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2013.06.30

「わが闇」を見る

ナイロン100℃ 40th SESSION「わが闇」
作・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 犬山イヌコ/峯村リエ/みのすけ/三宅弘城
    大倉孝二/松永玲子/長田奈麻/廣川三憲
    喜安浩平/吉増裕士/皆戸麻衣/岡田義徳
    坂井真紀/長谷川朝晴
観劇日 2013年6月28日(金曜日)午後7時開演
劇場 本多劇場 E列15番
上演時間 3時間30分(15分の休憩あり)
料金 6900円

 ロビーでは、この公演のDVDの予約販売が行われていた他、パンフレット(1200円、だったような気がする)等の販売が行われていた。

 ネタバレありの感想は以下に。

 ナイロン100℃の公式Webサイトはこちら。

 どこかで「自伝的な作品」と聞いたような記憶があって(しかし、どこで聞いたのか覚えていないし、そもそもこの「わが闇」という作品のことであったかどうかも既に定かではない)、登場人物の中心が三姉妹であったことに気付いたオープニングですでに愕然とした。
 「ケラさんのお話」を聞くモードに入っていたので、それをどう修正すればいいのか、最初の頃はサッパリだった。しばらくは、自分を女性に置き換えたのかと思っていたくらいだ。
 私としてはよくあるパターンである。

 自伝的かどうかはともかくとして、ケラリーノ・サンドロヴィッチの作・演出作品としては異色だということは間違いないと思う。
 普段の芝居から、私が苦手としている部分を完全に抜いて少し戻した、という感じだ。少し戻したのは、気恥ずかしさのなせる業だ。そういう感じがする。
 映像を舞台セットに重ねて場面転換をしたり、例えば舞台全体が揺れる感じを表したり、もう亡くなった人を語らせたり、舞台の上部にキャプションで説明が出たり、映像で役者紹介が流れたりといったところはいつも通りだ。

 狂言回しのような役割の役者さんを舞台に一人置く(あるいは、役者が次々と狂言回しを担当する)というのは、これまでのナイロン100℃のお芝居ではあまりなかったような気がしているのだけれどどうだったろう。
 この舞台では、岡田義徳がその役割を担っていて、張り上げているようにも見えないけれどマイクも見えず、でもやけに通る声で肉声なのかマイクを通した声なのか、最初のうちはそんなことも気になっていた。我ながら、気の散りやすい人間である。
 そして、この岡田義徳演じる人物が三姉妹とどういう関係の人間なのか、それと察しが付くまではやはり落ち着かない気分を味わった。

 犬山イヌコ、峯村リエ、坂井真紀演じる三姉妹が子どもの頃、母親が自殺するまでのエピソードが「前置き」として語られ、その後、30年くらいはたっているのか、その後の三姉妹の様子が、冬、春、夏の3シーズンに渡って語られる。
 前置きと冬と春が前半、休憩を挟んで夏が後半である。
 廣川三憲演じる父親は小説家から「笑い」の評論家(のようなもの)に鞍替えしていたが病で倒れ、天才少女と言われていた犬山イヌコ演じる長女は今も作家活動を続けている。その長女の依頼で、父親のインタビュー映画を撮ろうとしているのが岡田義徳演じる滝本と大倉孝二演じる大鍋の男2人である。3ヶ月ごとに1週間は泊まり込んでインタビューを撮りまくっているらしい。
 そして、季節の中から切り取られるのは、常に、この撮影が続いている間はその様子を、その後はとりとめなく記録している2人が柏木家に滞在している時間だ。

 「わが闇」というのは、長女立子が18歳のときに書いた小説である。
 三女類子によると「実際にあったことしか書けない」立子に「わが闇」を書かれてしまえば、それは周りはキツイに違いない。小説家の長女と家を飛び出して女優になった三女に挟まれて、次女艶子は専業主婦をしているようだ。しかし、夫とともに開いていた古書店と娘を火事で失い、夫婦ともども実家に身を寄せているらしい。三姉妹で唯一結婚している艶子だけれど、どうもその様子は幸せそうには見えない。というか、みのすけ演じるこの夫が本当にイヤな感じの男である。

 長谷川朝晴演じる立子の担当編集者が立子に惚れていたり、松永玲子演じる立子の高校時代の同級生(父親の映画を立子が持ちかけた相手も彼女である)が亡くなった母親そっくりの容姿でしかし強烈な商売人だったり、類子はどうやら不倫して芸能界から逃げてきたところだったり、父親が再婚した(しかもその関係が母親の自殺の引き金になっている)相手の女性も20年近く連れ添った後に失踪していたり、病臥していた父親が亡くなって、映画の話もなくなったり、立子が失明すると医師に告げられたり、艶子がついに意を決して夫に離婚を申し出たり、「ダバダ」の意味が明らかになったり、本当に色々なことが怒濤のようにこの家に押し寄せる。
 その押し寄せる色々なことをハラハラしながら、彼女たちのことを心配しながら、ほとんど親戚のおばさん状態で見守ることになる。
 そして、類子がお酒を飲み、勧められた立子もお酒を飲み、やけに浮かれた2人が踊り始め、その様子を嬉しそうに撮る滝本の様子にほっと頬を緩めたりしてしまうのだ。

 三宅弘城演じるずっと住み込んでいた書生の三好や、長女立子について父親が語っていたビデオは辛辣な内容で、それを聞いた立子が真っ青になったりもしていたし、その立子が映画の中止を受けて撮ったビデオを全部見たいと滝本に迫り、その結果、大鍋がその肝心のテープを全て列車に置いて来たことが暴露され、でも大鍋本人はそのことよりも「友達以上でもない恋人未満」の若い女の子のことだけ気にしており、編集者の妹も突然兄の恋のキューピッドを務めんとやってきたり、ラストに向けて、重苦しい盛り上がりを見せる。

 でも、父親が亡くなる直前までずっと笑顔で眺めていたという写真をみなで見始めたところ、その一枚一枚の裏側に父親からの温かいメッセージが残されているのを見て、泣き笑いが広がって行く。
 大鍋は相変わらず空気を断固として読まないコメントを発し、それを制止しつつ「カメラを持ってくれば良かった」と滝本が嘆き、編集者もやっぱり泣き笑いでその様子を見守っている。
 そこへ、何故か「噛み癖」のある編集者の妹が大鍋に噛みついて幕、だったような気がする。
 ラストシーンがどうしても思い出せない。

 ハートウォーミングなと言うと、いや一筋縄では行かない感じだったよと思うのだけれど、でも、やっぱり最後に実はまだ色々と問題は抱えているしこれからも起こって行くのだけれど、でもその少し前よりもちょっとだけ心が上向きに前向きになり、半歩だけ前に進めたように思える。そういうラストだ。
 最後の最後に狂言回しに戻った岡田義徳が、その後は語らないで置きましょうと言いつつ数え上げた彼ら彼女らの抱えた問題は決して小さくない。
 でも、そうしたあれこれを一つずつ乗り越えるということが生きて行くということなんだというその言葉がやけに素直に響く。
 いいお芝居を観た。そう思った。

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