「ザ・シェルター」「寿歌(ほぎうた)」を見る
加藤健一事務所VOL.81「ザ・シェルター」「寿歌(ほぎうた)」
作 北村想
演出 大杉祐
出演 加藤健一/小松和重/日下由美/占部房子
観劇日 2012年3月5日(月曜日)午後7時開演
劇場 本多劇場 J列17番
上演時間 2時間40分(15分の休憩あり)
料金 5000円
ロビーではパンフレット(500円)や、過去公演のパンフレット等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
加藤健一事務所の「シェルター」と「寿歌」と2本のお芝居を連続して上演するという公演である。1つの公演という扱いなのでチケットも1枚、1時間強のお芝居を15分の休憩を挟んで2本上演する。4人の役者は基本的に両方のお芝居に出演する。
日下由美だけは、「シェルター」にしか出演しないのだけれど、「シェルター」で演じた、ありし日の自分(赤いレインコートに長靴で舞台奥を歩く)の紛争のまま、「寿歌」でも舞台奥を横切り、そして、そのシーンでは赤いこうもり傘が風に舞う。
彼女のこの動きで2本のお芝居が辛うじて繋がっている感じである。
演出上のつながりはほぼそのシーンだけと言っていいと思うのだけれど、作品のテーマとしては判りやすく「核戦争」を背景にしている点で繋がっている。
「シェルター」は核戦争にも耐えるという売り文句のシェルターを作っている会社の社員が、3日間、家族とともにそのシェルターで暮らす、という設定である。
「寿歌」は、核戦争後の地球のどこかで、芸人2人とそこにふらっと現れた「ヤスオ」と3人がしょーもないことを言い合いながら一時ともに旅をするという設定だ。
だからこそ、上演順として「シェルター」から「寿歌」へとしたのだろう。
その辺りは正攻法だなと思う。
「寿歌」は最近、シス・カンパニーの公演で見たけれど、「シェルター」の方は見たことがない。
両方とも北村想の作である。
「シェルター」は、シェルターを作る会社で営業をしている小松和重演じる父親と日下由美演じるそのその妻、占部房子演じる小学生の娘と加藤健一演じる祖父の4人が、レポート作成のために3日間シェルターで暮らそうと荷物を持ち込むところから始まる。
準備万端(その準備も、父親は枕を持ち込んでいるし、娘は花火をしたいと叫び、母親は「ヒマだろうから」と毛糸の玉をたくさん持ってきたようだ)整ったところで、コンピュータ制御の扉を閉めて「実験」が始まる。
このシチュエーションでの予測のとおり、シェルターは突然に不調に陥る。コンピュータが流す環境音楽は元々がヘンな選曲だったのだけれど、何故か途中で止まってしまい再起動しない、電灯も消えてしまう。
ここで大活躍するのが、おじいちゃんが持ち込んだろうそくである。
すべてがコンピュータで制御され、「快適」を唄われるシェルターでクラスに当たって、何故にそんなものを持ち込んでいるのか。
そして、ここで一番パニックしているのが、「絶対に壊れるはずがない」と自社製品を信じている父親であるところが、いかにも「ニッポンのサラリーマン」である。
そこにさらに、水のタンクが壊れるというアクシデントが加わる。
小学生の娘のリクエストで、一家は「台風の話」を始める。
父親は、子供の頃の大きな台風の日にマントをつけて外に出、空を飛べるのではないかと試したことを話すし、母親は赤いこうもり傘で同じことを試したことを話す。おじいちゃんは、船に乗っているときに台風に遭い、命からがら岸まで泳いだことを臨場感たっぷりに話す。
ろうそく1本の灯りの下で、怪談ではなく台風の話である。
外では実は本当に核戦争が始まってしまったのではないか。
私などはそんな風に邪推してしまうのだけれど、よくよく考えれば、外に通風孔が繋がっている状態で外で核戦争があればすぐに環境が激変するのだし、それはあり得ない展開だった。
あり得ない展開ではあるのだけれど、あっさりと電気が点いて、コンピュータも復活して、シャッターも開けることができて、おじいちゃんと孫娘がトンボとりに出かけて行く。
真っ赤な夕日が落ちて行く。
そういう終わり方をするとは思わなかったよ、唐突過ぎる!オチはないのか? と思っていたら、おじいちゃんの荷物から、マントと長靴、赤いこうもり傘が出てきて、年寄りは時々こんな奇跡を起こす、というような台詞を父親がしみじみと言い、夫婦は手をつないで夕焼けの中に出て行く。 私が思っていたのとは全く違っていて、なるほど、やられた、と思ったのだった。
15分の休憩を経て、「寿歌」が始まった。
辛うじてあったシェルターのセットは全て片付けられ、舞台はとてもシンプルでカーテンというか幅の狭い幕だけが下がっている。
そこにリヤカーを引いた加藤健一演じるゲサクと、占部房子演じるキョウコが現れる。
加藤健一がおじいちゃんから若々しいゲサクに変わったことには驚かなかったけれど(それくらいはお手の物だと思われる)、占部房子が小学生の女の子から、ちょっと不思議な雰囲気の若い女性にコロっと変わって現れたことには驚いた。
役の年齢が大きく変わったこともあるのだろうけれど、随分と雰囲気が違う。
そして、ふらっとというか、妙な動きでというか、小松和重演じるヤスオが登場した。こちらもまた、先刻のちょっと神経質なサラリーマンとは随分と印象が異なっている。
キョウコの印象が突出している分、男2人は背景に溶け込むような感じで、空気感を醸し出している。
ヤスオの名乗りの「ヤソ」は、シス・カンパニー版の橋本じゅんよりも確信犯的に判りやすくやっているようだ。
やはり直近で別バージョンの同じお芝居を見ていると、どうしても比べてしまうところがある。
そうすると、やはりこの芝居の持つ「色」の違いは、2人のキョウコが醸し出しているように思う。
そして、大きな違いの一つは、シス・カンパニー版で付け加えられていたプロローグがこちらにはないということである。
プロローグがないことにより、キョウコがゲサクに「櫛と引き換えに干し芋を渡せ」と追い立てられるようにヤスオを追いかけた後、何が起こったかについては想像するしかない。
そして、想像するしかないことにより、ヤスオとキョウコの物語よりも、再び一人になってしまったゲサクの心情がより大きく強く迫ってくる。
これはもうどちらがいいかという話ではないのではないかという感じがした。
もう一つの大きな違いは、ゲサクがキョウコの撃ったピストルで(色々ありつつ)死んでしまうシーンから、生き返ってくるシーンまでの長さのように思う。こちらは、本当にあっという間である。
ピストルで撃たれてから死にそうになり、ウサギの話が始まり、「命がけでもその程度のものだ」という話になりという流れは大切にされているのだけれど、本当に死んでしまってから生き返るまでが本当に早い。
そこに余韻というようなものは全くない。
ゲサクがすぐ生き返ることによって、キョウコの側の心情がクローズアップされることが少なくなるのではないかと思った。
本当に色々な意味というか面を持つお芝居だし、加藤健一事務所の公演で「シェルター」と一気に上演することに大きな意味があったのだなと思ったのだった。
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