「えれがんす」を見る
シス・カンパニー公演 「えれがんす」
作 千葉雅子/マギー
演出 千葉雅子
出演 渡辺えり/木野花/梅沢昌代/コ・スヒ/中村倫也/八嶋智人
観劇日 2010年1月29日(金曜日)午後7時開演(初日)
劇場 紀伊國屋ホール D列8番
上演時間 1時間30分
料金 6500円
初日だったせいか、ロビーにはお花が所狭しと並べられていた。
そして、初日のせいか、客席の年齢層が高く、男性率も高く、「関係者多数ですね」という雰囲気があった。
パンフレットが1部300円と最近では破格の安さで売られていたのでかなり気になったのだけれど、結局、購入しなかった。
ネタバレありの感想は以下に。
この出演者の顔ぶれといい、作・演出が千葉雅子であることといい、大体「エレガンス」ではなく「えれがんす」とひらがなのタイトルになっていることといい、絶対にエレガンスなお芝居ではないに違いないと思って見に行ったら、やっぱりその通りだった。
そもそも、幕開けが木野花と渡辺えりの漫才である。
しかも、2人は「いかにも」なオリンピック・ファッション(白と赤のツートンということである)である。
こう言っては何だけれど、エレガンスになりようがない。
そして、最後には女性陣全員での満面の笑みを浮かべたダンスがあって、照明が暗くなり、八島智人がいかにも胡散臭げに登場して、「エレガンス」は自分が出版しようと思っていたノンフィクション本のタイトルであったと語って物語は幕を開ける。
何だかちょっと懐かしい感じのするオープニングである。
場面は一転して「潰れてしまったスイミングスクール」に変わる。
木野花演じる川上あい子は、元シンクロナイズドスイミングの選手でその後コーチに転身し、タレント活動を経てスイミングスクールを経営していたのだけれど、どうもそれも上手く行かなくなり、借金だらけで裁判所から明け渡し(というのがどういう制度に基づくのかよく判らなかったのだけれど)を命じられて大掃除をしている。
恐らくはたくさんの人を使っていたのだろうに、今は、コ・スヒ演じる韓国からの留学生のイ・スミンしか手伝う人間はいない。
そこに、渡辺えり演じるタレント時代にコンビを組んでいたフィギュアスケート・コーチの鶴岡が駆け込んでくる。あい子の噂を聞いて、「貸したお金が返して貰えなくなる!」と慌ててやってきたのだ。
そういうことをポロっと言ってしまえるのだから、そういう動機で駆けつけたにせよ、彼女が悪い人ではない、少なくとも悪気があるわけではないということは伝わってくる。
そのスイミングスクールの向かいにある喫茶店には、八島智人演じるライターの宮が陣取っている。一緒にいる、中村倫也演じる悦太郎という青年は何だか頼りなさそうだけれど可愛い男の子である。
そして、宮は、梅沢昌代演じる「社長」に電話して、スイミングスクールに来るように言い、とりあえず悦太郎をその場に残してスイミングスクールに乗り込んで行く。
八島智人という俳優さんは、どうしてこう、癖のありそうなイヤな奴を演じさせるとハマるのだろう。そして、イヤな奴ではあるのだけれど、心底嫌いにならないところで抑えられるのが流石である。
このライターの宮は、かつて、あい子と鶴岡をメインに据えて「オリンピックのコーチ」をテーマにしたノンフィクションを書いたことがある。
それだけなら彼女たちに嫌われる理由もなさそうなものだけれど(その本は「妖精たちの母」というベタなタイトルでベストセラーになったという設定だった)、その後、あい子と実は姉妹だった「社長」であるれい子の弟であり、フィギュアスケートの選手で鶴岡のコーチを受けていた(そして、鶴岡は恋仲だったと強く主張する)「ユウイチ」に取材し、彼の本を出版しようとしていたことが問題らしい。
話を聞いて行くと、その取材はユウイチが癌で入院した病院でも続けられていたこと、あい子と鶴岡はその頃タレント活動をしており、マネージャをしていたれい子とともに地方に出向いていてユウイチを看取ることができなかったことなどが判ってくる。
あい子は、弟の死をお金に換えることが許せなかったのだ。
そこへ、「実はユウイチさんにはお子さんがいらっしゃったんです」と宮が現れ、それまでほとんど没交渉だったあい子とれい子が揃うのだから、一悶着ないわけがない。
ないわけがないのだけれど、冷戦にはなるのだけれど、なかなか罵り合いにまでは発展しない。
まして、宮が、「姉のあい子さんから見た弟の死をテーマに何かしたい」とれい子が言っていたと暴露してしまうのだから、あい子が許せる筈もない。
でも、そこで「疲れちゃった」となってしまうのが、今のあい子である。
鶴岡がその「とことん空気は読まない」キャラで、「私がユウイチさんと付き合っていたときと、この男の子が生まれた時期は被っている!」と嘆きまくったり、あい子とれい子に2人で話し合うように強引にセッティングしようとしたりするのだけれど、やはりそこは遠慮があるのか、何となく腰砕けになってしまったり、スミンが作ってきた海苔巻きに手を伸ばしてあい子に心底呆れられたりする。
これでは強引に押しまくれる筈もない。
結局、この場面で「みんな、ちゃんと思っていることを言わなくちゃだめだ」「思っていることをちゃんと言ったのは鶴岡だけだ」とあい子とれい子姉妹の背中を押すのは、スミンである。
あい子は彼女は片言の日本語しか操れないと思っていたらしいのだけれど、実は彼女は見事な日本語を操る。それを「あい子さんは私が日本語をしゃべれないと決めつけていた」と言う辺りから、もう、少なくともあい子はスミンの迫力に負けてしまっている。
そして、千葉雅子の中では、こういうシーンで強引かつ的確に場を引っ張り、「言いたいことを言わずに我慢してきた」「すれ違いが高じてどうしてもわだかまりを解くことができない」という2人を向き合わせることができるのは、日本人ではないだろうと思っているのだな、と思うと少し寂しい気がする。
ドラマを生むとか、感情を爆発させるとか、思ったことを正直に言うとか、真正面から自分の気持ちを伝えるとか、そういう「場」を作れるのは、この6人の中でスミンしかいないというのは、何だか日本人への期待というか信頼の低下を表しているんじゃないかという感じがしたのだ。
随分と局地的なシーンから大きな感想に持って行ってしまったけれど、でも本当にお芝居を観ながらそう思ってしまったのだから仕方がない。
そちらが気になって、ユウイチの息子である悦太郎に、みんなが「ユウイチさんが」「ユウイチ」と呼びかける違和感が、どんどん小さくなって行ったのも我ながら不思議である。
最初は一々「悦太郎です」と訂正を入れていた悦太郎も、最後には周りからの圧力に負け、宮や鶴岡のプロンプのままに、姉2人に仲良くして欲しい、がんばって欲しいというメッセージを伝えてしまうのも、某料理屋さんの記者会見の様子を彷彿とさせて可笑しい。
可笑しいのだけれど、ここで、悦太郎にユウイチの身替わりをさせて本当によかったのか、何だか感動もののように仕立てられてしまったけれど、そこには実は何か問題にすべき大きな問題があったんじゃないかという感じは残った。
感じだけが残ったので、何が皮肉だったのか、今でもよく判っていない。
とりあえず、「悦太郎です」という名乗りがよく聞こえなかったので(配役を見るまで「イチタロウ」だと思っていた)、もうちょっとはっきり発音して貰えるといいような気がする。彼の名前はかなり重要な小道具なのだから、そこが聞き取りづらいというのは、多分、このお芝居で伝えようとした何かをいくらかなりと減じさせてしまっていたように思う。
宮が最後に「ユウイチさんから託された」と言って見せた、姉弟3人の写真は、実は宮の仕込みだったことが明かされる。
悦太郎だけは、そのことに気づいていたようだ。
その「仕込み」さえ気がつかなければ、姉妹2人の感動は本物だ。
宮は多分そういう人間だけれど、しかも、この一連のやりとりを彼はビデオで撮影していたようなのだけれど(ビデオを入れていた鞄には穴が開いていて、ずっとビデオが回されていたに違いない)、「いい話には興味ないんだよね」と言って、この一連の話をノンフィクションとして売り出すつもりはないようだ。
この、中途半端にいい人そうな感じが、なかなかいい。
そうそう、完全にいい人も完全にイヤな奴もいないものである。
作・演出が千葉雅子ということで(チラシを見たら、作にマギーが加わったようである)、もっとひりひりした感じのシニカルなお芝居を想像していたのだけれど、とりあえず「いい話」だったのが意外だった。
それとも、私が、気がつくべき「シニカルな面」に気がつかなかっただけなんだろうか。
そこが気になっている。
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