「桜の園」を見る
パルコ・プロデュース公演 三谷版「桜の園」
作 アントン・チェーホフ
演出 三谷幸喜
出演 浅丘ルリ子/市川しんぺー/神野三鈴/大和田美帆
藤井隆/青木さやか/瀬戸カトリーヌ/高木渉
迫田孝也/阿南健治/藤木孝/江幡高志
観劇日 2012年6月15日(金曜日)午後7時開演
劇場 パルコ劇場 K列21番
上演時間 2時間20分
料金 9000円
ロビーでは、パンフレット(1500円)等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
「三谷版」と銘打っているし、あちこちで三谷幸喜自身が「桜の園は喜劇だ」と前宣伝していたし、これまで上演されてきた「桜の園」とは違うのだろうと思っていた。ところが、今見てみたら、少なくともこのブログを始めてからこちら、私は「桜の園」を見たことがないらしい。
そんな筈はないだろうと色々と思い出そうとするのだけれど、確かにじゃあ誰がラネーフスカヤを演じていたのかと言われると全くイメージが浮かばない。
もしかしたら、今回が私の「桜の園」初観劇だったんだろうか。
それはともかく、「桜の園」である。
一般的に「没落貴族の悲劇」として演じられることの多い(らしい)「桜の園」に対する構えのようなものを解きほぐそうということで、開演前に青木さやかの前説がある。前説というか、パンフレットの紹介があり、そして、三谷幸喜がこの「桜の園」上演に当たって持っている決意なのかスタンスなのか、そういった類のもうちょっと軽い何かを歌詞にした歌を歌って踊っている。
滑る一歩手前、くらいで留まっている辺りが上手い。
始まりは、浅丘ルリ子演じるラネーフスカヤがパリから帰ってくるのを今か今かと待っている桜の園の屋敷内、神野三鈴演じるワーニャたちの場面である。屋敷の子供部屋の雨戸が次々と開けられ、光が差し込んでくる。
舞台は一貫してこの子供部屋だ。
市川しんぺー演じるロパーヒンがラネーフスカヤを待ちかねており、帰って来るなり、この桜の園が競売に出されていること、その前に桜の木を切り屋敷を取り壊し別荘地として貸し出せば借金も返せるし生活費もそこから捻出することができると必死になって説得するのだけれど、「そんな話は聞きたくない」の一言で終わらせられてしまう。
こうなってくると、浅丘ルリ子の持つ雰囲気やイメージが全ての説得力を背負っている。
もう生活費もほとんどなく、家も売りに出されているのに、お金の話はしたくないと高級なお茶を優雅に飲んでいるという浮き世離れした風情を納得させられる女優さんなどそうはいるまい。
桜の園の経営を任されていた藤木孝演じる弟のガーエフもやはり浮き世離れしているのだけれど、こちらは過去の栄光にしがみつく感じやプライドが前面に押し出されている浮き世離れ感である。ラネーフスカヤの場合は、何というか、もっと自然に浮き世離れしているのだ。
阿南健治演じるピーシチクに借金を申し込まれたときも、ラネーフスカヤは「困っているんだから」と貸そうとするし、ガーエフは貸さないと格好悪いから貸す、という感じといえばいいだろうか。
屋敷で働いている人々も、高木涉演じるエピホードフは、瀬戸カトリーヌ演じる小間使いのドゥニャーシャに夢中で仕事中にいきなり歌を歌い出すし、そのドゥニャーシャは、ラフネースカヤがパリから同道させた迫田孝也演じるヤーシャに夢中だし、そのヤーシャはラネーフスカヤのお気に入りという立場を崩さないことだけに腐心しているし、ずっと桜の園にいる江幡高志演じるフィールスはガーエフを子供扱いするなど少し昔の時代を彷徨っているかのようだし、要するに、現実感とか、「桜の園がなくなったらどうしよう」という心配をしていない感じがしていて、どうにも切迫感がない。
青木さやか演じるシャルロッタにしても、飼っている猿を探したり、手品を披露したり、やっていることが一々浮き世離れしているのだ。
結局、一番桜の園の将来について考え必死になっているのは、元は桜の園で働く農民の息子で今は事業に成功しているロパーヒンだけということになる。
そのせいなのか、私の目には、この「桜の園」という舞台の主役はロパーヒンに見えるし、準主役はそのロパーヒンを思い合っているんだかいないんだかはっきりしないワーニャのように見える。
ガーエフとともに桜の園を取り仕切りその内情を一番よく知るワーニャは、桜の園にお金のないことを十分に知っており、それでも(彼女の目からは無駄遣いに見える)お金の使い方をするラネーフスカヤに悲鳴を上げ、ため息をつく。それでも、「お母様がお慶びになるから」と盛大なパーティーを催してしまうのだから、一見は常識家に見える彼女も実はやっぱり彼女も浮き世離れしているんだろう。
そういえば、藤井隆演じるトロフィーモフにも「いつも召使いを叱りつけてばかりいる」と指摘されていたけれど、彼らからしてみると、「従業員の分を守れ」というワーニャの考え方も古いということになるのかも知れない。
大和田美帆演じるアーニャは、大学生のトロフィーモフの説く新思想に共鳴しているけれど、労働が全てだと説くトロフィーモフ自身は大学生で苦労してきたと言いつつ働いたことはなさそうで、何となく薄っぺらい感じが漂う。そのトロフィーモフに感化されたアーニャも、一番「ん?」と思ったのは、桜の園から出て行こうというときに、いきなりそれまでの「ドレス」という感じの服から地味に作っている服になっていたことで、それって「自立する決心」とは別ものなのではと思ってしまった。前向きだし、ラネーフスカヤが大好きだし、明るいのだけれど、さて具体的に彼女は何をするんだろう、と思うのだ。それは養女だということもあるのだろうけれど、普段から地味なドレスで、桜の園から出て行くときにもやっぱり同じ服を着ていたワーニャとえらく対照的である。
アーニャのその今ひとつ中途半端に見える決心は、屋敷を出て行こうというときに、フィールスを医者に連れて行く、彼の病状を書いた手紙を医者に届けに行くという場面になって、「誰かをやらせて」「誰か行ってきて」になることにも現れていると思う。そして、結局「多分、**が行ってくれた」で済ませてしまうところにも現れていると思う。しかし、そのアーニャに「**が連れて行ってくれた」と言われて納得してしまうワーニャもやっぱり詰めが甘いのかも知れない。
ラネーフスカヤがしょっちゅう口にするし、ラネーフスカヤに邪気なく言われてロパーヒンもワーニャもそれぞれが相手がいない場所では相手への好意を口にする。
でも、なかなかその先に展開しない。
「桜の園」はそういう舞台なんじゃないかという気がしてくる。
桜の園が競売にかけられる日、ラネーフスカヤは屋敷で盛大にパーティを催す。
夕方になっても出かけたガーエフとロパーヒンはなかなか帰って来ない。
そして、やっと帰って来た2人だったが、ガーエフは部屋に引っ込んでしまい、ロパーヒンが「自分が競り落とした」と胸を張って傲岸にでも何だか悲しそうに宣言するのだ。そして、自分がどれだけ出世したのかということを叫び、自分がここの主人だと叫ぶ。
そうやって狂ったように叫んでいたロパーヒンに屋敷の鍵を差し出したワーニャは、ロパーヒンの手に届く寸前、その鍵を床に落とす。
私の目には、ロパーヒンとワーニャの中が壊れたのはこの瞬間であるように見えた。
だから、私の中では、最後にラネーフスカヤたちがワーニャとロパーヒンを2人きりにするシーンは蛇足である。いや、だってその前に壊れているじゃん、と思う。
なので、余計に、ロパーヒンが何も言わずに去った後で大泣きするワーニャが意外だった。
この「桜の園」が喜劇かと言われると、ちょっと迷う。
フィールスはとぼけた発言と動きでかなり笑いを誘っていたし、ガーエフもラネーフスカヤの浮き世離れ感と「正しいことが正しく伝わらずに却下される」悲しみの中のおかしみのようなものも強調されていたように思う。
この舞台は明るい。
でも、やっぱり喜劇ではなかったんじゃないだろうか。
最後に、実は誰にも医者に連れて行ってもらえていなかったフィールスが寝間着姿で現れ、雨戸を全て閉められてしまった屋敷の子供部屋で「私のことなど誰も覚えていない」と呟きつつ、床に横になる。
眠ったのか、あるいは亡くなってしまったのか、微動だにしない。
そこで、幕である。
喜劇ではない。
でも、重苦しい悲劇でもない。ちょっと可笑しいところでは大いに笑ってよろしい。
そういうお芝居だったと思う。
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