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「ムサシ」ロンドン・NYバージョン
作 井上ひさし(吉川英治『宮本武蔵』より)
演出 蜷川幸雄
音楽 宮川彬良
出演 藤原竜也/勝地涼/鈴木杏/六平直政
吉田鋼太郎/白石加代子/大石継太
塚本幸男/飯田邦博/堀文明/井面猛志
観劇日 2010年5月22日(土曜日)午後5時30分開演
劇場 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 2階V列32番
上演時間 3時間20分(20分の休憩あり)
料金 10500円
井上ひさし氏が亡くなったばかりということもあって、ロビーでは記帳台が設けられ、ご遺族にお渡ししますという案内が出ていた。
また、追悼公演として行われる「黙阿弥オペラ」のチケットの販売も行われていた。
その他は、多分、いつもどおりのロビーで、パンフレット(1500円)やTシャツ(2500円)などなどが販売され、かなり盛況のようだった。
ネタバレありの感想は以下に。
幕が上がるといきなり巖流島の決闘の場面が始まる。
舞台の背景は大きい真っ赤な夕日、舞台にいるのは藤原竜也演じる宮本武蔵と、勝地涼演じる佐々木小次郎の2人のみという、様式美もここに極まれりといった設定であり装置であり成り行きである。
そのとき出ていた字幕でこの決闘が1612年に行われたことを知った私なので、この決闘の顛末も「宮本武蔵が勝った」ということしか知らなかった。
ここでは宮本武蔵が声を張り上げて、立ち会いをしていた細川家中の人間を呼び、手当をするよう言っている。
どうも、ここは「佐々木小次郎はここで敗れて死んだ筈だったのに!」という感慨を持つべきシーンだったらしい。
判らない観客で申し訳ない限りである。
舞台は暗転する。
真っ暗な舞台の床に竹の影が現れ、風に揺らぎながら少しずつ前に進んでくる。竹は7〜8本ずつまとまっていて、それを人が動かしている。
さっきまで照明で波が揺らされて海が表現されていたのに、今度は竹林が迫ってくる感じになっている。
それにしても、竹の葉が風に揺れる音というのもは何ともまがまがしい雰囲気を出すものである。
そうして竹が動きつつ竹林を形作ってゆき、最後には、真新しい小さなお寺の風情ができあがった。
巌流島での決闘から6年後、宮本武蔵は何故か鎌倉のお寺の「参禅(多分、字はこれでいいと思う)修行」に参加している。
どうやら新しく開いたお寺のための儀式が行われていて、宮本武蔵はこのお寺の作事を担当したということのようだ。
そういえば巌流島の決闘以後の宮本武蔵の動向も知らないけれど、まさか残りの一生をずっと「五輪書」を書いて過ごしたわけではないだろう。
その寺には、宮本武蔵が作事を行い、六平直政演じる沢庵和尚が訪れ、何故か吉田鋼太郎演じる柳生宗矩まで来ていて、一体どういう由来のお寺なんだろうと思う。
どうも、沢庵和尚と、大石継太演じるこのお寺の住持との間に縁があって、沢庵和尚が「将軍家剣術指南役」の柳生宗矩を何やら企みがあって呼び寄せたもののようだ。
呼び寄せられて来るのだから、沢庵和尚と柳生宗矩の間柄は単なる知人以上のものだと考えていいのだろう。
そういえば、沢庵和尚は京都大徳寺の元住持ということで、こんなところに3ヶ月前に訪れたお寺の名前が出てくると何だか嬉しくなるものだ。
そうした参禅の儀式が行われていたところに佐々木小次郎が現れる。
柳生宗矩や沢庵和尚は物慣れた様子だけれど、その2人に庇われる形になった白石加代子と鈴木杏演じる檀家の女性2人は、かなり怯えている。それは、突然現れて物騒な様子に清潔とは言い難い様子をしている小次郎に対するのはもちろんのこと、突然縁の下や欄干から木刀を取り出して庭に飛び出した宮本武蔵に対しても同様であるように見える。
そういえば、縁の下から木刀を取り出すのにえらく難儀して最後には力ずくだったように見えたけれど、あれは演出だったのか、ハプニングだったのか、気になるところである。
ハプニングだったとしたら、藤原竜也は相当に焦ったに違いない。
ところで、突然現れた小次郎は、それは鳴り物入りで行った決闘に負けたのだからそうそういい暮らしをしているとは思えないけれど、髪はぼうぼう、無精ひげを生やし、全体的にヨレっとしている。
本人曰く、リハビリに1000日、武芸の修行に1000日、宮本武蔵の所在を探すのに200日かかったそうだから、それは旅の疲れも汚れも出ようというものである。
宮本武蔵の前に現れた理由はただ一つ、再び決闘を申し込むことだ。
この小次郎登場後の武蔵との会話が可笑しくて、「遅れてくるなんて卑怯だ」とか「太陽を背に立つなんて卑怯だ」とか「刀の長さが長すぎて卑怯だ」などと散々、罵るというよりは難癖を付けた後で、「だから尋常に勝負しろ!」と言う。
巌流島の決闘は公平ではなかったので、今度は五分と五分の勝負をしようというわけである。
これに対して、武蔵は「そういったことも含めて剣術だ」と言い放つ。いずれにしても子供の喧嘩のようである。
確かに小次郎は剣客であって軍師や策士ではないのだろう、一軍の将を務めるようなタイプではないのだろうとは思うけれど、でも、宮本武蔵に好感は持てないよな、と思う。
この2人だけのシーンだと特にそう感じるのだけれど、藤原竜也も勝地涼も何だか無理に低音の声を出しているようで、何だかそれが台詞を聞き取りづらくしているように感じた。
小次郎が渡した果たし状では決闘は参禅修行が終わった翌朝ということになっており、武蔵も受けて、決闘は行われることになった。
しかも、どういう成り行きだったか忘れたけれど、その決闘の日まで、佐々木小次郎もこの寺に逗留するのだという。
暢気と言えば暢気な話だけれど、その2人が無駄な争いをしたり寺内で刀を抜くようなことにならないようにと柳生宗矩が提案した方法が「5人6脚」なのだから、さらに恐れ入る。
何故5人6脚なのかといえば、女性2人は「寺には泊められない」ということで(考えてみれば、尼寺でもないのだから当たり前である。)寺のすぐ近くにあるという白石加代子演じる舞の別宅に帰ったからである。
「別宅でも心静かに過ごすように」と諭されて帰った筈なのに、帰ろうとしたその庭でいきなり2人で狸を題材にした能を演じ始めたのには驚く。
この能が型に則ったものなのか、相当に型とは離れているのか、素養のない私には見当がつかないのだけれど、白石加代子の演じるコミカルさ満載の所作も、鈴木杏演じる筆屋の乙女の凛とした佇まいも、なかなか格好よかったのだった。
帰った筈の乙女の家の男が突然寺に駆け込んできて、乙女の父親の舟を転覆させて殺した男が判明したのだと訴える。
仇討ちに手を貸してもらいたいと言う。
そこへ、乙女本人も「まい」という隠居もやってきて、剣客3人(最初の内は、武蔵と小次郎しか眼中になかったようだけれど、柳生宗矩が咳払いで自分の存在をアピールするのが可笑しい。
さらに、剣術指南を引き受けた小次郎がレッスンし、すり足の練習を繰り返しているうちにいつの間にか全員で踊り出してしまうのも可笑しい。
やはり、これはみな「真剣」な剣術の稽古の顔で、でも手足の動きはダンス、というところが可笑しいのだろう。
そこにツッコミを入れるのが武蔵で「いい加減、剣を持たせなければ能の稽古のようになってしまう」という台詞も振るっている。
極めつけは、小次郎の稽古を見守っていた武蔵が、聞こえよがしに「あーぁ」とイヤミなため息をつくところで、それは、小次郎でなくてもかなり腹立たしいだろうと思うと笑えてくる。
多分、この辺りの「笑い」を誘うやりとりの数々は、この次の、乙女の父親の仇である男たちが現れてからの場面に向けての息抜きという意味も兼ねているのだろう。
そう考えると(もちろん、見ているときにはそんなことは考えずにけらけら笑っていたのだけれど)、「計算され尽くした」という言葉が浮かぶのである。
そして、武蔵に「無策の策」を授けられた3人の前に、乙女の父親の仇である男たちが現れる。
3人は武蔵に押されて仇の男たちに打ち掛かり、見事に人たちを浴びせる。それを、「仇討ち」ではなく、剣術というか先述の一つとして見守る小次郎の目が暗いのがまた何ともいえずに不気味だし、何より気の毒になってくる。
親の敵の男の腕を切り落とした乙女だけれど(舞台上に転がった腕の先で指がいつまでもぴくぴくと動いているのが、これは不気味というよりも可笑しい。あんなに動かなくてもいいと思う。)、最後は、仇討ちなど重ねていっても恨みが重なるだけだ、ここで自分は親の敵ではなく、仇討ちの連鎖を断ち切るのだと言い切り、男の手当を始める。
この寺の住持の初の説法もそうだし、歩き禅の最中に沢庵和尚が柳生宗矩に授けた「刀を抜かなくなる世の中の作り方」もそうだし、武蔵と小次郎の2人に決闘をさせたくない人々はこぞって「命の大切さ」とか「恨みを抱かない生き方」を説こうとする。
そして、極めつけは、まいが小次郎に向かって「あなたは私と**親王との息子で、皇位継承18位に当たる」と言い始める。
こら! 荒唐無稽過ぎるだろ! とツッコミを入れたくなる。
しかし、真に受けたのか小次郎はその場で卒倒してしまう。
まいは、さらにダメ押しとばかりに「二十数年ぶりにであった母子に水入らずの生活をさせてくれ、小次郎を殺さないでくれ」と武蔵をかきくどく。
母の形見(死んでいるかどうかは判らないわけだけれど)のお守りを肌身離さず持っている小次郎に、これほどインパクトのある殺し文句があるだろうか、というところだ。
しかも、お守りの中味は半分に割った鏡で、その割れたもう半分をまいが持っていたとなれば、それは信じてしまうに決まっている。
小次郎の看病をしていたまいを乙女が呼びに来て、「まもなく丑三つ時です」「最後の仕上げです」と意味ありげな台詞を(これまでは、全然それらしい台詞を言わなかったくせに!)重ね、空に稲光が光ると「生きていた頃から苦手なのです」と言ったところで「そこだ!」と言いたい気分になる。
とりあえず、まいと乙女の2人が死者であることはこれで確定である。
やはり、こういう聞きそびれて欲しくない台詞は少し高めの女の人の声で言われると効くなと、後になるとそんなことを思ったりした。
そういえば、カーテンコールのときに思ったのだけれど、このお芝居は檀家の女性2人を男性の役にしても上演ができるのではないだろうか。
というか、それぞれ商家の隠居と主という設定なのだから、男の役とした方が自然な感じがする。
それを女性の役にしてあるのは、このシーンのこの台詞を聞かせるためと、「狸」の能を見せるためだったのかなと思ったのだった。
しかし、そうそう都合良く話がまとまる筈もない。
なにしろ、井上ひさし作品なのである。
武蔵が「まいの言っていることはおかしい。寺の者たちは自分たちに決闘をさせないようさせないようにしている。ここで自分たちが決闘すれば、彼らの目論見を潰えさせることができるだろう」というわけで、夜明け前に決闘が始まろうとする。
2人は手早くたすき掛けをし(この2人の素早いたすき掛けも目を引いた。きっと相当に練習を重ねたに違いない。熟練のたすき掛けだった)、決闘のために庭にあった石を武蔵が石段の下に投げ落とす。
そうして決闘を始めようとしたその刹那、寺がいきなり崩れ、その奥から死者たちが現れた。
彼らは、成仏できないままの死者であり、生きているときには「生きている」ということがそれだけで素晴らしいことなのだということを知らずに命を粗末に扱ってしまった、ここで誰かを死から救い、生きていることの素晴らしさを伝えることができれば成仏できるのだ、と口々に言う。
これまでストレートに伝えようとしてきたけれど失敗続きだったので、戯作者志望だった自分が筋書きを書いてお芝居仕立てにしてみました、と元乙女の死者が言うのも何となくおかしい。
考えてみればかなり勝手な言い分なのだけれど、それでも「もう迷うのはイヤだ、迷うような死に方をする誰かにはもう現れて欲しくない、どうか決闘をやめてくれ」という彼らの思いは、結局、武蔵と小次郎の2人を動かすのだ。
正直に言うと、どうしてこれで2人が説得されるのか、私にはよく判らなかった。何故だか判らないのだけれど、少なくとも私にとっては、説得力のない死者たちの説得だったのである。
でも、住持の男が最後に一人残って、「ぴたりと合う鏡の片割れを作ったのは自分だ。これでも生きている頃は腕のいい鏡職人だったんだ」と言ったときには、何だか淋しいような哀しいような気持ちがしたのだった。
そして、場面は再び参禅修業始まりの時に戻る。
今度こそ、「本物の」沢庵和尚や柳生宗矩らがやってくる。
旅支度を住ませた武蔵を見、同じく旅姿の小次郎を見て、「こちらは?」と聞かれた武蔵が「友人です」と答えるのもいい場面である。小次郎の少し驚いた表情もいい。
最後の武蔵と小次郎の会話を聞き取れなかったのが痛恨の極みなのだけれど、2人がそれぞれ「生きる」方向で新たな旅に出ようとしていることは伝わって来た。
なるほど、ロンドンに持って行ったらかなり「受けた」のだろうなと思う。
そして、そういうことを抜きにして、井上ひさしの作の中でも相当にメッセージがストレートに発信されている、そして役者さんたちもそのストレートさにまっすぐぶつかっている、いいお芝居だと思ったのだった。
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コメント
逆巻く風さま、コメントありがとうございます。
えーと、結局、面白かったということでよろしいです(笑)。
伝わらなかったでしょうか。要反省事項ですね。
黙阿弥オペラは私も気になっていて、ロビーでのチケット販売ものぞいたのですが、希望の日のチケットがなかったので購入しませんでした。
藤原竜也は、今回は「重々しく」という命題があった(何しろ、宮本武蔵ですから)ということもありましょうが、もう、いくらなんでも身毒丸を演じるのは無理でしょう、というくらいに大人だったと思います。
さて、チケットは取れるでしょうか・・・。
投稿: 姫林檎 | 2010.05.24 20:52
結局、面白かったということでいいんですよね?
これはこれとして・・・(笑)
僕が興味あるのは「黙阿弥オペラ」です。内容は井上作品で”間違いはない”とは思うんですが、藤原竜也がねー・・・。
彼のは2本見ているんですが、一生懸命なのは分かるんですが、なにせ軽さが気になって。台詞を覚えてそれを正確に発することに窮々としているようで。。。いくらミーハーの僕でもちょっと、という感じです。
姫林檎さんはどうします?おっと、その前に人気作品でチケットが取れるかわかりませんね。
投稿: 逆巻く風 | 2010.05.23 17:45