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2011.12.11

「90ミニッツ」を見る

パルコ・プロデュース公演「90ミニッツ」
作/演出 三谷幸喜
出演 西村雅彦/近藤芳正
観劇日 2011年12月10日(土曜日)午後7時開演
劇場 パルコ劇場 H列22番
料金 8000円

 ロビーではパンフレット(1500円)等が販売されていた。そのパンフレットにはパルコ劇場で上演した芝居全てについて三谷幸喜がコメントしているのだそうで、かなり気になったけれど、結局購入しなかった。

 ネタバレありの感想は以下に。

 このお芝居については、特に特に未見の方、これから見る方は絶対に読まない方がいいと思います。

 パルコ劇場の公式Webサイト内、「90ミニッツ」のページはこちら。

 舞台上のスクリーンに大きく赤字で「90」と書かれたところから舞台は始まった、と思う。
 そうして舞台手前の中央に一筋の水が流れ落ち始める。最初、私は砂時計のモチーフなのかと思った。

 ちょっと偉そうなデスクのある部屋にいる西村雅彦演じる「副部長」が、電話で家を買う話をしている。丘の上の家を買うことが夢だったのだそうだ。
 そこに電話が入り、追って来客がある。
 部屋に入ってきた近藤芳正演じる男は手に大きめの紙を持っている。副部長は白衣を羽織り、そこが病院で、部屋に入ってきた男は交通事故で運び込まれた少年の父親であることが判る。

 「90分」は、その少年が手術をすれば助かるそのタイムリミットなのだ。
 手術さえすれば助かる。しかし、少年の父親は「宗教ではない」と言っていたけれど、とにかく今暮らしている地域の教えだからと頑なに輸血を拒否している。手にした紙は手術の承諾書だったのだ。
 病院は、とにかく承諾書に少年の父親のサインをもらって手術をしたい。
 父親は、輸血だけは受け入れられない、と言い続ける。
 その「90分」のやりとりをリアルタイムで見せよう、ということのようだ。

 そういうわけで、始まった当初は特に思いっきり期待して見始めたのだけれど、このお芝居はコメディではない。
 笑いの要素が全くない訳ではない。

 父親を説得しようと副部長はとにかく様々な理屈をひねり出し、疑問を口にし、脅しすかし宥め説得しようとする。
 その中で、生き延びるために他者の命を奪うことはできないという教えだと知り、だから肉食をしないと聞き、副部長は「肉食は消化器官をとおして取り込む、輸血は血管をとおして取り込む。全く違うことだ」と説得しようとし、そうすると父親は妻に電話をかけ(どうも父親は妻への怯えから教えを頑なに守ろうとしているようにも見える)、「麻薬は経口摂取しようと吸引しようと血管に注射しようと等しく人体に悪影響がある」と言い返す。
 今度は、肉食はしないけれども牛乳は摂取するのだと聞いた副部長が、牛乳にしても血液にしてもそれを提供したものの命を奪うわけではないと説得しようとする。再び父親は妻に電話し、その妻の答えが「牛乳は消化器官をとおして取り込む、輸血は血管をとおして取り込む。全く違うことだ」だったときにはやっぱり笑ってしまったものだ。
 でも、そこには底抜けな笑いはなく、ためらいというか「笑っていいテーマなんだろうか」「このお芝居で笑っていいんだろうか」という後ろめたさがべったりと背中に張り付いている感じがする。

 つまりそういうお芝居である。
 副部長は何とか父親に承諾書へサインさせようとし、父親は、最初は「輸血なしで手術してください」と言っていたのが、副部長と話すうちにというよりも、息子の病状が刻一刻と悪化していくうちに「手術してもらって構いません。承諾書なしで手術してください。」と言い出す。

 息子を思う気持ちなのか、患者を救いたいという気持ちなのか、輸血に承諾したら村八分になってしまうという恐れなのか、ここで承諾なしで手術を強行して訴えられるリスクを怖がっているのか。
 そこでは本音と建て前、「命」や「日々の暮らし」をどう考えるか、何を求めているのか、そうしたもののぶつかり合う世界である。
 何度も言うけれど、コメディではない。全くない。

 息子の病状はどんどん悪化して行き、ついには危篤が告げられる。
 すると、芝居が始まってからずっと舞台手前中央に落ち続けていた水がつつつっとその流れを止めてしまう。
 砂時計などではない。その「水」は、息子の命だったのだ。あるいは、もしかしたら、「血液」の流れをそのまま表していたのかもしれない。
 そうと判ったときには、本当にぞっとしてしまった。

 危篤の電話を受けた後、2人の男はそれぞれが激しく葛藤する。
 そして、副部長は受話器を取り上げ、承諾書にサインがないまま手術の開始を命じる。

 父親は副部長に頭を下げる。
 そして、黙って息子のところに行こうとする。
 副部長は「思ったとおりになったのだからもっと晴れやかな顔で出て行ってくれ」「私は不思議と穏やかな気持ちだ」と告げる。父親は病院を訴えるだろうと最初から言っている、出世はなくなった、家を買うことも諦めなくてはならないかも知れない。それでも、確かに副部長の顔は落ち着いている。
 しかし、父親の顔が晴れることはない。
 「あと3秒、あなたが受話器を取り上げるのが遅かったら私はサインしていた。これから息子と向き合うたびに、この3秒のことを思うことになる。」と言う。
 曖昧な記憶すら曖昧なのだけれど、この3秒は父親が息子を思う気持ちで負けた3秒なのだ、というようなことを言っていたと思う。

 現世的なリスクを負ったのは副部長だ。でも、心に傷を負ったのは父親だ。
 私などは即物的なので、父親は今から承諾書にサインしてあげればいいじゃないの、と思ってしまったけれど、これはそういうお芝居ではないのだ。
 もちろん、2人の男はどちらもそんなことは言い出さない。

 父親が出て行き、デスクの椅子に深々と腰掛けた副部長だけが残る。
 そして幕である。

 生誕50年の最後が何故このお芝居だったのか。
 何だか相当にキツかったようで、私の頭はこのお芝居のことを考えるのを拒否している感じである。
 多分、少し時間がたってから、さらにこのキツさを味わうことになるんだと思う。

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