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2012.04.30

「闇に咲く花」を見る

こまつ座「闇に咲く花」
作 井上ひさし
演出 栗山民也
出演 辻萬長/石母田史朗/浅野雅博/増子倭文江
    山本道子/藤本喜久子/井上薫/高島玲
    大樹桜/小林隆/北川響/石田圭祐/水村直也
観劇日 2012年4月29日(日曜日)午後1時30分開演(千秋楽)
劇場 紀伊國屋サザンシアター 16列23番
上演時間 3時間10分(15分の休憩あり)
料金 6300円

 ロビーでは、パンフレット(800円)の他、井上ひさしの著作本等が販売されていた。
 井上ひさしが文、安野光雅が絵のガリバー旅行記の絵本があって、買おうかどうかかなり迷ったのだけれど、次の機会ということにした。

 ネタバレありの感想は以下に。

 こまつ座の公式Webサイトはこちら。

 私、このお芝居を知っているよな、見たことあるよなとずっと思っていたのだけれど、帰ってきてから確認したら、やはり見ていた。
 そのときの感想にストーリーも書いてあるので、その辺は こちらに譲ることにする。キャストも、眞中幸子と大樹桜が入れ替わっただけで、同じ役者さんが演じ、同じく栗山民也が演出している。

 最初に見たときは、私はひたすら「理不尽」を感じていたようなのだけれど、今回は、そこまでの怒りは湧いてこなかったように思う。
 それはもちろん、理不尽である。神社は清く明るい場所である、死は穢れだから神社の境内から死は排除されている、その神社から出征する兵士を送り出したとき、神社の境内に死者が運び込まれ火葬が行われたとき、神社は神社ではなくなってしまったのだと嘆く、健太郎。
 その健太郎が、野球が好きで、プロ野球選手であって、グアムで現地の人と野球を楽しんでいた健太郎が、その野球をしているときにキャッチャー役にボールを当ててしまった。というよりも、キャッチャー役がボールを取り損ねて顔に当ててしまったことがC級戦犯であるとされてしまう。
 どうして、「いい奴」に限って、しかも「いい奴」であるから殺されなければならないのか。

 C級戦犯であると告げられたショック(しかも、理由がこのとおりだし、それを告げに来たGHQの人間ですらこの宣告が理不尽であることを半ば認めている)で記憶を失った健太郎は、ずっとバッテリーを組んでいて今は神経科医になっている稲垣の治療で徐々に記憶を取り戻していく。
 その記憶を取り戻す過程をこっそり録音されていたのだから誤魔化しようがないのだけれど、健太郎が「忘れっぽい日本人」を、その代表のような自分の父親を半ば詰る、でも愛情をもって自分の思いを伝えようとして「忘れてはいけない、忘れたふりはもっといけない」と言う。
 その録音を聞かされて健太郎は「自分は正気です」と自ら言うのだけれど、それとこれとは話が違うでしょう、と思うのだ。健太郎は別に「忘れずにいて自らを省みるべきこと」について忘れたふりをしていた訳ではないのだ。

 この辺になると訳が判らなくなってきて、悪報も法なりということなのか、それが濡れ衣であってもそして公正な裁判が行われないと知っていても「立派なこと」を言ってしまったらそれに服さなくてはならないのか、ここは「記憶を失くしたままの振り」をして炭焼きとして暮らすべきだったのか。
 ここで、正直に記憶が戻ったことを申し出て、公正な裁判が行われたのであればまだ納得のしようがある。
 でも、健太郎は僅か3日の裁判で死を宣告されるのだ。
 そして、健太郎をここまで追い込んだGHQに勤める男(彼が日本人であるらしいことも私の感情を複雑にする)が、健太郎の死後、その遺品を届けに来て、かつ職を辞して田舎に帰ると言うこともさらに理不尽感を増すことになる。こいつがもっと早く自分のやっていることに疑問を感じていれば、健太郎は死なずに済んだのかも知れないとつい思ってしまうのだ。

 一方で、戦時中は出征兵士を率先して送り出し(でも、陰では生きて帰って来られるように祝詞をあげ)、健太郎が戦死したという報を受けて「神様はお留守です」と言い張り、健太郎が戻って来るや否やそれまで拒否していた神社本庁傘下に入ることを決め、「平和の太鼓」とやらまで叩きましょうと、いわば調子に乗る。
 その神主さんの「忘れっぽさ」は自分の日本人の忘れっぽさであり、調子の良さも日本人の調子の良さであり、彼の姿を「ちょっとみっともない」と思うとそれは自分に返ってくる。
 でも、同時に、誰もが健太郎のように「正しく」「格好よく」はできないんだよという暗い感情もちょっと覚えたりする。

 健太郎の死後、健太郎が記憶を取り戻す様子をこっそり録音させられていた鈴木巡査は、いつの間にか神社の副宮司に納まっている。
 話によると、彼は警官の権限と手帳を利用して闇で食料を売買し、もちろんそれはすぐに発覚したのだけれど、健太郎を逮捕させた功績との相殺で許されたのらしい。
 ここで「悪法も法なり」ではないということ、その「法」を逆手に取る神主と神社内にあるおめん工場で働く女たちのたくましさを伝えようとしたのかとも思い、でもそこで「相殺」にされたことの結果を思うと、このシーンだけ、神社の背後に明るく光っている青空が恨めしくも思えてくる。

 何だかストーリーの通っていないぐちゃぐちゃな感想になってしまったけれど、そういうぐちゃぐちゃっとした感情を呼び起こすお芝居だったし、このぐちゃぐちゃな感じがどこから来ているのか、自分がこのお芝居から受け取ったものは何だったのか、戦争と神社と「上」と日本人と忘れちゃいけないことと、でも理不尽なことと、ずっと「考えなくてはならないこと」として残るお芝居だった。

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