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「なにわバタフライ N.V」
作・演出 三谷幸喜
出演 戸田恵子
観劇日 2010年2月27日(土曜日)午後7時開演
劇場 シアタートラム G列17番
上演時間 1時間50分
料金 7500円
ロビーではパンフレット(1000円、だったと思う)や、三谷作品のDVDなどが販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
「ミヤコ蝶々の生涯」を描くお芝居なわけだから、それほど大きく初演とストーリーが変わっている訳はない。
しかし、ニューバージョンと銘打っていて(同じ時期にニューヨークからの凱旋公演を行っている「TALK LIKE SINGING」に引っかけたのかも知れないとも思う)、もちろん初演とは演出が異なっている。
私が気づいた中で、一番大きな違いは、初演では音響は打楽器の生演奏だったけれど、再演では本当に見える範囲には戸田恵子一人しかいないということだと思う。
そのためかどうかは判らないけれど、このお芝居の印象として、非常に「淋しい」感じが残っている。
淋しい舞台だったのか、ミヤコ蝶々という人の生涯を淋しいと感じたのか、演じている戸田恵子を淋しいと感じたのか、その辺りは自分でもよく判らないのだけれど、とにかく淋しさが印象に残っているお芝居だ。
かくれんぼをしていて、大きな木の陰から顔を覗かせる子供のように、舞台袖から顔だけ覗かせて戸田恵子が舞台に登場する。
そこで、いきなり、真央ちゃんは銀メダルが取れてよかったですねとか、私も感動しましたとか、おしゃべりが始まる。
明日がいよいよ千秋楽で、一昨日くらいに台詞も入ったので、ちょうどいいときにみなさんいらしたんじゃないでしょうか、と言われたときには、思わずという感じで客席から笑いが起こった。
それでも、恐らくこのおしゃべりもアドリブじゃなくて仕込み(というか台詞)で、きっと毎日そう言っていたんだろうな、などと考える。
セットを仕上げますね、と、舞台上にあったセット包んでいた大きな風呂敷を広げて、こういうのも経費節減なんだとブツブツ言っているのが可笑しい。
ブルーという色がミヤコ蝶々さんが好きだったからブルーの風呂敷を広げて床にするんです、といった解説をしゃべりつつ、だったら最初からブルーのセットを作れっちゅーねん、と自らツッコミを入れているのも可笑しい。
その床を作る作業中、最前列のお客さんに手伝ってもらい、堅く握手しているのを見ていいなー、と思った私はすでに役者と演出に負けている。
一人芝居でその場にいない相手役をどうするか、ということについて解説が始まり「一人で何役も演じる(これは落語風)」とか、「相手役の台詞も全部自分でしゃべる」とか、「全部モノローグにする」とか、例示しておいて、「おかしいですね」と切って捨てるのも作戦だろう。
これらのパターンは使いません、と言い切りつつ、その全てのパターンを使ってミヤコ蝶々に「あなたの人生を演じます」と戸田恵子が宣言するお芝居から始まるところがいかにも三谷演出らしいと思う。
膝上くらいの丈に着物のおはしょりを極端にしておいて、いきなり膝をついて、人形の足を自分の足に見立てて7歳の子供になる。
温泉旅館の浴衣(か丹前)を表現するのに、ガムテープを紐代わりに腰に巻く。
初演で見かけた楽しい「仕込み」が使われているのを見ると何だか嬉しくなる。
一方、彼女(戸田恵子が演じているミヤコ蝶々のこと。「彼女」と呼びたくなる感じなのだ)が、誰かと男と女の関係になったことを表すのに、初演では「緊張と緩和」で表していたのが、今回の再演では、照明で闇を迫らせてゆき、(言葉は悪いと思うけれど)襲われたという風にも見えるようにしていたのが意外だった。
今回の再演に私が淋しさを感じた最大の原因は、もしかするとそこだったのかも知れない。
そして、音響の他に初演と大きく違ったのは、相手役の表現だと思う。
確か、初演のときは照明で「明るい四角」を作っていたと思うのだけれど、今回は額縁を使っていた(でも、父親に見せたくないときに額縁をパタンと倒す演出は見た記憶があるようにも思うので、初演のときは併用だったのかも知れない)。
相手役が額縁になったことによる一番の違いは、戸田恵子が空っぽの額縁から顔を覗かせて「相手」を表現できるようになった一方、戸田恵子が働きかけない限り相手役が動かないということだったと思う。
照明による「光」で相手役が表現されるのであれば、その動きは(ジェスチャーはできないにせよ)自由自在である。
初演では、照明による動きと音響の音を合わせて「感情」を表すこともあったように思う。
今回の再演ではそれが封じられていて、これもより「舞台上に一人」という印象を強める効果があったのかも知れない。
見ているときはそういう風に思っていたわけではないのだけれど、白い照明を強く当て、戸田恵子が決めポーズを作った「緊張」の後、ふっと姿勢と表情を崩して「はい、ここで一部が終了です」と一気に場の空気を「緩和」させたり、そもそもの登場からおしゃべり風に始めたのは、「笑いで場の空気を和らげよう」ということだったのかも知れないのだけれど、結果として、少なくとも私にとっては、淋しさを際だたせる方向で効いたように思う。
そうして関わった男たちの額縁を、登場シーンが終わると、風呂敷の外に「掛けて」行く。
彼らはずっと舞台上の、でも彼女と直接は関わらない位置に居続け、彼女が思い出すとスポットライトを浴びる。
「見守られている」彼女よりも、「思い出さない」彼女の方に淋しさを感じるのは、私に先入観があったということなんだろうか。
そして、何よりもこのお芝居の「淋しさ」を印象づけたのは、彼女が二番目の夫の亡くなる直前にお見舞いに行ったときのエピソードだったと思う。
彼が浮気していると判ったとき、私は縋ればよかったのか、そんなことはできない、私は強い女なんだと、顎を無理矢理に上げて見せた彼女に、彼は、おまえほど弱い女を他に知らない、と言ったのだ。
そりゃあ、泣けるよ。反則だよ、このプレイボーイめ。
そう思ったけれど、でも、彼女にとっては、今頃言うなんてと恨めしいような気持ちにもなり、自分のことをこの人は判ってくれていたんだという気持ちにもなった台詞だったことは間違いないだろう。
そして、リアルタイムで彼女にそう言ってくれる人がいなかったところが、彼女を淋しくさせた原因なんだろうという風にも思った。
言ってくれる人がいなかったというよりも、多分、彼女が言わせなかったのであって、そのことがより彼女の淋しさを際立たせているのかも知れない。
でも、淋しかったり切なかったりはするかも知れないけれど、彼女が決して「惨め」ではないところが、この一人芝居とミヤコ蝶々という芸人さんの「強さ」なんだろうと、やけに矛盾したことを考えたりもした。
ラストシーン、ミヤコ蝶々がミヤコ蝶々の一生を描いた舞台に出演している。最初の夫がずっと拘っていた「人情劇」だそうだ。
彼女は、トルコブルーの着物に着替え、割烹着を着て、頭を手ぬぐいで包む。
ミヤコ蝶々がそういう「主婦」をしていた時期というのは恐らく皆無に近いと思うのだけれど、でも、自分を演じる舞台でどうしてそういう扮装をするのか。
舞台に出ていく直前には顔を靴墨で汚してさえいる。
多分、元ネタがある話なのだと思うのだけれど、それが判らなかったのが悔しい。
やっぱり、自然と集中してしまう、いいお芝居だったち思う。
戸田恵子の全てが見られます、今まで知らなかったミヤコ蝶々の全てが見られます、という感じのお芝居である。
明日が千秋楽という日程で、空席がちらほらでもあったのが非常にもったいないと思ったのだった。
お芝居の本筋とは全く関係ないのだけれど、そういえば、その「一部と二部の間の休憩」のときなどに、「飴ちゃんを出すのは今のうちですよ」などと言っていたけれど、飴を「飴ちゃん」と言うのは関西の言い方のように思う。
それを敢えて標準語で戸田恵子の言葉として言わせるのは、「関西のお芝居」をさりげなくでも強く感じさせる演出なんじゃないかと思ったりもする。
初演のときは、生瀬勝久が関西弁の監修(指導だったかも知れない)を行っていて、その代わりに生瀬勝久主演の男の一人芝居を三谷幸喜が書くと約束したという話を聞いたと思うのだけれど、再演でも生瀬勝久が指導についたのだろうか。
そして、「男の一人芝居」の約束は果たされつつあるのだろうか。気になる。
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