアが口にしたことは、みんな「事実だった」ようになっていくのである。
 異空間なのか、ここは。

 マリアの嫁ぎ先である佐藤誓演じるイマルの家には中村勘三郎演じるゴンザレスという男がいて、マリアの部屋に追われて逃げ込んでくる。
 それが、1年前にマリアを襲い妊娠させた男で、マリアは実はこの男のことが忘れられないままでいたのだというのだから、話は出来過ぎである。
 そして、何故だかマリアを身ごもらせた相手はセルゲイということになり、セルゲイもそれを認めてしまい、みんなまとめて「崖の下」に追いやられてしまう。

 セルゲイは執拗に自分の心中相手である「ジョゼ」の記憶を取り戻させようとマリアを説得する。
 最初は「説得」に見えていたのが、そのうち「狂気」に見えてくる。
 聖人などと呼ばれ、その呼ばれ方を受容していたのに、セルゲイが「崖の下」にこれまで来ようともしなかったことに「崖の下」の住人は怒りを感じており、彼を焼き殺そうとする。
 セルゲイは「ジョゼと一緒に死ぬ」と言い張るけれど、両家のお嬢様だった筈のマリアはかなりたくましい人間で「そんなことはごめんだ」と言って逃げ出す。

 マリアが元々「たくましい人間」で、自分を襲った男を忘れられず、「崖の下」に放逐されても全くめげているように見えず、かといって現状を把握していないわけでもないらしい、というところに、「マリアが堕ちてゆく話」に見えない原因があると思う。
 どちらかというと、このお芝居は、セルゲイが仮面を剥がされていく話なのではあるまいか。
 それが「桜姫」元々の持つ属性なのか、長塚圭史による脚色で生まれた属性なのかは判らないのだけれど、どうもそういう印象なのである。

 そして、マリアは「自分が堕ちていく」のではなく「周りの人間を堕としていく」ように見える。
 セルゲイはもちろんのこと(そもそも彼が「崖の下」に放逐されたのは、自分を襲ったのはセルゲイであるとマリアがゴンザレスをかばうために嘘をついたからである)、ココとイヴァの死もマリアがきっかけである。
 ゴンザレスと騙し合ったあげくの相打ちになったココはイヴァと一緒に暮らしていたのだけれど、そのココを誘惑して、それまで椅子から動けなかったココを立ち上がらせたことでイヴァは自殺してしまうのだし、ココが与えた毒薬が何故かマリアには全く効かずお酒のように飲み干してみせたことで、真似をして「ロシアンルーレット」ばりの賭けに出たココは死んでしまう。
 でっぷりと太ったココを演じるために着ぐるみを着込んでいた古田新太が、死後の退場の際に着ぐるみを脱ぎ、Tシャツとパンツ一丁の姿になって着ぐるみを抱えてはけていったのはご愛嬌である。

 そのココが与えた毒のせいでセルゲイの顔には黒い痣が残るのだけれど、何故だかこのときマリアを迎えに来たゴンザレスの顔にも同じ痣ができており、それを見たココは驚くけれど、マリアは疑問に思っていないらしい。
 ここへ来て初めて、セルゲイとゴンザレスは表裏一体の関係なのだということが示唆される。
 少なくとも私はこのシーンを見て初めて「そうだったのか!』と思った。

 そして、最後は、セルゲイがマリアの父親をマリアの目の前で殺したのはゴンザレスであったことをゴンザレスに告げ、セルゲイはジョゼと、ゴンザレスはマリアと一緒に死ぬのだとセルゲイが必死で説得するのだけれど、何故だかあっさりと受け入れたマリアと違い、ゴンザレスは激しく抵抗する。
 生きていたいんだと言う。
 そこでセルゲイ本人が初めて自分も「ジョゼと一緒に死ぬ」と言い続けていたにも関わらずというか、言い続けていたくせに、自分の本心は「生きたい」ということだと気づく。
 マリアは、あっさりと死んでしまう。
 何故だ?

 自分が幸せじゃないと思ったら、それはすれ違ったもう一人の自分に幸せを渡したからだと思え。
 舞台上の誰が最初にそう言ったのか覚えていないのだけれど(ルカだったような気がする)、最後は、表裏の関係に近い2人ずつが舞台奥ですれ違い、振り向き合い、通り過ぎていって終わる。

 全編に渡って、随所に生演奏が入るのは、演出の串田和美らしい。
 歌舞伎なのか、コクーン歌舞伎なのかと考えると、訳が判らなくなるし、特に狂言回しの2人の立ち位置が今ひとつピンと来なくて落ち着かないのだけれど、なんだかんだ言いつつも最後までがっと見てしまった。
 来月の歌舞伎版も楽しみである。

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