「歌舞伎座さよなら公演 御名残四月大歌舞伎(二部)」を見る
歌舞伎座さよなら公演 御名残四月大歌舞伎(二部)
演目 一、菅原伝授手習鑑 寺子屋
出演 幸四郎/玉三郎/勘三郎/高麗蔵
金太郎/錦吾/時蔵/彦三郎/仁左衛門
演目 二、三人吉三巴白浪(大川端庚申塚の場)
出演 菊五郎/團十郎/梅枝/吉右衛門
演目 三、藤娘
出演 藤十郎
観劇日 2010年4月15日(木曜日)午後3時開演
劇場 歌舞伎座 1階17列35番
上演時間 2時間40分(15分、15分の休憩あり)
料金 11000円
歌舞伎座さよなら公演を見たのは、これで3本目で、そして、私が今の歌舞伎座で歌舞伎を見るのはこれが最後ということになる。
「御名残」の三文字は伊達ではない。
あと16日で、今の歌舞伎座での公演は終了なのである。
今回もまたイヤホンガイド(650円、保証金1000円)を借りて、パンフレット(とは言わない気がする。1500円)は購入しなかった。
歌舞伎座の売店は楽しい。
「歌舞伎座は初めて」という友人と一緒だったこともあってついつい色々と欲しくなり、でも自粛した結果、歌舞伎座の建物の模様の手ぬぐいとコースターを記念に購入した。
ネタバレありの感想は以下に。
「菅原伝授手習鑑 寺子屋」は、菅原道真の亡き後、その息子の菅秀才を匿っている男が開いている寺子屋での一場面である。
幕が開くと、「粗末な服を着て寺子屋に通っている他の子供達に紛れるように」というイヤホンガイドの解説とは裏腹に、一段高いところに座り、髪型も違い、「一目で判るように」菅秀才が手習いをしている。
しかし、音で「カンシュウサイ」と言われているときはどんな字なのか想像もしなかったのだけれど、まさか「菅秀才」とは思わなかった。
初舞台を見た松本金太郎と再会できたのがちょっと嬉しい。連獅子のときよりもしっかりしてきていたような気がする。
そこへ、出かけていた寺子屋の主である仁左衛門演じる武部源蔵がどこかから帰って来る。
どうやら庄屋の家に招かれ、道真の息子を匿っていることを悟られ、これから首実検に行くと告げられたらしい。
勘三郎演じる妻の戸浪とともに寺子屋に通う子供達のうちの誰かを身替わりにしようと考えるけれど、どうも適当な子供がいない。
見ているときは「歌舞伎だし」という感じで特に何とも思わなかったのだけれど、こうして書いてみると、結構ヒドイ決断をあっさりとしている夫婦である。
結局、その日に寺子屋に入門した品ありげな小太郎という名の子供を身替わりに殺すことに決め、菅秀才を奥の部屋に隠すのである。
松本幸四郎演じる松王丸と春藤玄蕃がやって来て、菅原道真もその息子のこともよく知っている松王丸が、小太郎の首を「菅秀才の首だ」と認め、武部源蔵夫婦は主君の息子を救えたことに安堵する。
そこに、玉三郎演じる小太郎の母千代が現れ、「小太郎はお役に立ちましたか」と尋ね、さらに松王丸が現れて、小太郎は自分たち夫婦の息子であると告げる。
松王丸は、菅原道真の血筋を追う立場ではなく、守ろうとしていたのである。
ここが判らない。
歌舞伎も、シェイクスピアと一緒で、長い物語の一部を取り上げて上演される(ことがままある)から、その前後を知らないとさっぱり話の筋が判らないということになる。
大体、松王丸は何者なのか。
敵のように見えて実は味方であった、という筋なのは判るし、この後で菅原道真の夫人も彼が山伏に変装して救ったのだということも語られるのだけれど、どう考えても、その前に何か因縁がある筈なのだ。
判らないといえば、どうして首実検をしたときの松王丸が仮病を使っていたのか、ということもよく判らない。
菅原道真の家来であった武部源蔵が敵認定をするだけの理由が松王丸にはないとおかしいし、小太郎は意味ある死だったが自分の弟の死は無意味であったとわざわざ菅秀才の前で嘆くのだから、そこには因縁があった筈である。
最後の小太郎の野辺送りのシーンは、両親が白装束を元々用意してきていたと言うことが判り、鼻をすする音が聞こえるくらいの思い入れたっぷりのシーンだった。
大体、ここで、仁左衛門、勘三郎、幸四郎、玉三郎と4人揃っているのだ。
本当に何という贅沢な舞台なんだろう。
「三人吉三巴白浪(大川端庚申塚の場)」は、タイトルはよく聞くけれど、多分、私は見たのは初めてだと思う。
今回、タイトルに入っている「白浪(物)」というのが、「小悪党の暗躍ぶりをえがいた芝居」という意味であることを初めて知ってしまった。
これはもう、菊五郎演じるお嬢吉三、吉右衛門演じるお坊吉三、團十郎演じる和尚吉三の3人が出会って義兄弟の契りを交わすという、ただそれだけといえばただそれだけな、ただそれだけなのだけれど、七五調の台詞のやりとりや、お嬢吉三の「こいつは春から縁起がいいわぇ」という、私ですら知っている超有名な台詞の格好良さを味わうお芝居なのだと思う。
派手である、ハレである、外連である。
そして、この「3人揃い踏み」を楽しむ、それ以上でも以下でもないという、お芝居というよりも、ある意味イベントというかアトラクションに近い感じがする。
この名優達3人の揃い踏みをみてやってくだせぇ、という感じである。
そして、この3人に揃って見栄でも切られた日には、ははーっとひれ伏すしかないという感じなのだった。
そういえば、菊五郎が演じていたのは「八百屋お七の衣装等々を借りた、女装の男盗賊」だったのだけれど、男性のみで演じている歌舞伎の役柄としてはかなりシュールなのではないだろうか。
「女装している男を演じる歌舞伎役者」というのは、何だか入れ子構造で考えると頭がこんがらがってくる。
もっとも、見ているときは、普通に「女形」をやっていた菊五郎が、舞台上、周りに誰もいなくなると「女装の男」に戻って、豪華な振袖を着ているのに男言葉でしゃべったり、というのが可笑しくて、そんな面倒くさいことを考えたりはしなかった。
はっきり言って、楽しんだ者勝ちなのだ。
ところで、私が「オボウキチサ」と最初に聞いたときは「お坊さん」の「お坊」だと思ったので、どうして浪人風の風体なのか、このあとで「和尚吉三」が出てきて、お坊さんも和尚さんも似たようなものじゃないかと思っていたのは内緒である。
イヤホンガイドに「お坊ちゃん、というくらいの意味である」と言ってもらって、やっと了解したのだ。情けない話である。
その私の情けなさはともかくとして、吉右衛門の可笑しみと軽みを感じさせるところが私は大好きなので、この「三人吉三巴白浪」のハレの部分も十分に楽しめたのだった。
最後の「藤娘」は、この舞踊が始まる前だけは客席が暗くなり、ぱっと幕が開いたと思ったらそこにはどーんと大きな松の木と、松の木にからんだ満開の藤の花が舞台一杯に広がっていた。
そして、藤の花の真ん中に、黒い着物の藤十郎が、藤の一枝を掲げて立っている。両脇には義太夫らが控えている。
それだけで「おぉ!」という感じである。
この一瞬で満足だわ、という気持ちになる。
私のイメージでは、藤娘というのは、日本舞踊の演目で有名だし初舞台でよく踊られる曲、ということになっている。
理由も出典もよく判らないのだけれど、何だかそういうイメージで、かつ何故だか「あの頭は重くて豪華である」という思い込みもある。
我ながら、一体どこからどうしてそういうイメージを持つようになったのか、謎である。
衣装を三度変えて、藤の精を可憐に踊る藤十郎。
実際はおいくつなのだろう、ともの凄く野暮なことを考えてしまうくらい、可憐に見えたのだった。
今の歌舞伎座最後の公演第二部を堪能した。
この「ハレ」の場に居られて、嬉しかった。
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