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「十一ぴきのネコ」
作 井上ひさし
演出 長塚圭史
出演 北村有起哉/中村まこと/市川しんぺー/粟根まこと
蟹江一平/福田転球/大堀こういち/木村靖司
辰巳智秋/田鍋謙一郎/山内圭哉/勝部演之
観劇日 2012年1月21日(土曜日)午後5時開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 12列24番
料金 7800円
上演時間 2時間30分(15分の休憩あり)
ロビーでは、「十一ぴきのネコ」の原作絵本やぬいぐるみなどのグッズ、井上ひさしの著作本などが販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
のっけからネタバレなことを書いてしまうけれど、相当にブラックな終わり方だった。
子供向けなんだよね??? と帰宅後に見つけた公式Webサイトを見てみたところ、やっぱりそこには「子どもとその付き添いのためのミュージカル」と書かれていた。
いや、このミュージカルの終わり方で子供にトラウマが残ったりしないんだろうか。そういえば、後方から鼻をすする音が聞こえてきていたようにも思う。
終わり方はともかく、楽しいミュージカルだった。
何しろ、登場人物は全員がネコである。ネコをこの豪華な役者陣(本当に、この役者陣の豪華さを私は声を大にして主張したい)が演じ、歌い、踊る。これほど贅沢なことがあろうかと思う。
しかも、子供を巻き込もうということなのか、しょちゅう客席に降りてきて歌ったり駆け抜けたり頻繁に11匹の猫たちがやってくる。。
歌うシーンの伴奏は舞台の片隅にピアノ等々の楽器が置かれて生演奏である。
野良猫10匹が集まってお腹を空かせているところに、北村有起哉演じるにゃん太郎がやってくる。突然現れた見ず知らずの野良猫なのに、「野良猫」であることを嘆く彼らに「野良猫」であることの誇りを訴え、ニャン太郎はあっという間にその場の主導権をさらってしまう。
リーダーは希望を述べ、未来図を描き、現実的な対応策を打たねばならないのだ。
そうして、勝部演之演じるにゃん作老人を連れて来て、自らの墓穴を掘って死んでしまおうとしていた10匹の野良猫たちに、北の遠い湖にいる大きな魚の話をしてもらう。
にゃん太郎はいつの間にか10匹の猫たちを率いて北の湖を目指すことになり、にゃん作老人もその湖までの地図を彼に渡す。
ここまではいい。
でも、11匹の猫たちを見送ったにゃん作老人は、その後「私には(北の湖を彼らと目指すよりも)こちらの方が楽だ」と自らの墓穴を掘り始める。
割とあっさりと流されてしまったように見えるシーンなのだけれど、私の最初の違和感はここにあったと思う。
11匹のネコが歌う歌が、風刺というのか、ひねくれた部分といえばいいのか、子供が集まって大合唱していたらちょっと引くかも、という感じであることにはそれほど違和感は感じない。
井上ひさしの言葉遊びはどこまでも快調で、子供向けかどうかはともかくとして、つい笑い声を上げてしまうことも多いし、その言葉遊びの中にすらっと「言いたいこと」を潜ませているやり方は井上ひさしらしいと感じる。
何というか、子供向けと銘打って、ここまで影を濃くしなくてもいいんじゃないかという風に思ったのだった。
猫たちは旅を続け、空腹の余り途中で帰りたくなったり、元いた場所もそんなに悪くなかったんじゃないかと旅に出た己の選択を後悔したりしながら、にゃん太郎の説得や前向きな姿勢にその都度「いや、がんばろう」と誰かが思い直して誰かが説得し、北に向かって進んで行く。
その途中で、11匹のネコそれぞれが「自分はどうして野良猫になったか」を語って行くシーンは、確かに「キャッツ」を思い出させる。私は「キャッツ」を見た方が先だからそちらを思い出すのだけれど、この「十一ぴきのネコ」の方が初演が早いということだ。
ネコというのは、それぞれに来歴があって、それぞれが自分を語る動物である、というイメージが東西共通であるということなんだろうか。
エサがなくて空腹を抱えていた街中での暮らしから、空腹のまま旅立ってやっぱり空腹のまま続けた困難な旅を経て、大きな北の湖に到着してもネコたちの試練は続く。
そういえば、このネコたちは、意外なくらい仲間割れということがない。喧嘩もほぼ中村まこと演じるにゃん次の仲裁で勃発しないまま回避される。後ろ向きになって前に進めなくなりそうになると、にゃん太郎が鼓舞する。
どう考えてもここで「リーダー」として描かれているのはにゃん太郎なのだけれど、10匹でいたときには自然とリーダーというのかまとめ役になっていたのだろう中村まこと演じるにゃん次も、ある意味リーダーで、このリーダーがにゃん太郎に嫉妬しないことが11匹が旅を続けられた要因だったんじゃないかという風にも思う。
要するに、にゃん太郎だけにスポットが当たっている感じに「勿体ない」と思ってしまったということだ。もっとも、見終わった今になると、このことも恐らくはラストシーンへの伏線だったんだろう。
ブラックなシーンもあるくせに、基本的に11匹のネコがみな「いい奴」であるのは子供向けと歌っているからなんだろうか。もうちょっと仲間割れしてくれないと面白くないぞと勝手なことを思っていたのだけれど、そういう意味での課題はほぼ生じないまま、彼らの最大の障壁は空腹であり続ける。
少なくとも、私の目にはそう見える。
そうして、北の湖に到着した後は、「大きな魚を捕まえられない」という問題にぶつかる。大きすぎて、どう猛すぎるらしい。大きな魚を捕まえに筏を出したけれど、大きな魚は筏ごとひっくり返してしまったようだ。
でも、この辺りの場面転換や、湖面の表現、「大きな魚」の見せ方がとても美しい。
そして、にゃん太郎が、いわば自己犠牲の精神を発揮して、その辺にあった飛行機に乗って大きな魚に体当たりしてやっつけると言い出す。それって違うだろうと私などは思うけれど、猫たちは涙ながらに送り出す。
その、にゃん太郎が操縦する飛行機が湖面を飛び去る表現がベタすぎて可笑しい。
にゃん太郎は大きな魚はやっつけられなかったけれど生還し、「英雄気取りではダメだ」と反省の弁を述べ、「全員の力を合わせるんだ」とトレーニングを始める。
そこで嫌気を差したのが山内圭哉演じるにゃん十一であり、そこに引きずられたのが木村靖司演じるにゃん八である。このにゃん十一というのがいいキャラクターで、概ね、揉め事だったり後退だったりは彼の口や態度から始まるのだけれど、それが小気味よく感じられるのは、「本音」であるからだろうと思う。余りにも簡単ににゃん太郎にいわば丸め込まれる他の猫たちに比べ、このにゃん十一は、自分の感情に忠実で思ったとおりを言ったりやったりする。全員がにゃん太郎に心酔するなんて気持ち悪い。彼がいて良かったよな−、そしてこういうキャラを演じているときの山内圭哉は何てハマっているんだろうと思う。
一方のにゃん八は完全に付和雷同が身上ですという感じのキャラである。かつ、元は旅回りの一座に飼われていたということで、女形っぽいしゃべりに態度が身についている。これが多分凄いところで、他の猫たちももちろんなのだけれど、木村靖司は徹頭徹尾、歌っていようが踊っていようが誰かの台詞を聞き入っていようが、常に「女形」である。目立つ挙措ではあるのだけれど、流石だなぁ、もしかして地ということはないだろうなぁ、などと間抜けなことまで考えてしまうくらい、ふと目に入るにゃん八は常に女形でそれを崩すことはない。
今書いていて思ったのだけれど、そういえば十一匹の猫は全員が雄猫じゃないといけなかったんだろうか。雌猫が入ると、関係が複雑になるような気もするけれど、原作絵本では性別が特定されていたっけ? とふと考えた。
大きな魚は子守歌が好きだということに気付いた猫たちは子守歌を歌って大きな魚を眠らせ、捕まえる。
すぐにも食べようという10匹の猫たちに対して、「町にいる野良猫たちに食べさせてやりたいじゃないか」とにゃん太郎が言い出し、不承不承猫たちはその意見に賛成する。
賛成したものの、にゃん太郎を含めてその夜、空腹の余り魚をそれぞれが食べてしまい、翌朝には大きな魚は骨だけの姿になっていたのが可笑しい。そしてほっとする。
最初は回りの猫たちを責めていたにゃん太郎も実は魚を食べていたということが判明し、ほっとするような、それでいいのかという一抹の危惧のようなものを覚える。
そして、十一匹の猫たちが「ここを野良猫の国にしよう!」と気勢を上げたところでハッピーエンドである。
という終わり方なら良かったのにという気がしなくもない。
暗い中に一人、にゃん太郎が浮かび上がり、その後の十一匹の姿を語り出す。
にゃん太郎が最初の2年間はこの国の大統領を務めていたけれど、他の9匹に大統領の座を追われ、今はにゃん次が大統領になり他の猫たちもそれぞれ権力の座に就いていること、にゃん十一だけは権力から離れたところにいて、にゃん太郎曰く「変わっていない」。にゃん十一のことを語っているときだけは、にゃん太郎も笑顔になる。
そうして語り続けるにゃん太郎の背後に、黒い服を着た者たち(さて、これがにゃん次たち自身なのか、あくまでも「象徴」なのか、どちらだろう)が現れ、一斉ににゃん太郎に殴りかかり、にゃん太郎はその場に崩れ落ちる。
権力の座を追われ、町の片隅からこの国を見守っていただけのにゃん太郎が、昔のよしみで直言しに来るにゃん十一よりもずっとずっと彼らには脅威だったのだ。
そこに通りかかったにゃん十一は、倒れている人物がにゃん太郎であることに気がつくと寝かせてやり、自分の上着をかけてやり、そして何の表情の変化も見せないまま、真っ直ぐ客席の通路を歩いて去って行く。恐らく、舞台から去っただけでなく、「国」からも去って行ったんだろうという風に思う。
十二匹の猫たちがそれぞれ個性的で、そして演じる役者さん達も個性的、それぞれが拮抗していて誰が中心に立ってもきちんと成立する。
そうすると、台本がにゃん太郎中心に描かれていることがちょっと勿体なくなる。
もしかすると、同じ台本で、にゃん太郎を扇動者というのか、悪く描くこともできるんじゃないか、最後のシーンはそのにゃん太郎に対する反撃という風に描くこともできるんじゃないかという風にも思う。
考えようと思えばいくらでも複雑に考えることができる。ふと、先日見た「寿歌」よりも今演じられるに相応しい、「今」を表した戯曲なんじゃないかとも思えたくらいだ。そして、単純に楽しみ、笑うこともできる。
そういう舞台だった。
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コメント
ひかる様、コメントありがとうございます。
このお芝居には、ラストシーンが違う別バージョンがあるのですね。
何年前の上演なのでしょう? 私も見た記憶がありません。
意外とハッピーエンドだったりするのでしょうか。ちょっと見てみたい気がします。ぜひ、今回と同じ出演者陣でその「完全版」を上演していただきたいです。
投稿: 姫林檎 | 2012.02.03 22:42
41年前のテアトル・エコーでの初演時の台本を用いた長塚圭史さんの思いや、井上ひさしさんの若さ(当時37歳)に触れられる作品でありました。
後年、井上さん自身が書き直した完全版とも言われる、こまつ座バージョンは、ラストが今回とは、かなり違うらしいのですが、僕は見ていません。
投稿: ひかる | 2012.02.01 23:17