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NODA・MAP 第15回公演「ザ・キャラクター」
作・演出 野田秀樹
出演 宮沢りえ/古田新太/藤井隆/美波
池内博之/チョウソンハ/田中哲司
銀粉蝶/野田秀樹/橋爪功 ほか
観劇日 2010年7月3日(土曜日)午後7時開演
劇場 東京芸術劇場中劇場 R列29番
上演時間 2時間15分
料金 9500円
ロビーではパンフレット(1000円)の他、野田秀樹の著作本などが販売されていた。
パンフレットの見本を置いていないところが惜しい。見本を置いたからといって、パンフレットの売り上げが落ちるとも思えないのだけれど、セコイという印象だけが残ってしまうと思うのだけれどどうだろう。
ネタバレありの感想は以下に。
幕の下りていない舞台上、3枚の紙(だと思われる)にスポットが当てられている。
一枚は「俤」、真ん中の一枚はまっさらで、最後の一枚は「儚」である。
この芝居の全編を通して、その文字の中に「弟」を持つ「俤」と、「夢」を持つ「儚」がキーワードのように何度も繰り返し出てくることになる。
もう一つのキーワードは「希望(きぼう、と読まれたり、のぞみ、と読まれたりする)」だったと思うのだけれど、どうだろう。
いずれにしても、「姿」の中に「次の女」がいると説いたり、「魂胆」の中には鬼があるからそんなものは捨てろと言ってみたり、野田秀樹の言葉遊びは健在である。
一方で、この舞台では映像を割と多用していたことが印象に残った。
例えば、緩い八百屋にした舞台の床面に、水で文字を書き(水で濡らすと色が濃くなるようになっている)、それを上からのカメラで捉えて、舞台上に吊したくしゃくしゃの紙に投影する。くしゃくしゃの紙だし、舞台上は明るいからそれほどはっきりと見えるわけではないけれど、でも、大きく書かれた文字くらいは読める。
後半の、書道教室にマスコミが殺到したシーンでは、ニュース映像をモザイクのように一面に投影させることもしていた。
「農業少女」でも、野田秀樹自身が映像で舞台に登場していたし、頑なに拒否しているということではないのだろうけれど、ちょっと意外な感じだった。
今でも「コロス」というのかどうか、野田秀樹の意図するところがそうだったかどうかは判らないのだけれど、野田秀樹の芝居としては珍しく(という風に思う)、アンサンブル(というとミュージカルみたいだけれど、正しい言葉がよく判らないので)が大勢出演している。
その蠢くような動きのなかから、すっくと長い黒髪をまっすぐに下ろした宮沢りえが後ろ向きに立ち上がっている。
この芝居はそこから始まる。
最初のうちは、よく判らない。
宮沢りえ演じる「マドロミ」が何者なのか、人間なのか、神なのか、ギリシャ神話の登場人物なのか。
天使たちに「弟を捜しているんだ」と話しかけ、100の目を持つ男にも「いないかも知れない弟を捜しているんだ」と話しかける。
最初、マドロミがいた場所は、時も場所も関係ない、何もない空間のように見える。
その一方で、何故か場面は書道教室に移る。
橋爪功演じる大家(元々は「おおや」だったのが、いつしか「たいか」に出世したらしい)と藤井隆演じる会計(と登場人物一覧には載っているけれど、彼がこの名前で呼ばれたことはついぞなかったような気がする)の2人が、大勢いる弟子たちに書道を教えている。
というよりも、不動産の譲渡契約書にサインさせることを「書道のお稽古」として強要しているように見える。
銀粉蝶(怪我から復帰されたようで何よりである)演じる「オバちゃん」だけしか疑問を呈さないし、しかも、この「オバちゃん」はある目的をもって潜入しているからこそ騙されないのであって、どうしてこうも人は騙されやすいのか。
そして、田中哲司演じる「新人」のように、あっさりとその流れに乗り、逆に煽る側に簡単に回ってしまうのは何故なのか。
それだけでも怪しいのに、古田新太演じる家元と、野田秀樹演じる家元夫人の夫婦が帰ってくると、さらに怪しさ満載である。
こういうときの、古田新太の醸し出す軽そうな怪しさと来たら、際限がない。
そして、この家元が土産話に話した「Give me change.」を「Kill me change.」と言われていると勘違いしたというマヌケなエピソードが、後々、この物語全体に効いてくるのだから恐ろしい限りである。
そのうち、書道教室はいつの間にか「ギリシャ道」(と言っているように聞こえたけれど違ったかも)の教室に変わり、家元はゼウスになるし、家元の妻はヘラになる。
マドロミがいつの間にか教室の深部に入り込んでアフロディテと名乗るようになるのは判る気がする。
大家がクロノスになり、クロノスは私の中では時を司る神だったので、ギリシャ神話の時代と現代の書道教室とを行き来する時間の流れが時計の針の映像で表現されていたこともあって、何となく納得していたのだけれど、どちらかというと、このクロノスは、「父であるウーラノスの性器を切り取り追放する」とか「息子であるゼウスに討たれた。」というエピソードがあったからこその登場だったらしい。
物語はそのうち、ギリシャ神話を取り込んだ書道教室の話に進んで行く。
神々の世界にいた筈の(だと私が思っていた)マドロミや、アポローン(彼はどうもマドロミの弟ということになるらしい)が書道教室にどんどん馴染んでくるし、オバちゃんの息子である男とアルゴスがどんどん混同され始める。
アポロンの姉は、アフロディテじゃなくてアルテミスなんだけどなー、という私の違和感はこの際置き去りである。
一方で、やたらとギリシャ神話に忠実に(マドロミが書くギリシャ神話の写経が現実化して)、アポロンが美波演じるダプネーをひたすら追いかけ回し、ダプネーはひたすら逃げ回るという物語が再現されたりする。
この辺りの一貫性のなさが気持ち悪い。
そして、息子を探すためにマドロミとも協力して書道教室を探っていたオバちゃんは、ついに、マスコミを大きく動かして書道教室の実態を暴こうとする。
ここで家元夫人が天使たちを連れて出て行ったことが、また、私を混乱させる。マドロミが元々いた世界で関わっていた天使が家元夫妻の子供だということに何か意味があるのだろうか。
そのマスコミ報道の際に、オウム真理教の修業のシーン(膝でジャンプしようとしているシーン)の映像が後ろで流されたことで、やっとこの書道教室からギリシャ道に続く団体がオウム真理教をモチーフにしていたことに気がついたのだから、我ながらマヌケである。
でも、我ながらマヌケであることの悔し紛れということもあるけれど、今どうして、そこまであからさまにオウム真理教を持って来なくてはならないのか、よく判らないと思ったことも本当である。
何故、今、オウム真理教なのか。
マスコミに囲まれ、窮地に陥った家元は、ほとんど生け贄のように大家を自殺に追い込む。
こうした狂気と威圧と悪とを演じるときの古田新太の声は、どうして、サザエさんとウルトラマンを足して2で割ったような間抜けな髪型をしているにも関わらず、非情に、説得力を持って聞こえるのか。
この声が、マドロミの弟とオバちゃんの息子を殺し合わせるようなことをしたという、信じがたい事実を事実と確信させる力を持っているような気がする。
とにかく、恐ろしい声なのである。
アポロンと会計と信心の3人が地下鉄サリン事件そのものを演じることで、強烈に誤解しようもなくオウム真理教を思い起こさせたところで、マドロミの独白が始まる。
始まるのだけれど、何故だか私の記憶からは、この後の展開がすっぱりと抜け落ちている。
マドロミが何かを語っていたと思う。
登場シーンから思っていたのだけれど、ここでまた宮沢りえの喉がかなり厳しそうだなと思ったことも覚えている。
でも、彼女が何を語ったのか、何故か全く頭に残っていない。
かろうじて覚えているのは、マドロミの弟であるアポロンが、このお芝居の幕開けのシーンで1枚だけ白紙だった紙を自分の背中に見立て、そこに「幻」という文字を書き込んだことである。
そして、この「幻」を、マドロミは力一杯「幼」という字に変える。
どうして、今、地下鉄サリン事件なのか。
どうして、今、オウム真理教なのか。
その2つの疑問だけが頭を占拠していて、「書道教室で親友を殺してしまった弟を持つ姉」が語った何かを受け取るだけの余裕がなかったのだと思う。
とりあえず、ギリシャ神話を一貫性なく物語に取り込んでいたのは、恐らく、オウム真理教が既存の宗教を適当に取り込んでいたからではないかという気はした。
今、オウム真理教だとして、どうしてここまで具体的にイメージさせなくてはいけなかったのか。
いわゆる「カルト」を一般的に総体的にモチーフにするだけでは足りなかったのか。
もう一度、見に行く予定にしているので、そのときには意識してマドロミの語る言葉を聞いてこようと思う。
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