「すうねるところ」を見る
木皿泉脚本×内藤裕敬演出 「すうねるところ」
作 木皿泉
演出 内藤裕敬
出演 薬師丸ひろ子/篠井英介/村井良大/萩原聖人
観劇日 2012年8月30日(木曜日)午後2時開演
劇場 シアタートラム B列7番
料金 6800円
上演時間 1時間40分
ロビーではパンフレット(値段はチェックしそびれた)等が販売されていた。
ネタバレありの感想は以下に。
舞台は何だかごちゃっとした一室である。一言で言うと昭和の感じだろうか。
そこに置いてある、目立つような目立たないような大き目の洋服ダンスの扉を開けて、登場人物たちが現れる。
篠井英介演じる・・・と書こうとして役名を既に思い出せないのだけれど、「おばあちゃん」ということになっている女性は、映りの悪そうなテレビにツッコミを入れつつ熱中し始める。
萩原聖人演じるナツオが現れ、薬師丸ひろ子演じる女性が現れ、今が夕方らしいことや、3人とも村井良大演じるマリオと呼ばれる男の子を案じているらしいことが判る。
この家は4人家族で、家族でパン屋を経営しているらしい。そして、このパン屋は、夕方から始発電車くらいまでしか営業していない。
薬師丸ひろ子が吸血鬼を演じるということはどこかで読んだ記憶があって、最初はそのつもりで見ていたのだけれど、見ているうちにマリオという高校生以外の3人はみな吸血鬼らしいということが判ってきた。そういう話だったのか、と今更ながら思う。
どうして吸血鬼3人が「人間の」子どもを育てているのかといえば、道を歩いていた2歳のマリオがナツオの後を付いてきて、警察に目を付けられそうになったナツオが「来る?」と彼の目を見て聞いたら、マリオが「うん」と答えた、というエピソードがあるらしい。
このエピソードは吸血鬼3人の中で「人生のハイライト」らしく、何回もマリオごっこをして遊んでいる。「それは誘拐だろ!」とツッコむ奴はいなかったらしい。
多分、吸血鬼になってしまった自分は変わらないし、死なない。
何をすることもない。
でも、2歳の男の子は育つし未来があって、そして変わって行く。その生きている感じが吸血鬼たちにとっては嬉しくて、眩しくて、有頂天になったんだろうなということが伝わってくる。
がしかし、高校男子が、吸血鬼たちの逼塞して変化のない生活に染まってくれる訳もなく、息苦しさを感じているようだ。
マリオが目の前で車にはねられた人の歯を持ち帰り、マリオの携帯電話を盗み見した吸血鬼3人が何やらマリオはとんでもないものを持っているらしいと知った辺りから、マリオの雰囲気がどんどん剣呑になって行く。
最前列に座っていたせいもあり、舞台が近すぎてどこにポイントを置いて見ればいいのか、最初は戸惑った。
小学生の夏休みの宿題でもあるまいしと自分で自分にツッコミを入れたくなるけれど、この芝居は何を言いたいんだろう、この舞台はどこへ連れて行かれるんだろうとつい考えてしまうのが私の阿呆なところである。
しばらくはそれで悶々としたのだけれど、その辺りはスルーしてとにかく4人の人間関係(うち3人は吸血鬼だけれども)を眺めているのが正解なのかも知れないと思うことにした。
マリオが餃子を食べて帰って来て、ショックを受けたらしい3人の吸血鬼に「窓を開けろ」と言われ、カーテンを開けたら今度は日差しが入ってきて3人に「早く閉めて!」と大騒ぎされる。
もちろん、彼が持っていた「歯」のことで3人から問い詰められたことも理由なのだろうけれど、この辺りから、マリオが「うちはおかしい。色彩が全部茶色だ」「3人ともずっと同じ格好なのがおかしい」と言い始める。マリオが小さい頃は何とかごまかし、それを続けていられると思っていたマリオとの共同生活の枠組みが壊れ始めたように見える。
マリオの追求に誤魔化しきれなくなった(そもそも3人は自分達がマリオの何に当たるのかということすら相談していなかったらしい)3人は、ついに、「自分たちは吸血鬼である」と決然と伝える。
彼ら3人がが吸血鬼であるという話と、マリオが彼らの子供ではないという話と、どちらが先に語られていただろう。
決然と伝えたものの、この舞台の世界では吸血鬼は「当たり前の存在」ではないらしい。マリオの「この家の人たちは、どうしてこうリアクションに困ることを言うんだ!」という嘆き兼訴えが可笑しい。まるで信じていないように見える。
そんなマリオに自分たちの話を信じてもらおうということなのか、「おばあちゃん」は900年前の平安時代には自分のような顔立ちはブスだったと嘆きつつ京都が焼け野原になってそんなことはどうでもよくなったと言い、ナツオは島原の乱でどれだけ人が残酷に人を殺せるかを見たと語り、「姉」は「私は大東亜戦争のときだった」と言う。
薬師丸ひろ子を筆頭に、そもそもこの吸血鬼を演じている役者さん達は、本当に昔から見た目が変わらない。人間だけど吸血鬼っぽいといえばそうだ。そう考えると、別に年をとらず、見た目が変わらなくても、そんなに周りの人間に怪しまれずに暮らして行けちゃうんじゃないかという感じもした。
しかし、舞台ではそんなお気楽な話にはならなかったようだ。3人が自らを吸血鬼として語り、マリオが吸血鬼になろうとし、地震が起こり、2歳のときの記憶を取り戻す。
マリオの記憶が戻ったときから、舞台上の空間が歪み始めたような気がする。
それまで一応の「事実」とされていたことが根こそぎひっくり返されるような感覚といえばいいだろうか。
彼らは本当に吸血鬼なのか、マリオは何故たった2歳で一人街を歩いていたのか、どうして吸血鬼たちがあっさりとマリオを攫って育てることができたのか、そして今ここにいる吸血鬼3人は本当に吸血鬼なのか、本当に存在しているのか。
ごちゃごちゃとして外界との接触を出来る限り避けようとしているこの家の外の世界はどうなっているのか。
もしかして廃墟が広がっているのではないか。「吸血鬼」たちは、実は「吸血鬼」ではなく、吸血鬼という存在に憧れざるを得なかった人々なのか、もう亡くなっている人々なのか、この世のものではないのか、ここはどこなのか。
そんな疑問がぐるぐると渦巻き、ちょっと浮遊感すらあったように思う。
私が大混乱している間もマリオは割りとあっさりサクサクと、吸血鬼になりたいという発言を取り消し、吸血鬼たちと住んでいたこの家を出て行くことを決め、そして引きとめようとする、引きとめようとしない吸血鬼たちに特に別れの挨拶をするでなく、やけに簡単に出て行ってしまう。
そして、残された吸血鬼たちは、ここから「消える」準備を始める。
タンスにそれぞれが戻って行って、そこで幕である。
タンスから出るところから始まり、タンスに戻ったところで終わる。ナルニア国物語のようでもあり、異世界を行き来している存在であることの象徴であるようにも思えてくる。
多分、この辺りの混乱がこの芝居の真骨頂なのだろう。
1時間半、何だかちょっと違う世界に行って帰ってきたような感じのする舞台だった。
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