「時計じかけのオレンジ」を見る
「時計じかけのオレンジ」
原作・脚本 アンソニー・バージェス
上演台本・演出 河原雅彦
音楽監督 内橋和久
出演:小栗旬/橋本さとし/武田真治/高良健吾
山内圭哉/ムロツヨシ/矢崎広/桜木健一
石川禅/キムラ緑子/吉田鋼太郎/ほか
観劇日 2011年1月15日(金曜日)午後6時開演
劇場 赤坂ACTシアター 2階B列35番
上演時間 2時間40分(20分の休憩あり)
料金 11000円
開演前、ロビーのグッズ売場はお手洗いよりも長く行列ができていて驚いた。混雑していたので、ポスター1000円しか値段をチェックしていない。
昨日の「ろくでなし啄木」と同様に、ロビーでホリプロのお芝居のチケットが販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
奥へ行くほど狭くなる台形の舞台で、両脇は鏡のようになっている。
開演前、舞台はカーテンレールのようなものが渡されて割とどうでもいい感じの白い布が幕代わりのように下がっていた。その奥からチューニングしている音が聞こえてきて、そのとき初めて「この舞台ってミュージカルだっけ?」と思ったのだから、我ながら予習が足りない。
白い幕が両脇に引かれると、奥は2階建てになっていて、上にはバンドが陣取っている。バンドの前から地上まで一面、映像を映し出すスクリーンのようになったり、ライトを当ててバンドメンバーを見せたりしていた。
音楽は生バンドで入っていたし、歌も踊りもあったのだけれど、主役のアレックスを演じた小栗旬があまり歌わなかったせいか、終わってみた印象としてはミュージカルを見たという印象が薄い。
どちらかというと、新感線の舞台とイメージが近いというか、「パンク・オペラ」と自ら称していたし、「音楽劇」の方がしっくり来るかも知れない。
このお芝居の演出って誰だったかなとずっと思っていて、最後に映像で河原雅彦と出て、納得した気持ちになった。
舞台は、吉田鋼太郎演じる老人が一人で舞台奥から登場するところから始まる。
そこに、アレックスたち4人の少年(という設定なんだと思う、多分)が絡んできて、老人に乱暴狼藉を働く。
その過程で、「原作では、こういうシーンはなかった」とか「映画版ではこうなっていた」とか、メタな感じの台詞を客席ではなく相手役にしゃべるのが珍しい感じがした。客席に対して、舞台上の世界からちょっと離れたところに立って言われることの多いタイプの台詞だと思う。一人だけ離れたところに立って、スポットライトを浴びてしゃべるのが似合うような台詞を普通に舞台上の世界に持ち込んでしまう。
元の舞台や映画からそういう造りなのか、上演台本も担当した河原雅彦の創作なのか、判然としなかった。
ラストシーンまで気がつかなかったのだけれど、アレックスと連んで悪事の限りを働き、アレックスを裏切って警察に売った元仲間の少年たちを演じていたのは、橋本さとし・武田真治・高良健吾の三人だったようだ。
白塗りに近い色に顔を塗り、目の上下にこれでもかというくらいつけまつげを付けているのか描いているのか、とにかく素顔が判らないくらいのお化粧をしていたので、最初は全く判らなかった。
4人は老人に乱暴狼藉を働いた後、作家夫婦の家に押し込みをして、MILK BARでドラッグ入りのミルクを飲む。
アレックスは保護観察中らしく、ここで山内圭哉演じる保護観察司に出会って、あまり熱心でもなく「自分の保身のために」頼むから大人しくしていてくれと言われ、適当に話を合わせ、「お前がこんなところにいていいのか」と適当に脅している。そこにためらいのようなものは全くない。
ためらいがないと言えば、何が気に入らなかったのか、アレックスは仲間のことも躊躇なく刺す。
コイツの行動原理は何なんだ? などとは考えてはいけないのだ。
しかし、キムラ緑子演じる老婦人の家に全く同じ手口で押し込みに入り、老婦人の反撃によってそこにあったベートーベンの胸像に傷がついたことが引き金となってアレックスは彼女を殺してしまう。それを待っていたのか、仲間を刺したことが致命的だったのか、アレックスは仲間の3人に裏切られ、警察に捕まってしまう。
しかし、捕まったからといって、しおらしくなるとか、凹むとか、反省するとかいった行動をアレックスが取る筈もない。
「いい子」の振りをして、刑務所にやってくる神父(牧師かも)と仲良くし、「早く出られる方法」を悪賢くずる賢く探している。
新入りの受刑者が、刑務官黙認の下で仲間の受刑者たちにリンチを受けて死んでしまい、自分のせいにされそうになってアレックスは暴れまくるが、そこに吉田鋼太郎演じるいかにも怪しげな内務大臣が視察にやってきたのを契機に、何だかいつの間にか上手く立ち回って、「2週間で刑務所を出られる治療法」の実験台になることが決まる。
この治療法自体に疑問を持つ神父(ということにとりあえず決める)は本気でアレックスを心配しているようなのだけれど、それはやはりアレックスの演技に騙されているということなのか。
橋本さとし演じるいかにもマッド・サイエンティストのドクターと、キムラ緑子演じるマッド・サイエンティストではない感じのドクターが、アレックスの治療を開始する。
しかし、橋本さとしもキムラ緑子も見事な変身ぶりである。一人二役に気がつかなかった人もいたに違いない(私である)。
ちなみに、彼らは少なくともあと1つずつ、別の役も演じている。楽しそうに飛び道具的に演じていた山内圭哉も含め、3人のように確かなアクの強い役者さんが支えている舞台というのは安心できるし面白い。
「目を閉じないように」と何やら機械を装着され、アレックスの「治療」は続けられる。
その途中で休憩である。
しかも、「主役が舞台上にいる状況で観客がどう行動するかも実験の一部である」などとマッド・サイエンティストのドクターは言い残し、アレックスは舞台上に残され、うめき声を上げ続ける。
ほとんど出ずっぱりの主役を休ませない休憩なんて初めて見た。
もっとも、何やら箱のようなものを被せられた後は、うめき声はテープで流れていたようだったけれど、でも、「見られ続けている」ことに変わりはない。それとも、どこかでこっそり入れ替わっていたのだろうか。休憩中にロビーに出た私にはよく判らなかった。
さて、後半は、この「治療」に疑問を持った女医が去った後もマッド・サイエンティストの治療は続き、ついに「完治」となる。
内務大臣が主催して彼の「治療」のお披露目が行われる。暴力や暴力的な衝動、そして、映像のBGMに使われていたベートーベンの第九に異常な拒否反応を示し、暴力的な行動を一切取れなくなったアレックスに、神父を除く人々は拍手喝采を送る。
神父は「彼は、選択すらできないようになってしまった」「彼が暴力的な行動を取らなくなったのは、主体的な選択の結果ではない」と叫ぶが、誰一人として耳を貸そうとしない。
恐らくそれだけこの時代のこの場所(いつでどこかは示されないのだけれど)が荒んでいるということなんだろう。
「画期的な方法で治療した」とデカデカと顔写真入りのニュースになったアレックスが出所した後、そうそう穏やかな生活が送れる筈もない。
両親には拒否され(しかも、自分と同年配の男がどうも両親と同居しているらしい)、冒頭で痛めつけた老人は仲間を呼んでアレックスに復讐し、元の仲間3人はこれまた内務大臣の「画期的な」政策で警察官として採用されたらしく、彼らにも痛めつけられる。
この辺りから判らなくなってくるのだけれど、それは、アレックスに施された「治療」のせいなのか?
もし「治療」されていなかったら、アレックスはまず間違いなく暴力で反撃していた筈だけれど、その「反撃」の手段が奪われたことがこの「治療」の問題点なのか?
出所後のアレックスが両親に拒否されたのも老人に復讐されたのも、それは、以前の自分の行為が招いたものであって、「治療」とはこの場合関係ないんじゃないか?
ここで語られているのは、多分、もっと普遍的な問題なのだ。
サブリミナル効果を用いたコマーシャルが禁じられているのと同じ理由で、この「治療」が否定されるべきであるという、そういう問題では多分ない。
元仲間の警察官たちにボコボコにされたアレックスは、自分が痛めつけた作家に助けられる。
彼が書いた小説が「時計じかけのオレンジ」というタイトルなのだけれど、そのつながりというか伏線に全く気づけなかったのが少し悲しい。恐らくは、何らかの意味があったと思うのだけれど、彼の小説の内容が舞台上で語られたという記憶すらないのだから仕方がない。
最初のうちは、妻と自分の仇だと気がついておらず、アレックスを「政府が行ったとんでもない治療法の被害者」とだけ認識し、自分の小説を発禁処分にした政府に一撃を加えてやろうと考えた作家だけれど、アレックスの正体に気がつくと突然、人が変わってしまう。
アレックスは、彼に追い詰められて(だと思う)自殺する。
しかし、彼は生き延びる。なかなか往生際が悪いところがいい。
包帯でぐるぐる巻きにされて病院で目覚めたアレックスは、投身自殺のショックなのか、それとも何故か登場した女医の治療の効果なのか、すっかり「治療」前に戻っている。
新しい「治療」を受けたアレックスが自殺したことで窮地に陥っていた内務大臣は、起死回生の一手とばかりにアレックスの「治療」が「治った」ことを宣伝し始める。もちろん、その代償にたくさんの契約書にアレックスがサインしていたから、相当な「代償」が提供されたんだろう。
そして、アレックスは復活する。3人の仲間も一緒である。
何も解決してないぞ! っていうか、何も落ちていないじゃないか! と(心の中で)叫んでも舞台上には届かない。
結局、どっちが良かったのか、ということは示されない。
神父が「神父」という役割をかなぐり捨てるときに叫ぶけれど、それは、観客への問題提起ではないように聞こえる。どこまでも内省的な問いで、観客に考えることを求めてはいない叫びのように聞こえた。
ところが、エピローグというかカーテンコールのように登場して歌っていた小栗旬が「しーっ」と拍手を止め、もう一つのエンディングが始まった。
アレックスは髪も黒くし、「18才」だと称しつつ、何だか大人になっている。
4人でつるんで遊んでいたのは「若気の至りでした」という感じで、「僕はもう、まともに大人になりました」と17才の女の子に結婚を申し込んでいる。
いや、判らないから! と(心の中で)叫んでも、やはり舞台上には届かない。
このシーンが、本当の「ラスト」なのか、誰かの「夢」なのか、パラレルワールドで遭ったかも知れないなかったかも知れないもう一つのエンディングなのか。
よく判らなかったけれど、多分、それはこの音楽劇の「肝」ではないような気がする。
暴力を振るうという「選択」は許されるのか、暴力を振るうという選択肢を奪うことは許されるのか。
神父が「判らなくなった」と叫んだ究極の選択は多分こういうもので、多分この音楽劇の「肝」もここにある筈なのだけれど、何故かここからどこかへ意図的にずらされているんじゃないかという感じもする。
そういうところも含めて、河原雅彦らしい舞台だなと感じたのだった。
| 固定リンク
「*感想」カテゴリの記事
- 「太鼓たたいて笛ふいて」 を見る(2024.11.24)
- 「つきかげ」を見る(2024.11.10)
- 「片付けたい女たち」を見る(2024.10.20)
- 「僕と私の遠い橋」を見る(2024.10.14)
「*ミュージカル」カテゴリの記事
- 「未来少年コナン」の抽選予約に申し込む(2024.03.03)
- 2023年の5本を選ぶ(2024.01.06)
- 「東京ローズ」のチケットを予約する(2023.10.01)
- 「ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル」を見る(2023.07.16)
- 「おとこたち」を見る(2023.03.26)
コメント
まさこ様、コメントありがとうございます。
私は映画を見ていないのですが、映画では「人間の暴力衝動」というテーマが鮮明だったのですね。
舞台では、おっしゃるとおり、その辺りの風刺や批判といった要素が薄かったと思います。批判や風刺といった部分の印象を薄めた分、何かが濃くなっていて、そこにピタっとハマった人はスタンディングオベーションになったのでしょう。
こっそり書くと、個人的には、スタンディングオベーションをしている人は、芝居に感動した人と、特定の役者さんに感激した人とがいるように思うのですが・・・。
DVDで映画を探してみようと思いました。
投稿: 姫林檎 | 2011.01.27 23:07
自分が観るまで、こちらの感想を読むのを我慢していたのですが、昨日観てきたので、やっと読めました。
個人的にはちょっと苦手な感じの舞台だったのですが、スタオベしてる人もいたし、好みなんだろうな、と思います。
映画があまりに強烈だったので、どう舞台化されるか楽しみだったんですが、人間の暴力衝動というテーマは曖昧になっていてちょっと残念でした・・・。
投稿: まさこ | 2011.01.27 11:33
ぷらむ様、初めまして&コメントありがとうございます。
そして、アレックスの仲間を演じていた役者さんについてお教えいただいてありがとうございます。
物語の前半と後半では、アレックスの仲間は変わった、という設定だったのですね。
そういう風に発想できず、「橋本さとしさんたちが演じていたのね−。最初の頃は判らなかったわ−」という風に思っておりました。
おっしゃるとおり、やはり「痛烈な風刺と批判」という印象は薄かったと思います。
「痛烈な風刺と批判」を軸に翻案しないとなかなか難しいのかも知れませんね。
投稿: 姫林檎 | 2011.01.20 23:02
すみません、通りすがりなんですけれど。
アレックスの仲間達は前半は、別の若い役者さんたちですー。
最後のところだけ、さとしさん達が「新メンバー」って感じで入ってます。
(最初の仲間は警官になっちゃったから)
ですが、最後のところに出て来るおじさん達が演じる「若者」の方が
格段にハジケていて、カッコイイので前半の記憶が吹っ飛ぶんですよね・・・。
もともとの小説も映画も社会に対する痛烈な風刺と批判だったんだろうと思いますが、そういうところは、あまり感じられない舞台でしたね。
時代が違うのだから、あたりまえと言えばあたりまえですが。
投稿: ぷらむ | 2011.01.20 17:52