「龍を撫でた男」を見る
M&Oplaysプロデュース オリガト・プラスティコ VOL.5 「龍を撫でた男」
作 福田恆存
演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 山崎一/広岡由里子/緒川たまき/赤堀雅秋
大鷹明良/田原正治/佐藤銀平/猪俣三四郎
観劇日 2012年2月10日(金曜日)午後7時開演
劇場 本多劇場 D列2番
上演時間 2時間30分(15分の休憩あり)
料金 5500円
ロビーでは、パンフレットや過去公演のDVD、戯曲などが販売されていた。
また、当日券もあるようだった。
ネタバレありの感想は以下に。
オープニングは、家型に区切られた空間の奥、舞台全体が暗い中でそこにだけ明かりがあり、雪がしんしんと降るシーンだった。
ケラらしからぬ叙情的な始まりだな、と思ったけれど、それもほんの一瞬である。
舞台はかなり大きな邸宅の一室で、応接間なのか居間なのか、ソファセットがあり、書斎にありそうな大きな机があり、外のテラスに続き、ドアの向こうに寝室が見えている。
山崎一演じる家則がその机にやたらと姿勢正しく座って書き物をし、広岡由里子演じる妻の和子がそこに「お正月ややることがなくてイヤだ」と話しかける。家の奥からは少し調子の外れた歌声が聞こえ、赤堀雅秋演じる和子の弟秀夫がやはり調子の外れた感じで演説を始める。
この夫婦の子供2人は随分と前に事故で亡くなり、そのとき一緒にいた和子の母はそのショックで体調を崩したままらしい。秀夫は完全にこの家の居候となっている。
それだけの事情があっという間に語られる。
家則は、「うるさい!」と和子を怒鳴りつけたりはするものの、基本的に終始落ち着いている。穏やかというのとは違うように感じられるけれど、何というかやはり落ち着いている。そして、精神病院の院長らしい。
この辺りで、何か微かに既視感があるなと思い、家に帰って来て調べてみたら、どうも自分は「黴菌」を思い出していたらしいと判った。これまた作・演出がケラリーノ・サンドロヴィッチで、山崎一が脳病院の院長を演じていたのだ。
もっともこの戯曲は、昭和27年に初演された福田恒存という人が書いたものなので、こちらのお芝居の方がずーっと先に形になっている。
お芝居を観ているときは、だから、この戯曲はどの辺りまで手が入っているんだろう、初演当時のままの戯曲なんだろうかとちょっと思ったりしていた。第二次世界大戦がちらと身近な感じで語られてはいるけれど、それ以外は、登場人物達の言葉使いも含めて時代の差を感じるようなことがなかったからだ。
このエキセントリックな夫婦(というか、表面的にエキセントリックなのは妻とその血縁なのだけれど)のところに、緒川たまき演じる和子の幼なじみらしい女優の蘭子と、大鷹明良演じる蘭子の兄で劇作家の綱夫がやってくる。お年始に来たというよりは、「お正月は退屈だから遊びに来ました」という感じだ。
そしてまた、この2人が相当に感じが悪い。
ある意味、言いたいことを言い、感じたままを言っている正直な人たちなのかも知れないけれど、どちらかというと平地に乱を起こして楽しんでいるように見える。それに、兄の方は和子を、妹の方は家則をそれぞれ狙っている(というのも古い言い方だけれど)ようでそれを隠そうともしないし、夫婦の方もそれぞれ電車の中で会ったということをお互いに隠して何やら不穏である。というよりも、ただ静かな家庭ではこの2人にはすでに維持できないのではないかという印象だ。
綱夫がずっと以前に精神科を受診しており、そのときの担当医が家則だったと判った辺りから、何故だか芝居の不穏度は高まって行く。
私が「ケラさんのお芝居は不穏」「ケラさんのお芝居は不条理」というもの凄く偏った思い込みを持っているせいかも知れないのだけれど、落ち着いて考えるとそれほどの事件も起こっていないしとんでもなくきわどい台詞が出ている訳でもないのだけれど、でもずっともの凄い緊張感が舞台に漂い、破滅の予感がひしひしと迫り、どんどん壊れて行く何かがそこにある感じがする。
この緊張感はとても苦手なのだけれど、でも、こういう緊張感をはらんだお芝居は目が離せない。そしてがっと強烈な集中力を見る側に起こさせるように思う。
綱夫が本性を出したのか、和子の本性が現れてきたのか、2幕目の最初からいきなりこの二人は楽しそうというよりは狂気を感じさせる笑い声を上げながら鬼ごっこをし、家則が帰宅したことに気付くといきなり見せつけるようにキスシーンを展開する。
それでも綱夫はやっぱり表情ひとつ動かさない。
そして、「家庭という平凡さの強固さ」を淡々と語る。要するに、平凡な普通な毎日の中にしか真実はなく、その退屈に耐えられなければ本物ではない、ということらしい。
そうかも知れないけれど、そして、綱夫と和子の繋がりが脆いものだということには全面的に賛成するけれど、でも、家則と和子がその「「強固な家庭」を維持しているかといえばそうではないように思う。
何故か話の展開が思い出せないのだけれど、家則に学会立ち上げの寄付を募りに来た男2人、女優と劇作家、妻とその弟とが、よってたかって家則を責め始める。
「自分一人が正常だと思っているんだろう」というところなのか、「お前だって狂っているんだ」というところなのか、「自分たちはお前に押さえつけられていた」というところなのか、とにかく家則は投げつけられる言葉と嘲笑の数々に頭を抱えてしまう。
和子は母と弟と一緒に綱夫のところに行くと言う。
それを聞いて「上手くやったわね」と家則に言う蘭子だったけれど、どうもこの顛末が蘭子と家則の企みだったようには見えない。
このシーンでもそうだったと思うのだけれど、舞台奥と手前を仕切る位置にスクリーンが何度か降りてきて、奥にいる役者さんを透かして見せたり、その姿を隠して線画で見せたり、家の外観が崩れ落ちていく絵を見せたり、ここぞというところで、モノクロの静かな映像が使われて、それがとても効いていた。
やはり、ケラ演出は映像がもの凄く効果的にそして格好よく使われる。
翌朝、家則は「うちの瓢箪池から龍が天に昇っている」と言い出す。
家則がそれを告げる相手は和子だけである。
和子は、そんな家則の様子を見て「おかしくなった」と騒ぎだし、警察まで呼び出す。しかし、和子以外の前には姿を現さない家則だったので、和子から訴えられた警察も蘭子と綱夫も逆に「和子がおかしくなった」と思い込んだようだ。
確かに、和子も常軌を逸していたのかも知れないけれど、やってきた警官は、家則の様子には気付かず、和子を抱え上げて去って行く。
そうしてから蘭子が家則に話しかけると、家則は「龍の尻尾は冷たい」と空を見つめる目で語り、そして笑い出す。
ここまで談笑はともかくとして、他の人々が高らかに笑い続ける中で笑おうとしなかった家則が、初めて、一人で、高らかに意味なく笑う。その姿は何ともいえない迫力を醸し出す。
一方の蘭子は、これまで「妖艶」という位置に居たのにも関わらず、いきなり膝を抱えた女の子になってしまい「どうしよう」と呟く。
そこで幕である。
意外と龍の登場が地味で、そこはかなり意外だった。これでは「龍を撫でた男」は結末を語っているだけで、そこから何かが始まるという感じがないではないか。
どうしてこういう結末なんだとか、どういう物語だったんだとか、寄付の話は何だったんだとか、後から思うと色々と疑問があるのだけれど、このときは、「あぁ、終わった」というただそれだけが頭に浮かんだのだった。
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