「光明皇后1250年御遠忌記念 特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」」展に行く
昨日(2010年11月19日)、2010年10月8日から12月12日まで、上野の東京国立博物館で開催されている、「光明皇后1250年御遠忌記念 特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」に行ってきた。
正倉院宝物の特別出品が11月21日までだったので、それに間に合わせたかったのだ。
ちなみに、この写真は本館で、東大寺展が開催されているのは平成館である。そして、平成館と本館の間からは建設中のスカイツリーが見えた。
母から招待券をもらったからという理由で出かけたので、予備知識は全くない。
なので、迷わず音声ガイド(500円)を借りた。
「第1章 東大寺のはじまり 前身寺院と東大寺創建」では、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くした息子の菩提を弔うために建てたお寺(これは正確ではないらしいけれど)と周囲のお寺が集まって金光明寺となり、大仏建立が始まって後、「東大寺」と称されるようになったことが語られている。
それは、二月堂や三月堂の辺りから、その前身寺院を飾っていただろう三彩軒丸瓦がたくさん見つかっているのだそうだ。
この部屋の展示は、とにかくこの「丸瓦」が多い。
そして、この丸瓦のデザインがとにかくみな同じである。何やら意味があるという音声ガイドを聞いたような気もするのだけれど、とにかく「まるで呪いのようにみな同じだよ」と思ったことを覚えている。
それから、東大寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」というのだそうで、大和国の国分寺なのだという。そういえば、各国に国分寺と国分尼寺を作らせたのも聖武天皇だったな、でも、東大寺が国分寺だったとは知らなかったよ、と自分の中学社会レベルの日本史知識に頭を抱えたことも覚えている。
往時の東大寺のジオラマも飾られていて、そこには、東西の七重塔があって驚いた。当たり前なのか驚くべきなのかよく判らないけれど、大仏殿の倍以上の高さがあったらしい。
修学旅行の記憶では、東大寺と春日大社はすぐ近くだったと思うのだけれど、このジオラマを見るとかなり離れていて、それも意外だった。
平城京はきっと人口が少なかったんだな、随分と平らで広い作りだな、これは大陸っぽいということなんだろうか、と間抜けな感想を持つ。
「第2章 大仏造立」では、まずどーんと「金光明四天王護国之寺」の額が飾られている。
聖武天皇の真筆だそうだ。
正直に言って、それほど立派な文字ではないし、力強さのようなものも伝わってこない。失礼ながら、聖武天皇って結構気が弱い人だったんじゃなかろうかと思ってしまった。
私の適当な感想はともかくとして、このお部屋がこの東大寺展の白眉であることは間違いない。
何しろ、東大寺から出て展示されるのは初めてだという八角燈籠がここにあるのだ。
その前に、大仏開眼のときには中国やインド、ギリシアからきた人々が集まり、そこで伎楽が疲労されたのだという。伎楽がどういうものかは今ひとつ判らないのだけれど、それに使われたお面はちょっとエキゾチックである。間違っても日本人の顔ではない。
そして、精巧な作りである。
オルメカ展に行って「この技術は凄い」と思ってきたばかりのところなのだけれど、奈良時代の日本だって十分に凄いのである。
誕生釈迦仏立像及び灌仏盤は、東大寺で花祭りが行われる際にみなで甘茶をかけるお釈迦様と、甘茶を受け止めるお皿というかお盆である。
通常は10cmくらいのお釈迦様らしいのだけれど、東大寺の場合は、それが30cmだか40cmだかあるらしい。この灌仏盤の外側に線で彫られたお花やチョウチョが中々可愛らしかった。
そして、いよいよ八角燈籠である。
この八角燈籠の四面には、四種の楽器(縦笛、横笛、笙、あとシンバルのような打楽器)をそれぞれ奏でる音声菩薩が透かしの格子の上に浮き彫りになっている。
これがなかなか優美なお姿である。
大仏殿は二度焼失しているそうなのだけれど、八角燈籠は奈良時代のままのものだそうだ。
その割に、「前は八角燈籠にあった」という音声菩薩のひとつが別に展示されていたのが謎である。 それにしても、4.6mはデカイ。大仏殿の前にあるから豆粒ほどの印象だけれど、やっぱり大きくて、支える竿(という名称だったような気がする)も太く、アンバランスと言えばアンバランスなのだけれど、そこに経文が線彫りにされているところが「転んでもタダでは起きない」という感じがする。
伎楽面のところでは、当時に演奏されていた音楽が再現されたものが音声ガイドで聴けたのだけれど、ここでは、この音声菩薩様達が手にしている楽器だけで演奏されているという曲を音声ガイドで聞くことができた。
なかなか気が利いている。
ここでは、大仏開眼の際に奉納(という言葉が合っているかどうかは判らないのだけれど)されたというお宝も展示されていて、水晶で作られた入れ物に真珠が入っていたりして、何度も繰り返すようだけれど、奈良時代の技術の高さに惚れ惚れした。
銀製鍍金狩猟文小壺というこの水晶に入れた真珠塔を収めていた入れ物も、細かい象眼が施されていて綺麗である。こうした細かな細工ものについては、拡大写真や映像で説明があるのも嬉しい。
それはそれとして、この壺の意匠の不思議なところは、馬に乗った狩人が左から右に逃げる鹿を弓で射ようとしているところである。
私の感覚だと、こうした意匠の場合は、鹿も狩人も右から左に動いていると思うのだけれどどうなのだろう。
この後に見た聖武天皇遺愛の掛け軸にも同じような図柄があり、そちらでは、右から左に動いていた。
何だか座りが悪いなーと思った意匠で、とても印象に残っている。
その他、聖武天皇や光明皇后らが写経した(らしい)経文も展示されていて、額では「ちょっとナサケナイ」と思った聖武天皇のお手が、こちらでは太く大きく力強いものだったのも謎だった。
多分、第2章と第3章との間のコーナーで、大仏をバーチャルに再現したという映像が見られたと思う。
確か、上映時間は12分である。
大仏を下から見上げたり、光背を取り除いて中に経文を収めるために背中に空けられた穴が見られたり、大仏の視点からはどういう風に見えるかといった映像が見られたり、大仏が鎮座している蓮華座にの花弁一枚一枚に描かれた「世界」の解説など楽しい。
そもそも、東大寺の大仏が「盧舎那仏」という仏様だったことなど、今回初めて知ってしまった。
もっとも、仏様の区別など一切つかないので、盧舎那仏がどんな仏様なのかは全く判らないし、盧舎那仏という名前が判ったからといって何かが変わるわけでもないのだけれども。
第3章 天平に至宝の部屋では、二月堂本尊光背がひときわ大きく、人を集めていた。
そして、もう一つの呼び物が正倉院の宝物の数々である。
正倉院の宝物は、光明皇后が正倉院に納めたものが展示されていて、聖武天皇遺愛の物だという臈纈屛風(今ここで名前を確認するまで掛け軸だと思っていた・・・)が目を引く。
恐らく作られた同時はもっと赤かっただろうこの屏風は、ろうけつ染めの手法で作られているらしい。
そして、桂心(要するにシナモンである)を見ても特段の感動は呼ばないのだけれど、薬として納めた光明皇后が「治療のために使ってもよい」と言って納め、必要に応じて実際に使われたため、100年後には元の1/10の量になっていたというエピソードにいたく感銘を受けた。
「使ってもいい」と言い、実際に許可を出し(その許可を与えた文書も展示されている)、そして使われているというのは、何だか凄いことなのではないだろうか。
このお部屋で目を引くのは、後はやはり「大仏開眼」に使われたという筆(最初のときと、再建されたときと、ともに使われた筆らしい)と、最初の大仏開眼のときに筆に結びつけて天皇皇后を始めたくさんの人が握ってその功徳に預かったという「ヒモ」だろう。
紐と言ってしまうとありがたみも何もあったものではないのだけれど、1000年以上前に作られたとは思えない、深いトルコブルーで、一体何で染めたのだろうと思う。確か、青というのは、天然染料では染められない色ではなかっただろうか。
そして、展示は、第4章 重源と公慶で、焼失した大仏殿及び大仏の再建に力を尽くした2人の僧侶に関する展示で締めくくられる。
名前が似ていることに意味があるのかないのか、阿弥陀如来立像らは、快慶の作なのだそうだ。私の中では快慶という仏師は運慶とセットだったので、快慶の名前だけが出てくることが何となく不思議だった。
概ね2時間弱かけて、こんな感じで見て回ったのだった。
ミュージアムショップもなかなか充実していて、私はお香を購入した。
2300円の図説を購入すると、東大寺の僧侶の方(多分、特別にいらしていたのだと思う)からご集印がいただけますという案内もあって、かなり迷ったのだけれど、購入することはしなかった。なぜ「御朱印」ではなく「ご集印」なのだろう。
入口に戻ると、カフェのある方の空間に大仏様と等身大の「右手」が展示されていた。
バーチャルリアリティを見たときにも思ったのだけれど、大仏様の手は、手相的にはどうなんだろう?
展示に様々な工夫があって、知識も教養もない私でもかなり楽しんで来たのだった。
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