「うかうか三十、ちょろちょろ四十」を見る
こまつ座第九十九回公演「うかうか三十、ちょろちょろ四十」
作 井上ひさし
演出 鵜山仁
出演 藤井隆/小林勝也/鈴木裕樹/田代隆秀/福田沙紀/他
観劇日 2013年5月25日(土曜日)午後1時30分開演
劇場 紀伊國屋サザンシアター 11列4番
上演時間 1時間15分
料金 6500円
ロビーではいつものように物販が行われていたけれど、本当にギリギリに駆け込んだので全くチェックできなかった。
出演者の「他」は子役の女の子2人が代わる代わるに出演しているようだったけれど、私が見た公演に出演していたのが2人の内どちらだったのかは判らなかった。もしかして、注意深くしていれば劇場ロビーに張り出してあったりしたかも知れない。
ネタバレありの感想は以下に。
井上ひさしの処女作にして、初上演だそうだ。文部省芸術祭脚本奨励賞を受賞したものの、当時(井上ひさし24歳、昭和33年のことだそうである)は上演されなかったという。
その処女作が、井上ひさしが亡くなってから初めて上演されることになったというのが、今回の公演である。ホリプロなどとの共催(とは言わないのかも知れない)が続いていたような感じがするから、もしかすると久しぶりのこまつ座公演なのかも知れない。
舞台は書き割り風の桜の園である。
その真ん中が切られていて、回り舞台の上に1軒の家がある。田舎の農家の一軒家という感じの家で、壁も書き割り風なのだけれど、決してあばらやという感じではない。
そこに、福田沙紀演じるちかという娘がやってきて、1日の終わりにお天道様にお礼を述べ、家に入って行く。
その娘を追いかけるように、藤井隆演じる「いかにも」といった感じのばか殿様と、小林勝也演じるその侍医がやってくる。このお殿様は判りやすくこのちかという娘に惚れているらしい。
夜桜を見たいから雨戸を開けるのを手伝ってくれとか、この村は平和な村だから悪い人なんていないとか、娘は言うし、侍医は「殿様だということを押しつけろ」と唆すし、お殿様は飽きっぽすぎると童歌に歌われているし、想像力が枯渇している私は、このお殿様は権力を笠に着て、この娘を屋敷に連れ去るとか、手籠めにしちゃうとか、そういういわば即物的な権力の発露を見せるんじゃないかと思っていたのだけれど、処女作であっても井上ひさしであって、そんな私のマヌケかつ貧弱な想像力の及ぶ範囲で物語を運んだりはしないのである。
娘に「私には決まった人がいる」とキッパリと断言され、モノの見事に振られたお殿様は、雷雨の中、侍医に促されてその場を立ち去ろうとする。
その娘は、男の足が悪いことを見て殿様であろうと見抜き、見抜いてもなお態度を変えなかったということにも、殿様はショックを受けていたようだ。
その2人に雷が降り注ぎ、暗転である。
場面が変わって9年後になっても、ミスリードは続く。全く人が悪いったらない。
そこはちかの家で、ちかも年を取っている。7〜8歳の女の子がいて、「れいちゃん」と呼ばれている。鈴木裕樹演じるちかの夫権ずはどうやら寝付いているようだ。結婚した頃は村一番の大工だったらしいのだけれど、結婚してすぐに寝付き、今は娘を怒鳴り散らしている。
貧困な発想で見ていたら、「れいちゃんは、ちかと殿様との間の子どもではないのか」と絶対にミスリードされそうな場面ではないか。見終わってから思えば、これも多分「貧困な発想だね」という若い井上ひさしからのメッセージというか挑戦状というか、若さが良く出たトンガリぶりなんだと思うけれど、見ていたときは「こら! じらすんじゃない!」と思っていた。
そこへ、再び、ばか殿様と侍医がやってくる。
どうやら、殿様が医者の振りをして、病人を抱えた家々を回っては、「病ではない」と宣言して回っているらしい。ここがちかの家と知って(というか覚えていて)来た訳ではなく、この家には病人がいそうだということでやってきたらしい。
曲がりなりにも侍医は医者なんだしと思っていたけれど、とんでもない。殿様は全く適当な診察で、権ずに「おまえは健康体だ」と宣言する。本人は「自分が病人だと思い込んでいるだけの人間に真実を告げ、幸せにしている」と思い込んでいるらしいところが恐ろしい。そして、どうして侍医がそれに物申そうとしないのか。
権ずはあっさりとその気になり、ちかも喜んでいたけれど、足を引きずりながら去る医者の後ろ姿を見て何かを勘付いたようだ。2人の後を追ってきた田代隆秀演じる侍と権ずとを話させないように、2人のことは特に話題にしないようにとするのだけれど、ひたすら感謝の念しか持っていない権ずに通じる訳もない。
その2人に、この侍は、登場の不穏さとは裏腹な丁寧な態度で、しかし、あの2人の言っていたことは全くの嘘であると告げて深く謝罪するのだ。
すべてを知っていたのかと責める権ずに、ちかは、去って行く後ろ姿を見て嫌な予感がしたと言う。
今の今まで力こぶまで作って見せて健康であるかのように振る舞っていた権ずは再び倒れ込んでしまう。その権ずに、ちかは、今しがたまでの元気なあなたを信じたい、信じていると泣きつく。
これまでのところずっと健気な妻だったし、このシーンだって一見は健気な妻だけれど、しかし、「本当は健康体ではない」のだとすると、こんなに残酷な台詞はないのではなかろうか。ちかに自覚があったのか、しかしなかったとしたら尚更恐ろしく残酷な台詞ということになりはしないか。
さらに9年後、れいは18年前のちかのように暮らしている。
やはり桜の時期である。
何故か突然にまともに戻ったらしい殿様と、すっかり腰の曲がった侍医がやってくる。侍医曰く「自分は気が狂ったわけではなかったのだから、気が狂った振りは辛かった」だし、ちかに振られて18年の記憶がなく、ちか一家に関わってからの9年間は屋敷から一歩も出して貰えなかった殿様は自らを評して「うかうか三十、ちょろちょろ四十」だと笑う。
仮にも殿様なんだから、笑っている場合ではあるまい。
この場面の落差を出すためにも、藤井隆のばか殿様はもっとはっちゃけていても良かったんじゃないかという気がする。
性懲りもなく殿様がれいに惚れ込んだのだったか、れいから両親が亡くなったという話を聞いたからだったか、とにかく殿様はれいに自分の屋敷に来るように言う。
しかし、れいは、父は9年前にそれまで養生していたのにいきなり稼ぎ始めて血を吐いて死に、母は父を追うように死んだこと、母が「あの人たちには遊びでも、自分たちには生き死にに関わる」と殿様を評していたことを知り、自分が2人を殺したのかと侍医に詰め寄る。
ここで、自らを責めるのではなく侍医に判断を投げるところが情けない限りである。
そもそも、失恋したからと言って気が触れてしまうということも、情けないといえば情けない。
れいは、父母の話をして殿様の誘いには乗らないのだと断言する。
そして、もうすぐ雨が降り出すと言う。
そうして降り出そうという雨の中、殿様は、これからずっと気が触れたまま死んで行くのは嫌だと断言する。この劇中、ほぼ初めて、エクスキューズなしの自らの意思の宣言である。
れいの父母を殺したのは殿様なのかといえば、私の今の結論は違うと思う。
父を殺したのは、父が元気であるという幻想を見てその幻想を押しつけようとした母だろうし、母が死んだのは自分が父を殺してしまったことに気がついたからだろうと思う。
殿様は確かにきっかけは作ったかも知れないけれど、そこまで他人の人生に触れられるほどの存在感はなかっただろうというのが私の印象だ。
しかし、舞台はそう単純には終わってくれない。
井上ひさしに芝居といえば、謎が謎を呼ぶSFではない展開に大団円、大団円に辿り着くまでの怒濤のどんでん返しというイメージが強いし、まさにそれが見たくて見に行くのだけれど、この芝居では投げ出されて終わる。
れいを諦め、雨に降られそうになって殿様と侍医が帰ろうとしたところに雷が鳴る。
暗転の後、そこには今まで以上に明るく照らし出された桜と、崩れ落ち廃屋になった家と、桜吹雪と、村に伝割る童歌だけがある。
れいは殿様の見た幻だったのか、それとも殿様は目の前にいたれいを救えずに雷に奪われたのか、そもそも、18年前の殿様とちかとの出会い以降はすべて「なかったこと」だったのか。
答えは示されない。
ただ、そこにある。その桜吹雪と崩れ落ちた家に、人はいない。童歌が聞こえるだけだ。
恐らく、演出で答えの方向を示すことも、はっきりと答えを出してしまうこともできたのではないかと思う。でも、それは敢えてしない。答えを示さないラストシーンを選んだということだ。
とても意外で、不思議な終わり方だった。
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