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2012.09.02

「芭蕉通夜舟」を見る

こまつ座第98回公演「芭蕉通夜舟」
作 井上ひさし
演出 鵜山仁
出演 坂東三津五郎/坂東八大/櫻井章喜/林田一高/坂東三久太郎
観劇日 2012年8月31日(金曜日)午後7時開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 7列8番
料金 6000円
上演時間 1時間40分

 2012年は井上ひさしのお芝居を見逃すわけにはいかない。

 抽選予約に申し込んだ。

 こまつ座の公式Webサイトはこちら。

 松尾芭蕉の一生を、「三十六句」という俳句の(と言っていいのかさえ、私には実はよく判っていない)形式に則り、三十六の情景から描いた芝居である。
 この「三十六句」という形式は「歌仙」とも呼ばれたらしく、劇中でもそのように紹介される。
 教養がないというのは悲しいことで、この言葉自体に馴染みのなかった私は、最初は???の連続だった。私が「歌仙」と言われて思い出すのは「六歌仙」で、つまりは人のことである。その六歌仙と芭蕉がどういう関係があるんだろうなどと余計なことを考えてしまったのだった。

 その三十六句という形式では、最初の一句は「発句」として、挨拶の気持ちを込めるのが何より大切ということで、芭蕉を演じる坂東三津五郎も芭蕉から三津五郎に戻ってご挨拶、というところから始まるのが楽しい。
 1時間40分の上演時間を三十六景に区切り、しかも、「芭蕉は一生、一人になろうとしていた」として、芭蕉が一人でいる時間を(主に)見せようという趣向をここで説明してしまう。ともすれば技巧に走った印象を強烈に残してしまうだろうと思うのだけれど、そこは井上戯曲だし、三津五郎の品で難なくクリアである。

 「一人でいるときなので」ということで、この芝居にはしばしば「雪隠」のシーンが現れる。折りたたみ式の細長い机の片方の足を立てて雪隠に見せたり、そのまま机として使ったり、その「よいしょ」という感じの場面転換も楽しい。
 それこそ、晩年の芭蕉が目指したという「軽み」をどこまでも追求した舞台だし、役者である。

 「ほぼ一人芝居」という紹介のされ方をしていて、どういうことかと思っていたのだけれど、三津五郎は芭蕉を演じ続け、例えば場面転換だったり、情景の紹介だったり、蛙(かわず)の役だったりを、4人の黒衣姿の役者さんたちが務める。4人は「蛙」やお月様、「世間」といった漠然としたものは演じるけれど、「人」を演じることは基本的にない。
 だから「ほぼ一人芝居」という表現になったのだろうと納得した。
 しかし、彼らの無駄のない、揃った、控えめだけれど場の空気を作る演技が、この一人芝居の軽みを引き出すのに二役も三役も買ったことは間違いないと思う。

 松尾芭蕉といえば「奥の細道」というイメージしかなく、そして、剃髪していたせいもあるのか、「好々爺」のイメージがある。
 しかし、句作に一生を捧げ何も持たずという暮らしを続けた人が好々爺でだけある訳もない。
 連歌の点を付けてお金を儲けましょうと大阪出身の連歌師言われてそれを断った芭蕉が毒づく様は、この芝居の中でほぼ唯一他者への憎悪を見せたシーンで、しかも客席に降りていてすぐ側を通り過ぎたときだったので、もの凄く印象に残ることになった。
 松尾芭蕉は激しい人だったんだろう。

 三十六句のテーマが字幕で浮かび、舞台の上に薄く小さめに作られた舞台を回し、書き割りのセットを出し入れして場面転換が行われる。ときどきは暗転もあって、三津五郎が引っ込むこともあるけれどそれはほぼ着替えのためで、間違いなく出ずっぱりである。
 若い頃の芭蕉は、大夫と遊んだり、連歌師として点をつけて儲けたり、その儲けを「少ない」と毒づいたり、何というか普通に俗物である。一方で、その儲け方が好きではなかったらしく、突然工事人達に賃金を支払う仕事に就いたりもしている。
 一日、木陰で寝ていた乞食(こつじき)が、一日働いた工夫たちの工賃から恵んで貰い、工夫よりもよほど多くのお金を手に入れる。その姿を見て、「同じようにほっと貰って句作をせねば」と思い立つという成り行きが意外なくらい記憶に残らないのは何故なんだろう。
 この芝居の芭蕉のポイントはここにはないということなんだろうか。

 最初の頃こそ「流行らなかった」芭蕉だけれど、次第に弟子も多く、旅をすれば各地で歓待を受け、「何も持たない」暮らしから遠ざかって行く。
 そこで一念発起して知り合いのいない旅先を目指したのが「奥の細道」で、旅をし、わびやさびの境地を読み、さらに軽み滑稽み新しみといった境地を極めようとすることになる。
 句作で一時一時、音の響きまで確認する芭蕉はやはり鬼気迫るものがある。
 「旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る」という句を詠んだときの芭蕉は、もはや狂気の域に達しているようにも見える。

 激しい人だったからこその「わび」「さび」だし、「軽み」「滑稽み」だし、そこを極めるためには軽いどころではない激しい戦いが必要だったんだなと思わせる。

 源氏物語ではないけれど、三十六句目は、タイトルを「旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る」と映し出して芝居はなしで幕かなと思ったのだけれど、それは全く違っていた。
 作者はどこまでも芭蕉に過酷である。
 ラストシーンは、この芝居全体のタイトルでもある「芭蕉通夜舟」で、芭蕉を送る通夜舟の船頭(三津五郎が演じている)、芭蕉の説いた「軽み」「滑稽み」「新しみ」を全く芭蕉の思いとは異なる方向に説き、得々と語る、という場面である。
 芭蕉の激しさは、ここでは判りやすく全く理解されておらず、受け入れられていない。しかし、芭蕉はすでに物申すこともできない。
 だから、一人を求め続けたのか。

 それでも、この「芭蕉通夜舟」というお芝居は、新しいかどうかはよく判らないのだけれど、軽みと滑稽みに溢れていたと思う。

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