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2012.04.14

「シンベリン」を見る

彩の国シェイクスピア・シリーズ 第25弾「シンベリン」
作 W・シェイクスピア
翻訳 松岡和子
演出 蜷川幸雄
出演 阿部 寛/大竹しのぶ/窪塚洋介/勝村政信
    浦井健治/吉田鋼太郎/鳳蘭 他 
観劇日 2012年4月12日(木曜日)午後6時30分開演
劇場 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール M列7番
料金 9500円
上演時間 3時間30分(15分間の休憩あり)

 ロビーではパンフレット等を販売していたけれど、チェックする間もなく劇場に入ってしまった。
 このお芝居は、開演15分前には客席にいたいものである。

 ネタバレありの感想は以下に。

 埼玉県芸術文化振興財団の公式Webサイト内、「シンベリン」のページはこちら。

 客席に入ると、舞台の幕は開き、そこは楽屋の用である。鏡が並び、ひとつひとつに役者の名前が書かれた札が貼られている。
 浴衣を着たり、トレーニングウエアを着たり、女優陣はガウンのようなものをまとい、開演15分前くらいから三々五々役者達が集まり始める。台詞をさらう者あり、他の役者に挨拶する者あり、舞台の端から端までいつの間にか移動してあちこちにいる役者と話し込んでいる者あり。
 「舞台裏」を演じているようだ。
 革のように見える赤っぽいガウンをまとった阿部寛がその身長もあって激しく目立つ。

 鉦が鳴ったか鳴らなかったか、役者達がそれまでの「楽屋裏」を止めて、一列に整列した。そして、次の瞬間、照明がかっと強く白くなって役者を照らし、浴衣やガウンなどが引き抜かれ、そこにはシンベリンの世界の住人達が並んでいた。
 「ケレン」そのものの派手は始まりである。
 楽屋裏のセットは役者達によって片付けられ、その代わり、深山幽谷といった掛け軸に描かれているような背景が定位置に着く。
 そこは、ブリテン、シンベリン王の宮廷である。

 大竹しのぶ演じるイノジェンは白いドレスであくまでも可憐、阿部寛演じるポステュマスはその王女イノジェンが選ぶに相応しいという偉丈夫ぶりである。
 吉田鋼太郎演じるシンベリン王はイノジェンが勝手にポステュマスと結婚したことに怒り狂っているし、鳳蘭演じる王の後妻である王妃は連れ子の息子とイノジェンを結婚させてこの国を継がせるという野望を挫かれて同じく怒り狂っているけれど、こちらは王の手前いい人ぶっている。
 お約束通り、偉丈夫のポステュマスに比べ、勝村政信演じる王妃の連れ子クロートンは、何というか、一言で言って「莫迦丸出し」といた感じである。

 この辺りの登場人物は概ねモノトーンの衣装を着けている。
 王と王妃、ポステュマスは黒、イノジェンとクロートンは白である。後の戦闘シーンでブリテンの兵士は黒、ローマの兵士は白の衣装を着ていたけれど、冒頭シーンの衣装の色分けには特に理由はなかった、ように思えた。
 その中で、大石継太演じるポステュマスの召使いであるピザ−ニオが多少カラフルな衣装で、最初はうっかり「彼が道化か?」と思ったくらいだったのだけれど、どちらかというとこのピザ−ニオは忠義を尽くす誠実な人間として描かれていて、物語を運ぶ役目も担うものの「道化」というのとは違う気がする。

 イノジェンと結婚したことで追放されたポステュマスは、父の友人を頼ってローマに落ち着く。そのまま落ち着いていればいいものを、「雨夜の品定め」よろしく(というか、それを彷彿とさせるように源氏物語絵巻のような背景になり、そこにはきっぱりと「雨夜の品定め」の書かれている)ローマに集った男達が「自分の国の女自慢」を始める。
 まあ、男というのは勝手なものである。ついでに莫迦だ。
 そこで、窪塚洋介演じるヤーキモーの挑発に乗せられたポステュマスは、イノジェンの「貞操」を賭の対象にするのである。
 シェイクスピアの時代、こういう男は「莫迦」とは見なされてなかったんだろうかとさえ思う。

 莫迦といえば(といって思い出すのも気の毒な気もするけれど)、クロートンは逆になかなか面白いと思う。
 剣はまともに使えない、何回やっても鞘に収めることができずに収めたつもりで剣を地面に落としてそのまま行ってしまう、道を歩けば壁にぶち当たり、どう考えても嫌われているのにしつこくイノジェンに言い寄る、それでも自分は一廉の人間だと信じた振る舞いをして取り巻きの者たちの失笑を誘う、そういうキャラで、この舞台の笑いはほとんどクロートンが産んでいるのではないかというくらいの勢いなのだけれど、でも極く稀に、「もしかしてクロートンって意外とちゃんとしている奴なのかも」という風情を漂わせるのだ。
 これはもう勝村政信の「技」だと思うのだけれど、演じていてこれは楽しいだろうなという気がした。そして、勝村政信が一人、セットもほとんどない広い舞台に立っていても、ちゃんと舞台が埋まっている。逆に舞台の広さを感じさせなかった大石継太とともに、これもやっぱり凄いことだと思うのだ。

 いかにも狡猾そうなヤーキモーはやっぱり狡猾で、イノジェン本人に会ってこれはポステュマスの言うとおりの貞淑な女性だと察するや否や方針を変更し(この辺りの機敏さは一層のこと見事である)、「大切なものを預かって欲しい」とイノジェンに頼み込んでその葛籠の中に入り込んでまんまと彼女の寝室に入り込み、その様子を覚え、イノジェンがいかにも大切そうにしていた腕輪を抜き去り、胸元のほくろを確認してほくそ笑む。
 ここでイノジェンにも、自分の部屋に人の気配があって、腕輪を抜かれ、覗き込まれていることに気付かずに眠り呆けているってどうなんだと言いたいし、起きたときに腕輪がなくなっていることに気付けよと言いたい。
 それはそれとして、阿部寛とも窪塚洋介ともきっぱりと似合いに「惚れられて当然」に見える大竹しのぶは魔女である。

 数々の偽証拠を突きつけられたポステュマスはあっさりとヤーキモーの陰謀にやられ、イノジェンが自分を裏切った者と思い込んで怒り狂い、イノジェンからもらったダイヤの指輪をヤーキモーに譲り、ピザ−ニオにイノジェンを殺すように手紙を書く。
 ポステュマスの誤解だと確信するピザ−ニオは、当然のことながら煩悶し、ついには「イノジェンを男装させ、宣戦布告にやってきたローマ軍の将軍に仕えさせてローマに行かせる」というアイデアを実行するのだ。イノジェンが宮廷からいなくなり、適当な証拠をでっち上げてポステュマスに送っておけばあっさり騙されるだろうという、自分の主人を読み切った(あるいはナメ切った)とんでもない策である。

 しかし、話はそうは上手く転がってくれず、宮廷育ちのお姫様がそうそうちゃんと「歩ける」訳もなく、洞窟に隠れ住んでいた父子3人と出会い、あっという間にその兄弟と意気投合する。これが、実は瑳川哲朗演じるシンベリンから謀反の疑いをかけられて無実なのに宮廷を追われたかつての旧臣ベラリアスと、彼が宮廷から連れ去ってきたシンベリン王の息子達というのだから話は出来すぎである。
 よくよく考えれば、美しく可憐で貞淑なお姫様、人は悪くないのだろうけれど今ひとつパッとしない王様、その王につけ込む悪徳王妃、その息子の道化王子、子供の頃に攫われて自らの正体を知らない王子2人に、王に追放された無実で忠実な家臣、正々堂々たる敵に、狡猾な貴族、「シンベリン」というのはシェイクスピアの描いた物語の様々な要素をこれでもかとぶち込んであるご都合主義の権家の物語なのではあるまいか。
 だとしたら「都合が良すぎる」などという私の文句はお門違いもいいところである。

 それでもやっぱり、イノジェンを探しにポステュマスの服を着込んでやってきたクロートンを浦井健治演じる王子が首を落として殺してしまい、疲れ切ったイノジェンがピザ−ニオにもらった薬を飲むとそれは実は王妃が毒薬のつもりで渡した薬で、実は一時的に心臓は止まるもののそれ以降は元気になるという薬で、狩りから戻って来た3人はイノジェン(であるところのいたいけな少年)が死んでしまったものと思い込み、クロートンの首なし死体と並べて葬る準備をする。
 目を覚ましたイノジェンが服装だけで死体をポステュマスだと思い込むところで、私はやっぱり文句を言いたくなるのである。「体格が全然ちがうだろ!」

 そういうわけで、ご都合主義に目を瞑りたいところだけれど、ローマ軍に負けそうになったブリテン軍が、旧臣と王子2人、イノジェンを殺せと命じたことを何故か突然に後悔し始めて死に場所を求め始めたポステュマスの活躍で逆転勝利を収めた辺りから、やっぱり「こらこら」と言いたくなる展開が続くのである。
 ローマ将軍の小姓としてシンベリン王の前に連れ出されたイノジェンが、ヤーキモーのはめたダイヤの指輪に気付き、その入手の由来を問い質せば、ヤーキモーは突然改心して自らの悪事を告白し始める、クロートンが死んだことは知らない筈なのだけれど行方不明になったことで王妃は病の床につき悪事の数々を告白して亡くなる、ベラリアスは無実の自分を追放した王を「偉大なるシンベリン王」と呼び、当初は「裏切り者!」と暴れていたシンベリン王も何故かベラリアスを許しているし、イノジェンとポステュマスのこともどさくさ紛れに許している、王子たちはあっさりと父親にも抱きつくしベラリアスを恨む様子もない、何というか、特に悪巧みはしていなかった(と思う)クロートン一人が殺され損の感じである。クロートンを殺した王子にももちろんお咎めなしだ。

 シェイクスピアはご都合主義である。
 ご都合主義を楽しむのがシェイクスピアである。
 そうは思っていても、ついつい、心の中でツッコミを入れてしまう。

 時々、配送する兵士が「落ち武者」のようだったり、背景が墨絵のようだったり源氏物語絵巻だったり、多分、斬り合いのシーンは殺陣のようだったり、さりげないのかさりげなくないのか微妙なさじ加減で「和」の要素を取り入れている。この後ロンドンで上演することも十分に意識しているのだろう。
 それがこの「シンベリン」という物語を邪魔せず、時に雰囲気を高めているところが蜷川演出の胆なんだろうと思ったのだった。

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