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2011.12.25

「深呼吸する惑星」を見る

第三舞台30周年&“復活"公演「深呼吸する惑星」
作・演出 鴻上尚史
出演 筧利夫/大高洋夫/小須田康人/長野里美
    山下裕子/筒井真理子/高橋一生/ほか
観劇日 2011年12月24日(土曜日)午後1時開演
劇場 森ノ宮ピロティホール Z列1番
料金 6500円
上演時間 2時間10分

 ロビーでは、パンフレット(1000円)や、Tシャツ、私家版第三舞台の復刻本等々が販売されていた。これまでの芝居のDVDや鴻上尚史の著書はもちろんである。
 開演前には、鴻上尚史がロビーに立ち、写真撮影に応じたりチケットやパンフレットにサインをしたりしていた。

 帰りがけにパンフレットを購入したら「虚構の劇団もよろしく」と若者に言われてしまった。

 第三舞台の公式Webサイトはこちら。

 いきなり幕開けが全員黒い服でダンスというのは、第三舞台らしいと言えばらしい幕開けである。
 その喪服は、とある会社の部長の息子が亡くなったお葬式の帰りだかららしいのだけれど、解散公演に対する弔意(自分で示すのも変といえば変だけれども)なのかも知れない。
 ダンスの動きはどことなく「朝日のような夕日をつれて」の幕開けを思い出させる。

 解散公演に出演したメンバーは、高橋一生を除くと、前に鴻上尚史がどこかで書いていたところによると、彼が「第三舞台の劇団員だと思っていますか」という手紙を書いて「劇団員だと思っています」という返事を書いた役者さんたちである。筧利夫だけは、「イギリスにまで行った人がそんな細かいことを気にしちゃだめ」という返事だったらしいけれど、劇団員であることを否定しなかったということになるんだろう。
 その手紙をもらえずに「どうして俺のところに手紙がこないんだ」と言って、「来たらどうするんだ」と聞いたら、「劇団員なわけなかろうと言う」と言った池田成志と、今や売れっ子の放送作家になっている伊藤正宏が映像でだけ出演していたのも、ファンサービスの一環であると同時に、ある種のけじめなんだろうという気はする。

 それにしても、この芝居は、やはり第三舞台という劇団の、第三舞台に対するオマージュなのではないだろうか。
 SFの設定、ケダモノだったり、劇団内部(映画研究会に変わっていたけれど)での三角関係だったり、屋上での約束だったり、かもめのかぶりものだったり、一人で解放を叫ぶ誰かだったり、ヒロインは赤い服という拘りだったり、これまでに見た第三舞台のお芝居のかけらをあちこちで見つけることができる。
 キャンディーズの最後のシングル「微笑み返し」に近いイメージである。

 逆に、以前の第三舞台だったら、こんなにも暗転が多くはなかったんじゃないかという風にも思う。決して長い時間ではないし、その暗くなった舞台上でそれほど大きなセットの入れ替えがあるわけでもないのだけれど、でもこの暗転の多さは何だろうと思ったのも本当だ。
 これも、「第三舞台は、変わらない。そして、変わり続ける」ことの一つの表れなんだろうか。

 「今の風俗」というか、敢えて言うなら「今の流行り」を取り入れることで第三舞台の芝居は変化してきたと思うのだけれど、今回は(割とあっさりと流されていたようにも思うけれど)「その人が亡くなった後のブログはどうなるか」というところにあったのだと思う。
 鴻上さんの「ごあいさつ」によれば、死者と話すことだったり、死者の言葉だったりに言い換えることもできるのだろう。
 3.11以降における政府や東電の対応を判りやすく揶揄する場面もあるのだけれど、そこは判りやすすぎて、逆にお約束という感じが強く出過ぎてしまっているようにも思う。他の場面とテイストが合っていないというか、無理矢理に作った感じもした。
 そして、このお芝居を見ていて私の脳裏に浮かんでいたのは、浅間山荘事件だった。私は浅間山荘事件をリアルタイムで知っている訳ではない。なのに頭に浮かんでいたのは、これは多分、この「深呼吸する惑星」というお芝居に取り込まれたこれまでの第三舞台公演の中で、私は「天使は瞳を閉じて」に判りやすく反応したということなんだと思う。

 正直に言って、こうしたオマージュに力が注がれ、こちらの注意力も向けられてしまったので、この「深呼吸する惑星」というお芝居そのものの力はよく判らない。
 そもそも、この星の独立運動というのは本当に存在していたのか、首相は何を考えていたのか、二階堂はどうしてこの星の独立運動の先頭に立とうとするまでになったのか、桜木が抱えているものは何だったのか、地球人に幻覚を見せる固有種を持つこの星は今後どうなってしまうのか、この物語には実は決着はついていない。
 物語のはじめから終わりまでが語られたのではなく、ある一場面が語られたのであって、間違いなくこの話には続きがある。
 でも、語られない。

 少なくとも、この日にこの公演を見た私に、「何か大切なことが語られた」という確信は生まれなかった。
 そして、かつてのスピード感、めくるめく疾走感はないように思う。
 代わりに、ここに溢れているのは、ノスタルジーとファンサービスだ。
 得にこれまでの公演に対するノスタルジーではなく、これまでの公演を成立させていた何かへのノスタルジーが強いように思えた。
 過去へのオマージュではなく、「どうなるか判らない」未来を見せて欲しかったとも思うし、逆に、もしこのノスタルジーがなかったらやっぱり物足りなかったんじゃないかという風にも思う。

 正直に言って、この辺りのもやもやがカタルシスになるところまで行かなかったので、私にとっては、少し消化不良な感じの公演だった。
 多分、もう少ししたらふっとこの公演から私が受け取るべき何かがふっと判るような気がする。
 そして、いつもの公演では決してやろうとしなかった(と記憶している)カーテンコールに今回は応えていて、毎日が千秋楽という気持ちなんだろうな、この公演の意味はこの近くにあるとも思ったのだった。

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