« 「ワンダーガーデン」の抽選予約に申し込む | トップページ | 「THE BEE」English Versionのチケットを購入する »

2012.01.08

「深呼吸する惑星」を見る

第三舞台30周年&“復活"公演「深呼吸する惑星」
作・演出 鴻上尚史
出演 筧利夫/大高洋夫/小須田康人/長野里美
    山下裕子/筒井真理子/高橋一生/ほか
観劇日 2012年1月7日(土曜日)午後6時開演
劇場 サンシャイン劇場 18列13番
料金 6500円
上演時間 2時間10分

 ロビーでは、パンフレット(1000円)や、Tシャツ、私家版第三舞台の復刻本等々が販売されていた。これまでの芝居のDVDや鴻上尚史の著書(サイン入り)はもちろんである。
 やっぱり、私家版第三舞台(2100円)を購入した。実は、この「私家版第三舞台」に取り上げられている公演は私は1本も見たことがない。
 開演前には、鴻上尚史がロビーに立っていたけれど、私がギリギリに劇場に入ったためか、写真撮影に応じたりチケットやパンフレットにサインをしたりといったことはしていなかった。時間の差か、地域の差か、気になるところである。

 第三舞台の公式Webサイトはこちら。

 自分でも不思議なのだけれど、2回目の観劇となるこのときは、「ノスタルジー」を感じることはほとんどなかった。
 「大阪公演とここは違っているような気がする」というところに気が行っていたせいかも知れないし、芝居がノスタルジーではない方向に舵を切っていたからかも知れない。それは判らない。
 前回、ノスタルジーだったりオマージュだったりと感じたところは、ほとんど私の中では「ファンサービス」という言葉に置き換わったように思う。どうぞ楽しんでください、という祝祭の気分である。

 祝祭というのは、逆に、オープニングが葬儀の帰りのシーンだったことで強調されているように思う。
 全員が喪服でダンスという始まりは、ダンスと舞台全体をシャープにすると同時に、ある意味で、祝祭の気分をも舞台に振りかけていたんじゃないだろうか。
 多分、亡くなった人の書いていたブログに小説がある、とその小説の中味が語られて行くことになるのだけれど、外にある葬儀と、内にある「歓迎式典」だったり「晩餐会」だったり、敢えていうなら「独立運動」という祝祭との差異も際立つ。

 やっぱりこの舞台は「ブログ」がキーワードの一つになっていて、自分もこうして書いていながらにして何なんだけれど、そこが古さを感じさせる一因のようにも思う。ツイッターやFacebookではなくブログである理由はどこにあるのだろう。
 「小説を書く」ための長さなのか、「残るか残らないか」というところなのか。
 同時に、こっそりとネットワークの怖さについても触れていて、私には随分さらっと触れて終わったなと感じられたのだけれど、筧利夫演じるトガシという男が、いつまでたっても、自分の名前をネットで検索すると映像でグランプリを取ったことと盗作をしたことがすぐに出てくる。そこから逃げたくてどんどん遠いところに来たけれど、やっぱり逃げられない。
 そう語っているのを聞いたとき、このお芝居を観ていて、唯一、ぞっとした。

 でも、「死んだ後もブログが残る」という部分には何故か反応しない自分がいた。
 有料のブログを利用していれば引き落としができなくなったところでブログも消えるだろうと登場人物は言っていたけれど、キャッシュは残るよなとか、何かの理由で取って置こうと思えば個人個人がいつまででも取って置くことができる。
 そういうことなら、少なくとも有料のブログを利用して置いた方がいいなとは思ったから、私はあまり死後に例えばこのブログが残ることは望んでいないようだ。そんなことは考えてみたことがなかったなと思う。

 前回もそうだったのだけれど、何故だか全体を掴むことができず、自分に響いた個々のシーンだけが自分の中に残っていて、そうでないシーンは遠い背景のようにボンヤリしている。
 例えば、ぞっとしたことは覚えていても、トガシが記憶を失った理由をトガシ自身が語っていたのに、どうしても思い出せない。
 逆に、どうしても今回は覚えて帰ろうと決めていたシーンもあって、それはラストシーンである。前回見たとき、どうしてもラストシーンが思い出せなかったのだ。

 最後は、別れの場面である。
 トガシに戻った「カンザキくん」とレイに戻った「ニカイドウアサミ」が、それぞれ貨物船に密航してこの星を離れようとして、空港で出会う。レイは派手なコートにサングラス、深く被った帽子と変装してますという風だけれど、トガシの方は普通の格好である。
 レイは別の星に行って整形するのだと言い、トガシは地球に戻ってお墓参りをするのだと言う。「きっとその友達も喜んでくれるわよ」と正に言い放って颯爽とというよりは少しバンカラに大股で去って行ったレイを見送ると、そこに「トモダチ」のタチバナが現れる。
 「お前のところに行くよ」というのが、死ぬということなのかと一瞬びくっとしたけれど、そうではなくお墓参りをするということだったようでほっとする。
 そして、2人が固く抱きしめあったところで照明が暗くなる。
 そういう終わり方だった。

 このトガシという人物は、キリアスと名乗ってこの惑星の独立運動を進めようとしている(つもりなのだけれど、どうもギャグの範囲で片付けられていそうな気配である)なのだけれど、6年前より前の記憶がない。
 この惑星の墓場で管理人をしていた女に拾われ、その女の影響で独立運動にも加わったようなのだけれど、実は自分がどこの誰かという記憶はない。
 薬の力で記憶を回復させ、自分が地球人であることも思い出したのだけれど、でも、彼はキリアスとして進めてきたこの星の独立運動を進めようとする。
 鴻上さんがあちこちで書いていた「祖国なき独立戦争」という言葉の一つの形がこれなのか、と思う。

 結局、トガシが「バルコニーからの演説」を再会し、バラ巻いたキリアスの花びらにより、多くの地球人がこの場で強烈な幻覚を見る。
 地球人に強烈な幻覚を見させる原生植物のある星は、危険だとされるのではなく「貴重」だとされ、地球は「やっぱり取引材料に使うのは止めておこう」と決める。
 地球のバックアップなしでは戦っても絶対に勝てないだろう他の星に売り払われることがなくなったと喜ぶべきなのか、地球の麾下からは絶対に離れられなくなったと力を落とすべきなのか、それは誰の口からも語られない。
 ただ、キリアスを名乗った地球人が、この星の行く末を変えたという事実だけが残る。
 この結末こそが「祖国なき独立戦争」なのかも知れないとも思う。

 もう一つ、今回印象に残ったのは、小須田康人演じる首相が語った言葉である。
 絶望は怒りを生むが、諦めからは何も生まれない。確か、そんな言葉だったと思う。
 彼はこの言葉を、キリアスという独立運動を叫ぶ男(だと見破った相手であるトガシ)にも語るし、高橋一生演じる私設秘書のギンガにも語る。首相は、ギンガに愛の告白もするのだけれど、それは、まあいい。
 とにかく、絶望は怒りを生むが、諦めは何も生まない、のだ。
 何故だかこの言葉を私は自分に語りかけられたかのように感じて、そうだよな、私はあのとき絶望したから怒ったし戦ったんだよな、諦めてはいなかったんだな、という風に思ったのだった。私の「あのとき」はそう大した話ではなく、この感慨は自分でも大袈裟だと思うのだけれど、でもそう感じたのだから仕方がない。
 あるいは、絶望の大小、怒りの大小とは関係なく、いつでも真実なのかも知れない。

 2回目を見て、劇場が変わったから、お客さんが変わったからか(そういえば、今回の方が「年齢層が高いな」という印象だったと思う)、私自身の体調等々の差なのか、単純に2回目だからだったのか、多少舞台から席が近くなったからなのか、それは判らないのだけれど、とにかく2回目を見て、解散公演云々はとりあえず置いておいて、「深呼吸する惑星」と作品と向き合えたような気がした。
 そういえば、今回は暗転の多さも気にならなくなっていた。何故だろう。
 いずれにしても、この「深呼吸する惑星」という作品を複数回見られるチャンスを得られて良かったと思ったのだった。

|

« 「ワンダーガーデン」の抽選予約に申し込む | トップページ | 「THE BEE」English Versionのチケットを購入する »

*芝居」カテゴリの記事

*感想」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「深呼吸する惑星」を見る:

« 「ワンダーガーデン」の抽選予約に申し込む | トップページ | 「THE BEE」English Versionのチケットを購入する »