「じゃじゃ馬馴らし」を見る
彩の国シェイクスピア・シリーズ第23弾「じゃじゃ馬馴らし」
作:W.シェイクスピア
演出 蜷川幸雄
翻訳 松岡和子
出演 市川亀治郎/筧利夫/山本裕典/月川悠貴
磯部勉/原康義/廣田高志/横田栄司
妹尾正文/岡田正/清家栄一/飯田邦博
宮田幸輝/田島優成/川口覚/石橋直人/荻野貴継
観劇日 2010年10月29日(金曜日)午後6時30分開演
劇場 彩の国さいたま芸術劇場 O列16番
上演時間 2時間50分(15分の休憩あり)
料金 9000円
ロビーでは、パンフレット(2000円、だったと思う)や、Tシャツ、缶バッジなどが販売されていた。
また、蜷川幸雄の文化勲章受章をお祝いするメッセージがあったように思うけれど、ちゃんと見ていない。しかし、公演中にこういったおめでたい話があるというのは何よりである。
ネタバレありの感想は以下に。
さいたま芸術劇場の1階席は、後方でもかなり舞台が近く感じる。ほぼ中央の席だったこともあって、とても見やすかった。
開演前のロビーで楽器を演奏する人がいて、舞台には家の外観を表す幕がかなり手前(舞台の手前から2〜3mくらいのところ)に下がっている。
「じゃじゃ馬馴らし」は前に見たことがあるように思っていたのだけれど、少なくともこのブログを始めて以降は見ていないらしい。
通りかかった領主一行が、ビールを飲み過ぎて酔いつぶれ、家(というよりも、そこは酒場だったらしい)の外で寝入ってしまった男を騙してやろうと、領主の家に連れて行って立派な服を着せ、召使いとして傅き、小姓を女性の変装させて妻の振りをさせからかってやろう、というオープニングも全く記憶になかった。
「じゃじゃ馬馴らし」は、この大嘘の領主夫妻に見せる旅一座の芝居、という趣向のようだ。
領主夫妻は、そのまま客席で「じゃじゃ馬馴らし」を見ていたようで、その気配の消し方は見事だと思ったけれど、でも隣の席になった人は気になっただろうな、とも思ったのだった。
そして、劇中劇の役者たちが客席から登場し、狭いままの舞台上で一列になって踊る。
この時点からすでに、市川亀治郎演じる女性は悪のりしているし、月川悠貴演じる女性はしとやかである。
月川悠貴の女性ぶりには、またさらに拍車がかかったというか、磨きがかかったのではなかろうか。彼(というか、彼女というか)の隣に私が立って比べたら、絶対にあちらの方が女性らしく見えると思う。
手前に降りていた幕が上がると、そこは、久しぶりに新しい感じの空間だった。
奥行きを広くとり、ほぼ舞台を正方形に使っているように見える。そして、台形に降ろされた幕には、大きくボッティチェリの絵が描かれている(と思ったけれど、私の知識はかなり適当である)。
奥の大きな一枚はときどき絵柄が交換されるけれど(恐らく、演じられるシーンとの関係で替えられていると思うのだけれど、その「ココロ」は私には掴めなかった)、両脇の小さめの幕は、女性の足首から下辺りの絵がずっとそのまま降ろされていた。これまた、何らかの象徴なのだと思うけれど、私にはそこが掴めなかったのは、やはり悔しい限りである。
「じゃじゃ馬馴らし」は、月川悠貴演じる美しくてしとやかなヴィアンカには求婚者が何人もいるが、父親のバプティスタは、市川亀治郎演じる「じゃじゃ馬」と評判の姉娘キャタリーナが結婚しない打ちは、ヴィアンカも結婚させないと宣言し、何故かついでにヴィアンカに家庭教師をつけると言う。
ヴィアンカに求婚していたホーテンショーが、筧利夫演じる友人のペトルーチオにその話をすると、ペトルーチオは「持参金さえあるなら、性格なんて問題ない!」とハイテンションで言い切る。ホーテンショーは、ついでに、ペトルーチオに自分は変装するから音楽の家庭教師として売り込んでくれと頼み込む。
持つべきものは友人である。
って、そういう話なのか、これは。
一方、山本裕典演じるピサからパドヴァにやってきた若者ルーセンシオもヴィアンカに惚れ込み、従者に自分の振りをさせて真正面から父親に結婚を申し込ませるのと同時に、自分はグレチオにいつの間にか取り入ってヴィアンカの読書の家庭教師として売り込んでもらう。
この従者がかなりお調子者に見えるけれど、同時に何だかんだと機転も利くし賢いのがこの芝居のポイントの一つだろう。
この後の展開は割と単純で、ホーテンショー対ルーセンシオの「偽物家庭教師対決」は、割と簡単にルーセンシオの勝利が確定し、よーく考えれば男同士だから気味悪いのだけれど、ルーセンシオが自分の頬を指先で叩くとヴィアンカがそこにキスし、ルーセンシオもお返しにヴィアンカの頬にキスする、なんてことが繰り返される。
見た目柔らかな山本裕典と月川悠貴が演じているからいいようなものの、よく考えれば演じているのは男同士である。
でも、見ているときにはその「よく考えると気味悪い」ということが思い浮かばないのだから、2人とも相当に「なりきって」演じているのだろう。いっそ、微笑ましく見えてしまう。
その2人の様子を見たホーテンショーは、「自分という求婚者がありながら」というかなり自分勝手な失望をヴィアンカに対して抱き、あっさりと求婚者の地位は放り出して、自分に執心していたという未亡人に乗り換えることに決定する。
おいおい、という場面である。
ペトルーチオは、キャタリーナの父親に結婚を申し込み、「娘の気持ち次第だ」という回答を得て、キャタリーナに求婚する。
この、ペトルーチオとキャタリーナのシーンがもの凄い。
筧利夫と市川亀治郎が声を張り上げ、もの凄いスピードで語り続ける。ペトルーチオは強引に適当なことを並べ立ててキャタリーナを圧倒しようとし、キャタリーナは屁理屈でその怒濤の勢いに対抗しようとする。
幕開けから全員がこのスピードでしゃべっていたなら付いても行けようというものだけれど、これまではどちらかというとゆっくりしたテンポでしゃべっていた登場人物ばかりだったから、とてもではないけれど付いて行けない。
とにかく、私がこうやって圧倒されているように、キャタリーナも圧倒されて根負けしたのね、ということだけはよく伝わって来た。
この後、一度、領地に戻っていたペトルーチオがとんでもない格好(ドン・キホーテ風、と思ったけれど、そもそもシェイクスピア作品とドン・キホーテはどちらが古いのだろう?)で結婚式にやってきて、破天荒かつ型破りなことを次々としでかし、披露宴にも出席せず、唖然として声も出ない(というよりも、こんな奴と結婚することになってしまった我が身を呪いつつ哀れんでいる)キャタリーナを連れてペトルーチオは領地に戻る。
その間、ルーセンシオもヴィアンカと結婚するために適当な財産分与の約束をし、その証文を寄越せと言われて偽物の父親をでっち上げ、そちらが財産分与で盛り上がっている間にこっそりヴィアンカと結婚式を挙げ、そんなこんなしているところに本物の父親がやってきて、というドタバタが展開されるのだけれど、まあ、それはいいだろう。
それよりも、問題はペトルーチオである。
領地に行く途中、馬がひっくり返ってキャタリーナのドレスは泥だらけ、家に着いても食事もさせてもらえず、睡眠も取らせてもらえず、疲労困憊フラフラになって行く。帽子やドレスをペトルーチオが注文し、それが届いたと思ったら片っ端からペトルーチオがそれを返してしまう。
そうして、散々に弱らせておいて、「妹の結婚式のためにパドヴァに戻ろう」というエサをちらつかせて、さらにキャタリーナに無理難題を押しつける。
そうすると、流石のキャタリーナも家に戻りたさに、ペトルーチオが夜だと言えば今が昼間であっても夜だと言い、ペトルーチオがあれば若い女の子だと言えば老人(実はこれがルーセンシオの父親なのだが)に若い女性が・・・、と話しかける。
はっきりと、イヤ〜な感じである。
それは、キャタリーナも屁理屈をこねるわ、妹の手首を縄で縛るわ、家庭教師を楽器でぶっ叩くわ、がさつだわ、決して褒められた人間ではなかったかも知れないけれど、屁理屈をこねるだけの知性があり、従順な妹を批判するだけの理性があり、暴れるだけの体力があり、「結婚なんてしたくない」という意思があった。
演じている市川亀治郎の品が出ていたのかも知れないけれど、決してがさつなだけの人間ではない、という雰囲気があった。
「生きている人間」だったのに、ペトルーチオの扱いはまるで人間ではなく家畜を手なずけるようなやり方だし、キャタリーナが自分を失う過程を見せられているような気がした。
ペトルーチオは、そりゃあ「金目当て」みたいなことは最初から言っていたし、最初からどこかぶっ飛んだ感じで登場していたのだけれど、「悪人」には見えていなかったので、余計にイヤ〜な気持ちになった。
そして、ヴィアンカの披露宴の席で、ヴィアンカとルーセンシオ、ホーテンショーと某未亡人という二組の新婚カップルを前にして、ペトルーチオの言うままに振る舞ったキャタリーナが、最後、「男に従順に尽くすべき女の幸せ」について、力強く語って幕となる。
もちろん、場は、キャタリーナをここまで手なずけたペトルーチオへの賞賛の嵐である。
でも、ちょっと待て。
この披露宴の場にいるのは、3人の花嫁の他はみな男ばかりなのである。
これは、ハッピーエンディングなんだろうか。
キャタリーナがキャタリーナの個性を失ってゆく物語、もっと言うなら、ペトルーチオという男がキャタリーナの個性を奪ってゆく物語にしか見えない。
極悪非道なことをペトルーチオはしているのに、それが、ペトルーチオはもとより、父親にも、世の女性の夫たちにも都合がいいから賞賛されている、ようにしか見えない。
そんな悶々としたエンディングだったのだけれど、再び、劇中劇の役者達が一列になって踊り、そういえばオチがつかないままになってしまった、偽物の領主夫妻が客席から去り、カーテンコールになってそのイヤ〜な感じは払拭された。
なぜなら、カーテンコールに出てきた亀治郎がめちゃくちゃ綺麗だったからである。
キャタリーナという役に合わせて、前半はガサツな感じだったし、途中はへとへとのボロボロだったし、最後は「賢夫人」という風情はあるものの決して美しい感じは出していなかったのだけれど、ここに来て、もう大化けした。
途中、歌舞伎の見栄を切ってみたり、男のような声を出してみたり、笑いを取る方向に走っていたものだから(そして、それをまたもの凄く楽しそうに演じていたものだから)、余計に、この「美しさ」を演じている亀治郎は美しかったのだ。
真っ白なドレス、キラキラしたアクセサリー、真っ赤に塗られた唇、伏し目がちにしたところから目線を上げたとき、同時に口角を上げて妖艶に微笑んだその表情!
仕草まで上品に妖艶になっていて、もう、惚れた。
「じゃじゃ馬馴らし」という芝居の後味の悪さを、一瞬にして劇場から(少なくとも私から)払拭した、見事なカーテンコールだった。
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