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2010.03.22

「農業少女」を見る

野田秀樹芸術監督就任記念プログラム「農業少女」
作 野田秀樹
演出 松尾スズキ
出演 多部未華子/山崎一/江本純子/吹越満
観劇日 2010年3月20日(土曜日)午後2時開演
劇場 東京芸術劇場小ホール J列20番
上演時間 1時間45分
料金 6500円

 小ホール前の広場のようなところ、ロビーまで含めて「イベント」な感じに仕立て上げられていた。
 芸術監督に就任した野田秀樹の方針なのか、演出の松尾スズキのアイデアなのか、その両者の協力の結果なのかそれはよく判らないけれど、なかなか面白い試みなのではないだろうか。

 ロビーでは、パンフレット(500円)が販売されていて、迷ったけれど、結局、購入しなかった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 東京芸術劇場の公式Webサイト内、「農業少女」のページはこちら。

 小ホール前はちょっとした広場のようになっているのだけれど、恐らくは「農業少女」との連携イベントということで、子供を集めて藁で何やら(束のように見えたけれど、よく判らない。どちらかというと情操教育の一環なのかも知れない)作っていた。
 つい眺めてしまい、ロビーに入るのが遅くなってしまったのだけれど、少し早めに入った方が楽しそうだ。「振ってもいいかも知れない」という松尾スズキのメッセージつきで小さな旗が用意され、「蒔いてみてもいいかも知れない」というメッセージつきで籾と土が用意され、確かに芽が出ている。
 小さな紙コップでお茶も用意されていて、少し気になったのだけれど、私が行ったときには最後の一杯だったので諦めた。
 これは、飲んでおいた方が楽しい。

 初演では、真ん中に舞台を置いてその前後から挟むように客席があったと思うのだけれど、再演の今回は、そういう意味では普通の舞台である。
 山崎一が初演で野田秀樹が演じた山本を演じていて、最初のうち、やけに妙なしゃべり方をするなと思っていたら、吹越満が「野田バージョンやめい!」と突っ込んで普通のしゃべり方に戻ったので、野田秀樹の物まねだったのだと気がついた。初演も見ているのに鈍い観客で本当に申し訳ない。
 でも、似ていなかったと思う。
 そして似ているかどうかという話であれば、吹越満の方が、初演で同じ都罪を演じた松尾スズキを彷彿とさせる演技だったような気がする。

 私にとっては、ある意味、男優陣は「いつもの顔」で、しかも「芸達者ないつもの顔」なので、初演と似ていようと似ていまいと似せようとしていようとしていまいと、いずれにしても安心して見ていられる。
 一方、百子を演じた多部美華子は舞台初出演ということでもちろん生で見るのは初めてだし、江本純子という女優を舞台で見たのも(あまり自信はないのだけれど)初めてだったような気がする。

 ここは、やはり、江本純子には最初から安心感がある。それが本当かどうかは判らないのだけれど、彼女からは「手慣れた世界にいる」という感じが伝わってくる。
 一方の多部美華子の方も意外なくらい(と言っては失礼か)芸達者である。途中で入ったダンスシーンでも、もの凄く「上手く」踊っていて驚いてしまった。
 そして、彼女は、作るべきところで作った笑顔を保持し続ける。あれは相当にきついのではないだろうか。
 これまた本当かどうか判らないのだけれど、この「農業少女」の百子役は、最初、別の女優さんにオファーがあったという話を聞いたような気がするのだけれど、彼女の起用は大成功という感じがする。

 女優陣は、男優陣とは逆に、初演のときの深津絵里と明星真由美を彷彿とさせない。
 特に、江本純子演じる秘書と、明星真由美演じる秘書とは、特に都罪に対するスタンスという面で全く違う造形をしているような気がする。
 初演のときの方が、百子と秘書の女性とが、都罪を巡ってもっとライバルっぽかったような気がするのだ。

 初演の「農業少女」は、私にとっては「判らない」「難しい」お芝居だったという記憶が強く残っている。
 どういうお芝居だったという印象が薄い。百子が奇声をあげて走り回っていた記憶があるだけである。
 それと、一緒に見に行った人が終演後に、このお芝居は権力だったり権力欲や支配欲についての芝居だと断言していたことを覚えている。
 だから、自分の印象が固まる前に断言されるとついそちらに流されてしまう私にとって、このお芝居は「権力について」のお芝居だったのである。

 どうしてこのお芝居が「権力」についてのお芝居だったのか、全く覚えていなかった(だからきっと、そう言われたときに同意も納得も理解もしていなかったのだと思う)のだけれど、再演を見て了解した。
 芝居の最後の方で、「権力」という言葉が台詞に多用されているのだ。
 正直に言って、芝居がそこまでたどり着いたときには「なーんだ、こんな単純なことだったのか」と思ったのだけれど、ということは、私は初演のとき、このラストシーンまで集中力が保たなかったということなんだろうか。
 それはそれで釈然としない話である。

 「好きなことは判らないけれど、嫌いなことは知っている。私は農業が嫌い。」と百子(設定では15歳)に叫ばれたときには慄然としてしまった。
 生き甲斐とか、生きる意味とか、存在意義とか、そういう言葉が流行って定着して随分たつと思うのだけれど、それは「好きなことを知れ」「自分を知れ」という圧力でもある。
 百子は、恐らくは「好きなこと」を探してか、都罪と対等に話せることを求めてか、都罪が始めるボランティアだったりヨガだったり商売だったりを手伝うことが自分の好きなことだと決めたからか、次から次へと「好きなこと」を変えてゆく。

 彼女を泊めて、一緒に暮らすようになった山本は、彼女の「好きなこと」の向こうに「好きな男」の影を見つつ、次から次へと彼女が捕らわれるものに振り回される。
 彼女が「好きなこと」を次々と変えてゆく様を見て、後ろに男の影を感じると独白する山本は、単なる嫉妬心の塊なのだけれど、でもそういう一途(というか、歪んだというか)嫉妬心がまっすぐに事態の本質を捉えるというのもまた事実である。
 そうして、山本は、元々が、15歳の女の子である彼女と一緒に暮らすことで振り回されているし、独占欲が高じて彼女に「私、あなたの女なんかじゃないから!」と言い放たれてしまうのだけれど、それにしても最後には都罪に銃を突きつけるまで追いつめられてしまうのだ。

 さて、百子を騙して、不登校の女子高生が作るお米を売ろうという「都市農業の会」を解散し、その話題性によって売れた名前を武器に「都市党」を結成して選挙に出ようとする都罪と、百子の上に立ち保護し「身元引受人」として彼女の行動を制しようという山本と、一体どちらがより「権力志向」なんだろう、という気はする。
 そして、百子が「判っていることは、私は農業が嫌い!」と叫んだのに、結局、最後には農業に帰ったのはどうしてなんだろうと思うのだ。
 「秘書」という自分の存在を消す職業(と私が勝手にイメージしてるだけなんだけど)の役割を演じることで、権力と一番遠い場所にいるように見えた「秘書」が本当に権力から遠いところにいたのか、何だか気になるのである。


 「中年男と少女の恋」ということになると、実はまだ読んでいないのだけれど、太宰治のかちかち山を思い出す。
 読んでいないのに思い出すも何もないものだけれど、河口湖に行ったときに通称「かちかち山」にロープウエイで登り、そこが太宰治の「かちかち山」の舞台になったという説明板を読んだのだ。
 そこでは、昔話のかちかち山を、うさぎとたぬきを少女と中年男になぞらえて翻案しているのだという。
 多分、この「農業少女」も似た構造を持っているのではないかと想像するのだ。
 そう考えると、「農業少女」は、山本と百子の物語のような気がするのだけれど、印象として、誰かと誰かの物語という感じは残っていない。
 人と人との関係を描いたお芝居ではないんじゃないかという気がする。少なくとも、もっと別のものを描こうと志向しているのではないかと感じる。

 初演と再演との印象を大きく変えているのは、恐らくは女優陣2人だと思う。
 初演のときは良くも悪くも「欲」だったり「女」を感じさせていたのだけれど、再演の2人からはあまり「欲」を感じない。恐らくは江本純子は意識して消しているのだろうし、多部美華子は「女」を出そうとしてどうしても「少女」の部分を全面に出してしまっているのだろうという気がする。

 初演の頃は、ロハスだったりフードマイレージだったりといった考え方や言葉はそれほど一般的ではなかったのではないかと思う。
 そういう言葉が前面に出てきた今の時代に「再演」できるということが、凄いし、怖いことだと思うのだ。
 けど、やっぱり私には「農業少女」が描こうとしているものは判らなかった。
 多分、この先も判ることはないんだろうという気がする。

 私は、このお芝居は権力「欲」や権力「志向」の物語である、という刷り込みからまだ逃げ切れていないんだなと思ったのだった。

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