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2012.01.20

「寿歌」を見る

シス・カンパニー公演「寿歌(ほぎうた)」
作 北村想
演出 千葉哲也
出演 堤真一/戸田恵梨香/橋本じゅん
観劇日 2012年1月19日(木曜日)午後7時開演
劇場 新国立劇場小劇場 D4列7番
料金 7500円
上演時間 1時間20分

 ロビーでは、パンフレット(700円)が販売され、パンフレット販売によって生じた利益は東日本大震災後の復興のために寄付する旨の張り紙があったのを見て、珍しく購入した。
 これまた珍しくパンフレットを上演前に読んだのだけれど、それはそれで味わい深い観劇になったと思う。

 ネタバレありの感想は以下に。

 シス・カンパニーの公式Webサイト内、「寿歌」のページはこちら。

<追記>
  「寿歌」のチケットは、あんみんさんに差配いただいて入手することができました。
 感謝! です。

 舞台奥が高くなっているため、床面の模様がよく見える。光るでこぼこした素材を使っているようで、実は真っ平らのようだ。舞台奥の壁も床面と同じような模様になっていて、でも、透かしになっている。下の方に人がくぐれるくらいの空間というか穴というかがあって、自由に行ったりきたりしている。
 核戦争後の「何もない」地面と遠景を想像させ、照明が非常に映える舞台セットである。

 「寿歌」はこれまでに何回も何回も再演されている舞台だそうで、今回は、プロローグが新たに付け加えられた他は、ほぼ初演のときと同じ台本を使っているのだそうだ。
 そのプロローグで何が起こったのか、実際に見ているときは「うーん、この子、ルシフェルって名乗っているよ」と思っただけだった。
 橋本じゅん演じる男に追いついてきて、櫛をもらったから代わりにこれをあげると突き出した赤い袋を手渡さずにその場に落とした戸田絵梨香演じる女が誰なのかは判らないし、この芝居全体でこのプロローグがどんな意味を持つかも判らない。
 ただ、彼女が「ルシフェル」と名乗ったということと、男に向かって「本当はどこに行くのか」と詰め寄ったという印象が残る。

 ポスターやチラシの、3人が生成りの素朴な服を着ている写真の印象が強くて、舞台でもそういう衣装なんだろうと思っていたのだけれど、実際は、ゲサクを演じる堤真一とキョウコを演じる戸田絵梨香は、いかにもドサまわりの芸人ですという風の服を着て、リヤカーを引っ張って、関西弁でしょーもないことをしゃべりつつ旅をしている。
 そこに現れるヤスオを演じる橋本じゅんは、いわば一番普通の格好をしている。ヤスオは、登場こそ、行き倒れのような、この人体中が痙攣しているんじゃないかという感じだったけれど、その後は、標準語を頑なにしゃべっていることもあって、やっぱり普通に見える。

 もっとも、この「普通に見える」というのが怪しくて、名前を聞かれて名乗ったときもそもそも「ヤスオ」というよりは「ヤソ」と聞こえるように名乗っているし、元になるものがあればいくらでも増やせるという特技を持つ。ゲサクとキョウコにかかるとそれは「見世物」の一つとして扱われてしまうのだけれど、要するに、彼は、キリストなんだろう。
 ただし、彼に出来ることはほとんどないように見える。ほんの少しのパンとお魚を集まった大勢の人に分け与えたという奇跡は再現できるようだけれど、それだけだ。
 そもそも、舞台は核戦争後の世界。今も余ってしまった核ミサイルがぽんぽんと飛び交っている有様だ。ヤスオの無力ぶりは明らかである。

 でも、私が感じたのは「ヤスオは無力である」ということよりは、「ヤスオは時機に遅れて登場した」ということだった。
 パンフレットに第三舞台の「モダン・ホラーにも影響を与えた」というような記載があったためかも知れない。私にとって、第三舞台といえば「朝日のような夕日をつれて」であり、「朝日のような夕日をつれて」といえば「ゴドーを待ちながら」なのだ。
 しょーもない芸をしていたゲサクとキョウコは決してゴドーを待っていたようには見えないのだけれど、でも、ヤスオは「ついに来なかったゴッド」というよりは「肝心なときには現れずに、どうしようもなくなってからやってきたゴッド」に見えたのだった。
 結局、現状に対して無力であるというところは変わらない。

 神である筈のヤスオに対して、恐らくは人間なのだろうゲサクとキョウコはスーパーマン振りを発揮する。
 そもそも、彼ら3人以外は生き残った人も見当たらない世界で、のんきにリヤカー1台を引いて「ちょっとそこまで」旅をしている。核ミサイルの爆発を「花火だ」と言ってうっとり眺める。
 核物質なのか放射線なのかが光っている様子を見て「ほたるだ」と追いかける。
 ゲサクは、拳銃から発射された弾丸を心臓の手前3cmで手のひらで受け止めることができると言う。
 先が見えない、食べ物の確保も怪しい、そんな状況で精神的にも絶望することなく、いい加減すぎる芸を見えない客に見せながら放浪できる、それだけで人間離れしているとしか言いようがない。

 多少は落ち込んでいるというか、真面目というか、深刻そうな顔をしているのはヤスオのみだ。
 核戦争後の地球で、生き残った人はほとんどいない、これ以上ないくらい暗い状況であるのに、舞台上は明るい。ゲサクとキョウコも「明るい」というよりは「軽い」し、「軽い」というよりは「軽やか」である。
 逆に、だからこそ、ゲサクが語るウサギの話は、そのシチュエーションとともに強烈な印象を残す。
 雪山に帰ってこない主人を迎えに行った熊と狐とウサギが、主人を助けようと食べ物を探す。熊と狐は食べ物を見つけるがウサギは見つけられない。そこでウサギは火に飛び込んで自分の丸焼きを提供する。
 このウサギをどう思うか、という話だ。
 それに対して、ヤスオの「真っ当な」答えよりも、ゲサクの「命がけといっても、その程度のものなんだ」という答えをどう受け止めればいいのか、かなり迷う。
 さて、ゲサクは命をどう思っているのだろう。

 ゲサクが、キョウコが暴発させた銃に倒れて死んでしまうと、キョウコは泣くし、骨壷を提げて悲しげな顔をしている。
 でも、そこにゲサクは「お待っとさんでした」と戻ってくるし、キョウコはパッと表情を輝かせてゲサクにまとわりつく。
 ドーンと難題を突きつけておいて、回答は示さないし、ヤスオなどいきなり「エルサレムに行く」と判るような判らないような理由をつけて、あっさりと手ぶらで去って行ってしまう。

 そのヤスオに別れの挨拶をしようともしないキョウコに、ゲサクは「ヤスオから櫛をもらった。もらうだけは良くないから、これから追いかけて干しイモを渡せ」と送り出す。
 そして、寂しげに、自分は一人、リヤカーを引いて再び出発しようとする。

 この、追いかけていったキョウコと追いつかれたヤスオとのやりとりを、この舞台の始まりでプロローグとして見ていたことに気が付く。
 なるほど、そういうことか。
 でも、ここでそのキョウコとヤスオのやりとりを再現してくれるほど、この舞台は親切ではない。確かこんな会話をしていたはず、こんなやりとりがあったはずとぼんやりと思い返すくらいである。
 ここで、キョウコは自分はルシフェルだとヤソに向かって名乗ったのか、と思う。

 キョウコは、ゲサクの元に帰って来る。
 そして、エルサレム経由モヘンジョダロへの旅を決め、キョウコがリヤカーに乗り、ゲサクがそのリヤカーを引いて、夕闇の中を歩き始める。

 舞台は、終始明るい。そして、軽やかに進む。
 先にパンフレットを読んでいて、(言い方は悪いかも知れないけれど)適当に書いた、という風にあったので、「これはどういう意味だ?」「何の暗喩だ?」と悩むことなく、「「こういうことにしたのね」とやけに柔らかく見ることができたのが収穫だったし、正解だったんじゃないかと思う。
 恐らく、後から何かが効いてくるだろう。

 堤真一と橋本じゅんと戸田絵梨香。この三人芝居で、男優二人と渡り合った戸田絵梨香に座布団1枚! という感じだった。

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