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「サド侯爵夫人」
作 三島由紀夫
演出 野村萬斎
出演 蒼井優/美波/神野三鈴
町田マリー/麻実れい/白石加代子
観劇日 2012年3月9日(金曜日)午後6時30分開演
劇場 世田谷パブリックシアター 2階C列29番
上演時間 3時間40分(10分、15分の休憩あり)
料金 7500円
ロビーではパンフレット(1000円だったと思う)等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
何というか、とにかくよくもこの6人の女優を集めたものだというのが第一印象で、そして全てのような気がする。
蒼井優のルネに、美波演じるその妹アンヌ、神野三鈴が修道女になるシミアーヌ男爵夫人を演じ、町田マリー演じるシャルロット、そして、麻実れい演じるサン・フォン伯爵夫人に白石加代子演じるルネとアンヌの母親モントルイユ夫人の二人がまさにハマリ役であろうことは十分に予測できることである。
世田谷パブリックシアターの天井の高さを活かし、舞台は半円形に石垣に覆われ、最初は床に降ろされていた鉄のシャンデリアをシャルロットが力一杯引っ張り上げるところから芝居は始まる。
舞台上に砂を敷き、その真ん中に木目の円形の一段高くなった舞台を据えてそこが部屋の中のようだ。袖に向かって日本の通路が通っている。
6人の衣装は、6人とも黒が基調である。
ルネの衣装は白いオーガンジー風の布を被されて修道女風だし、アンヌはオレンジを差し色に使って若々しく細さが強調されている。シミアーヌ男爵夫人の登場は薄いピンクを廃しているし、サン・フォン伯爵夫人は乗馬服、モントルイユ夫人の衣装はどこか着物風である。シャルロットのメイド服もこうした中ではひどく普通に見える。
そして、やはり、「サド侯爵夫人」は台詞劇なのだなと思わせられた。
とにかく、美文調というのか、上品なというのか、聞き慣れない調子の聞き慣れない単語が、あるリズムに乗って次から次へと繰り出される。
サン・フォン伯爵夫人の偽悪的な台詞がいっそのこと一番身近に感じられるくらいだ。
その台詞回しの調子の良さというのか音楽的な「律」みたいなものに乗せられて意識がふーっとどこかへ行ってしまい(決して寝たわけではない)、ふと気がつくと台詞をまるで聞いていなかったことに気がつく。そんなことの繰り返しだった。
ルネを演じた蒼井優は、最近「その妹」でも明治の品のよい女性の言葉をくるくると使いこなしていたのだけれど、今回も圧倒的な量の台詞を全く問題なく、完全に自分の中のリズムに乗せてしゃべっているように感じられる。
ルネというのもとても判りにくい人だと思うのだけれど、そしてやっぱり今回も、いくらルネのしゃべっていることを聞いても、説得力はあるものの理解することはできないと感じる。迫力負けしてしまうと言えばいいのか。
彼女は一体、何を思ってずっと離婚を承知せず、サド侯爵が自由の身になるよう献身的に運動し、そのサド侯爵が釈放されて訪ねて来たときに「二度とお目にかかることはないでしょうと伝えよ」とシャルロットに命じたのか。
それはやはり今回も判らなかった。
そのルネと常に対立し、助け、結局ずっと一緒に暮らしていたらしいのがモントルイユ夫人である。
母親として娘の幸せを願い、言ってしまえば「変態」として牢獄に入れられた婿と離婚させようという彼女の奮闘は判る気がするのだ。正義とか道徳とか世間体とかモラルとか、そうしたものを一身に背負っているのだという気負った様子を見せる彼女に共感出来る部分は実はあまりないのだけれど(そうした鎧に身を包んで、自分の汚さに目を瞑ろうとしているようにしか見えない)、でも、このお芝居のモントルイユ夫人から私が感じたのは「しぶとさ」だった。
論理でいえば、ルネには敵わないし、ルネは母のその偽善というのか欺瞞というのか、母の人生そのものを容赦なくこき下ろすし、そこに反論することは相当に難しいと思わせるような組み立てと迫力で迫ってくる。
ところが、それを聞くモントルイユ夫人は、気弱な表情すら見せず、論理的には全く反論になっていないのに、彼女の中の論理でルネに反論し反対し己を守り娘までの自分の懐で守ろうとする。
特に二幕最後のルネとモントルイユ夫人のやりとりを見て、私は思わず「しぶとい」と呟いてしまった。ふてぶてしく、しぶとい。
「貞節」を連呼するルネや、何回も何回も十字を切るシミアーヌ男爵夫人よりも、悪徳の限りを尽くすというよりは歯に衣を着せないサン・フォン伯爵夫人や、姉の夫とヴェニスに行き、いつのまにか結婚し、その夫の目端の利くままフランス革命絶頂期のフランスを逃げ出そうというアンヌの方が、何というか、普通に見えるし、近しく感じる。
衣装が割と時代がかっていなかったところにも近しさを感じる原因があったのかも知れないし、逆にそういう登場人物だから今の日常に近いドレスを着せたのかも知れないとも思う。
それを言うなら、この台詞劇の中で唯一ほとんどしゃべらないシャルロットが、三幕で真白のエプロンを外し元の主人であるサン・フォン伯爵夫人の喪に服すために喪服を着ていたことは、台詞ではなくそうした態度で彼女の主張を静かに知らしめようということだったのではないかと思う。
一幕と二幕では、そのシャルロットがシャンデリアを引っ張り上げ、その鉄のシャンデリアの影が動くことでその場の中心がどこにあるのかを示していたように思うのだけれど、三幕ではシャンデリアはずっと地上1mくらいのところにあり続ける。
そして、三幕が終わったとき、シャンデリアは落ちてゴトンという音を立てて転がる。
そこで幕である。
二幕は鮮烈に覚えていて、三幕もそうだったかどうか自信がないのが悲しいのだけれど、その「幕」が終わるときに舞台の明かりは落ち、スポットライトがルネの顔を中心に絞られていって、最後にルネの表情をカっと印象づけて消える。
間違いなく二幕のルネは、「サド侯爵は私なのです」と言い放った後、スポットが絞られるにつれて笑顔を大きくして行き、最後には高笑いにすらなったように見えた。
ここが記憶に自信がないのだけれど、三幕でも、最後は、ルネの笑顔のアップ(演劇なのだからアップがあるわけないのだけれど、でもこれは正しくアップだったと思うのだ)で終わったような気もするし、鉄のシャンデリアがクローズアップされて終わったようにも思う。
台詞劇だし、台詞に相当のパワーが注がれていることは判る。
でも、何故か印象に残るのは台詞回しや台詞そのものよりも、その台詞を言ったときの役者さんの表情だったり、何かが燃える音だったり、絞られるにつれて強くなる照明だったりする。
何とも不思議な、心地よいリズムの、でもとんでもないことを綺麗な女優さん達が次々と語ってゆく、ちょっと怖い舞台だった。
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コメント
えーと、お名前が判らないので呼びかけは省略させていただきまして。
お越しいただいてありがとうございます。
そして、「同感」と言っていただけて嬉しいです。やはり同じように感じられた方がいらっしゃるんだと思うと心強いです。
どうぞまた遊びにいらしてくださいませ。
投稿: 姫林檎 | 2012.04.01 22:39
>台詞劇だし、台詞に相当のパワーが注がれていることは判る。
でも、何故か印象に残るのは台詞回しや台詞そのものよりも、その台詞を言ったときの役者さんの表情だったり、何かが燃える音だったり、絞られるにつれて強くなる照明だったりする。
感想を検索するのが趣味で偶然たどり着きました者ですが、この文章に大いに同感いたしました。
私も、台詞をもらすまいと緊張して聞いていたはずなのに、気づいたら表情や、明かりや、指先に目が行っていました。
投稿: | 2012.04.01 00:37