「トリノ・エジプト展」に行く
今日(2009年9月17日)、2009年8月1日から10月4日まで、東京都美術館で開催されている「トリノ・エジプト展 イタリアが愛した美の遺産〜」に、職場のお姉さんと2人してサボって行って来た。
もっとも、会期末が近いせいか、平日の午後1時30分くらいに入ったら、チケット売り場で5人くらい並び、音声ガイドは10人くらい並び(私たちは借りなかった)というくらいだったのに、会場に入ってみたら黒山の人だかりだった。
ちなみに、この「トリノ・エジプト展」と「特別展 インカ帝国のルーツ 黄金の都シカン」とは、タッグを組んでいて、それぞれ一方の半券を持って行くと当日券が割引になるサービスを行っていた。
イタリアのトリノ博物館は、世界でも屈指のエジプト関連の収蔵物を誇る博物館で、その主なコレクションはフランス人のドロヴェッティという人が発掘した物を当時の王様が買い取ったものらしい。
ここで、皮肉なことには、このドロヴェッティが発掘をしていた時代に、同様に重要な発掘を行ったイタリア人のベルツォーニが発掘した物は大英博物館に収められ、イギリス人のソールトが発掘した物はルーブル美術館に納められているという。
それぞれ、自国の博物館に収められたらさぞ栄誉だと思ったことだろうにという気がする。
この事実を皮肉というのは間違っていて、本来はエジプトにあるべきものだという気もするのだけれど、この辺りになるとよく判らなくなってくる。
このトリノ・エジプト展の白眉は、やはり何といってもツタンカーメン王の彫像だと思う。
これまで門外不出で、トリノ博物館から出たのは今回が初めてということだ。
高さ約2m、ツタンカーメン王が向かって右側に小さめに立ち、向かって左側にアメン神が立ったらツタンカーメン王の2倍はありそうな大きさで座っている。
そして、ツタンカーメン王はアメン神の肩に手を回している(けれども、肩まで届かずに、ツタンカーメン王の右手は彫像の後ろ側に回って初めてアメン神の右肩に回そうとされていることが判る)。
解説によると、これはツタンカーメン王がアメン神に親愛の情と忠誠を現しているのであり、逆に、アメン神はツタンカーメン側にある左手でアンクをぎゅっと握りしめている。
これは、アメン神が優位に立っていることを示しているのだそうで、要するに、宗教改革に失敗した前王から治世を引き継いだツタンカーメン王としては、宗教改革前に戻すために、特にその神に恭順の意を示すことが必要だったということなんだろう。
それにしても、解説に「この彫像にはツタンカーメンではない名前が彫られているが、この像の顔を見たらこれがツタンカーメンであることは明らかである」などと書いてあって、当時の彫刻の技術で本物に生き写しのような彫像を作成できていたという(言葉が正しいかどうかは判らないけれど)信頼感が表明されていて可笑しかった。
顔かたちだけでそうそう言い切れるものなのだろうか。
確か、カイロで見たツタンカーメンの棺は他の王のものを流用したせいで、見た目の年齢も顔立ちも全く別人だったという説明を受けたような記憶があるけれど、大丈夫なんだろうか。
とりあえず、おのツタンカーメン王の像は360度ぐるりと回ってみられるので、必ず後ろからも見ることと、階段の途中と1階(ツタンカーメン王の像は地下1階にある)と、上からも見ておくのがお勧めである。
照明と鏡を駆使して展示されているというトリノ博物館に倣って、彫像が置かれた第2章では、後ろから回り込んで彫像を見られるように配置し、鏡も配置されている。
でも、これが何故か効果的な印象を受けない。
どちらかというと、「真似してみたけれど、やっぱり無理だったのね」という印象だけを残している。
どうしてだろう。展示室全体が明るいことと、鏡の配置と数(というよりも面積か)が足りないことが理由のような気がする。
彫像の部屋で私が一番気に入ったのは、ライオン頭のセクメト女神座像だった。
ただし、エジプトに行ったときにカルナック神殿のメインストリートを外れた建物の中、真っ暗闇の部屋に置かれていた像の方が断然美しいと思う(私が撮った写真では、ぼけぼけでその美しさをちゃんと見せられないのが残念である)。
何だかこのセクメト女神には心惹かれるのである。
立像もあったのだけれど、ちょっと荒い感じで、座像の丁寧さの方が好みだった。
一緒に行った職場のお姉さんは、ハヤブサ・トキ・ジャッカルと揃った木製の像のうち、ハヤブサの小像に随分と心惹かれているようだった。
ほっぺたというのか扁桃腺の辺りというのか、そこが膨れているのが可愛いという。
ミュージアムショップでも、随分とホルス神関係のグッズを探していたようだった。
ところで、このトリノ・エジプト展の解説は少し不親切だったと思う。
なぜ、現在のルクソールのことを「テーベ」で押し通すのか、材質のところに「ファイアンス」と表示されているのだけれどその「ファイアンス」が一体何なのか書いていなかったり、もうちょっと丁寧に解説があってもいいんじゃないかと思ってしまった。
もっとも、私にとってあまり馴染みのない名前が多かったので、余計にそう思ってしまったのかも知れない。
だから、逆に「オシリス神」とか「イシス神」とか、神様の名前の方に親近感を持ってしまったくらいだった。
そういう意味では「死者の書」も何となく馴染みのあったものの一つである。
王家の谷に行ったとき、そのお墓の壁に死者が審判を受けている図があったのだけれど、それをそのままパピルスに写し取った感じである。
「**をしなかったか」という何故か否定形の質問に答えて行き、嘘をついていると、天秤が傾いて心臓を取られてしまい、二度と復活できなくなってしまう、というような話だったと思う。
その否定形の質問が死者の書には延々と書いてあるので、その文章には疑問形を表すヒエログリフが何度も繰り返し出てくるのではなかっただろうか。
エジプトを旅行したときにガイドさんに教えてもらった知識が、かなり断片的かつ適当にしか思い出せないのだけれど、でも、楽しくしてくれる。
ステラを奉納している人の像はたくさんあったのだけれど、そもそもステラを奉納している女性の像はほとんど存在しておらず、その理由は判っていないらしい。
ミイラの足の裏に被征服民の絵を描くことで死後も被征服民を踏みつけて押さえつけるようにしていたって、少し執念深すぎるのではないだろうか。
上エジプトと下エジプトとどちらがどちらだったか忘れたけれどハゲワシとコブラで現されていてそれはあんまりにもイメージが悪いのではないか。
赤碧玉を使った長めの首飾りがちょっと欲しかった。
表示はなかったけれど「金」で作られたと書いてあったネックレスなどは24金なのか気になる。
ミイラの顔を再現してあった(しかも再現したのは警察だった)のだけれどそれはどうやったのだろう、レントゲンを撮影してその写真を元に復顔したんだろうか。
亜麻布が今でもランチョンマットに使えそうなくらいシンプルな模様入りで綺麗に残っていたけれどあれはやはり空気が乾燥していたからこそなんだろうか。
結構、色々と興味深く見ることができて、かなり混雑していたこともあり、2時間半をかけて見終わったときには2人ともくたくたに疲れていたのだった。
でも、楽しかった。
「トリノ・エジプト展」の公式Webサイトはこちら。
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