「国民の映画」を見る
パルコ・プロデュース公演「国民の映画」
作・演出 三谷幸喜
出演 小日向文世/段田安則/白井晃/石田ゆり子
シルビア・グラブ/新妻聖子 /今井朋彦
小林隆/平岳大/吉田羊/小林勝也/風間杜夫
観劇日 2011年3月17日(木曜日)午後2時開演
劇場 パルコ劇場 M列19番
上演時間 3時間10分(15分の休憩あり)
料金 9000円
開演前に三谷幸喜が舞台上に登場した。
上演を決めた公演があり、中止を決めた公演もある。どちらも迷った末の決断だし、どちらも正しい決断である。自分はこういうときこそ劇場の明かりを消してはいけないと思う。自分は停電しても舞台は続けるつもりである。役者がいてお客さんがいれば舞台はできる。
そう言い切った後で、実際にそういうことになったらプロデューサーと相談させてもらいますが、と落とすところは三谷流だ。
客席は、2/3から1/2くらいの入りだろうか。
このときに私が思ったのは、昨日ののわかぎ座長も、三谷幸喜も、上演は当然のことではなく、特別に何か言わなければと思ったんだな、ということだった。
ネタバレありの感想は以下に。
三谷幸喜が、最初に「こんなときに限ってコメディではないんです」と言ったように、舞台が広い。
私の思い込みかもしれないけれど、シチュエーションコメディは、舞台を狭く感じさせれば感じさせるほどコメディにならざるを得なくなるような気がする。
やたらと立派な屋敷で、小日向文世演じるドイツのゲッペルス宣伝相と、小林隆演じるこの家の執事フリッツとが、映写機を回して映画を見ている。
暗い舞台、映写機の明かりで浮かび上がる2人、暗い将来を暗示させる幕開けである。
ゲッペルス大臣の邸宅では、今日、映画人を招いたパーティを開くことになっているようだ。
石田ゆり子演じる大臣の妻は、夕方近くになってもネグリジェにガウンを羽織った姿だし、夫主催のパーティにものすごく出たくなさそうだし、ぱっと見て、この家を支えているのは執事のフリッツであることがよく判る。
その家に、段田安則演じる親衛隊長のハインリヒ・ヒムラーがひっそりと何故かやってきている。もちろん、パーティに招かれたからではない。この「ひっそりさ(劇中では「影の薄さ」と表現されていたけれど)」がヒムラーの身上だし、ヒムラーを演じる段田安則の身上だろう。
色々と脛に傷持つ身らしい(しかし、どうしてそんな人物が宣伝相などになれたのか)ゲッペルスは「何しに来たんだ」と戦々恐々としている。そのゲッペルスが、「二人きりになるな」と気を使っているフリッツが、恐らくは一番危険な状況なのだろう。
映画人たちが次々と登場し、紹介されて行く。
ゲッペルスが招いた映画人だから、体制に迎合している人々であると表現して差し支えあるまい。
そんな中に、今井朋彦演じるファシズムを否定する言論を行っていたため、ナチスから著書を発禁処分にされ、執筆を禁じられている作家のケストナーが招待客として現れたのは異質だったろう。ゲッペルスが招待したことにも、ケストナーがその招待を受けたことにも違和感がある。
その違和感から、マグダが「かつて付き合っていた自分に会いに来たのだ」と勘違いするのは、まあ、仕方があるまい(とこのときは思った)。
「主役は最後に登場する」という話が散々出た後で、白井晃演じる白い服で太った体をさらに太って見せているグスタフ元帥がまぶしすぎるスポットを浴びて、舞台の真ん中にある階段でポーズを取るところで一幕が終わる。
このお芝居の上演時間は3時間(15分の休憩あり)が予定されていて、一幕が60分、に巻くが105分だから、ここまででいわば「序章」という感じだ。
それにしても、何というか、感想を書きにくいお芝居である。
何故だろう。
劇中でずっと「あのお方」と呼ばれ、一度も劇中で名前が出ることのなかったヒトラー率いるナチスを題材にした物語だからだろうか。
宣伝相であり大の映画ファンでもあるゲッペルス大臣は、戦意高揚のために「風と共に去りぬ」を超える娯楽映画を作ろうと、その呼びかけのためにこのメンバーを集めたのだと発表する。
ヒムラーとの間に「あのお方」のお気に入り度を巡る鞘当て(というと、えらく低次元に聞こえるけれど、そう見えたのだから仕方がない)、ゲッペルスがグスタフに対して一方的に(という風に見える)芸術に対する「大度」について競争意識を持っていたり、マグダとケストナーとの思い出が実は一方的なマグダの思い込みだったり、愛人にしていた若い女優のエルザをゲッペルスが保身のためにあっさりと切って風間杜夫演じる映画監督権俳優にその始末を押し付けたり、そのことに逆上したエルザがヒムラーの銃をこっそり奪ってゲッペルスを撃とうとしたり、その流れ弾に当たった小林勝也演じる老名優が倒れてしまったり。
そして、老名優の手当てをしていたフリッツを評して、シルビア・グラブ演じる大女優がうっかりと悪気なく(というのが一番始末に負えないと思うけれど)「執事はユダヤ人に限るわね」と言い放ったことで、事態は一変する。ヒムラーが聞き逃す筈もない。
マグダの前夫に仕えていたフリッツの映画に対する深い知識に魅せられて、宣伝相という地位にあるにも関わらず彼を執事として雇っていたゲッペルスだが、「裏切られた思いだ」と吐き捨て、フリッツは「旦那様方はご存じないことです」と庇う。
その場で、ゲッペルスとヒムラーが、ヨーロッパからユダヤ人の存在を消す、一度に2000人を「処理」できるガス室を用意できるようになった、などという話をしていたにも関わらずである。
そして、ゲッペルスが発表した映画出演を喜んで承知していた映画人たちも、次々とこの家を去って行く。
決定的な一言を言った大女優がそのことに微塵も悔恨の念を感じていないらしいことに違和感があるのだけれど、それでも彼らは「もう我慢できない」と去って行くのである。ゲッペルスが発表した「ウィリアム・テル」の主役になるはずだった、平岳大演じる二枚目俳優すら、その場を去って行く。
残ったのは、監督を任される筈だったレニだけである。
体制側にいる筈のグスタフ元帥すら「ばかげている」と言って去って行くのだ。
この芝居の主役はゲッペルスということになると思うのだけれど、しかし、実際はやはりフリッツが芝居の中心にいる気がする。
「庇ってくれて礼を言う」と言ってフリッツの手を取ったゲッペルスに対して、フリッツは「同じ空気を吸っていることすら苦痛なくらいだ。しかし、主人を守ることが自分の務めだ」と怒鳴り返す。ここまでずっと礼儀正しく穏やかでどんなことも落ち着いて対処していたフリッツが初めて感情を露わにしたのだ。しかし、フリッツ自身はゲッペルスによって庇護されていたとはいえ、彼の弟はすでに収容所に送られているというのだから、逆にこれまでの克己心に驚くべきなんだろうと思う。
けれど、私が一番ぞっとしたのは、「力になれなくてごめんなさい」とフリッツの手を握って震える声で言っていたマグダが、「先に寝みます」と言って階段を上がりつつ、フリッツのことを「残念だわ(だったような気がする)。ユダヤ人の割りに感じが悪くなかったから」と淡々と言っていたシーンだった。
怖すぎるだろう。
ゲッペルスに「映画を見たい」と言われて「勝手にご覧になればよろしい」と言ったフリッツが、それでもやっぱり戻ってきて映写機の準備を始める。
しかし、それはゲッペルスのためではない。ゲッペルスが薀蓄をまた語り始めたのに対して、「静かに見させてくれ」と言ったことでも判る。
フリッツはどうなるのか。
彼がユダヤ人であり、そのことがヒムラーに判ってしまうのだろうということは予測していたけれど、この後どうなるのかは何故か全く思い浮かばなかった。
ラストシーンは、映写機がからからと回り、相変わらず不機嫌そうに姿勢悪く座ったゲッペルスの横に立ったフリッツが、登場人物たちの「その後」を淡々と、何かを読み上げているかのように語って行く。
フリッツ自身の「最期」も語り、最期にゲッペルス一家の最期を語って「以上でございます」と述べて舞台上の明かりが落とされたときには、何というか、しんとした気持ちになった。
幕が開く前に三谷幸喜自身が言った様に「重い」結末だった。
でも、このお芝居を見てよかったと思う。
「映画」について語ることは多分「芝居」を語ることでもあったんじゃないかと思ったのだった。
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