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「陽だまりの樹」
原作 手塚 治虫
脚本・演出 樫田正剛
出演者 上川隆也/吉川 晃司/岡本健一
高野志穂/花影アリス/石倉三郎/瀬下尚人
岡森諦/小林十市/斉藤レイ/伊藤高史
長谷川純/加藤照男/本郷弦/大村美樹
小野健太郎/勝信/田実陽子/湯田昌次
鈴木健介/木村優希/岸本康太 ほか
観劇日 2012年4月21日(土曜日)午後5時開演
劇場 サンシャイン劇場 1階22列5番
上演時間 3時間(20分の休憩あり)
料金 9000円
ロビーではパンフレット(1600円、だったと思う)や原作漫画(何故か1〜4巻のみ)等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
かなり前に見た「陽だまりの樹」は、手塚治虫が自分のルーツを求めて明治に生きる祖先の良庵を求めて行くという設定で、何故かアトムが登場したりしていたのだけれど、今回はそうした枠組みからして全く別のお芝居だった。
考えてみれば、脚本は樫田正剛と書いてあるのだから、それで当たり前である。
それでも、10年以上も前に見た舞台の印象が強く残っていて(もっともストーリーはほとんど覚えていなかったのだけれど)始まりからしばらくは違和感が残ってしまった。
この「陽だまりの樹」は、原作漫画を恐らくストレートに舞台化している。何しろ原作漫画を読んでいないので、ストーリーそのままかどうか断言することはできないのだけれど、仕掛けのようなものは使わずにストレートに物語を舞台に載せていることは確かである。
いきなり、上川隆也演じる良庵と、吉川晃司演じる万二郎の出会いのシーンから始まる。その出会いの場には、大きな「陽だまりの樹」がたっている。これ以上ストレートな始まりがあるだろうかというくらいのストレートさ加減だ。
蘭方医である良庵は腕は悪くないようだけれど(その腕が発揮されるのは少し後のことである)、どうにもこうにもノリが軽い。いい加減そうだし、劇中で何度も言われることだけれど「親子揃って助平」である。
一方の万次郎は、どこまで行っても生真面目の堅物である。もの言いも堅苦しいし、良庵の一挙手一投足を苦々しく見ている。
つい、これ配役が逆だったらどんな感じだったろうと思ってしまった。
私が見た回は、良庵が芸妓たちと遊んでいるシーンで、太鼓持ちとぶつかって太鼓持ちの鬘を飛ばしてしまうというアクシデントがあった。
急にハイテンションになって騒ぎまくる上川隆也が可笑しい。ここは良庵としてではなく上川隆也としてハイテンションになっていたように見えた。そして、散々ハイテンションで騒ぎまくって、鬘が元通りに直されると見るや、今度は無理矢理にでも芝居を元の筋に戻そうとする。その反射神経と力業には拍手である。
このアクシデントは尾を引いて(というよりも、面白がられて)、後半、石倉三郎演じる良庵の父親の良仙とこの太鼓持ちが客席に降りて来るシーンがあるのだけれど、そこでも良仙が、というよりも石倉三郎が、太鼓持ちに向かって「毛生え薬を調合して進ぜよう」等々といじり倒していた。それを見ていた舞台上の良庵が「そろそろ上がっていらっしゃい」と声をかけ、太鼓持ちを演じていた役者さんがうっかり「毎回大変なんですよ」と口を滑らした途端、「毎回って言うな!」と神速のツッコミが入った。もちろんツッコんだのは、良庵ではなく上川隆也である。更に「いつでも初めてでしょう!」と追い打ちをかけておきながら、良仙が再び「毛生え薬を・・・」と言いかけると、「だから蒸し返すんじゃない!」と遮るところも可笑しい。
これが全て「仕込み」だったら大拍手ものだけれど、多分、違うと思われる。
ずっと苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた万二郎が、ここだけ吉川晃司に戻って笑っていたのも可笑しい。
そうしたアクシデントはともかくとして、最初のうちはどうにも舞台が広く感じられて勿体ないなと思っていた。
広い舞台に少ない人数でも舞台が「埋まっている」という印象のときもあるし、セットを建て込んで舞台上にたくさんの役者さんがいても「何だか薄い」と感じるときもある。この舞台も、始まった頃は何だか薄い感じがして、どうしてだろうと首を傾げることになった。
殺陣のシーンですら舞台が広いと感じたから、違和感は相当に大きかったのだろうと思う。もっと大きく使えるじゃないかと思ったし、このわざとらしい刃の鳴る音は何なんだという風にも思った。
多分、それは、芝居の途中でセットの奥で(だから前方の席にいる人からは見えていなかったと思われる)次のシーンの準備なのか何かを動かしている様子が見えてしまったり、割と暗転が長かったり、暗転のたびに入る音楽がいかにも盛り上げ効果を狙っている(それは音消しの効果も狙っているのだと思うけれど)感じだったり、そういう事柄が私にとってはん?と思うきっかけになってしまったからだと思う。
それが、物語が後半に向かうに従って、同じように芸妓と遊ぶシーンでセットも同じなのに「薄い」と感じさせないようになって行ったのは、物語と役者と演出の力なんだろう。
どうしていきなり良庵が政を熱く語るようになるのかとか、ラストシーンで万次郎を桜田門外の変に向かうことを匂わせるのはどうなんだとか(これは、それまでの万次郎の生き方に激しく反する大転換だし、原作とも異なっていると思う)、内部から腐ってしまって崩壊寸前の江戸幕府を象徴する「陽だまりの樹」であると劇中でも示唆される桜の巨木が最後に満開になるのはおかしいのではないかとか、色々と、これはどういうことだと詰め寄りたくなるような展開ではある。そして、この「どうなんだ」という気持ちを強引にねじ伏せるところまでは行っていないと思う。
でも、ラストシーンで、満開の桜の下、ドカ雪のように降りしきる桜吹雪の下に良庵が一人立ち、万次郎と、時代なのか自分なのか、何か理不尽なものへの気持ちを叫ぶシーンを見ると、そういう文句は一時横に置いておこうという風にも思えたのだった。
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