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「雨」
作 井上ひさし
演出 栗山民也
出演 市川亀治郎/永作博美/梅沢昌代/たかお鷹
山本龍二/石田圭祐/酒向芳/山西惇/植本潤 ほか
観劇日 2011年6月24日(金曜日)午後6時30分開演
劇場 新国立劇場中劇場 1階10列56番
料金 7350円
上演時間 3時間30分(20分の休憩あり)
ロビーはかなり賑やかで、題材に合わせて紅花がたくさん並べられて写真コーナーが作られていたり、ラ・フランスを使ったメニューがカフェにあったり、山形地方の旅行情報等々があったり、井上ひさしの遺品が展示されていたり、蕎麦の種やラ・フランス味のラスクが配られたりして、まるでお祭りだった。
でも、それがいい感じだったと思う。
パンフレット(800円)等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
中劇場の舞台をさらに大きく使って回り舞台をしつらえ、両国橋や山形の紅花農家、街道筋に紅花畑と場面を次々と変えてお話がそれこそ「回って」行く。
効果音は、舞台横にスペースを作り、生演奏で聞かせる。
井上ひさしの芝居らしく、音楽も盛りだくさんである。歌のときについ字幕を探してしまったのは、コクーンでの芝居に慣らされてしまっていたからだろう。
この回り舞台の中心の大きな柱が、どうして地面に接する方が細くなっているのだろうと思っていたら、ラストシーン近くになってやっと、「五寸釘」の形をしているということに気がついた。これは相当にブラックだ。
両国橋の袂で、元は山形の紅花農家だったというたかお鷹演じるおじさんが、市川亀治郎演じる「徳」に「旦那様」と呼びかけるところから話は始まる。
拾い屋(江戸っ子の場面だからか「しろいや」と聞こえて、最初は何を言っているのかよく判らなかった)の徳に、その男は、「あなたは、山形平畠の紅屋のご主人様だ」と言い張り続ける。話の噛み合わないことおびただしいけれど、どうやらこれは突然やってきたおじさんの方の勘違い、人間違いのようだ。
それでも、「平畠一の器量よし」だというその紅屋の女将のおたかの話にあっさりと転んでなびき、徳は平畠を目指す。そんなにそっくりなら紅屋の主人とやらに納まってしまおうという腹らしく、道々、東北のことばを勉強しているところが、緻密である。
徳の認識も、そして作者の井上ひさしの思いとしても、その「場」に溶け込むにはまず言葉だ、ということだろう。
この「言葉」の問題は、このお芝居を通して前面に語られることはないのだけれど、意味が掴めるぎりぎりの東北の言葉とイントネーションを駆使した台詞が随所に出てくることで、このお芝居のメインテーマが「言葉」にあることをずっしりと観客に示している、ような気がする。
東北の言葉はとても学習しきれないと諦めかけたところに、紅屋主人の乳母だったというお茶屋のかみさんが現れ、「喜左衛門様だ!」と叫んで紅屋に使いを走らせたところから、徳の運命はさらに回り始める。
紅屋に連れて行かれ、永作博美演じるおたかに迎えられ、番頭たちも一様に「喜左衛門さまが帰って来た!」と叫ぶ。不幸にも頭の回る徳は、「判らないことは、すべて天狗に拐かされている間に脳みそを吸い取られてしまったことにしよう」と決める。
それが通るのだからおかしなものだ。
そんなに「天狗」というのは近しいものだったのか。
喜左衛門の人生を歌で語り、それは、喜左衛門という人が平畠でどれだけ崇められている(親しまれているのはおたかであって、喜左衛門ではない気がする)のかを知らせるとともに、徳と観客の双方に喜左衛門のこと、喜左衛門とおたかのことを知らせることを狙っているのだろう。
上手い。
そうして、テーマソングのように何度も歌われることで、何だか脳にしみ込んできたような気がする。うっかり帰り道に口ずさんでしまいそうである。
徳は、最初のうちは「天狗に拐かされた」で誤魔化し、誤魔化しきれなくなったら金目のモノを持ってドロンと行こうと思っていたようなのだけれど、そのうち、紅花のことなど全く判らないながら、紅屋主人としての生活を捨てがたく思うようになって行く。
それが、決して悪い感じではない。
段々と、喜左衛門が悪所に通っていたらしいことや、馴染みの芸者がいたらしいことなどが判ってきて、決して喜左衛門とおたかの夫婦が上手くいっていなかったらしいことも匂わされる。
そうなると、これまた段々に、どうしておたかは、自分の夫ではない男を夫として迎え入れ、あまつさえ庇うことすらしているのだろうと思い始める。
一言で言うと、居心地が悪い。
徳はそれほどの悪人に見えないのだけれど、でも、自分を追いかけて来て脅した夜鷹の男を殺し、自分の正体を見破った芸者の女を殺し、そして最後には自分が喜左衛門になりすますために、喜左衛門自身を殺してしまう。
何だかその「殺す」という所業と、徳という男の印象とが全く噛み合わない感じで(簡単に言ってしまうと、徳という男が殺人をするような男に見えなくて)、紅屋の主人という役どころがそんなに気に入っているのか、おたかという女房が気に入っているのか、それらのせいで全く周りが見えなくなるような男なのか、という辺りが何だかすとんと来ない。
それは、実はこのお芝居を見始めた辺りからそう思っていて、何がもやもやしていたかというと、単細胞の私には「このお芝居が喜劇か悲劇か、ハッピーエンドかアンハッピーエンドか」という予測がつかない感じだったからだと思う。
救いのない終わり方をする井上ひさしの戯曲というのはあまり見たことがないような気がして、でも、このお芝居は最初からあまり気持ちのいい終わり方ではないような気がしたのだ。
徳の正体がバレそうになっても、詮議をしていた藩の重役は「天狗の権威」とかいう怪しい男の判断を信じて徳が天狗に拐かされていたと認定するし、自分が作った歌の歌詞を忘れていたりしていてもおたかが「女房の私が言うのだから本物だ」と身を挺して庇ったり、自分で偽物の証人となりそうな人物を殺してしまったり、徳の偽芝居は何とか続いて行く。
徳が喜左衛門を殺すシーンは、市川亀治郎が一人二役で、喜左衛門の声をマイクを通してエコーをかけることで違いを出し、不自然でなく演じ分けていた。
その殺してしまって震えるところも含めて、やっぱり所作の一つ一つが粋だし綺麗だなと思う。
徳がおたかに「どうして庇ってくれたんだ」と尋ねたとき、おたかはそれには答えずに幕府の役人に挨拶をするために着替えてくれと世話を始める。
そうして徳が着替え終わったところでは、死に装束が完成していた。
さて、最初からそのつもりだったのか、そもそも喜左衛門が姿を消したことから計画のうちだったのか、堤工事か何かのために拠出金を求められて出せなかった藩は、喜左衛門の提案で「不作でした」と届け出て上納金を免除してもらっていたらしい。
その嘘が幕府にバレ、首謀者であった喜左衛門は、その責めを負って自害を申しつけられたということなのだ。
それは、徳にとっては青天の霹靂もいいところである。
必死に自分は「徳だ」と叫ぶけれど、元々替え玉に使おうと思っていた藩や店の人間達にそんな話が通じるわけもない。しかも、証人となるべき人間はみな自らが殺してしまっている。
そして、それを拾うことで江戸から来た男に正体を見破られた五寸釘を、今度は喜左衛門になりすますために無視する訓練を重ねた結果として無視したことで、藩の重役から「五寸釘を見落としたのはお前が喜左衛門だからだ」という決め手とされて、その拾わなかった五寸釘で腹を刺されて徳は死んでしまうのだ。
喜左衛門の身替わりとして、である。
それは、他人になりすましてその人生を根こそぎ自分のものにしようとした徳が悪いといえば悪いのだけれど、これって因果応報以上じゃないかとか、でも徳がそんなに悪人には見えないんだよとか、何だか不条理という感じがするのだ。
そうして、その死んでしまった徳を抱きかかえて、喜左衛門は助かっている、喜左衛門はここで切腹して果てたけれどその弟として自分と再婚することになる、喜左衛門は自分の夫としてはともかく紅屋とこの藩と紅畑を耕す百姓にとって必要な人間なんだと呟くおたかが切ない。
このおたかという人だけは、それは本物の喜左衛門が冷淡だったという理由もあるのだろうけれど、でも徳がいることにほっとしたり嬉しかったり、ほんの少しはこのまま入れ替わったままでいてくれていいと思ったんじゃないかという気がするのである。
そこで、幕だ。
どちらも相手に酷いことを仕掛けているのだけれど、でも、ラストシーンでは何故か双方が切ないと思わされる二人なのだった。
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