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2011.12.23

「その妹」を見る

シスカンパニー公演「その妹」
作 武者小路実篤
演出 河原雅彦
出演 市川亀治郎/蒼井優/秋山菜津子/鈴木浩介
水野あや/内田亜希子/西尾まり/段田安則
観劇日 2011年12月19日(月曜日)午後6時30分開演
劇場 シアタートラム K列8番
料金 7500円

 ロビーではパンフレット(700円か800円だったと思う)が販売されていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 シスカンパニーの公式Webサイト内、「その妹」のページはこちら。

舞台が終わったとき登場人物の誰もが不幸だという話をどこかで聞いたか読んだかしていたため、ドロドロの愛憎劇だったらどうしようとか、落ち込みまくってそこから脱出できなかったらどうしようとか、色々と暗い気持ちで見始めたのだけれど、これが意外なくらい嫌な気持ちにはならなかった。
 確かに、舞台の幕が下りたとき、市川亀治郎演じる野村は「こうまでして生きなければならないのかと思うことがある」と嘆いているし、蒼井優演じるその妹はイヤな男に嫁ぐことに決めて「それでも、私を妹と思ってくれますわね」と明るく言い放っているし、段田安則演じるその妹に心惹かれていた編集者の西島は売り払えるだけの蔵書を売り払って生活も危ういし妻との生活も危うくなっている。
 幸せになった人は一人もいない。
 でも、何故だか「やり切れない」という感じはしない。

 見ているときは「なーんだ、そんなに不幸になるわけじゃないじゃん」などと不埒なというか、人格を疑われるようなことを考えていたのだけれど、それでも「いつ、泥沼のイヤ〜な感じになるのか」という緊張感は常にあり、それが私にはいいスパイスになって集中力も高まったと思う。
 そして、どうしてイヤ〜な気持ちにならずに済んだのかとつらつら考えて見たのだけれど、まずは、画家として嘱望されながらも徴兵されて日露戦争に行き、失明して帰ってきたという境遇の野村を、市川亀治郎がかなり軽めに飄々と演じていたことにあるのではないかと思う。
 癇癪を起こしたり、妹の静子に当り散らしたりもするのだけれど、それは静子にあっさりと流される。

 蒼井優演じる妹は、「輝くばかりに美しい」のだそうだ。
 とりあえず、私はしばらく「どうしてこの髪型にしたんだろう」というところから、なかなか抜け出せなかった。何だかUFOのようなというのか、全方向の庇しみたいといえばいいのか、とにかくかなり大きく結ってあって、見慣れない私にはかなりの違和感だった。
 それはともかくとして、彼女の肖像画が西島の家に飾ってあったり、その肖像画を拡大して幕代わりに使ったり、そもそもタイトルが「その妹」なのだから、彼女がこの芝居の重心であることは間違いない。
 そして、この妹は、世間知らずなのか、盲目の兄の心を引き立てるために意識してそうしているのか、「上手く行きます」「どうにかなります」とネガティブな言葉は決して口にしようとしない。

 これまたどこかで蒼井優がインタビューに答えて「なかなかリズムがつかめずに台詞を覚えられなかった」という趣旨のことを言っていたけれど、そんな苦労は全く感じさせない、はきはきと早口だと感じるくらいに高い声でしゃべりまくる。
 盲目の兄が文筆業を始めたことを喜び、口述筆記で手伝い、その大成を信じて疑わない。
 多分、いい子でいいお嬢さんなんだと思うのだけれど、でも、この無垢な感じというのは自覚がない分、周りにとっては毒なんじゃないかとも思ってしまった。
 

 実際のところ、その毒にやられてしまったのが西島で、この静子の肖像画を持っていたところに本人に会ったら実物はさらに美人、その美女が健気に兄を支え、明るく礼儀正しく振舞い、世話になっているおじの上司のドラ息子と無理やり結婚させられそうになっている、というシチュエーションにあっさりとやられてしまう。
 現代であれば、このシチュエーションで、「友人」「編集者」という立場の男が、毎月兄妹2人の生活を支えられるだけの金銭を出すというのはあり得ないような気がする。
 明治時代だってそれは滅多にあることではなく、だからこそ西島と秋山菜津子演じる夫婦の間もどんどんギクシャクして行くし、静子は西島の愛人なのではないかという噂を立てられたりしたんだろう。でも、このシチュエーションが生きている時代でもあったんだなと思う。

 西島からの金銭援助を頼りに兄弟がおじ夫婦の家を出た後からが二幕である。
 きれいに整っていた畳は擦り切れたものに変わり、家財道具も増えて「8畳一間で暮らしている」感じである。
 それまでは横にしか伸びていなかった廊下が奥に向かって伸びている。一番奥には下る階段があり、人が出入りすると暗がりから現れ、暗がりに消えていくように見える。兄妹の状況の暗さを象徴しているかのようだ。
 西島が編集する雑誌に野島が書いた小説を掲載するが、書評は概ね最悪で、当然のことながら次の依頼も来ない。そうすると、生活を全て西島の金銭援助で賄っている二人の生活は変わらず、西島の側の負担だけが増えて行く。蔵書を次々と売り払う西島に、妻は「静子さんが美しいからでしょう」と言うし、兄妹が住む下宿の人間は静子は西島の愛人なのだと信じ込んでいるらしい。

 その話を明るく話し、そのことを兄に責められて「だって、気が狂いそうだったんですもの。酷すぎますわ」と泣き崩れる静子に何故か「ほとり」という感じが漂う。
 それは、私の側が明治時代の上流階級の言葉遣いに全くついて行けず、もちろん言っていることは判るのだけれど、悲壮な感じを受け取る前に、非現実感の方を強く感じてしまった。
 さらに言うと、そうして「愛人」という噂を立てられている、兄というよりも自分のために無理をしている、それが原因で妻とも上手く行かなくなっている、そういう相手に対して「私はどうしたらよろしいのでしょう」と言うというのは、自覚なしにやっているのだとすると、そりゃあ魔性の女でしょう、という気がするのだ。でも、このお芝居の中で、静子は決して魔性の女という扱いはされていない。そこのギャップに、恐らく男は違和感を感じず、女は違和感を感じるのじゃないかと思ったりもしたのだった。

 さて、思わず手を出そうとした西島を評して「私はうれしかったんですのよ」と言った静子の真意はどこにあったのか、それは判らないまま、どうやら西島の妻は実家に経済的援助を頼みに行って断られ、静子はおじのところに行って気に染まない縁談を受け入れる返事をし、兄のその後の生活についても手を打つ。
 兄妹が西島の援助で二人暮らしをしていたのはどれくらいの期間だったのだろう。何故かそんなことが気になる。

 兄妹が暮らす部屋と、西島の家の客間、同じ空間をその二つに仕立替えながら舞台は進んで行く。
 そこにほとんど動きはなく(西島の家の客間がある2階から階段を降りる動きが一番大きいかも知れないくらい)役者は座って演技をしていることが多い。
 まさに台詞劇である。
 舞台が現代日本で、馴染みのある日本語だったらどういう感想を持ったのだろうと思いつつ、明治時代の物語だからこそ台詞劇を堪能できたように思う。

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