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2012.02.04

映画「真珠の耳飾りの少女」を見る

「真珠の耳飾りの少女」
監督 ピーター・ウェーバー
脚本 オリヴィア・ヘトリード
原作 トレイシー・シュヴァリエ
出演 スカーレット・ヨハンソン/コリン・ファース
    トム・ウィルキンソン/キリアン・マーフィ
    エシー・デイヴィス/ジュディ・パーフィット
    アラキナ・マン
配給 ギャガ・コミュニケーションズ

 ネタバレありの感想は以下に。

 ネタバレありの感想はなどと書いたものの、実はよく判らなかったというのが本当のところである。

 「フェルメールからのラブレター展」を見た後、こちらの映画を見てきた。美術展との特別企画で上映されていたのだ。
 フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」はどのようにして描かれたのか、その一つの答えを見せてくれた、「真珠の耳飾りの少女」がいかにして描かれたのかを描いた映画、ということは間違いない。

 スカーレット・ヨハンソン演じる、フェルメール家の下働きとして働くことになったグリートが画家のモデルになったという設定なのだけれど、このスカーレット・ヨハンソンが、ほんと、「真珠の耳飾りの少女」で描かれた少女にそっくりである。青いターバンを巻いて、さらに生成りの布を頭に巻き、振り返ったその顔は本当に絵そのものだ。
 それだけで、この映画は成功しているという感じがする。

 グリートは、画家のアトリエの掃除を任され、窓ガラスを拭くと光が変わってしまうが拭いてもいいか、とフェルメールの妻に尋ねる。この一言が彼女のその後を決定づけたと言ってもいい。
 アトリエの様子は、そのまま、フェルメールの絵のどれかの様子なのだけれど、疎い私には「こんな構図の絵があったかも」という辺りで止まってしまう。フェルメールが描いた絵にしても、パトロンの男が話題にする画題にしても、妻がチェンバロ(だと思う)を弾く様子にしても、見る人が見て聞く人が聞けば「あぁ、あの絵だな」と判るような仕掛けになっている。
 この辺りの仕掛けと、その再現に対する執念というのか情熱は、この映画の評価の一端を担っているんだなと思う。

 それで、この映画が果たして恋愛映画なのか、と言われると、何だか違うような気がする。
 それは確かに、絵のモデルになるように言われ、主人の妻の真珠の耳飾りをつけるように言われて「バレます」と答えたり、耳飾りをするために耳に穴を開けようとして主人にそれをするよう頼み開けられたと同時に涙を流したり、屋根裏部屋で寝起きするように言われて主人の絵の具の用意の手伝いができるといきなり足取りが軽くなったり、グリートが恋をしているかのようなシーンはいくつもある。
 グリートが主人の妻の鼈甲のくしを盗んだと疑われ、「助けて」と呟いたとき、フェルメールが家中を引っかき回して盗まれたというくしを探し回ったり、そもそも彼女を絵のモデルにしようとしたり、パトロンの魔の手から守ろうとしたり、フェルメールの方にも彼女を気にする素振りがありありである。
 何より、フェルメールの娘のグリートへの反感が、この2人が惹かれ合っていることを伝えてくる。
 だったら、この映画はこの2人の恋愛を描いているのか、というと、そうではないような気がする。というよりも、恋愛を描いた映画だと言われると何となくしっくりこない。
 大体、グリートに真珠の耳飾りを付けることを決心させたのは、フェルメールではなく、フェルメールの妻の母親ではないか。

 そう考えると、フェルメール家を辞して家に帰ったグリートに届けられた真珠の耳飾りの届け主は誰かというときに、それは普通に考えればこれこそがフェルメールからのラブレターということになるのだろうけれど、フェルメールの妻の母親からの贖罪の気持ちだという解釈もありじゃないかしら、などと思えてくる。

 「フェルメールからのラブレター展」と続けて見たこともあって、何だかぐちゃぐちゃと考えたりもしたけれど、ゆったりフェルメールの絵の世界に浸るのが正解、という風にも思ったのだった。

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